白 鳥 省 吾 物 語 第 三 部

27号(平成13年1月号)・<詩人 白鳥省吾を研究する会>    siyogob2.jpg (12989 バイト)

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 一、 民衆派の凋落  大正12年〜15五年

  (一)、関東大震災と詩話會の人々  会報二十七号

 大正十二年(一九二三)、省吾は精力的に活動しているが、前年の北原白秋との論争は続いていた。福田正夫は『日本詩人』新年号に「考察の冬を駁す」を、二月号に「社會詩の主張」を発表して反論している。「考察の冬を駁す」を抜粋して紹介する。
∧北原白秋氏は自(ら)の自由詩を見て三省三思すべきである。/これをまづ進言する。自らの十月の「詩と音楽」にのせた自由詩が、君の主張するいはゆる詩の見地から見てどうであるか・・・・・それから後に、危険なる状態の自らを悟った後に、君の詩論を自分で讀み給へ。そして言ひ給へ「有り難う、白秋よ、俺は俺に言っていた」と・・・・・それで結構なことになる。君に言ふのはそれだけだ。/それから君の誤っているを少し言って置かう。僕の「實行」といふことは眞の社會的實行を言ふのであって、それを「創作として實行か」などとひとりよがりに合点するだけ、君と僕とは素質が違ふ。その見地で僕の詩を批判されたり、僕の境地を避難するからこそまるで出たらめになるのだ。/中略/君のやうなわからずやに何を言ったって無駄だ・・・・・君みたいに「圓光」を頂いている尊者には念佛(詩の念佛)より外には這入らないであらう。君はそのサアクルの中へ引込んでいばっていればいい。/結局君と僕とはサアクルが違ふのだ。/こんなことは始めからわかり切っているのであるが、あんまり君がいばっているからちょつと一言進呈したのだ。/僕の批評の正面に答へないで餘論の掲足取りでおしまひにしたところなど君のやりそうなことだ。しかしこれも結局物笑ひの種で、それだけ君に反響があったら結構だ。まあとにかくあんまり詩の王様みたいに見下してくれ給ふな。/後略/∨*1「考察の冬を駁す」(『日本詩人』新年号)

 この論争について生田春月は『日本詩人』新年号「海濱雑記」に以下のように書いているので、抜粋して紹介する。
∧自由詩は勢ひ散文化し、散文に近づく。自由詩を認める以上は、誌の散文化は許していいではないか。散文的になったとて、大した差支えはないではないか。要はその内容の如何にある、「詩」がその中にあれば、形式上の些少な欠点なんか、大目に見ておいた方がよい。それが今後の自由詩の成長を助ける道である。今あまりそんな点をやかましく言っていると、折角の自由詩の努力が挫折してしまふ虞れがある。散文化であらうが何であらうが、放任しておく事だ。さうしたなら、そのうちに自由詩も立派な発育をして完成した詩形になるだらう。/後略/∨*2「海濱雑記」(『日本詩人』新年号)
 『日本詩人』五月号は「ポオル・クロオデル」号を出している。萩原朔太郎は『日本詩人』六月号に「詩壇から文壇へ」を発表している。福田正夫は七月、『朝日』に「階級闘争と詩の位置」を発表している。(*3『明治大正詩選全』「明治大正詩壇年表」)

 『日本詩人』は大正十一年十月号から十二年二月号まで、白鳥省吾が一人で編集していること、また十月号の表紙には金子光晴画「日本昆虫図譜・その一・マツモムシ」の図柄が描かれていることは先に紹介したが、この年の新年号には金子光晴画「日本昆虫図譜・その四・ナナホシテントウムシ」の図柄が表紙に描かれている。裏にはポール・クローデルの肖像画が描かれている。(写真)「編輯餘録」を省吾が書いているが、それによるとポール・クローデルの肖像画を使用したのは前年の十二月二日に「明治会館」で開催された「シヤルル・フイリップ記念講演」に出席したポール・クローデルに敬意を表してのことであった。
* 写真は『日本詩人』大正十二年新年号(詩話会編・大正十二年一月一日・新潮社発行)
 
 この時期のことを「白鳥省吾年譜」では以下のように記している。
∧二月詩「幼き日」日本詩人。三月随筆「梟の歌と太陽の現れるまで」中央公論。三月三十一日、若山牧水氏主催の「創作」大会沼津にありて招かる。詩友百数十名全国より集まる。講演「民衆詩とは何ぞや」酒宴は千本松原の海岸にて地曳網あり、大漁。歌会四月一日二日に亘る。四月「散文詩の意義」朝日新聞。五月二日「太陽」増刊のために山水大観(三十一枚)を書く。五月十日福田正夫氏と共に大館、秋田と講演にゆく。五月十九日児童芸術講座のため、笹川臨風、藤沢衛彦両氏の招宴にて赤坂錦水にて会談。六月二十三日佐藤惣之助、福田正夫、百田宗治、川路柳虹の諸氏と水郷潮来に一泊あやめ踊りを見る。六月評論「詩と宣伝」朝日新聞。「飢えたる村々の話」中央公論。「散文詩三篇」日本詩人。七月「奈良雑詩」日本詩人。八月郷里宮城県栗原郡教育会の講習会に招かれ、十八日、十九日、二十日の三日間花山村温湯温泉、御番所にて開催。その後、執筆のため滞在して二十九日帰京。九月一日関東大震災起こる。/後略/∨*4「白鳥省吾年譜」

