白鳥省吾物語 第.三部 会報二十 八号

(平成十五年一月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   一、民衆派の凋落 大正十二年〜十五年

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    (二)、チブス発病 大正十二年 


 大正十三年(一九二四)一月、省吾は「大地に生くる者」を『日本教育』に、二月「森林を想ひ都市を頌ふ」を『我観』に発表している。これらは翌十四年二月に出版された、*1『土の藝術を語る』「不死鳥の聲」に収録されていることは先に紹介した。後者の内容は、関東大震災の見聞録(前掲)である。前者は前年の関東大震災に於いてびくともしなかった東京駅を設計監督した、辰野金吾博士のことを讃えた一文である。先にも紹介したが、省吾は金吾博士の親戚筋に当たる、親友辰野正男の誘いによって早稲田大学に進んだのであった。金吾博士が大正八年三月二十五日に逝去された後、辰野正男 は*2『辰野金吾伝』を依嘱されていたが、病のため省吾が引き継いで完成したのであった。これが出版されたのは大正十五年十二月のことである。「大地に生くる者」より抜粋して紹介する。
∧私はまたさる機縁から吾が國の明治大正にかけての建築界の巨匠辰野金吾博士の傳記を調べたことがあったが、今度の震災に関連して、先づ博士のことが思ひ浮かぶ。博士は優れたる技術家であるばかりでなく、希に見る高潔な人格の人であった。今度の震災で煉瓦造りが概して危うかったと言はれているに係らず、辰野博士の設計監督に成る東京驛、製麻會社の如きは大地から生へたやうにびくともしていないし、石造りの日本銀行の如きもがっしりと立っている。東京驛の煉瓦はその職人の積む数を一日三百五十に限ったといふことである。また第一銀行の基礎工事の時には先づ地質試験をすると、甚だ不完全であったので、五六尺掘り下げることを博士は主張したが、大変金がかゝかるので澁澤男爵等が、金のかゝらぬ方法はないかと言ひ出した。其時の博士の返答は面白い。「地形に金を惜むならば建築を止めた方がいい、地形ほど大切なものはない、地形が悪くては上を幾ら良くしても無駄である。建築は止めにしなさい」と言ふにあった。/後略/∨*1『土の藝術を語る』「不死鳥の聲」
 余談になるが、辰野金語博士の後日談として「国会議事堂を設計監督することを、最後の仕事と心得ていたが思いを達することなく病に倒れてしまった。その最後の時までそれを悔やんでいたという。」しかし、弟子たちによって昭和十一年に国会議事堂は完成し今も使われている。(*3『明治建築をつくった人びとーコンドル先生と四人の弟子ー・大成建設株式会社制作ビデオより)

 『日本詩人』一月号は「回想のイエーツ」号として出している。二月、省吾は『日本詩人』に「自由詩運動の前後」を発表している。同じ二月のことであろうか、「不死鳥の聲」には「愛と死について」と題して、有島武郎の死について記されている。(*1『土の藝術』「覚書ー発表年月誌名ー」による)それを紹介する。
∧新聞の三面記事を賑やかした大きい事件も、結局は、次から次へと波に送られるように「忘却」の海の果てに消えてゆく。最近の有島氏の情死沙汰の餘爐もまださめぬうちに、武者小路の四角関係が新しい興味をそゝったが、それ等は皆今度の震災で跡形もなく吹き飛んでしまった様子である。/私は今更、時節おくれの有島氏の死に就いて論じようとは思はない。たゞその当時多くの新思想家が無条件に単純にその情死を讃美して新しいがらんとしたことが苦々しい記憶に残っている。殊にその一親友は「よく死んでくれた」と言ったことなど。・・・・・そして古い教育家なども単に人妻と姦通したのは獣であると頭ごなしにやっつけて、新旧いづれの方面でも條理をつくした見方で人を首肯させたもののなかったのは事実である。そして教科書から有島氏の文章を省くといふ副産物を出したに過ぎない。/中略/それは昨年の二月二十六日早稲田大学に於ける「ホイットマン没後三十周年記念講演會」で一緒に講演をやったのであった。會後も卓をかこんで晩餐を共にし数時間の會談をした。てうど北海道の小作地解放の噂の出る直ぐ以前の頃である。有島氏の其時の演説の内容はホイットマンに對するアンナ・ギリクリストといふ一英婦人の手紙に就いてであった。有島氏はこの婦人の身の上に就いては殆ど語らなかった。ホイットマンの詩の批評とこの手紙の朗讀が一時間餘に亘っていた。有島氏がこうした講演をした心持にはやはり当時、恋愛の悩みを抱いていたので、そうした心境に向いていたのであらうと今から察せられる。
そして私はホイットマンに傾倒していた有島氏の、女性に對する問題、死に對する行き方といふものが、境致がややホイットマンのそれに類似して、本質が頗る相違していることに私は驚くと共に興味を感ずるものである。/ホイットマンの晩年に於いて、眞に彼の生活と作物とを理解し、精神的に慰安を興へたものは可憐な英國の寡婦アンナ・ギリクリストであった。中略/∨*1随筆集『土の藝術を語る』「不死鳥の聲」「愛と死について」

