白 鳥 省 吾 物 語        

 

                      

水木伸一画伯筆白鳥省像「日本詩人」より転載

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<白鳥省吾を研究する会> 

 ここに紹介するのは、詩人として生きた白鳥省吾の歩みです。詳しくは「会報」にて紹介いたしております。内容は当研究会で知り得たことを元に作成しております。新資料が見つかり次第校正いたしております。不備な点、新資料等メールにてご教示いただければ幸いです。

白鳥省吾物語につづく             白鳥省吾略歴


         詩について      

 「詩」はいかなる生命を持っているのか。
 現在我々が読んだり書いたりしている「詩」は、明治時代以前には無かったものである。(和歌、俳句、漢詩等広義の意味での詩歌は含まない。)それは明治期の西洋文化の移入に伴って創出されたものである。西洋の詩を我が国でも作ってみようという機運が高まって生まれたものと解される。その始めは、明治十五年に出版された『新體詩鈔』(外山正一、谷田部良吉、井上哲次郎合著)である。

<この三人は日本に従来無かった西洋風の新しい詩を日本語で創造してみたいという気分で一致していた。そこで彼らは最初は『東洋学芸雑誌』に試作品をのせていたが、明治十五年七月に米英詩人の翻訳詩五編を集めて、三人詩集として『新體詩鈔』を出版したのであった。(中略)谷田部も外山も十九世紀の自然科学思想の影響を受けた若い学者であり、アメリカの民主主義社会を自分の目で見てきた新しい型の日本人であったから、文明的にも社会的にも文学的にも、従来の日本にない全く新しい日本語の詩を創造したかったのだ。彼らは専門の詩人ではなかった。しかし彼らは新しい人間であった。彼らは今までの日本にはかつて居なかった新しい文明人であった。彼らは新しい文明人として新しい文明人に適当する新しい詩を求めたのであった。たとえ、その訳詩や創作詩が未熟であり、文学性と芸術を欠いているとはいえ、三人のグループの文明批評的な文学観は偉大であった。>
   (『國文學』昭和三十五年六月号「近代詩の結社と詩人の生態」木下常太郎著)

 こうして生まれた本邦初の詩は、新体詩と呼ばれ、その運動は明治期の浪漫主義と相俟って、島崎藤村の抒情詩『若菜集』(明治三十年八月)、『藤村詩集』(明治三十七年九月)、土井晩翠の叙事詩『天地有情』(明治三十二年四月)によってその開花期を迎えたと評価されている。
 その後、明治三十年代後半に興った象徴詩は、蒲原有明の『春鳥集』(明治三十八年七月)、上田敏の訳詩集『海潮音』(明治三十八年十月)が出されるに及んで一躍詩壇の寵児となった。
 次いで明治四十年に自然主義文学運動が興り、早稲田大学を中心に早稲田詩社(明治四十年六月)が生まれ、島村抱月が詩に於いても自然主義的態度が必要と唱えた。同人として相馬御風、人見東名、加藤介春、三木露風、野口雨情がいた。この運動は自由詩社(明治四十二年)に引き継がれ、口語自由詩運動を誘った。前記詩人の他に福田夕咲、三富朽葉、今井白楊、福士幸次郎、山村暮鳥、斎藤青雨等が参加した。やがて早稲田出身の白鳥省吾もここから詩人としての出発をすることになる。
   同じころ河井醉茗は『文庫』から独立して詩草社(明治四十年六月)を興し『詩人』を発行した。同人に川路柳虹、服部嘉香がいた。今日、文学史上で口語自由詩の第一号の詩と評価されているのは、この『詩人』(明治四十年九月)に発表された川路柳虹の「塵溜」である。

      塵 塚

<隣の家の米倉の裏手に/臭い塵溜が蒸されたにほひ、/塵溜のうちにはこもる/いろいろの芥の臭み、/梅雨の夕を流れて漂って/空はかつかと爛れている 以下略>
       『新しい詩の国へ』大正十五年十二月二十五日・一誠社発行より転載)

 この詩は『路傍の花』(明治四十三年九月)所収のものであるが、収録する際に「塵塚」と改題されている。こうして新しい詩の時代は到来した。即ち象徴詩運動と口語自由詩運動が現代の詩の基礎を築いたといえる。『新體詩鈔』以来の欧米の詩の移入が実を結んだのである。