 『中央公論』に発表された随筆「梟の歌と太陽の現れるまで」は随筆集『土の藝術を語る』に収録されている。これは大正五年頃の省吾の心境を述べているもので、*15詩集『大地の愛』「自然の聲」(一九一六年作)に収録された詩「深夜の犬」の生まれた背景を書いている。


     深夜の犬

犬は静かに堅い大道に横はる、
黒い毛並みに置く露
深夜の大気が澄みきって
空は淵の青さに無数の星を鏤ばめている。

人間の疲労の澱む
微かな大地の響きを犬は聴く、
犬の上に檞の大木の若葉が
海底の藻草のやうにそよぐ。

堅い大道には人一人通らず
犬のために安らかな床、
夜の自然の神は
星と語る深夜の犬の眠り。

∧・・・・・その頃、私は貧窮のどん底に居た。職業に対してひどい幻滅を感じた私は、何かの職に就かうといふ希望を殆ど持たなくなり、日に二度の飯さへ食ひかね乍、しかも奇蹟に近いほどの静かな法悦の気持ちで詩を作っていた。そして、あてもなくいつも夜の二時頃に一里ほども道程のある私の宿に徒歩で帰るのであった。/後略/∨*5随筆集『土の藝術を語る』「梟の歌と太陽の現れるまで」

 五月に一泊した大鰐温泉での様子は先に紹介した。『人生茶談』に「忘れもの」と題して、秋のことと匿名を使って記されているが、両方をミックスした省吾の創作のようである。先年秋に行った時は加藤一夫、福田正夫と一緒であったが、今回は二人旅のようである。太田が福田正夫で、小島が省吾である。
∧詩人の太田と小島が大鰐温泉に行った時のことである。無産運動の盛んな時代で、弘前での講演会が小作争議などのリーダ格なので、当局が眼を光らして尾行がつくという始末であった。/中略/弘前の講演会が終えてからの黄昏どき、時刻はよし、折から秋のみちのくでもあり、二人は大鰐温泉で第一と云われる加賀助旅館に繰り込んだ。/一浴して二階の見晴らしのいい座敷でこれから一杯というわけで食膳につくと女中がやって来て、「御面会です」と云う。
 「誰かな」とつぶやきながら、階下に降りて行った太田は、笑いながらあがって来て、「刑事の奴がついて来たんだよ。一緒に飲もうと誘ったが、固くなって下の室におるよ」という話だ。/「もう一度、誘ってみたらどうだ」/と小島も提言したので、太田はまた下に降りて行って、やがて刑事をつれて来た。/まだ二五六の若い男で、ただ上役に云いつけられて、職務として尾行しているだけで、別にこちらは過激な思想の持ち主でないことは彼も解っているらしく、盃をさされても、うつむいて窮屈そうにしているのである。・・・後略。∨*6『人生茶談』

 八月の郷里宮城県栗原郡教育会の講習会に招かれた時のことは、随筆集『土の藝術を語る』「森林に想ひ都市を頌ふ」中に「森林地帯の見聞から」として書き残されている。これは大正十三年二月『我観』に発表されたものを収録したものである。講習会は十八日、十九日、二十日の三日間に渡って花山村温湯温泉、御番所にて開催された。省吾はその後、執筆のために二十九日まで滞在している。当時の花山村の各温泉の様子を伝えているので、抜粋して紹介してみたい。
∧東北の脊梁をなしている奥羽山系の高峰、駒ケ嶽の森林地帯のなかには十指を屈するほどの温泉があるが、宮城県花山村h13825p.jpg (19880 バイト)の温湯温泉はその一つで、その付近は東北の代表的な森林である。/温湯温泉は海抜三千尺位、陸羽東線の池月駅から六里の山奥で、路は割合に平坦だが、徒歩か馬でなければ行けないので、交通不便なために、余り世に知られていない。/中略/
 しかし、温湯から更に奥に行くに従って森林が全体として吾等を驚喜させる。/温湯温泉の前を流れるその迫川を遡ること十分ほどで作澤といふのがある。山にへばりついたやうな数件の小屋、材木を伐り出したあと、川にそそぐ小さい瀧など、近づくに従って或る人間くささを感じさせる。/中略/川の大きい石から石へ一枚の厚板が架かってそれを渡って崖をのぼると、三百坪に足らぬところに並んだ数件の小屋、即ち木地挽きの工場に出る。主に椀を挽く小規模の工場だが、小さいだけに却って親しみのある面白味を感じさせる。/中略/
 白糸の瀧といふ高さ十五丈ほどの見事な瀧を案内するといふので工場監督である青年に連れだって行った。川を遡るのかと思ひの外、工場裏の直立した山をよじのぼるのであった。山は言うまでもなく深い林で森林地帯の一部である。八月の中旬で、その胸を突くやうな急坂をのぼっただけで流汗が浴びるやうに流れた。しかし其処を十数分で登り切るともう山の平地であった。/中略/
 温湯温泉から三十丁で湯ノ倉温泉があり、二里で湯濱温泉がある。共に白糸の瀧を分岐点としてますます森林の中に進むので、迫川の上流である。湯ノ倉はほんの狭い川岸に二軒の家が立ち、入り口の一軒は川に添ひ、突き当たりの一軒は湯槽の上にある。雪崩のために家が破れたさうで、各々の家の其の左翼が半分づつ屋根が落ちて、ぼろぼろに座敷にくつ附いている。/中略/川に添ふた家には二階一室、下二室に湯治客が居り、突き当たりの家には上下一室づつに人が居る。/中略/
 白糸の瀧から湯濱に行く途中こそほんとうの大森林だ。古朽して木が自然と倒れているのが、多くまじっている。/中略/殊に見事なのは山毛欅の林だ、明るい緑葉は同一の模様を以て何処までも続いている。山毛欅の如きは一千年以上のもの無数であるとのことである。/蜥蜴がカサコソと落ち葉の上を音を立てて遁げてゆく、/中略/路は山の中腹に狭く無理に作られたもので、上も下も絶壁といふのが少ない、遠くで渓流の音などがする。熊笹がよく茂っている。/中略/蜥蜴は無数で、蛇も二里余りの間に十数匹を数へた。とある草地に小憩したらダニがワイシャツに三匹も食ひついていた。この森林で、どんな動物から血を吸ふたのか、南京虫に似て扁平な身体に血をにじましていた。/中略/私は全速力で歩いた積もりであるが二里半の路は四時間を要した。/中略/この二里半の山道を湯濱の娘などは温湯まで往復するのである。淋しさを感ぜずに故郷の土として懐かしさを以て歩む。独り春夏ばかりでなく。雪が脛を没する冬に於いても通行することは驚くべき事である。/中略/然るに、迫川の上流の温湯、湯濱、湯ノ倉の三温泉は交通には不便なのが幸ひして、都会人は殆ど入り込んで居ないので農民の独占である。/後略/∨*5随筆集『土の藝術を語る』「森林に想ひ都市を頌ふ・森林地帯の見聞から」。
* 写真は宮城県栗原郡花山村温湯温泉



