Diaries 2002 April

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4月1日(火)

アフガン難民の弁護団の土井さんや支援するチビローさんらとメールのやりとり。
難民の人たちの声の録音の話、アフガン難民の歌のレコーディング、曲発表のこと、などなど。
今度の土曜、アフガンの人たちが支援してる日本人へご馳走を振る舞うパーティーがあるそうで、そこで歌うこととなった。
実際の難民の人にこの歌を聴いてもらう。どうゆう反応がくるだろう、、。


4月2日(水)

この日、牛久の収容所へアフガン難民を見舞うことになってたが突然の延期。他の支援団体がもう行くことに決めてたということで重なってもなんなんで別の日にってことらしい。次の機会に、、。

楽器屋を廻る。ハードディスクレコーダーを調べる。アルバム東京ラブソングんときのプロデューサー岩田さんに久々に電話していろいろと聞く。彼はオーディオ評論家でもあって詳しいだろうと思って。結局、パソコンがいいよと薦められる。う〜ん。。。CD制作の話しもされる。久々に話したなあ。


4月6日(土)

東京は潮見のカトリック教会で、今仮放免っていうのかな、収容所から出ることが出来ているアフガン難民が中心になって(まだ数人のアフガン難民は強制収容されている)日本人をアフガン料理でもてなしてくれるパーティーを開いてくれた。そこでボクは出来たてのアフガン難民を歌った歌を歌うことになった。
これはアフガン難民の弁護団の弁護士の土井さんからの要請で、それをテレ朝のスクープという番組が取材に来て歌うところを撮影していった。オンエアはいつになるのかはよくわからない。

テレビに映りたくない人もいるということでパーティーの最初に撮影を終えてしまうことに。
いきなり紹介されてまずノリのいいやつを。
『砂漠の中のくじら』、これは自由じゃない場所からスイスイ自由に向かって泳いでゆくイメージもあるし。いきなり踊り出すアフガン人。難民の人、あるいは日本で仕事してる人、様々だ。なんだか盛り上がった。そして通訳のヒサールさん(アフガン人の人権を守る会の日本代表)がこの歌の説明をダリ語でしてくれ、会場は静まる。この日本人はアフガン難民(自分たち)の歌を歌おうっていうのだからそりゃそうだ。たくさんの目線がボクをさす。歌う。今ここにアフガン難民の人たちがいて、そこで歌ってるていうのがボクをちょっと緊張させたかと思う。それでもハッキリと歌う。心配なのは、この歌は難民の現実を歌いそして最後に祈りのようにはなるんだけど、暗い内容だということだった。難民の彼らが聴いてハッピーになれないというか暗いきもちになってしまうんじゃあっていうこと。知らない人が聴いてそうゆうこともあるんだってことにはなるかもしれないけど、当事者が聴くには思い出したくない内容なんではっていうこと、、、。

歌い終わる。拍手。アフガンの人たちの拍手には迷いもあったような。でも、これをヒサールさんがダリ語で解説して内容を伝えて、ほんの瞬間、沈黙、そして大きなはっきりとした強い拍手があった。安心、っていうかよかったっていうか、、。
アフガン難民の歌の内容は難民が聴くには辛い内容かと思うのでどうかと思ったけど、、。
ボクは感謝と気もちを伝えてアタマを下げた。
いよいよ乾杯でパーティーは本格的に始まった。アフガンの昔のポップス?が流れるなか、ダンスダンス、。陽気に楽しくわいわいできるようになったって、喜ぶ支援者、自殺未遂した人もいるんだから、。でも、ずっと無口な人もいた。