<要するに「早稲田詩社」も「詩草社」も明治初年以来の旧式な文語体定型律詩の持つ非現実的な思想と実感の失われた詩型詩語を破壊したかったのである。これを破壊し、日常使われている平易な解りやすい言葉で、口語体で自由律で現実的な素材を扱って、新しい近代詩を創造したかったのである。>
   (『國文學』昭和三十五年六月号「近代詩の結社と詩人の生態」木下常太郎著)
 
 明治四十年代、詩壇は北原白秋の『邪宗門』(明治四十二年一月)、三木露風の『廃園』(明治四十二年九月)を迎えていよいよ象徴詩の全盛期であった。白鳥省吾がものごころついて、詩に始めてふれたのがちょうどこの時期でもあった。
 一方小説のジャンルでは坪内逍遙が『小説神髄』(明治十八年九月)を著してから三十数年を経ていた。その間尾崎紅葉が硯友社(明治十八年)を興し明治期の文壇を確立し、或いはロシア文学の影響を受けた二葉亭四迷が『浮雲』(明治二十年)を世に送り出し、洋行帰りの森鴎外が『舞姫』(明治二十三年一月)を発表している。このほか幸田露伴、樋口一葉、『文学界』の北村透谷、浪漫派の泉鏡花、国木田独歩、自然主義文学運動の島村抱月、其の影響を受けた田山花袋、島崎藤村、写生文系統の夏目漱石、伊藤左千夫、長塚節、耽美派の永井荷風、谷崎潤一郎が出ている。和歌のジャンルでは佐々木信綱の竹柏園があり、落合直文が浅香社(明治二十六年)を興し、近代和歌のスタートを切り、その門下生の与謝野鉄幹が東京新詩社(明治三十二年)を興し、翌年『明星』を発刊している。ここからは与謝野晶子、窪田空穂、北原白秋、吉井勇、石川啄木が出ている。俳句のジャンルでは正岡子規が『ホトトギス』(明治三十年)を創刊し、高浜虚子、河東碧梧桐を輩出している。しかし現実の世の中は明治三十年頃から西欧文明と共に移入された社会主義(現代の社会主義とは異なる)の思想に対する政府の取り締まりが厳しくなっていた。そして、明治四十三年の所謂大逆事件以来文学一般への政治的圧力が増大しつつあった。ともあれ新しい詩の時代が到来しつつあったのである。


     大正期の詩壇について 

 こうした新しい文学の試みは大正期に入って、詩のジャンルに於いても数多くの詩のグループ、詩論を生む原動力となった。
 まず大正初期詩壇を見ると、永井荷風の訳詩集『珊瑚集』(大正二年四月)が刊行され、三木露風が川路柳虹と結び、柳沢健、西条八十、山宮允等を集めて未来社を興し機関誌『未来』(大正三年二月)を発行し、反自然主義を唱えている。象徴詩から出発した彼らは自然主義文学運動口語自由詩運動を経て再び象徴詩へと向かった。次いで北原白秋は巡礼詩社から機関誌『地上巡礼』(大正三年九月)を創刊した。やがてここからは室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥、大手拓次等が育っていく。詩壇は所謂白露時代であり、文語自由詩の確立期であった。しかし時代は確実に口語自由詩へと流れていた。日本は日清、日露戦争に勝利を治め、第一次世界大戦(大正三年八月)に突入し、戦争と同時に社会主義が論じられると言う世相であった。
 この時期福士幸次郎の『太陽の子』(大正三年四月)が刊行され、白鳥省吾が『世界の一人』(大正三年六月)を高村光太郎が『道程』(大正三年十月)を刊行している。これらの処女詩集はいずれも大正初期に見られた、口語自由詩への過渡的詩風をもっていて現代に於いてはかえって新鮮味を感じさせられる。
 大正中期にもなると、時流は民主主義の思想を歓迎し始めていた。その初めは政治学者吉野作造氏の「憲政の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」(『中央公論』大正五年一月)であった。この思想は詩壇の自然主義の後を継いで、大正期の詩人達に少なからず影響を及ぼした。同郷の士である吉野作造、鈴木文治の活動に白鳥省吾も少なからず影響を受けたものと思われる。この時代の流れをいち早く察したのが福田正夫であった。彼は雑誌『民衆』を掲げて詩壇に民主主義の風を送った。所謂大正デモクラシーの思潮が詩壇にも吹き初めていた。そこで以下に、この時代の詩壇の様子を見てみたい。

