大正十五年六月一日創刊・『地上楽園』六月号・「創刊号」、第一号 目次が表紙に印刷されている。
51頁に「詩壇雑記」がある。この中に『地上楽園』を発刊することになった経緯が記されている。「詩人倶楽部のこと」より紹介する。
「詩人倶楽部」といふ私の編輯した文藝日本社発行の雑誌は、四月に創刊号を出して、創刊号きりで廃刊になってしまった。理由は簡単である。同社が経営上に行き詰まって続刊の見込みがたたず、他の書籍類の出版も当分中止せねばならぬ状態となったからである。私が同社主の進藤延君から詩の雑誌の編輯の交渉を受けたのは昨年末のことであり、その後、國井君の詩集出版のことなどで時折逢ふたびに話も出たが、私はあまり気乗りがしなかった。書店から出す以上それは商売雑誌でなければならず。ヂャーナリズムのものでなければならないからである。よほど以前から私は純粋に自分のグループの雑誌を計画したが、商売雑誌には熱を持たない。「日本詩人」の編輯をした場合にもそうであったから、同じような経験を繰り返すことをあまり喜ばなかったのである。それが一月下旬に井上君が来宅して、進藤君がどうしても詩の雑誌をやりたいといふし、自分も助手の役目を務めるから、是非出馬してくれといふ話だったので、「詩人倶楽部」の編集後記にも書いてあったやうに愈々やる事になったのである。つまり文藝日本社でも詩書の出版と詩誌の発行によって一展開をしやうとした覚悟はあったが、以前の「文藝日本」時代の放漫なやり口が、経済上のどんずまりを招来したのであった。それで社内の事情を何も知らなかった井上君も私も真面目に雑誌をこしらへて、世間的に詩誌として好評であったに係はらず、極めて苦しい立場に置かれたわけである。
然しこんなことも一つの世間学で、また天災のやうなものだと自分はあきらめもつくが、私の編輯する最初の雑誌だといふので、非常な好意と期待を持ってくれた寄稿家や読者には甚だすまなく思っている。
それで「詩人倶楽部」も進藤君の諒解を得て私の手で続刊出来ないこともないが、それには種々の行きがかりもあり、雑誌にはそれぞれその発刊当時の意図といふやうなものがある。「詩人倶楽部」は全詩壇的であることを標榜して発刊されたものなので、この傾向を私の独力で押し進めてゆくといふことは、そのヂャーナリズムの煩瑣に堪えられないし、私自身としても無意義である。私はそれで余儀なく「詩人倶楽部」の続刊には未練を残さずに、自分自身の雑誌である「地上楽園」を急に計画したのである。
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最終更新日: 2001/03/03