後半、『かんたんにいこう』をChanceの内山さんと演奏してみんなダンスしたりで盛り上がった。日本人側からの歌のプレゼント『ふるさと』もあって盛り上がった。そうそう、食事もベジタリアンなボクが食べられるのがあったしほんと美味しくってよかった。いろいろ話したり。でも彼らの生の声の録音は次回に見送った。この楽しい雰囲気に水をさすようだったし。
(彼らの難民としてのメッセージを録音して歌といっしょにサイトかなにかで発表を考えてる)
、、みんなと楽しく過ごしてハッピーだ、、。
しかし実は、またちょっとしたら、今解放されてる数人は牛久の収容所に戻される可能性もある。木曜の裁判は傍聴に行く。裁判は年単位でかかるらしいし彼らの心的ストレスを考えるとつらい、、。
何人かと電話番号交換。難民の数人とうちとけた。
何が出来るかはわからないけど、彼らが理不尽な扱いを受けるのはいけないし、応援出来たらなあって思ったりするのだ。

この日は、およそ50人ぐらいはいてその内半分ぐらいがアフガニスタン人で、難民の人はその内何人ぐらいだったろう?とにかく盛大であった。
そしてこの日は大勢のアフガン人と出会い、そしてボクのノートにいきなり弁護士の名刺が増えた日であったし支援者の人たちとも出会えた日であった。難民って日本にどのぐらいいて世界中にはどんぐらいいるのだろう、、と、ぼんやり思った。Chanceの内山氏、原氏、アヤさんらと帰った。アフガンのみんなもチビローさんも弁護士さんもみんなもおつかれさまでした。


4月9日(火)

中野武蔵野ホール、レイトショー。先日のロフトプラス1のイベントで久し振りに会った映画監督の井口奈己さんの映画『犬猫』を見に。映画自体すごくひっさしぶりだ。ギリギリ到着、井口さん自ら入口へ立ち迎えてくれた。「スズキさんはもう映写室なんで終わったら会えます。」とのこと、。スズキさんとは、ナラのインディー盤2枚『路上ライブ』『うたがすき』の録音をしてくれたとってもお世話になった人。

さて、オープニングアクト・ムービーの短いのがあっていよいよ始まったそれは、素朴で淡々とした中に味わいのある、時折り美しい映像で引きつけるほかは、ただ日常のヒトコマっていうあんばい。だがなぜだかまあ心地がよいっていう。早朝の電車の中に太陽の光が満ちるその美しさ、遠くから引いた景色、草原のグリーンの気持ちよさなどはじっくり時間をかけて作っただけあるっていう。
終演後久々のスズキさんと話す。共通の知人、東京ラブソング、、などなど。井口さんとも。
なんだかきもちいい映画でした、。
またどうぞいい作品を、。


4月11日(木)

初めての裁判所。東京地裁606号法廷にてアフガン難民の収容を取り消してっていう裁判。5、6分遅れて到着。ギターケース片手にドア開ける。みんなの視線が集まってしまった。裁判官が何やらボクにごにょごにょ言ってるようであるが何を言ってるかわからない。

果して何を言ってるのかムニャムニャって言葉としか聞こえてこなかった、、。オレがまだ寝ぼけてるせいか。不思議な音を発してるようにしか聞こえず、「エッ?」「ハッ?」とか「わかんないんでもう一度言って下さい。」って失礼にも言わせてもらったら見かねたのか傍聴人席にいた女性がまるで通訳の人みたいに小声で、
「どうも満員なんで外へ出てくれっていうことみたいです、、。」とボクに伝えた。「エッ?」て思ってすぐにこの間のパーティーで知り合った弁護士の人が(傍聴人席にいた数人のアフガンの難民のひとたちと一緒にいたらしかったが)、その席を譲ってくれた。助け船。おお、感謝である。そうしてちょっと遅刻してかつ満員の席だったのにどうにか入ることができた。安心。
Chance!の内山氏の隣りであった。

さて再開。あ、もしかしたら止めちゃったんかな、、。裁判官の人が進めてゆき、土井さんや大貫弁護士さんら、そしてこの間友だちになったアフガンの難民のRくんらが陳述。陳述書のコピーが手元にある。読みながらそれを聞く。ああ、あの彼が、自殺未遂した、そしてあの彼(十代)が父親がタリバンに殺され妹が行方不明になって、母親が農地を売り「この子だけでも」と日本へ逃がしてもらったのに収容されたっていう人だったのか、 、。思うところ、考えさせられることは多い。
この間ちょっと話したアフガンのおじさんが、彼らが読む陳述をたどたどしいながらも日本語に訳す。聞く裁判官、この人は優しい人かもしれないなあ、とかそうであったらいいなあとか思いながら聞く。