<すなわちここに近代詩の門は開かれ種々の傾向を生じ、あるいは民主主義思想と結んで民衆詩派となり、あるいは日常の直接感情を流露して感情詩派となり、あるいは「白樺派」の理想と共鳴して人道詩派となり、あるいは各自の詩的個性を探求表現する高踏的な芸術詩派となった。>
   (『増補新版日本文学史 7 近代U』昭和五十年十一月、至文堂発行)
 
 『白樺』は明治四十三年九月に創刊されているが、「その前身は学習院の交友会雑誌『輔仁会雑誌』の流れを汲むものであった。」(前掲『國文学』白樺前史、紅野敏郎著)その全盛期は大正年代に入ってからである。

<『白樺』は、武者小路實篤、志賀直哉、木下利玄、正親町公和の『望野』、里見トン、園池公致、正親町実慶、児島喜久雄、田中雨村らの『麦』、柳宗悦、郡虎彦の『桃園』の三つの回覧雑誌が合同しそれに有島武郎、壬生馬の兄弟が加わって創刊された。引き続き長与善郎、小泉鉄が同人となり、号を追うに従い岸田劉生、千家元麿、倉田百三、犬養健ら多くが結集している。(中略)これら同人、準同人のほとんどは学習院の出身であった。(中略)学習院に学んだ彼らは華族とブルジョアジー、つまり当時の特権的な上流階級の師弟達であった。(中略)そしてその師弟達は日本近代ではじめて幼少の頃より西洋風な生活の中で「銀のサジ」しか持たずに育てられた「オ坊チャン」であったといえるのである>
   (『近代文学史2 大正の文学』「白樺派の文学」西垣勤著、昭和四十七年九月、有斐閣発行)

 「白樺派」に近いとされる詩人達に人道詩派と呼ばれる人々がいる。高村光太郎、佐藤惣之助、尾崎喜八、高橋元吉、中側一政等である。この中で特筆しなければならないのが高村光太郎であろう。高村光太郎は今日、萩原朔太郎とならんで口語自由詩の完成者とされているが、詩を書き始めたと言う動機が面白いのでここに抜粋してみる。

<私は泣菫、有明、上田敏時代には詩を書く気がしなかった。(中略)ところが日本へ帰ってきて所謂白秋露風時代の詩を見ると、日本語でも斯ういう表現の自由詩のあることが分かり、詩は結局自分の言葉で書けばいいのだと言う、以前からひそかに考えていてしかも思い切れなかったことを確信するに至った。>
   (『知性』昭和十六年五月)

 『感情』は大正五年六月の創刊で、萩原朔太郎、室生犀星の二人で出発したが後に山村暮鳥、竹村俊郎が参加している。萩原朔太郎が室生犀星を知ったのは北原白秋の主催する雑誌『朱鷺』(明治四十四年十一月創刊)誌上であった。彼は同誌に載った室生犀星の抒情小曲集を見て新しい詩を感じたのであった。そして自らも詩作し同誌に掲載されるに至った。翌年大正三年春に二人は前橋で会見した。同年六月には山村暮鳥を加えて人魚詩社を設立し、大正四年三月『卓上噴水』を創刊した。
 その後『感情』を室生犀星と創刊。詩集『月に吠える』(大正六年二月)を刊行、同年五月「三木露風一派の詩を追放せよ」(『文章世界』五月号)を発表し、白秋の擁護の立場を明確にした。しかしそれは白秋詩からの自立を意味していた。即ち北原白秋と三木露風の詩壇に於ける確執からの発展が、結果的に明治期の象徴詩の終焉を示唆していた。
 この時期朔太郎は頻りに書簡の往来をしている。その中の一人に白鳥省吾がいる。因みに大正六年一月十六日付けの白鳥省吾に宛てたはがきを紹介してみたい。これは何回目かの詩人懇談会のときに省吾と初対面したときの後のはがきと思われる。

