Diaries '99 February

 
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2月5日(金)

ライブカメラマン村田からの紹介と後押しでプロモビデオを制作しているM氏と2人で打ち合わせ。場所は下北沢イーハトーボ(音楽喫茶)でボクの好きな場所のひとつ。2時間余りボクのイメージするビデオの内容、画的な事なんかを話す。

最近は世話になるレコード店のJ-pop担当者に挨拶に行って話したり、その他にも裏方的仕事をしてる人と話したりと、いろいろ自分自身のマネージメント的な事に時間を使うことが増えた。が、この打ち合わせは、その間のようなカンジだろうか。今じゃビデオも音楽の一部として扱われてるようだし。そう思うとしかし、プロモーションとか聴き手とのコミュニケーションも、レコード店スタッフとのコミュニケーションも全て音楽に似ているかもしれない。一つの動きがハーモニーになるといいと思う。それはきっと形じゃなくて見えない何か感じるものなのだろう。

とにかく話が弾んで、有り難いことにかなり信じられない額の予算で撮影することに話がまとまる。なんたって予算自分持ちである。レコーディングの経費も予算を少しオーバーしてしまって数万円の持ち出し。現時点で既にかなりの出費。

M氏はとても好意的に仕事を受けてくれた。とても感謝している。翌日、下北の行きつけの kingbee で髪を切る。初めてのプロモビデオ撮影、いよいよ次の日に迫る。


2月7日(日)

ボクにしてはメチャメチャ早起き(8:30 am)して家の近くで、昼頃待ち合わせて(ボクは活動する3時間前には起きることにしている)まずは渋谷へGO!
撮影。スタッフはM氏とK氏の2人。宮下公園のすぐ近く、山手線ガード下のコンクリートの壁前、その横の金網前、公園につながる歩道橋のストリートポップアートでも言うのか、とにかく hip_hop 風の絵の前で、それぞれギター持ったり持たなかったりして音に合わせて歌いながら撮影。通行人が自然にカメラの前を横切ってくれるといいのだが、気を使っちゃうのか、立ち止まったり、首をすくめて小走りしたり遠回りしたりしてゆく。途中、デモ行進があったり、右翼の街宣車が通ったり police が集団で来たり。それもカメラに撮った。歌ってるところを撮っていると「誰だこいつはっ」って調子の顔でのぞき込んでは首をかしげて去って行くので自己紹介でもしようかとふと思う。

東京タワーの近くまで移動する。渋谷では押さえ気味につぶやく感じで撮ったが、ここではライブっぽく歌う。夕暮れ近くの東京タワーをバックに車道で歌ってると時たま車がクラクションを鳴らしてゆく。ますます気分はハイになる。11年前、渋谷の路上で歌い始めた頃を思い出す。近くの公園を少し歩いてるシーンを撮ってからまた移動。

午後6時頃 、原宿へ到着。大まかに決めた場所へ行き、ここだと思う場所で撮るという行き当たりばったりのような(でもこれはフィーリング、ムードとノリ)野性のカンと、そしてボクの中にあるイメージとで強行的ゲリラ的ビデオ撮影はおもしろい。急に竹下通りで歌いたくなったのでそれも撮ってもらっておしまい。

この頃になってノってきて、もっとやりたいところでもあった。でも全体的にはイイカンジだと思った。出来上がりが楽しみだ。

ところで、誰かビデオかけてくれるとこ紹介してくんない?


2月8日(月

中野サンプラザでのエルビス・コステロ with スティーヴ・ナイーヴのliveを聴きに行った。1998年のコステロとバカラックの共作アルバムが素晴らしかったし、ビデオで観た fuji_rock festivalの演奏もカッコよかったので期待してたが、それは期待以上だった。とてもとてもハートにしみて僕の胸はジーンと熱くなった。

新作からの曲も、初期の曲も、どれも美しく甘酸っぱい味がする。スティーヴとのクラシックルーツ的なドラマティックなピアノとコステロのソウルフルな歌唱とのせめぎ合いとつむぎ合いは、ひとつの絵を中野サンプラザという空間にゆっくりと描いていくようだ。それは決して派手な色彩じゃないけれど、タフで優しく静かに燃える二色のカラーで、時に太くたくましく、時に繊細に描かれた、プリミティヴでありながらPOPさを感じるそれはそれは美しい絵であった。

ラストのラストは、二度目の「God give me strength」がノンマイクのコステロの生声とスティーヴのピアノの生音でゆっくりと客席を包み、その中で僕は幸せな空気に浸っていた。

thank you !!コステロ&スティーヴ


2月10日(水)