この間にこやかにパーティーで一緒の時を過ごし接したが今彼らに笑顔はなく真剣そのものだ。そりゃそうだ、彼らは命からがら逃げてきてさらに日本でも理不尽な目にあい今ここにいる。むしろこの前の笑顔は束の間のものだったのかもしれない。ここにその陳述書を公開にあたりそれぞれの人権を配慮して問題にないであろう形にアレンジしたものを弁護士さんの許可を得てそのまま載せます。

アフガニスタン人難民申請者A,B,C,D,Eが、難民としての認定とアフガニスタンへの強制送還命令の取消を求めて、2002年4月11日東京地方裁判所で裁判官たちに対して述べた意見の要旨です。

 

意 見 陳 述 書
原  告  A,B,C,D,E(国籍アフガニスタン)
1 はじめに
 裁判長殿、本日は、裁判官皆様の前で話をする機会を与えていただき、心より感 謝申し上げます。
 裁判官方が私達を地獄の苦しみである収容所から解放してくださったと聞いてい ます。本日の裁判の原告はもちろん、傍聴しているすべてのアフガニスタン人を代表 して、我々に対する人道的配慮に心より感謝申し上げます。
 窓もない鉄格子の中で正気を失いかけていた私たちにとって、もう一度新鮮な空 気と青い空を見ることができたことは言葉に尽くせぬ喜びであります。

2 私たちが日本に庇護を求めた理由
(1) 私はAといい、2X歳、シーア派のハザラ人です。残念ながら私の半生は戦争と 虐殺の歴史でありました。
 我々5名は、アフガニスタンの少数民族ハザラ人です。裁判長殿、私達の顔を見てください。同じような顔をしています。しかし、私たちはモンゴロイドでありシーア派であるというだけで、長年にわたる差別、抑圧、虐待、そして迫害に苦しんできました。近日報道されているとおり、バーミヤンで新たに女性や子どもを含む多くのハザラ人の虐殺体が発見されました。
 長い迫害の歴史の中でも特にナジブラ政権崩壊後の10年間、我々の国民とくにハザラ民族は、受難の時を強いられました。そしてマザリシャリフやバーミヤン、ヤカオラン、西カブールでのハザラ人に対する凄惨な虐殺。
 アフガニスタンでは、シーア派イスラム教徒でありモンゴロイドであることそのものが罪なのです。
 例えば、私自身も、目の前でロケット砲が炸裂し、爆撃、地雷で人々が虐殺される場面を幾度となく目撃しました。父がタリバンから連行された場面にも遭遇しました。これらの筆舌に尽くしがたい悲惨な光景の記憶は、今も私をさいなみます。
(2) 私達は、せめて私だけでも生き抜いて欲しいという家族の切ない希望を背に日本に庇護を求めました。アフガニスタンの状況がここまで悲惨を極めなければ、日本ま で庇護を求めたりしなかったでしょう。私の母国を誰よりも愛しているのは、この私です。帰国できる状態であれば、自分の足で帰ります。

3 難民申請、そして収容へ
 私たちアフガニスタンのハザラ人は、地獄から逃れるために、日本に来日しました。日本人が親切で人道的であるから、私達を庇護すると信じてやってきたのです。 私は、入国約1週間後、日本を信じ、自らの意思で、自らの足で、東京入国管理局に 出頭しました。
 それなのに、私たちは収容されました。早朝、防弾チョッキを装備した男たちに、犯罪者同然に引き立てられました。
 なぜですか?
 ハザラ人難民申請者を収容する国を聞いたことがありません。私達は、アフガニスタンで迫害され、日本で2度迫害されました。