 そして帰京して直ぐ、九月一日の関東大震災である。先に紹介したものと重複する部分もあるがもう少し詳しくみてみたい。
 当時省吾が所属していた「詩話會」編の詩誌『日本詩人』は大正十二年三月号から福士幸次郎と福田正夫が編集を担当していた。原稿を預かっていた福士幸次郎はブリキの箱に入れて原稿の災難を逃れようとしたが、全部焼失してしまった。これに責任を感じた福士幸次郎は後に、青森に帰っている。しかし福士幸次郎の心配も杞憂だった。焼失したはずの九月号の紙型が残っていたのである。『日本詩人』大正十二年十月号の「編集後記」に、「また本誌九月号は、製本済の上、発売間際に製本所に於いて全部焼失したるも、幸ひ紙型は安全なるを得て、震災消息を加へたる上、内容はそのまま十月号として発売することにしました。」とある。この号には「大震災と詩話会員の動静」、「會員動静」、省吾の「民衆詩の起源」も掲載されている。

 「會員動静」によると、*7「○生田春月氏 無事、同氏宅は今回罹災を免れたる東京山手、牛込区内にあることゝて被害なし。」とある。以下敬称抜きで紹介すると、○金子光晴については「牛込新小川町に非難、震災当日江戸川大曲にある大空地の門をぶちこわし幾百の町内避難民を入れ、大手柄をあらはした。」とある。この時のことは金子光晴自身が自著『詩人』に「水の流浪の終り」と題して書いている。
 それによると、
∧その年の九月一日に、関東一円にわたる大地震があった。/正午頃、僕がまだ三畳の自動車部屋に寝ている時に揺れ出した。/中略/神社の石垣の下にある家なので、危険を感じた僕は、座布団を頭にかぶり、瓦の落ちてくるのを防なぎがら通りに出た。/中略/大地は飴のようにうねりつづける。僕が通りすぎるとすぐ、うしろで、がらがらと石垣が崩れる。新小川町に辿りつくと、近辺の小家は大方勤め人で、主人が不在で女や年寄が途方にくれている。川田家の板塀をひきはがし、庭の空地に二百人ばかりの老幼婦女を非難させた。/後略/∨*8人間の記録双書『詩人』
 と云う有様だった。このあと金子光晴は、「無断闖入」という川田家からのもんくに対して、日本刀を腰にさして談判をしたり、その日本刀をさして暴力団のような男と掛け合ったりしていたらしい。つづいて紹介する。
∧地震のひびわれのあいだから、反政府の思想運動が芽ぶき、人々の心に不安と、一脈の共感をよびさまさせた。余震は十日すぎてもつづいた。各町内に自衛団が組織され、通行人を一々点検した。髪の毛をながくしていたために社会主義者ときめられて、有無を言わさず殴打されたうえに、警察に突出されるのを、僕は目撃した。アナーキストだった壷井繁治などが逃げあるいたり、弘前なまりのために、鮮人とまちがえられた福士幸次郎が、どどいつを唄って、やっと危急をのがれたりということが、あっちでもこっちであった。/後略/∨*8人間の記録双書『詩人』
 この後、金子光晴は名古屋の牧野勝彦を訪ねている。