<先晩は失礼しました、貴兄とは創作の方で深い親しみがあるので始めて逢った人とは思われませんでした、始めて顔を合わせたときは初対面の人といふ感じがしましたが、少し話をしているうちにまるで以前からの交友のやうな気がして初対面のことをすっかり忘れてしまいまひた、時々気がついては可笑しくなりました、非常になつかしく存じました、あのままでお別れしたことを今でも心残りに思って居ります、二人だけでゆっくりお話ししたくも思ひます。> 
        (『萩原朔太郎全集十二巻』筑摩書房、昭和五十二年十月初版発行)

 「芸術派」は前述のように『未来』に寄った詩人達を指しているが、この中に高踏派と言われる日夏耿之介、『海潮音』の堀口大学、詩から小説に転じた佐藤春夫も含まれているようである。この派の詩人達は徹底して「民衆派」の詩を誹謗している。その初めは山宮允が『早稲田文学』(大正七年二月)誌上で「漠然たる民主主義の理想の美名に憧れて民人の向上は窮極、個人内性の拡充にあることに思い到らぬ軽浮硬心の徒」とか「このがさつな嫌悪すべき民主時代」と批判したのに始まると思う。これは明らかに福田正夫の雑誌『民衆』に対する挑戦であったと思われる。これに対して福田正夫はその雑誌『民衆』三月号誌上で以下のように反論している。

<私は単に一人を考えません。全體としての一人、一人としての全體を考へます。そして互いの理解を、愛を考えます、そこから私の詩が生まれます。・・・・・詩は骨董ではない、私はそれを深く深く感じます。内面のものから既に言葉は彫琢されて表現されて来ます、正直に詩はうたわれるほど尊いと思います。その中に言葉はひとりでに生まれてくるのです。しかも、私たちがどの位、詩作に苦しんでいるか、あなたは知らないのです。私たちはなるほど彫琢に努力しないでせう、しかし詩を生むことに努力します、苦しみます、愛することに苦しみます・・・・・>
   (『現代詩の研究』白鳥省吾著、大正十三年九月新潮社発行より抜粋)

 この論争を引き継いだのが、遅れて「民衆派」に参加した白鳥省吾であった。詳しくは後述するが、この論争は後に北原白秋と「民衆派」との論争に発展していった。その後日夏耿之介が『中央公論』(大正十四年六月号)の「日本輓近思潮の鳥瞰景」に於いて、それらをまとめた『明治大正詩史』(昭和四年一月)誌上で「民衆詩の功罪」を広く宣伝され、日本の詩壇から「民衆派」を「全く排退せしめた」(『改訂増補 明治大正詩史 上巻』東京創元社発行の日夏耿之介の言葉)と言うことになってしまった。

 「民衆派」についてはこれまでも種々紹介してきたが、前掲の『増補新版日本文学史7近代U』誌上に於いては以下のように記されている。

<口語自由詩によって社会の現実に近づいた詩は欧州大戦後のデモクラシー思潮の影響を受けて自由・平等・友愛を合い言葉とする民衆詩派を形成し、明治の石川啄木・児玉花外らと昭和のプロレタリア詩人を結ぶ詩の社会系譜の一環となった。民衆派詩人の運動は大正六・七年ごろが盛時で、雑誌『民衆』『科学と文芸』『表現』が刊行されるとともに、ホイットマン・トラウベル・カーペンター・ヴルハーレンらの西欧の民主詩人が祖述された。その主軸としては白鳥省吾・福田正夫・富田砕花・百田宗治があげられ、社会的立場から加川豊彦 加藤一夫がこれに接近し、井上康文はこの運動の中から生まれた詩人である。なお大正十一年にはアンソロジー『日本社会詩人詩集』・訳詩集『泰西社会詩人詩集』が刊行されている。 >

 振り返ってみるに、民衆詩の勃興期は新体詩以来の日本の詩がまだ試行錯誤を繰り返していた時期と思われる。即ち文語雅語から話し言葉による口語自由詩の時代への転換期にあった。当時の詩人がこぞつて話し言葉による詩を創作した。しかし今日口語自由詩イコール民衆詩とは評価されていない。ここに「民衆派」の悲劇があると思うのである。