4 収容の苦しみ
 私Bは、109日間収容されました。Cは、150日間という長期にわたる拘束を受けました。彼は、昨年11月に自分が解放されないと知ったとき、多量の錠剤とせっけんを飲み込みました。18歳だったDは、今年2月に、ック障害、脱水症などに罹患し、突然倒れて意識を失い、約2週間歩くこともできませんでした。そして、Eは、こんな白髪になってしまいました。収容前には、彼には一本の白髪もありませんでした。
 私達はみな、収容所で、薬を1日に10−20錠くらいを飲んでいました。それでも、毎日、死にたいという衝動を抑えることができませんでした。
 そして、傍聴席に座っている19歳のFは、私の目の前で、はさみで体を滅茶苦茶に切りつけました。あの時の私の気持ちをどう表したらいいでしょうか。今でも彼の腹には痛々しい傷跡があります。

5 最後に
 裁判長殿、私は、誠心よりお願い申し上げます。私達は5人ですが、傍聴に来て いる仲間を含めれば、14人です。そして、今この瞬間も、収容所の中で、心の傷から血を流し続け、死ぬ瀬戸際までいった仲間が何人も収容中です。
 裁判長殿、すべての仲間を代表して、最後に申し上げます。私達は、この世の地獄から逃げてきました。私たちは、庇護を求める難民です。
 私達を二度と再び収容しないで下さい。収容令書を取り消して下さい。そして、退去強制令書を取り消してください。
 私たちは裁判長と日本の裁判所、そして日本の人々が、私達の心に溢れる苦しみをご理解下さると信じております。裁判官方の人道的なご英断を賜りたくお願い申し上げます。

以上

、、、と、これが日本で強制収容されたアフガン難民からの陳述の内容で、これに被告(国側)は50cmにもなろうかという紙の山を証拠資料という名で突きつけた。乗り越えるべき山は高そうである。国はおそらく簡単には非を認めないかもしれない。大体いつもそうだ。でもあきらかに非であって、海外からも日本が難民問題に無理解なこと・アフガン難民強制収容については非難の声が上がってると聞く。

国の弁護団は、”お仕事”してるように、さらにあまり強気じゃないようにボクには少なくとも感じられた。
次回は傍聴人なしで狭い部屋で行われるらしい。日程の相談でこの日の裁判は終わった。

すぐ隣りの弁護士会館に場所を移し報告会があった。
そこでボクはまだタイトルのないアフガン難民の歌を歌った。
土井弁護士によれば、ここのところ牛久の収容所のアフガン難民がぞくぞく開放されていてる異例なことらしく勝利は近いのではと言う。しかし同時に、これから続く裁判の結果によってはまた牛久に逆戻りの可能性もまたあるっていう。道はまだ険しい。それでも希望は胸に、だ。また、多くの難民は教会に身を寄せてるらしいが限界もあり彼らのホームステイ先をどうするか、という問題もある。しかしだ、ちょっとずつでも、周りのことからベターにしてゆくことを皆で気にして行動してゆければ、と思うのだが。。道は続く、、。


4月14日(日)

部屋にこもってトラック作り。これは、今度の土曜20日ex.テーゼの高橋よしあき主催のするライブがあるんだけどそこでお互いの曲を交換して歌い合うコーナーがある。通常、そこでは有名な曲をカバーしてたりするらしいがあんまりそれだとおもろない、って、言ってしまった手前ガシッてやろうと思うのだ。どうせ古くから知ってるわけで、それぞれの解釈で曲解体するぐらいの勢いでやりたい。

さて、ボクは何をやるかと言うと、彼がテーゼというプログレ的演劇的パンクバンドやってた時にやってた『戦争を知らない子どもたち』のカバーってうかアンサーみたいな曲、もうひとつはパンタ氏がヘッセの詩をもとに曲を作って歌ってるのを高橋ソロでカバーしてるその2つ、それを選んだ。
そしてそれをどうするかっていうと、テーゼのソノシート『戦争を知らない子どもたち』の4箇所を倍でサンプリング、ループさせてハードなポエトリーリーディング。『挽歌』のイントロのピアノループでやはりポエトリー。