 先に挙げた『日本詩人』大正十二年十月号「會員動静」の続きを抜粋して紹介する。
 ○河井酔茗は「相州平塚」にいて無事。○川路柳虹は当日在宅「落合の家に多少の被害」があったが無事。○国木田虎雄は「当時鵠沼にあって、家は倒潰したが無事。」○佐藤清は消息ないが、「東京山手に宅があるので多分無事。」○佐藤惣之助は「土蔵のみ倒潰したが一同無事。」○佐藤春夫無事。○霜田史光は当時栃木方面を旅行中、下宿は無事。○白鳥省吾は被害なく無事。○千家元麿は「震災当日横浜にて家は焼失、辛うじて家族と共に非難。」○高村光太郎は消息ないが、自宅の駒込方面は火災を免れている。○多田不二は無事。○富田砕花は当時、兵庫県芦屋の自宅にいたが、三日震災を心配して食料十五日分を持って詩人の救済に奔走している。○中田信子は無事。○南江二(治)郎は「鎌倉を脱出し、丹波亀岡の自宅に非難。」していたが、「九死に一生」という思いであったことを翌月の『日本詩人』十一月号「鎌倉震災第一日記」と、*10『福田正夫・追想と資料』「大正年間の恩師の手紙」「関東大震災に」に書いている。
 前者より抜粋して紹介する。
∧俄然、激しい家鳴震動とともに、忽ち二階とともにうち墜され、転げるやうに大道に飛び出したものの、山崩れ、海嘯!と続いて迫る自然の暴虚に鞭たれて、轟っと云ふ怖ろしいうなりを背負ふやうにして、名残の星月夜の井戸のあたりから、無我夢中にひた走りに馳って遁げて来たものの、長谷観音の墓地にきれぎれの息をほっと一息ついてからは、ふと、さうした事も思ひ起こすほどの心に余裕が出て居た。/中略/すると眼前に、腫み持つただれた腫物のやうにくろぐろとした斑点を印した干潟が現はれ、続いて向こふから徐々に襲って来る重苦しい潮が浮かむで来た。私は思はず息を呑むだ。なんと云う物凄さ、うす気味悪さだらう。長谷観音の山上に馳せのぼって、由比ヶ浜を一瞥してうけたその時のおそろしい印象は、幻のやうになってなかなか私の頭から去らなかったのだ。幻想から覚めたときは足下の長谷・鎌倉町一帯は地獄そのもののやうに紅蓮の焔と化して居た。/後略/∨*9『日本詩人』大正十二年十一月号「鎌倉震災第一日記」
 
 ○野口米次郎は消息なし。「しかし自宅のある中野方面は震災にも火災にも無事だった筈。」○野口雨情は「当時長野善光寺に居られたといふ。」○深尾須磨子は満州大連にあって消息不明。○福士幸次郎は「家屋焼失。当日家族と共に火に追はれて深川中島まで行き、そこで火前に一晩立ちん坊、翌日晩まで掛かって辛うじて田端に避難。一同無事。」(「會員動静」)
 福士幸次郎がさんざんな目にあったことは、先に紹介したが『日本詩人』大正十二年十一月号「一身上のこと」よりもう少し詳しく紹介する。
∧○十月号の消息にもあったやうに、深川に在住している私は今度の大災にきれいに焼き出された。/中略/多くも取り出さない荷物の中で、日本詩人編輯者当然の役目として特に持ち出したる原稿保管のブリキの箱、これにわたしの乃至本編輯所あてに、原稿が一杯につまっていた。重要物としてわたしはこれを他の荷物と一緒に、町の向かひ側の赤煉瓦倉庫の空き地に運んだ。/中略/わたしが妻に勵聲一番に言ったのは曰く、『ここへ運んでも焼けるくらいなら、東京中どこへ持ち出したって焼ける。だから焼けたらあきらめろ』/妻は唯諾々然としてうなずいた。  二人の子のうち今年四歳の長女の方はわたしが背負ひ、当歳生れの次女は妻が背負ひ、大河河口をさして逃げたのは、その日の六時頃であった。/中略/この晩の十時頃からわたし等は火の重圏に陥った。/
 ○三日目に一面の焼け跡の吾が家へ来て見ると、すべて熱い灰のうづ高い山である。例のブリキ箱など痕方もない。/中略/ここでわたしは私に原稿を委託された諸氏に、日本詩人編輯の常の責任者として衷心からお詫びする。寄稿の原稿でお預かりしたのは幡谷正雄、松原至大、米澤順子氏ら、以下四五通ある。投稿の方でお預かりしたのは数百通ある。/中略/ここに持ち出してくるのに余りに酸鼻で、側隠の情に堪えず、書くのに忍びない次第であるが、火事のあと此の運河から最初にあげた死骸ばかりでも四百人あったいいふ。わたしなどにしてもあの夜半からは、夜っぴて水を浴びて辛くも火気をふせいだ。場所は東京湾直前の商船学校構内で、その校舎の延焼中での事だ。あの水も多分何かの洗礼であらう。最後までその水をかぶりかぶりいけ図々しく胡座を掻いて地上に座っていたけれども。/○以上諸氏の原稿を焼失したことには、ここに重ねて謹んでお詫びする。
 ○日本詩人の編輯も、更に詩話會もこの大災を通過した後の、私の境遇上、並びに精神上の変化によって退くことになった。日本詩人辞任の方は規定の任期から言へば、元来夙に果たすべきものであったが、最初諸種の註文を具して編輯を買って出た私の都合上、今まで待に延期して貰ったもので、この点詩話會々員諸氏の寛大を感謝し、特に私に編輯上の一切の専横を快く見免し任せてくれた相棒の編輯者、福田正夫君に深いすまなさを感じつつ、感謝の言葉をささげる。/中略/氏とわたしに代る今度の編輯者は、川路柳虹氏と白鳥省吾氏との両氏に決定したが、今後はその創痍の癒えるに際して、わたしの独断専行のために編輯者として実現し得なかったものを快く行ひ得ることになればいゝと思っている。/中略/
 新人紹介法に就いては未だ未だ欠点がある。今後の編輯者諸氏の研究を希望する。恁な事をいふのも余り普通に誰も(と)いふとキザになるが、必竟わたし等も未だ青年なんだから、愈々紹介する段になれば、弟でも紹介するやうに、充分な了解と責任とをもって、そのくせ至極簡単至極な方法をもやってのけたい。(この為には一篇の投書が気に入って新人を世の中に出すといふ近頃までの一般の方法でなく、紹介者と被紹介者との間に、今少し密接な関係があって欲しい)。/中略/
 ○日本詩人編輯を辞すると共に、自分も創立者の一人で密接に関係してきた詩話會をも退会するといふのは、今度の大災で精神上、境遇上かなり変化させられざるを得なかった、わたし自身の都合による。/中略/何しろ之から経済学の初歩を学ぶ段取りになったのです。その為に今わたしを世話して下さる人が、或る書庫まで斡旋してされた。/中略/思へばわたしなども焼け死にこそ仕なかったれ(が)、あの午前十一時五十八分四十五秒が、大変なことになってしまったものだ。/では左様なら、詩話會員諸君!/読者諸君!/暇があったら詩もぽつぽつかくかも知れませんが。∨*9『日本詩人』大正十二年十一月号