久しぶりに池袋へ。この頃よくやってるCD屋まわりだ。10年程前板橋在住だった頃、この辺りに飲みに行って(当時まだボクは酒を飲んでいた。しかもかなり)遊び回ってたが、久しぶりに行くと、よく買いに行っていたレコード屋の場所が変わってたりとあまりの変化にちょっと戸惑う。
外資系の新しい店へ行ったら、邦楽担当マネージャー(女性)がかつてボクの渋谷路上ライブを毎週、聴きに来てくれていた人だった。名前を聞くとボクにも覚えがあり、そのころの話になり何とも言えない不思議な気分になる。いろんなコトがあるもんだ。なんかいいなと思う。

帰りの電車の中でふと思う。当時やはりよく路上ライブに足を運んでくれていた青年と数年前近所でバッタリ会い、そこからつき合いが始まった。彼はラジオディレクターをやっていて今もファンだなんて言ってくれてオンエアしてくれている。また、天然ビート時代マネージャーを務めてくれたこともある男は、現在、FMの仕事をしていて、前から気に入ってくれている曲「真っ赤なゼリー」をオンエアしてくれている。友人の紹介で出会った音楽ビジネスの人がナラのホームページを作ってくれた。他にも幾人かの人が積極的にこのアルバムを広めてくれようとして動いてくれたりする。

何とも言えず嬉しい。点としてボクのまわりにあった存在が今少しずつ線のような平面のような立体のような何かになってきてる感じ。この膨らんでる感じがボクをガンバレガンバレと励まして包んでくれている。「何かいいな」と口にしそうになる。


2月20日(土)

新宿のヴァージンメガストアにてハースマルティネスのインストアライブ。この人も1998年に出たアルバムが素晴らしく、夜ひとり部屋で聴きながら、じんわりとさせてもらってたんだ。この日は、アルバムメイキングのビデオを見ながらドリームヴィルズレコードの長門氏と小川氏のトークの後にハース登場。ほんの数曲だけだったけど味わい深く、ホントにドリーミーな気分になれた。
 

1999年04月にジョンサイモンと来日するそうだ。待ち遠しいね。ハース、ジョンサイモン、ジョンセバスチャン(ラヴィン・スプーンフル)・・・この人たちホントにドリーミーって言葉が似合う。僕もいい年の重ね方をしたいもんだね。


2月26日(金)

前の日、僕の地元の偉大な放送局 RAB(青森放送)のディレクター O 氏から電話があり、今日の夜の生放送「金曜ワラッター」というラジオ番組で電話インタビューというか、トーク出演することになった。

ほんの少しボーッと考え事してると電話が鳴り、受話器から「もうすぐ本番です。そのままお待ち下さい。」は心の準備をするのを忘れていたので、緊張しだす。電話の向こうから「今週のゲストはあー、このヒートで〜す。」ゲッ!ヤバ、、、手に汗、、、しかも、少し震えて。右手に受話器を持ち替えるが、同じ!イミナシ。紹介の曲として「風が吹くのを感じて」がもう流れている。トホホ、、、としてる間に「こんにちはぁ」「こ、こんにちは、、、」。エーイもうイキオイだ!ってんで、もうとにかく雰囲気だからね。話し出したよ。

DJ3人のうちの1人の女性は、やはりコロムビアからCDを出していたクリプトンというバンドの Vo の今野さん。僕の曲にコーラスでゲスト参加してくれた太陽の塔のメンバーが共通の友人だということで話が盛り上がったり、高校時代の同級生がもう一人の DJ と友人だったりと話に花を咲かせたところで、band version の「東京ラブソング」をフルコーラス ON AIR。
曲後、前述の今野さん「ナラさん、もしかして血液型 O 型ですかあー」「なぜにワカンノ?」「話し方で、、、。今、男の人の話し方と血液型のカンケー調査していて、、、O型の人は物腰の柔らかい話し方で、、、」「しまった!もっとハードに話せばよかった」とオレが言うと「ブーッ」とブザーを鳴らされる、ハハハ。てなとこで、地元青森の放送にもかかわらず、標準語というか東京弁で話してみたボクも、「みんな頼むドー」と津軽訛りでバイバイして終了。いやぁ、、、16分、後半あがっていたのも忘れて話した。けど、今ならもっとうまく話せんのにな。

今回のCDに入っている曲で「夕方、少年、海の公園」の公園って青森の合浦公園のことなので、青森の人にはホント聴いてほしーね。昔のバンド仲間やクラスメイトや、初めてボクを知った人にも聴いてほしーな。あの...でも...世界中の人に聴いてほしいね。