<この運動のようやく進展始めた折から、第一次世界大戦後の新思潮であった民主主義思 想が我が国にも移入され、諸般の社会問題が活発に論議されるようになった一代の世相と呼応して詩壇にもいわゆる「民衆詩派」の擡頭とそのやや宣伝的な創作活動とが始まりました。口語自由詩運動は、一面からはそれらの「民主詩人」によって強く支持されたのであります。しかしながら、顧みて、口語自由詩として文芸的評価に耐えうる作品は、遺憾ながらそれらの思想的政治的やや宣伝的な色彩の濃いものの側からは生まれなかったようであります。>
   (『詩を読む人のために』平成三年、三好達治著、岩波文庫より抜粋


     民衆派について

 白鳥省吾を物語る上で避けて通ることのできないのが「民衆派」との係わりであろう。そこでこの「民衆派」が誕生した時代背景と大正詩壇について少し述べておきたい。

  大正年代に活動した詩人の群に、「民衆詩派」、或いは「民衆派」と呼ばれた一群があった。彼らは今日では、同時代に活躍した所謂「白樺派」、「感情派」の詩人達に比較して、一般に知る人が少なく、当時の人々からも忘れ去られているようである。それはそれなりに理由があってのことではあるが、しかし、「民衆派」の詩人達が展開した運動事態は、詩に民主主義思想を取り入れようとした点で、或いは所謂大正デモクラシーの感化を受けた、大正期詩壇の思想を代表する集団として評価できるものがあったと思えるのである。
 「民衆派」の称号の元となったのが、福田正夫編の雑誌『民衆』(大正七年一月創刊)であり、この派に集った詩人として富田砕花、雑誌『表現』(大正4年七月創刊)を発刊した百田宗治、同じく『科学と文芸』(大正四年九月創刊)を発刊した加藤一夫、そして当人の福田正夫がいる。後に、『詩と評論』(大正六年七月創刊)を発行した白鳥省吾が参加している。

<この派の文学思想の根拠は自由、平等、博愛の社会民主主義である。従って詩は民衆を基礎とした分かり易い口語自由詩のスタイルで書かれなければならないと主張した。こうした傾向はアメリカの詩人ホイットマン、カアぺンタア、トラウベルの影響と第一次世界大戦後のデモクラシー思想の刺激によって強くなった。大正六年頃から特にこの傾向が詩壇に濃厚に表れてきた。民衆詩派のグループの功績は詩を民衆に開放し、社会化し、口語自由詩の詩形を普及した点にある。この詩派は作品としては優れたものを残さなかったが、近代詩の思想とスタイルを人民化し反貴族化した点で歴史的な役割を果たした。近代詩は口語自由詩化され、社会化されなければならなかったが、詩が持っている詩的美を捨てる必要はない。その点民衆詩派は詩的美を忘れたために傑作を残すことができなかった。つまり民衆詩派はバランスの取れた近代詩人を生み出すことができなかったのだ。>
   (『國文學』昭和三十五年六月号「近代詩の結社と詩人の生態」木下常太郎著)

 大方は「民衆派」の詩人達を以上のように評し去っているが、この『民衆』を記念する民衆碑(昭和三十四年一月小田原郷土館)建立の際のパンフレットに井上康文が「民衆のこと」として、以下のように書いているのも見逃せない。

<「民衆」が創刊されたことによって、日本の自由詩の上に大きな革命をもたらし、民主主義の詩の運動はさかんになった。私達は民主主義の詩人として人生を自覚し「民衆」の生活の中に詩を見いだしたが、やがて新聞などにも民衆という言葉が使われたし、詩の批評家たちは、民衆詩とか民衆詩派とか民衆詩人とかいうようになり、我々は加藤一夫、富田砕花、白鳥省吾、福田正夫、百田宗治などと共に民衆詩人になってしまった。民衆詩の詩壇に於ける批判は厳しかったが、民主主義の詩人達が自由詩の上で大きな運動を起こしたことは事実であり、難解な象徴詩から自由、平明な詩が日本の詩壇に広がったことは否めない。>
   (『日本農民詩誌・上巻』松永伍一著より引用)

 前者は後世に於ける批評家の「民衆派」の総括であり、後者は当事者の後世に於ける総括である。どちらも「民衆派」の果たした役割については一致した見解のようである。
 民衆詩の後世に於ける評価からすれば、誠に持って正しいとしか言いようが無いと思われるが、白鳥省吾が何を目指し、何をしょうとしたかを書こうとしている私にとっては甚だ物足りないのである。文学に於ける詩の評価がまだ確立されていなかったと言うよりも、詩そのものが一般民衆に浸透していなかった時代に、詩を民衆に開放するために立ちあがったこれらの詩人達の勇気を讃えたいとも思うのである。
 