 「編輯餘録」には福田正夫と福士幸次郎が編集を辞して、十二月号から白鳥省吾と川路柳虹が編集に当たることが告げられている。また「なほ本誌は来る十二月号を休刊し、新編輯者の手により正月号新装を凝らして出すことに新旧編輯者にて評議一決した。」と福士幸次郎が記している。
 このあと直ぐの時期は、佐藤八郎の家にお世話になっている。福士幸次郎とサトウハチロウの関係は、省吾が『文人今昔』「サトウハチロウ」の項に以下のように記している。
∧サトウ・ハチロウ氏と福士幸次郎氏とのつながりは、「幸次郎自伝」に、「二十歳、同郷の佐藤紅録氏に愛せられ、一生の宿縁を拓く」というように、幸次郎氏は佐藤家の書生をしていて、ハッチャンを縁側からオシッコさせた仲だといっていた。/中略/私はハチロー氏とは久しく会わないが、この間、幸次郎氏の古い手紙が出てきたので、その頃のムードを知る意味において発表しておく。/拝啓先晩は失礼。気持ちのいい晩でした。/中略/この手紙持参の人は兼ねて御存じの佐藤八郎君です。童謡は仲々好いところがあると思います。どこか適当な雑誌社へ頼んで、毎月出さして貰うとか、或いはそれ以上に密接な関係のある位置にありつかせたいと思うのですが/中略/白鳥君の周旋で、何か適当な位置なり関係なりを作って貰えますまいか、右宜しく御願い致します。/後略/∨*11『文人今昔』
 つづいて『文人今昔』より「福士幸次郎」の項を抜粋して紹介する。
∧彼は弘前に生まれ、津軽地方を愛した。関東大震災で二十年ぶりで津軽に帰り、そこの生活のレポートはなかなか面白いものがある。郷里の中学の先生をしていたが、時間を守れないので長続きがしなかったらしい。/中略/彼の詩集「展望」の出版記念会の発起人は生田春月、有島武郎、室生犀星、与謝野鉄幹・晶子夫妻、佐藤惣之助の諸氏であって、友人はみんな揃っているのに、定刻を二時間余もおくれて主賓の福士君がようやく「やあ、どうも失敬!失敬」と現れたには驚いた。室生君が「君は忘れたのかと思った」と言ったら、「そりゃ忘れはしないさ」と言った。/彼と議論をすると、たとえば私が雑誌に地主と小作人のことを書いた時、彼は地方主義を振りかざして、いつまでたっても区切りがつかず、止めようと思っても彼の止めないのには閉口した。/後略/∨*11『文人今昔』