2月28日(日)

世田谷区のボクの部屋から電車乗り継いで JR船橋駅到着。ちと遠かった。ここから真っ直ぐ、300m、右折30mのはずが、その倍以上歩いてやっとたどり着いたハウス・オブ・ブルース「月」。ここはブルース色の強いライブハウスで、仲井戸麗市氏のファンを自認するマスターが経営していて、仲井戸さんもここで歌ったという。

今日は、僕と加奈崎芳太郎、井上智資、よしだよしこというラインナップ。よしださんは昔、ケメという人と組んでいた人らしい。僕は日本の昔のフォークはあんまり詳しくないので知らなかったが、存在感のある歌を歌う人だった。楽屋では加奈崎さんとくだらないことから真面目なことまでいろいろ話した。プロモビデオを作った話をしたら「オンエアのあてあんのかよ」と突っ込まれたが「出来たら見せてくれよ」と。

ライブ本番、僕はリラックスしつつも前の日のバンドリハーサルで張り切りすぎたため少し本調子ではないながらも、まあいい感じに歌えた。お客さんの反応もいい。店のシチュエーション、これもいい。最近思うのはRoosterといい、ペンギンハウスといい、この月といい、ぴあに載ってないお店でカッコイイ店があるなあということ。そして、そういう店にこそちゃんとシーンが出来てたりするんだね、これが。

この日の演奏後、僕を訪ねてくれた人がいた。僕が地元青森にいた16歳の頃、初めてライブハウスで演奏したときのギッチョ・ギタリストの斉藤あきおさんだ。
当時、僕は、社会人というかヒッピーというか何しろ年上の人たちとバンド〜ブルースロックのコピーをしていたバンド〜を組んでいて、得たものは多かったと思うのだが、その時のギターが彼だった。彼は右利きのくせにジミヘンの影響で左にギターを持ち替え、歯でギターを弾くヒッピー男で、街をインド風というかウッドストックテイストというかラメやスケた女物のブラウスやスカーフをまとって歩く姿は、青森じゃやけに目立っていた、、、というか浮いていた。その頃僕も人のことを言えたもんじゃなかったけれど。
何しろいろいろな話に花が咲き、僕と会っていなかったこの十年、どうやら大きな声じゃ言えないことも彼はしていたようだ。彼は、昔僕に「新しい曲ができたから家に来い」と夜呼び出されて僕の部屋で延々聴かされたことを思い出して懐かしかったという。そんなこともあったのだろう。オレもエラそうな奴だったな。本番前ピリピリする加奈崎さんの横で僕らはdeepでネイティヴな津軽弁で、リトル青森ワールドを形成していた。

まあとにかく、加奈崎さんも素晴らしいニューアルバム「さらば東京」からの曲をメインにワイルド&ブルージーにぶっちぎった。ライブ全編通していいかんじだったであろう。井上君もいいかんじで、宗教戦争のことにふれた歌が耳に残っている。「〜争っている..祈りはひとつなのに」そんな歌だった。全くそのとおりだ。どの宗教も結局は愛を説いているのに、こっちの宗教が正しい、いやこっちだみたいな感じで争いが生じる、それはそれぞれの宗教の本道から逸脱して、ただのエゴとエゴのぶつかり合いになっている。宗教戦争−そこに宗教も愛も慈悲もありやしない。

帰り、加奈崎さんとマネージャーの荒賀さんと三人で車で帰る。オレ「髪の毛染めよーかなって思って、、、」と言ったら「やめろやめろガンになるぞ。オレの親類も髪の毛染めてみんな早死にしたんだ。清志郎もそういや染めてたりしたけど、あいつひょっとして白髪じゃねーだろーな」と加奈崎さん。

そうこうしているうちに高速を降りる。しかし降りる場所がひとつ行き過ぎてたようで、また少し戻る。加奈崎さんは「ションベンしたい」と言う。僕の知ってる環七沿いの公衆トイレの前は車が止められなかったので僕んちまでガマンしてもらう。ハハハ、わからんものだ、あの「さなえちゃん」「ポスターカラー」の元古井戸の加奈崎芳太郎がオレんちのトイレでションベンしてる。MCのネタにでもすると言ったら「バカヤロー」と笑っていた。トイレから出て手を洗っていない加奈崎さんとガッチリ握手して別れた。実はここには書けてないことで加奈崎さんからいい話もいくつか聞けた。ホントあったかい人だよ。好きだね、カナザキさん。一緒に回る関西ツアーも始まる。東京でもまた一緒にやる。どうぞよろしゅうね。