 雑誌『民衆』発刊の頃については白鳥省吾も自著『現代詩の研究』(大正十三年九月、新潮社)の中で一項目を設けている。

<詩壇の民主主義運動がこれ程までによく徹底したことは、その主張が時代の生きた要求に 適応したのと、各詩人の長い間の忍従的な努力にある。古き文芸並びに社会に対する反抗、破壊、それと同時に新しき文芸並びに社会の建設、それらへの論議と作品とは各新聞雑誌に発表されてきたが、次のような純粋な同士の発表機関がその機運を助けたこと甚だ大であった。『科学と文芸』は加藤一夫編集で、大正四年九月の創刊、四六倍版であったが、詩壇との直接的な交渉を持つようになったのは、洛陽堂の発行に移って菊判百三十余項になった大正七年以後である。その頃加藤一夫、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾が詩や評論を発表した『表現』は百田宗治編集で大正四年七月創刊、菊判十六項であつた。必ずしも月刊でなく、また一人雑誌とも称すべきものであるが、富田砕花、福田正夫、白鳥省吾も時として執筆した。大正七年頃まで続いた。通巻三十冊であった。
  『民衆』は福田正夫編集で大正七年一月創刊 、「われらは郷土から生まれる。われらは 大地から生まれる。われらは民衆の一人である。世界の民である。日本の民である。われ自 らである。われらは自由に想像し、自由に評論し、真に戦うものだ。われらは名もない少年 である、しかも大きな世界のために、芸術のために立った。今や鐘は鳴る。われらは鐘楼に 立って朝の鐘をつくものだ 。」と表紙に標語を掲げていた。菊判二十四項前後で、福田正 夫が主となり、その周囲の井上康文、井上謙二、小栗又一、齋藤繁夫の推奨につとめた。時 として百田宗治、富田砕花、白鳥省吾、加藤一夫も書いた。同年三月「井上康文詩集号」、 五月「北村透谷号」、七月「花岡謙二詩集号」、十二月「トラウベル号」、八年一月「白鳥省 吾詩集号」を出してまもなく休刊した。九年九月復活号を出して、執筆者も大差なく十一月 「 福田正夫詩集号」を出したが、十年一月には内容が小説中心に移動して、やがて廃刊した。
 「民衆」という言葉はトラウベルの詩に多く見受ける The pepoleから出ているが、世にいつからともなく、民衆詩人なる言葉がこれらの詩人に冠せられるようになったのも、この『民衆』創刊の以後のことである。民衆詩の萌芽は大正五年前後からであるが底力ある開花期を示したのはやはり『民衆』発行の頃である大正七、八年である。これは泰西の民主詩人の紹介と相俟って作品もまた充実に向かったものである。大正八年三月、富田砕花の詩集『地の子』が出、六月、白鳥省吾の詩集『大地の愛』が出た。今日に於いてこそ社会問題が堂々と論議されているが、しかも民衆という言葉さへ大正七年頃には危険視されていた。
 福田正夫が『民衆』を創刊した頃その題名が悪いというので、時々、刑事に悩まされたという話は、今でこそ一笑話であるが、その頃は重大なことであったのだ。時代も変わったのである。そして言うべきことを力強く言ってきた少数の詩人の力を認めねばならない。>