こんなに高橋よしあきの曲を聴いたこともなかったなってぐらい聴いてサンプリングした。サンプリングっても、ライブで使ってるエフェクター型のものだからテンポ合わせってことも出来ないのでやってることはかなりアナログMTRで何度も失敗しながら組合せて雑踏の音をミックスしたりの原始的バックトラック。ひとつはハードコアなトラック、もうひとつはピアノと雑踏の音で後半エフェクトして音がうねてゆく。
それをバックに詩をうたう。そのトラック作りで半日以上使って手間だったがこれ、なかなかやりがいがあって面白かった。これで今度のライブが楽しみになった。

先日買ったばかりのデジタルレコーダーもあったがまだ使いこなせずアナログでやったが、今度これも使っていろいろやりたい。う〜ん、一日部屋の中だったな。


4月17日(水)

パレスティナのジェニンという街でイスラエルによる民間人へのひどい虐殺が起きていてたくさんの人が殺されて街は死体の腐ってゆく臭いで充満している〜この街を調査して世界にこの事実を知らせてほしいという内容の緊急メール(発信元はイスラエルの女性・平和活動家)がCHANCE!の星野さんから届いた。荒まじい内容である。遠い国から廻り巡ってボクのもとへ届いたってことらしい。ボクも数人に送った、が、それへの反応は寒かった。
やっぱ、あやしく思うのかな。それともそれどこじゃないってことか、。

部屋にて、シーケンスとアコギでかんたんに”アフガン難民のうた”を録音。ま、かんたんなスケッチって感じ。
この曲の歌詞を弁護士さんや支援の方が、英訳及びダリ語(アフガンの少数民族でハザル族の言語)で訳して広めようと試みてくれているとのメール。頼もしい人たち、美しいメールが最近よくくる。


4月18日(木)

テレビのニュースでジェニンの街の様子が流れてた。ひどい景色だ。このあとどんなふうにコトは運ぶのだろう。


4月19日(金)

明日のライブでポエトリーする詩ヘッセをかなり変えて作る。っていうか、出来た。2、3行いっしょなだけであとはまるで違う。
面白くなりそうだ。


4月20日(土)

ライブ、部屋を出ようとしてたらハガキが届いてた。驚く。インドで出会って、最近ちょっとつき合いがなかったがそれでも親しくしてた埼玉に住む夫婦のだんなさんから。奥さんがこの1月30日に旅立たれたという。ガンというのは以前聞いていたが随分元気にしてた、が、99年再発して闘病生活だったらしい。年賀状以外音信不通であったのもそのせいだたのか。子どもは4才だったな、1月のその日はライブだったな、とか思いながら、 、。まず、祈った。それぐらいしか出来なかった。
でもなんかあの人なら、天界にて穏やかにこの地を見守ってるような氣がして、残念ではあるが、不思議に悲しいというよりも、あの人は大丈夫ってそんな氣がする。高田馬場の自然食レストランで食事したんだけど、もう一度くらい話したかったなあ。

boxinglee's cafeに着いた。高橋よしあき、店のサカタさんと挨拶。店はイイカンジで、昭和初期の町並みを思わせる内装。そのうちにUnitSUNも到着、リハ。

そして本番。入場者は多くなかったが、ボクラも高橋よしあきシンガーもハイテンションでかなりよかったと思う。
ナラカズヲUnitSUNは、 1.かんたんにいこう 2.global violence 3.真っ赤なゼリー、ここでソロコーナー弾き語りで久し振りに 4.キスしたい、そしてもっと久し振りに 5.円舞曲、そんでシーケンサー使って 6.(仮)アフガン難民のうた、またUnitSUNで 7.東京ラブソング 8.砂漠の中のくじら、旅立ったYさんへの祈りを込めて 9.inoriuta 10.虫のうた、ラストに 11.宇宙のハーモニー。