 ○福田正夫は「当時小田原にあり、震災後崩壊せる附近の小学校に赴き、建物の下敷きになれる小学生を救援中、自宅方面が一面に火となり僅かに身を以て免れた。」自宅は焼失したがかろうじて一家無事。(この後十二月まで義兄牧雅雄のところでお世話になっている。『福田正夫追想と資料』)○前田春聲は無事。○室生犀星は自身も家屋も無事だったが、夫人が出産のため駿河台の病院に入院していた。震災後二日目に会見して、母子共々金沢に向かったが、通行困難のため田端の自宅に引き返して無事。夫人は女子を無事出産。(「會員動静」)
 この時期の室生犀星のことは、省吾が『文人今昔』「室生犀星」の項に書き残している。
∧ある日、室生君に遇ったら、/「こんど家内がお産をするのだが、どこがいいか君知ってるか、君のも病院だったろう」ときくので、/「産科では麹町の榊病院と駿河台の浜田病院が二大病院だそうだよ。/中略/室生君は奥さんを浜田病院に入院させたが、女史分娩の一週間目かに関東大震災になり、病院は崩壊をまぬがれたが、類焼に瀕したので、看護婦は親子を伴い上野公園に避難させた。室生君は百田宗治君と病院に駆けつけ、その避難先を知り、ようやく上野公園で探し出したとのことである。/後略/∨*11『文人今昔』
 ○百田宗治は田端の自宅は無事だったが、五日目に大阪に帰郷。「併し九月二十五日再び出京し十月中滞在家財整理の上、今後は大阪に定住の意向。」○山崎泰雄は消息不明だが、「大森方面は無事のはず。」○井上康文は小田原の生家にあって全焼。身一つで逃げ出して無事。東京の家族も無事。「三日に徒歩にて帰京、再び十日に小田原の福田正夫氏を救援に赴く。」○尾崎喜八は消息不明「この方面は震災火災共に無事だったが、××人騒ぎで最も恐慌を来した。」無事。(「會員動静」)
 尾崎喜八は*6『日本詩人』大正十二年十一月号に「親愛な百田宗治兄」を書いている。それによると、実家に駆けつけたが全焼して「すでに焼け死ぬところではありましたが。/同封の原稿三篇、記念詞華集のために御送りします。/川路さん白鳥さんによろしく御傳言下さい。(十月九日)」と書いている。
 またこの号には、米澤順子が「書簡一束」、中西悟堂が文を寄せている。それによると、米澤順子は三越の屋上庭園に主人と居て震災に遭い、それでも何とか自宅に戻り、身近なものをまとめて、早めに自宅を見捨てて宮城の芝生に避難して助かったことを書いている。中西悟堂は「朝鮮と支那の国境をうろついていて震災をきき急いで帰ってきた。」と書いている。そして「尚僕はこれを機会に出雲を引き払って帰京する。」とも書いている。
 百田宗治は同号に「震災記念詩集の刊行に就て」を書いているが、この中で、尾崎喜八が実家の父母を気づかって駆けつけ「どうしたはずみでか家梁の下になって一時は卒倒したが、市の救護班の手によって危ふく蘇生したといふ」という状態だったことを書いている。
 つづいて『日本詩人』大正十二年十一月号「震災記念特集の刊行に就いて」より紹介する。それによると、百田宗治は震災後に一時大阪に帰郷していた。そして単身で大阪に来ていた福士幸次郎と一緒に東京へ向かった・・・・・。この震災以前、七月に『東京朝日新聞』に詩話會委員を辞退した旨を発表していた百田宗治は、「その原因は直接に何等この震災の事実とは関係がないとしても、思ふところあって近く居を生まれ故郷の大阪に移すことを決心していた私の・・・。」と書いている。しかし再び東京に戻っている。そして大正十二年十一月二十日*12『震災詩集災禍の上に』を川路柳虹、百田宗治、白鳥省吾の共編で新潮社から刊行している。この詩集を刊行しようとした動機を「震災記念特集の刊行に就いて」より抜粋して紹介する。 saika02.jpg (21614 バイト)
∧二十六日(九月)に大阪を発ち、途中小田原に立ち寄って、あの悄然たる焼け跡の一隅に建てられたいたましい掘立て小屋に福田君の家族を見舞ひ、同じその焼け跡に建った他の假小屋の中に一夜を過して、二十幾日振りで、再びこの壊滅の東京に入ったのは二十八日の午後であった。その翌々日白鳥省吾、川路柳虹の二君に会って早速この計画を話し、両君の賛成を得、同時に新潮社との交渉も纏まった。ただこの二君ととの相談の結果、私の主張したる感想集の代りに、主として震災に関する詩のみを求めて純然たる震災記念詩集として刊行することになった。編輯者として白鳥省吾、川路柳虹、私の三人、詩話會編輯の名のもとに新潮社から発行といふことに話が極まった。寄稿を求める諸家の顔振れその他のことも大体の輪郭だけはその相談の席上で定めた。/中略/現代の日本詩壇を兎も角も代表する、また多少蕪雑の気味はあらうとも。そこに在る一切の要素を出来得るかぎり完全網羅した、云はば典型的な記念詞華集としたいといふことであった。/中略/
 (ここで一言して置きたいのは、私はこの夏詩話會の委員といふものを辞したことだ、その理由をここで書くことは止めるが、兎に角詩話會の中核を成すこの委員なるものを辞した以上、かういふ企画に率先して自分から起つといふことは少しくさし出がましいことのやうにも感じられたが、この計画そのものが純粋に果たして詩話會独占の仕事となるべき性質のものであるか否かも疑問であるし、さういう煩はしいいきさつの一切を無視してこゝは一つ横車を押してみやうと思った)で、その場ですぐ次のやうな文案をつくって、その印刷物を詩壇諸家八十余氏の許に発送することになった(そのうち詩話會員三十六名。)
 思ひがけない災厄の中に見舞われて、吾々の首節は無惨な荒廃の状態を現出するに至りました。御身辺に御障りはなかったでせうか、御伺ひ申し上げます。/さて誠に唐突ながら、この機會に於て小生等急遽協議の上、この吾々の上に落ちかゝった未曾有の災害を永遠に記念するため、現代日本の諸詩人の主として震災に関する詩作を網羅した記念出版を試み、その収得を以て此度罹災せる詩人等への救恤の一端に充てることを思ひ立ちました。何卒この企画にご賛同の上、貴稿御寄せ下さるよう偏へに御願い申上げます。/原稿 篇数随意 百行以内/期日 十月十五日/編輯 詩話會/宛名 牛込区矢来町新潮社内百田宗治/大正十二年十月一日/委員 白鳥省吾/川路柳虹/百田宗治/

 この早急の私達の願ひを聴き容れて原稿を寄せられた詩壇諸家へこの機會に深い感謝の意を表したい、別して従来の行懸り上詩話會ゝ員に属しない三木、日夏、西條、その他の諸氏が私の眞意を容れて快くこの詩集への寄稿を承諾されたことを欣幸とする。/後略/∨*9『日本詩人』大正十二年十一月号「震災記念特集の刊行に就いて」
* 写真は『日本詩人』大正十二年十一月号(詩話會編・大正十二年十一月一日・新潮社発行の扉の裏より。資料提供白鳥省吾記念館)