 これを読むと『民衆』発刊の大方の経緯とその頃の時代背景が読みとれる。今日、私達が「民衆派」を云々するときに忘れてはならないのが、この時代背景であると思われる。
 「民衆派」は木下常太郎氏の言うごとく、「バランスの取れた詩人を世に送り出せなかった」かもしれないがそれは罪にはならない。同氏の言う「詩を民衆に開放した」とする功績のほうを私などは評価すべきと思えるのである。ところが彼らは生まれたときから、詩壇から排除される運命にあったようである。それは詩をバベルの塔に押し上げようとする「芸術派」の詩人達からの異常なる反駁によってであった。ここのところに引っかかるものがあるのである。
 詩を高踏的なものとする「芸術派」の詩人達にとっては、詩は生活の臭いがしてはならないものであり、古来の漢詩、和歌とは違う異国ムードの魅惑にあふれたものであつた。そして詩は己を見つめ己をいじめ抜いて、と言う言い方がおかしければ己の精神を追求してはじめて生まれるものと見ていたのである。詩は孤高の精神の中で育ち、教養のない貧しい人々には創作できないものと錯覚していたふしが感じられるのである。こうした「芸術派」の詩人達にとって「民衆派」の書く民衆詩は生活そのままを唱って苦しみがない誠にもって迷惑な詩であったものと思わる。
 これらの詩人のグループが詩を芸術的なものへと高めようとしていた矢先、「銀のサジを持って生まれてきた」(前述)「白樺派」の詩人達も民衆詩を書き始めたのであった。この時点で、いよいよ「民衆派」憎しの感が強まっていったような気がするのである。その結果、「民衆派」は詩壇から追放されたような格好になってしまっている。しかし現在、大正詩壇を横臥した「民衆派」を見直しても良い時期に来ているのではないかと思うのである。


              白鳥省吾について

 白鳥省吾を物語る上で引っかかったのが、戦後生き残ったこれら「芸術詩派」の系譜に連なる詩人達の書き残した「民衆派」に対する、白鳥省吾に対する酷評であった。詩に対する情熱が高じての結果ではあると思われるが、詩人が亡くなってもその作品は残り、詩人を知らない人々から詩のみの評価を受けるのも詮無いことかとも思われるが、悪例に挙げられたそれらの作品ばかりを見て同感するのも、如何なものかとも思われる。
 私はなにも今更民衆派の肩を持つ者ではない。ただ大正期に興った詩壇の歴史的事実を隠匿することなく、事実を事実として見つめているだけである。なぜならば私たちは今日象徴詩も書くし、自由詩も書く、まして小学生の書く詩は限りなく民衆詩に近いと思うのである。極端に言えば今の時代は詩形にこだわっていないのと思うのである。推移していく時間の中で、こだわりを無くして透明な視点を持てば、かつてのイオニア人の如く、事実を事実として認めることが出来ると思うのである。
 例えば今私たちがが詩を書くとしよう、私たちは何々派の詩を書くと言うようなことは考えないと思う。こういうタッチでこういう雰囲気の詩とか言うふうに、自分の感じたことを素直に吐露していくと思うのである。しかしながら前述したように、大正期はやっと「詩」が文学として世間に認められ始めた時期であったことを忘れてはならないと思う。一般農民が書物を購入して楽しむ余裕は無かったのである。
 もう一つ民衆詩を論ずる上で忘れてはならないのは、耕作の苦しみを貧しさゆえの苦しみと履き違えないことである。農民にとっては、作物を作ることは無上の喜びなのである。しかしながらそれだけでは生活できないのが残念なだけなのである。優先順位が違うだけなのである。このような社会の農民達の中で、詩を書く余裕があったのは自作農、或いは所謂地主と言われる人々だけであった。それ以外の人々の多くは、もっとイデオロギーのはっきりした、言ってみれば「詩」だけを考えれば良い方向に走った人々であった。
 省吾は「田を耕すように詩を作りなさい」と言っているが、この言葉自体にも二重の意味があると思うのである。一つは「飾らないで、楽な姿勢で詩を作りなさい」と言う意味であり、もう一つはその裏には「無理をしないで詩を作りなさい、何も、田畑を捨ててまでのめり込む必要はないですよ」と言う意味である。その意味では、芸術詩派やプロレタリア詩人達とは一線を画していたと思うのである。働くのは、何も貧しいからだけではないのである。