全体、すがすがしい、っていうかとてもよかったと思う。自分で言うが。。
そして高橋よしあき、改めYOSHIAKIのライブ。早々に弦切れたりしてたが、前より円熟を感じさせながらもとんがったライブ。
その中でのMCでちょい恥ずかしくなるようなナラへのコメントしてたが、なんだかんだで嬉しかったりする。彼のこの企画、来月のゲストは遠藤ミチロウさんであるが、彼もミチロウさんもディランのカバーをする。

彼の気迫こもったライブのあと、ボクといっしょのコラボ・コーナー。彼がナラの『キスしたい』を歌いナラがギター。そして次がテープ使って『戦争を知らない子どもたち』ならぬ『戦争へ出かける子どもたち』。これはかなり激しくうるさい自分ながら。自分でもこんなにうるせーのは聴かない。ハードだ。
コラボ3曲目は、ヘッセ原詩の『さよなら世界夫人』をボクがほとんど原型をとどめないかたちに書いたほとんど別モノのそれをポエトリーリーディング、それにアンサーするような詩とメロディーを高橋よしあきワンマンテーゼが口ずさむ。それにさらにボクが詩を語りさらに高橋、、、あ、そうそうYOSHIAKI、、が、うたう。バックトラックともなんだかバッチリはまって面白いセッションだったと思う。

この『さよなら世界夫人』という詩、原詩は先日高橋YOSHIAKIよりメールで送ってもらった。
ヘッセの詩はあまり記憶にないっていうか、パンタ氏が歌ってるのも多分聴いたことがない。氏の曲はでも1曲グッときたことがあるものがある。

この原詩の原形をとどめてないポエトリーリーディングは、さらにアドリブの応酬となってスリリングなかけあいになって面白かった。これはみんなに見てほしかったな。
そして最後は、高橋よしあきがナラのやはりアルバム『奈良和雄路上ライブ』の中の『円舞曲』をカバー&アドリブ、オレはギターとコーラスで応えた。キモチよくやれた。

これで終わった。来てくれた人たちからのアンケートも回収率が高く、その内容もこの日のテンションの高さを賛えてくれてるものばかりでありがたかった。
10年以上振りに見た人が、”更に前より過激になっててビックリ〜”とかってあったが、それが『戦争に出かける子どもたち』の1曲でそう思ったんならそれはこの日だけなんだけどな、。とにかくでもイイカンジでやれてよかった。Chance!のヒーラーTuckも来てくれたし弘前でのライブで最初見て、今東京で音楽活動してる人も来てくれたり、アジアを旅するのが好きだという女の子や、来てくれた人、出会った人たちに感謝。
そして、1月に旅立ったYさん、きっと聴いてくれてたと思う。感謝します、元氣で。


4月21日(日)

この日、アースデイという地球環境を考える日で、それにちなんだイベントは世界のあちらこちらで催されてる模様だ。東京でも代々木公園で大々的に行われていて、3月のピースライブ主催のAwakeyがブース出していてそこで歌うことになっていたが、中止となった。
外はすごい雨・雨・雨、なのだ。こりゃあしょうがないってもんだ。
しかしイベント自体はやってるので遊びに行った。
いろいろなブース見てまわりながら時折り署名したり。フジロックにも出てたJAVA(動物実験反対の団体)やガイアやルバンや雑貨屋、古本屋などなどいろいろ。ピースウォーク/CHANCE!発起人のひとり羽仁さんが他でやってるNGO・SEED OF JAPANは食器を貸し出していて、それを環境に優しい洗剤で食器を使った人が自分で洗うその場を提供していてそれは美しいなあと素直に思った。だいぶ前、カヤとの出会いでありどんととの出会いでもあった埼玉でのイベントもそうであったが、普段忘れがちなこうゆう当たり前のことを思い出させる、こんなことからたとえ僅かでもとっても大事なこと・何か大きいことへ繋がる種子が蒔かれていっていつか実をつけてゆくのではと思う。