 この『災禍の上に』には以下の四十八名の詩人が詩を寄せている。(前掲写真より)「秋田雨雀、赤松月船、青手彗、生田春月、伊福部隆輝、尾崎喜八、大関五郎、川路柳虹、河井酔茗、喜志麦雨、児玉花外、西條八十、佐藤清、佐藤惣之助、澤ゆき子、白鳥省吾、鈴木信治、陶山篤太郎、千家元麿、大藤治郎、多田不二、角田竹夫、富田砕花、長澤三郎、中田信子、中山啓、萩原恭次郎、橋爪健、林信一、日夏耿之介、深尾須磨子、福士幸次郎、福田正夫、藤森秀夫、堀口大学、正富汪洋、松原至大、松本淳三、前田春聲、三木露風、南江二郎、武者小路実篤、村松正俊、百田宗治、山口宇多子、米澤順子、宵島俊吉、井上康文。」
 『日本近代文学事典第六巻・索引』では『災禍の上に』を以下のように記している。
∧「東京壊滅の凶災を不朽に伝う可き一大記念詩集」として詩話会の川路柳虹、百田宗治、白鳥省吾の編集で編まれたもの。ポール・クローデルの短章(山内義雄が解説)冒頭に、詩話会詩人四八人の詩八五編収録この本の印税は罹災詩人慰問の費に充てられた。詩の依頼は八十余名に出されたが、「金子光晴、熊田精華、佐藤一英、服部嘉香」の作は、編集方針の変更から留保された。・・・/後略/∨*12『日本近代文学事典第六巻・索引』
 同誌ではこの後、掲載された詩人名と作品名を挙げている。この中で「詩話会」会員外の三木露風、日夏耿之介、西條八十等が含まれているのに「詩話会詩人四八人」とあるのは誤植である。省吾は後に*13「大正詩壇の思い出・詩話会の成立から解散まで」に於いて、この時の印税を配った詩人の名をあげているので紹介する。
∧前者は関東大震災で罹災せる詩人を慰問し印税を義損する目的で編まれたもので、初版の印税四百五十円が罹災詩人に頒たれ、金の配分は罹災と境遇の程度を考慮し、委員会により左の如く決定した。/金壱百円宛、福士幸次郎、福田正夫、千家元麿/金弐拾円宛、米沢順子、熊田精華、青手彗/金拾円宛、大藤治郎、井上康文、佐藤惣之助、尾崎喜八、北原白秋(以上十一名)/右は詩話会員であると否とにかかわらず、詩人全般に亘って罹災の考慮をしたものである。∨*13「大正詩壇の思い出・詩話会の成立から解散まで」
 これらの事実を拝見すると、後世の詩史に於いて犬猿の仲とされている日夏耿之介が詩を寄せ、北原白秋に義捐金を送っている不思議である。ここで思い出されるのが、先の項で紹介した「この論争にかかわらず白秋氏とは、詩話會解散後にともに日本詩会を結成したり童謡詩人会の幹部になったり二回も年刊童謡詩集を編んだり、幾度となく会合し酒席をともにした。」という省吾の言い分である。関東大震災という未曾有の災害のさめやらぬなかで、「詩話會」の詩人たちが派閥を問わず精力的に、詩人の救済に当たった事実は、もう少し評価されても好いのでわないかと思われる。やがて日夏耿之介は置いておくとして、残りの脱退組の元「詩話会」詩人たちは、この後も再結集するのである。このことは後に触れたい。

 省吾も自著『土の芸術を語る』「不死鳥の聲」の中で、「自然の魔力と人間の夢」(初出は『中央公論』十一月号)、「大地に生くる者」、「愛と死について」、「玄米に関連して」と題して、関東大震災の様子を書き残している。この中の「自然の魔力と人間の夢」より抜粋して紹介する。
∧日本の帝都として大都市の殷勢を示すこの東京の大半は僅か三日足らずで灰燼に帰してしまったのだ。昔の武蔵野を思はせる凄まじい焼野原となってしまったのだ。二百四十萬の人口のうち三分の二は罹災者となり、倒潰焼失家屋四十余萬、そして十萬の死者、数十萬の負傷者を出した。妻子眷族も散り散りに身を以て都落ちせる者、現在まで百三萬人に及んでいるといふ。これほどの激震は戦乱もしくは革命でもなければあり得ぬことではないか。何といふ大きい天災であらう。/中略/
 ほとんど同一の歩調で同じ程度の着の身着の儘の姿で、悲痛な疲れきった表情で、/中略/実に無数の避難民が大塚の終点に行くのを私は辻町に立って見た。四日の午後である。/中略/六日の午前に始(初)めて其後の東京市を見た。/中略/
 音羽九丁目でN君の宅に見舞に立寄らうとして横町をはいると、二三十戸ほど焼けたらしく一帯が焼野となってその家は影も形もなく、やうやく、N君の立退先が小さい板に書いてあるのを見付けた。近隣の人に聞くと、一物も出さなかったらしいが家族に怪我はないやうで、二日の夕がた雨の降る頃までは後の久世山に居ったといふ話であった。/中略/
 大曲の花屋の前で偶然にも深川ずまひのF君が向こうから来るのに遇った。今度の惨害は本所、深川が最もひどかったといふので、先ず案じられたのがこの友であったので、始(初)めはそれがF君であるかどうか自分の眼を疑った位であった。花屋のまへの土管に腰かけて話す。六つに二つになる女の子を伴うて奥さんと共に無事避難したといふことであるが手足に幾つかの擦り傷を負うていた。いつものやうに微笑を湛へて「所有物は何もかにもみな焼いてしまったが、せいせいした気がする」とも言っていた。そして「君のところへもお見舞いに出かけやうと思っていたが・・・・・」とF君の方で言ったので、私は噴き出してしまった。/後略/∨*5随筆集『土の藝術を語る』「不死鳥の聲」「自然の魔力と人間の夢」