 閑話休題

 はじめて白鳥省吾の名を聞く諸氏はこの物語を大げさなと思われるかも知れないが、省吾は、これまで固有名詞を挙げてきた日本の文壇詩壇を形成してきた人々と多少なりとも関わっているのである。例えば、日本の詩壇から「民衆派」を「全く排退せしめた」(『改訂増補 明治大正詩史 上巻』東京創元社発行の日夏耿之介の言葉)と言った日夏耿之介を『野茨の道』の中の「富士川のほとり」で友として唱いあげている。(白鳥園枝先生のお話)。また、「創作」大正三年七月号の編集後記では、若山牧水が「やがて右向け右左向け左で上等兵殿にびんたを張られることになるのであろう。自分が好きこのんでやるのだから仕方がないのであります。原田君は大部な翻訳事業に没頭し、白鳥君は詩集を出してほっかりしている。」とか、昭和四十四年三月二十五日発行の日本詩人全集32『明治・大正詩集』付録の「蘇鉄色の酒杯」島本久恵(河井醉茗婦人)中では、白秋と犀星の喧嘩の仲裁の件で、「醉茗も静観していられず、別の紙面で双方に忠告、白鳥さん百田さんなどもそれで動いて、和解のための一夕をたしか丸の内のエーワンでひらき、懇話会全員が集まって一応おさめた」云々。
 没後に喜代未亡人の本願で出版された『文人今昔』(昭和53年9月30日「新樹社」発行)は楜澤龍吉氏(「大地舎」同人)が跋文で述べておられるように、白鳥省吾の交友録でもある。抜き書きして紹介してみる。

<昭和39年から40年にかけて『東京タイムス』に連載されたもので、明治・大正・昭和三代に亘る文人の追憶談であり、先生一代の記念すべき交友録でもある。その内訳は、詩人28名、小説家13名、歌人9名、俳人3名、評論家3名、劇作家1名、中には両方に跨った人もあり、女流2名、外国人1名が含まれる。>以下略

 前後したが、序文は本間久雄博士が書かれているので抜き書きして紹介してみよる。

<語られた人々は全部で58人。私が序文を書くのは知遇を受けた著者への一つの情誼であると思ったからである。> 

 この語られた人々の名をあげれば、白鳥省吾の交友範囲とその人となりが幾らかでもわかっていただけるものと思う。この中で森重久弥氏は省吾の詩集が出ると、必ず千葉まで買いに走らせていたとのこと(白鳥ナヲエ氏のお話)である。

<直木三十五・室生犀星・辰野隆・若山牧水・富田砕花・島崎藤村・佐藤惣之助・土井晩翠・福士幸次郎・児玉花外・吉井勇・有島武郎・前田河広一郎・加納作次郎・福田正夫・北原白秋・百田宗治・千家元麿・河東碧梧桐・芥川竜之介・エドマンドブランデン・人見東明・加藤武雄・林芙美子・野口雨情・高村光太郎・横瀬夜雨・山村暮鳥・萩原朔太郎・西條八十・森重久弥・室積徂春・生田春月・谷崎精二・三上於兎吉・秋田雨雀・片上天絃・菊池寛・河井酔茗・三木露風・川路柳虹・落合直文・与謝野晶子・斉藤茂吉・吉植庄亮・尾上紫舟・新居格・翁久允・中西悟堂・伊藤葦天・小川未明・サトウハチロウ・泉芳朗・日夏之介・本間久雄・前田夕暮・中村星湖・内藤ユ策> 

 詳細は後述するが、省吾の著書『文人今昔』を一読されると納得していただけるものと思う。

 白鳥省吾は民衆派には遅れて参加している。詩のはじめは島崎藤村の抒情性から出発し、薄田泣菫、蒲原有明等の象徴詩風に煩悶し、明治期後半の文芸思潮である自然主義の影響を受けた口語自由詩運動を経て民衆派に参加している。そして雑誌『民衆』無き後も、自分の雑誌『地上楽園』(大正十五年六月創刊・大地社発行)を発刊するに到り、民衆詩を農民詩運動へと継続していった。この白鳥省吾を室生犀星は『地上楽園』一周年記念号に於いて以下のように評している。

<白鳥省吾は野暮でくそ真面目である。彼のごとくくそ真面目な人間は少ない。しかもその真面目は又何人をも持ち合わせないところの真摯である。彼が農民文学のやうな提唱を敢えて辞さない所以は、福士幸次郎の地方主義の主張と同様に又認めねばならぬ。彼がいい加減な人物ならばとっくに今の時代に合ふうな芭蕉論でも書いていたであろう。>
 
 彼の偉大さはイデオロギーを越えたところで評価されるべきものと思う。けだし郷土の詩人白鳥省吾はそんなことはあんまり気にしないで、堂々と最後の最後まで独自の詩の道を貫いた。

白鳥省吾物語につづく


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