さて、CHANCE!のブースへ到着。雨の中みんな元気そうであった。アフガン難民支援をしている原文次郎さんとはこれからの難民支援のお話し。海南さんが「この間はステキなライブをありがとうございます!」って言ってくれて嬉しかったが、照れくさいので「ああ、いやあ、」ってだけ答える。
CHANCE!のスタッフはピースで明るくみなステキである。

さて、人が旨そうに食してるのでボクもついつい屋台へ。フジロックでも出店しててとても美味しかったインド料理屋マハッタだ。まず、さっき書いたSEED OF JAPANのテントで食器を借りる(ここでとりあえず100円渡す)→マハッタでベジタブルカリーとナンを注文→食べる→満足→食器洗って返す(100円が戻ってくる)。。と、いった仕組み、いいでしょ。
ちなみにボクは普段家では洗剤を使わなくても汚れの落ちる、毛糸を編み込んだ”ひろりんたわし”という1つ100円のものを使ってて、どうしても汚れがひどいものは”オレンジX”っていうオレンジの皮だけから抽出した洗剤(ギター磨くオレンジオイルと近い)を使用しててお奨めです。

屋根のあるステージでは和太鼓トランスのバンドやファッション・ショー、それをちょっと見て、バッタリ会ったAwakeyのスタッフと話したり、ドベイ(ドバイ)から来てるというふたりの外国人と話してるちに時間、ピースウォークだ。

アースデイなので雨のわりにはまあまあの人数。始まる前に新聞などのマスコミでも最近発言をしているボランティアの女性(ごめん、名前忘れた)がパレスティナで目にしてきたイスラエルの残虐行為の数々を報告してくれた。すさまじい内容であった。かなり沢山の子ども女性含むパレスティナ人が殺されているようだ。来週またここでパレスティナピースウォークがあるようだ。

さて、珍しく夕方のピースウォークが始まった。そしてボクにとっては初めての雨のピースウォーク。誰かが貸してくれた木のパーカッションをスピーカーから流れる音にあわせパカポコやりながら歩いた。今日は珍しく歌わず。でも十分気持ちよかった。雨の中もまたキモチよし、なのだ。あ、今日はインドの神さまのラーマ祭だったかな。それじゃあ雨はしょうがないかも。たしか、ラーマの生まれた日は雨で、だからその日に雨は吉兆だったんだっけ。
あれ、クリシュナんときだったかな?まあいいか、どっちとも同じだし。

とにかくこのよき日のピースウォークめでたしめでたし。楽しくやれた。
羽仁さんや、国会前で仏教のお坊さんと座り込みを続けているポンタさんや関西のピースウォーカーのメンバーらと話した。用事があってこの後のCHANCE!cafe(懇談会)には欠席、家路。


4月26日(金)

牛久の収容所のアフガン難民がみな解放されたとの情報が入った。収容された難民がこんなに解放されたのはなかなかないことらしい。よかった。本当は当たり前なのだがよかった。
とはいえ、大阪の収容所にはまだひとり入れられてるし、これからの裁判の結果によっては、、と危惧される要因は消えてはない。解放されてよかったけどどこか宙ぶらりんな、完全ではないし。それに収容されてる他の難民の人たちにもすぐに解放されるべき人がまだまだいるという。

日本の難民に対する法律や仕組みには問題があるようだ。多くの難民を受入れられるようなヨーロッパなどの国のように、ってのは今すぐは難しいのかもしれないが、日本(国の政府機関も国民も)がせめて難民に対しての理解を深めて普通に優しく接することが出来るようになったらいいなあ、、と、思うのだ。でも自分が多くのことを知ってるってわけではないので偉そうなんか言えないのだが、、。
そのひとつのツールとして、ホームページってのもあるようなんでチェックしてみてほしいな、これ見てる人に。(後日アドレス調べて日記で書きます)

レゲエっていうかスカってかんじな新曲『(仮)解放のうた』が出来上がる。


4月28日(日)

この日、代々木公園でパレスチナピースウォーク、、、、かと思って集合場所へ行ったもののそれらしき人々はいない。ハテ?