 この中のN君は誰か判明しないが、F君は福士幸次郎であろうと思われる。省吾は翌七日、郷里から心配して駆けつけた義兄と二人で、東京の様子を見て歩いている。そのときの見聞を「これは地獄絵以上の光景である。/中略/これはまるでこの世に在り得べからざる光景である。しかも動かすべからざる事実だ。」として、その凄惨な様子を伏せ字をまじえて書き残している。
 そして十一月「比喩」を『日本詩人』に、「都会文芸の崩壊」を『新潮』に書いている。これは∧関東大震災により「文芸の衰亡」を説く菊池寛氏への反駁なり∨(*4「白鳥省吾年譜」)と言うものであった。この「都会文芸の崩壊」も、『土の芸術を語る』「詩の王国にて」の中に収録されている。この中で省吾は菊池寛の「文芸の衰亡」を批評して、「都会文芸とは都会文明もしくは都会のブルジョワ生活をそのまま肯定する享楽、廃退、通俗の要素を主とする文芸を謂ふのである。」として以下のように新しい東京を望んでいる。
∧私の観る所によればこの震災は人間にプロレタリアートの精神の洗礼をを与へたものと考へる。今のところ社会は反動思想を誘致しさうな状態にあるが、道学者以上の真の健全性は前言したやうな芸術と科学の上に立ったプロレタリアートの生活態度の外にはない。文芸に於ても行くべき路は益々明確にされた気がする、戦はずしてプロレタリアの勝だ。在来の都会生活、ブルジョワ生活の崩壊の中から、何等かの新しいプロレタリアートの都市と芸術を想見出来ると思ふ。技巧、享楽遊惰な都会生活でなしに、自然の色彩豊かなどこか田園的な新鮮な都市の新興文芸を期待する。∨*5随筆集『土の藝術を語る』「詩の王国にて」「都会文芸の崩壊」
 これは、これまでの享楽主義的都会文明を批判し、省吾の尊敬するウイリアム・モリス(省吾は大正十年一月、*14『早稲田文學』に「社会改造家としてのウイリアム・モリス」を発表していた。)の「無何有郷記」のような、理想郷を東京に望んでのことだったと思われる。
 十二月、先に(五月)藤沢衛彦、笹川林風等と協議した『児童藝術講座』第一集が出ている。これには西條八十、白鳥省吾、野口雨情の童謡に関する研究が収録されている。同月『新詩歌俳句講座』第一集が「新潮社」より出版されている。この中の詩欄の担当は福士幸次郎、川路柳虹、福田正夫、西條八十、生田春月、白鳥省吾、野口雨情であった。(*3『明治大正詩選全』)
 こうして、省吾の活躍した様子を調べてみると、当時の詩壇の中心詩人の一人であったことがはっきりと伺われる。
 この時期「詩話会」周辺の新人詩人達の活動が活発になっていた。一月に萩原恭次郎、壷井繁治、岡本潤、川崎長太郎等ダダイスト達の機関誌『赤と黒』が創刊されている。この雑誌の発刊の経緯について菊地康雄は*16『青い階段をのぼる詩人たち』に於いて詳しく記しているが、それによると『赤と黒』の誌名は「別にスタンダールの小説から思いついたわけでなく、右にのべたような衰弱した詩精神へのアンチ・テーゼだったのだ。」(壷井繁治の回想)というものであった。そしてこの雑誌のパトロンが、「財産放棄」をしていた有島武郎であったことを書いている。

* この頁の参考・引用図書及び資料
*1「考察の冬を駁す」福田正夫著(『日本詩人』新年号・詩話会編・大正十二年一月一日・新潮社発行)
*2「海濱雑記」生田春月著(『日本詩人』新年号・詩話会編・大正十二年一月一日・新潮社発行)
*3『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編(大正十四年二月十三日・新潮社発行)
*4「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』白鳥省吾著・・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)
*5「梟の歌と太陽の現れるまで」「森林地帯の見聞から」白鳥省吾著(随筆集『土の藝術を語る』大正十四年二月二十日・聚英閣発行)。
*6『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)
*7『日本詩人』大正十二年十月号(詩話會編・大正十二年十月一日・新潮社発行)
*8 人間の記録双書『詩人』金子光晴著(昭和三十二年八月十三日・平凡社発行)
*9『日本詩人』大正十二年十一月号(詩話會編・大正十二年十一月一日・新潮社発行)
*10「大正年間恩師の手紙」南江治郎著(『福田正夫・追想と資料』・昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)
*11『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
*12『日本近代文学事典第六巻・索引』(日本近代文学館、小田切進編・昭和五十三年三月十五日第一刷・株式会社講談社発行)
*13「大正詩壇の思い出・詩話会の成立から解散まで」白鳥省吾著(『國文學』六月号・昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)
*14「社会改造家としてのウイリアム・モリス」白鳥省吾著(『詩に徹する道』大正十年十二月十二日・新潮社発行・初出は『早稲  田文學』大正十年一月号)
*15 詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)
*16『青い階段をのぼる詩人たち』菊地康雄著(昭和四十年十二月十五日・青銅社発行)
 

 つづく

以上・駿馬 


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最終更新日: 2003/01/13