CHANCE!のメンバーに電話。
「ヘ?今日じゃないですよ。明日です。あ、CHANCEのメンバー何人かはもう明日朝アフガン行くんで出れないけど、、。」

グオ〜ン〜、、と頭で鐘が鳴り響く。
明日だと参加出来ない、、。しまった、、。
まあとにかく、もう星野さんはひと足先に単身アフガンへ行ってるらしいが、星野さん含め明日から行くみんなが無事に行って帰ってきて、体験サムシングエルスを持ち帰ることが出来るといいなあ。


4月29日(月・祝)

さて、この日はその、ボクが参加出来なかったパレスチナピースウォークがあった。CHANCE!のメンバーで、アフガン難民を支援しているチビローさん(イチローのそっくりさんでアクター/パフォーマー)がこの日のレポを送ってくれたんでそれを許可得てここに紹介します。彼のホームページもチェックしてみてください。
相変わらずパソコンを持ってないボクはチェック出来てないんですが、、。
では以下です。↓

こんにちは。チビローです。4月29日、「パレスチナピースウォーク」にチビローとして参加しました。 (チビローでいくべきかどうかは主催者に相談しました。)
 1500人が原宿・渋谷界隈を歩きました。
 歩き出す前、魚の形をした石のペンダントを見つけました。
 「これはパレスチナの子どもが作った物です。なぜ魚なのかは分かりません。」と言われました。
 3つしかなく、緑色のまだらな魚を選びました。

 沢山の旗やバナーが世間の冷たい風を受けてたなびいていました。
長く出来た列はまるで魚群のようでした。普通は歩かない車道を歩くには自分の意志が必要です。決して流されている魚群ではないと思いました。

 パレスチナに行かれた方々の報告会は本当に衝撃的なものでした。 旅行好きの森沢典子さん、「人間の盾」をやっている時に足を撃たれた清末愛砂さん、ガザの取材を続けてきた小田切拓さんの3人のお話はイスラエル軍が撃ちまくっている弾が言葉を通して飛んできて心に穴を 空けているような気がしました。
 発砲の時の様子をビデオで見せて頂きました。救急車が信号待ちをしているように交差点で待機していました。
「人間の盾」をしている外国人の足元への発砲の瞬間も見ました。パレスチナ人が最前列にいたら、間違いなく胸や頭を打たれていただろうということでした。
 銃撃が続くと、パレスチナ人は家から出れないそうです。ある家族はイスラエル兵に応じてドアを開けた瞬間、発砲されて母親と子どもが即死したのですが、残された家族はそれをどうすることもできず、目の前で腐っていく母親を見た子ども達は発狂したそうです。(この映像はありませんでした。)

 本当にひどく、心を閉ざす暇もありませんでした。
 心を閉ざし、まるで関係ないかのように日常に流されることはそれなりに心地良いかもしれません。
 でも、ペンダントの魚は「情報とお金に流される魚でいいのか。」という問いを持ちながら、パレスチナから泳いできたような気がします。自分の力と判断で泳いでいく勇気をもらいました。

 僕達にまずできることは悲劇を忘れないことだと思います。

 まるで飛魚のようにパレスチナへ飛んで行き、現場に泳ぎ入った
森沢典子さんのホームページ
  http://give-peace-a-chance.jp/photo/palestine/

   現地で撃たれそうになりながら力強く泳いでいる方々からの貴重な情報を流しているパレスチナ子どものキャンペーン
       http://plaza17.mbn.or.jp/~CCP

   ちなみに僕は悲劇よりも喜劇の方が好きです。魚足でした。

――――――――――――――((○
日本にいるアフガン難民を助けよう!
http://give-peace-a-chance.jp/refugees/

         チビローのHP
http://www.geocities.co.jp/NatureLand-Sky/1254/


4月30日(火)〜 5月2日(木)

部屋でひたすら録音したものをミックス。なかなか難しいがやっていきながら憶えてくしかない。しかしオモロイ。