 このあと、省吾はアンナ・ギリクリストとホイットマンの海を越えた恋愛関係に言及しているが、紙数の都合上その部分を要約して紹介すると、「アンナは三十三歳の時に、夫と死別する。四十一歳の時にロセッテイの出したホイットマンの『草の葉抄』を読んだアンナは『ホイットマンの評價』を出版する。ホイットマンはこの本を読んで感激し、ロセッテイを通じてアンナと文通するようになる。その後アンナは三人の子供を連れて英国からアメリカのフィルディルヒャアにホイットマンを訪ねて、時折会っていた。然しそれはプラトニックラブの域を出なかった。アンナは二年間滞在して英国に帰っていった。」というものであった。つづいて紹介する。
∧ホイットマンは晩年通風が重って、瀕死の床に於ける激痛の数ヶ月にも、神のごとく平和に顔は浴後の如く清らかであったといふその態度は、生活の回避のために死に飛び込んで行くものの知ることの出来ない甚深な境地である。またホイットマンに對するアンナ・ギリクリストの聖い藝術的な愛情は、虚栄心の強い文學少女などの足下にも及びもつかぬ高さがあるやうに思ふ。
 むろん、有島氏の死を単に生活廻避と片付けるものでもなく、その相手を世間的なブルジョア風の低劣なものとのみするのではないが、ホイットマンの場合と對照して研究する材料とはなるだらうと思ふ。殊にも有島氏のホイットマンに對する敬愛の念は並大抵のものでなかったから。/中略/ホイットマンの死の讃美は秋が来て落葉の散る如き自然死と、使命に勇ましく殉して死ぬ勇者の死に對してである。∨*1随筆集『土の藝術を語る』「不死鳥の聲」「愛と死について」
                
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 二月二十三日、省吾はチブスにかかって小石川区大学病院分院に入院している。この時の模様は自著、随筆『世間への触角』に「朝夕の窓からー入院生活二ヶ月間の見聞録ー」と題して記している。はじめ「軽い大腸カタルが全快した夜に」その主治医と「チブス」の笑い話をしたのであったが・・・。「一・少佐夫人と大福餅」の後半部には「其後、私は思ひもかけず、本もののチブスにかかり、寝台車で、あてもない冥府のなかをゆくやうに揺られながら、入院せねばならないことになりました。それは二月の二十三日でした。」と書き始めている。 こののち「死線にさまよふこと二ヶ月」を味わうのであった。
∧私の病症は熱が三十九度五分もあったのですから、絶對の安静と静かな室とが必要でした。しかし、その頃、どこの病院も満員なので、やうやくこの病院の二等室それも一室に三人のきめで私の左右に二人の患者が居ました。震災前は二人だったのを三人入れることにしたさうで、見舞い人が一人腰かけると、その間を人が通れない位でした。/中略/私は氷嚢を額にして呻りながら、それらの雑談をいつまでもきいていねばなりませんでした。そして十一時過ぎまでも眠ることが出来ませんでした。これが分院とは言へ、東京一の病院かと思ふと、まるで施療患者のやうな情けなさを感じました。/中略/
 三月一日、私の熱はまだ三十九度を下がらなかった。危険状態であった。小雪がちらちらと降っていた。/中略/人の情の厚薄を数へる愚はしないが、人にはいろいろの見舞いぶりがある。静かに寝ていると人の情がしみじみと身にしみるのであった。病める者にとって一輪の花も何といふ慰めであったらう。/後略/∨*4「朝夕の窓からー入院生活二ヶ月間の見聞録ー」
 省吾は入院中に病院の中でおきたエピソードを種々書いているが、その中から一編だけ『文人今昔』にも書いているので紹介する。
∧もう一つは関東大震災の直後のことだが、私は詩話会の「日本詩人」の編集をしていた。/或る日、一青年が片上先生の巻紙に墨書した長文の紹介状を持って来て、/「この青年は一癖ある男だが、書くものは見込みがあるから」と詩数編を見せた。強度の近眼の三好十郎という早稲田の学生であった。私は「日本詩人」に載せることを承諾したのだが間もなくチフスを発病、大学病院に入院して生死の間をさまよう状態となった。/入院中、留守宅に訪ねて来た三好君は荊妻に向かって、「どんな重体か知らんが、来月載せるというから楽しみにしていたのだ。それを載せず人の芸術を侮辱するにも程がある。白鳥君はけしからん奴だ」」/と玄関で怒鳴って行ったとのことである。/後略/∨*15『文人今昔』

 入院中に室生犀星、若山牧水等から温情あふれる見舞いの手紙を頂いたことも記している。
∧新聞でチブスに罹ったとききました。たいへんなものにとっつかれ嘸困ったでせう。しかしゆっくりなほしなさい、そしてなほったら金澤へ来たまへ。
   雪のとなり家はカナリヤの聲
   かはらの雪はなぎさから消える
 病中だから返事はいい。―秀子夫人によろしく。
  省吾君∨*4「朝夕の窓からー入院生活二ヶ月間の見聞録ー」
 もう一編紹介する。
∧白鳥君/けさの新聞で御発病の由を知り、驚きました。厄介なものに罹ったものですね。然し極めて安全なものと聞くので、その方の心配はありませんが、恢復期の養生法のむつかしいのもよく聞いているのです(ご)ぐ御たいくつだらうと御同情申します。しかたがないとあきらめて、ゆっくり寝込んでおいでなさい。一種の自然休養にもなりませう。お目にかかりませんが、奥さんにもよろしくおっしゃって下さい、とりあへず、右まで、/三月一日朝/牧水生/∨*4「朝夕の窓からー入院生活二ヶ月間の見聞録ー」

 省吾が入院中に作詩した「ナイチンゲール讃歌」が昭和に入ってからみつかっている。「白鳥省吾作詞、飯田三郎作曲、幻の歌甦る」と新聞に載った。∧岡山市の宗教団体「福田海」を訪ねた音楽教育家、大村典子さんの発見による。「詩は大正十五年頃体を病んで入院中に、白鳥省吾さんがナイチンゲールの生涯を七・五調の詩にまとめたこともわかった。」その詩は昭和十年代、少女雑誌に発表されたことがあり、それを見た「福田海」の関係者が、∨曲を依頼して現在も歌われているという。入院した年から察して大正十三年のこの年のことと思われる。

 そして退院したのが四月十五日であった。この後、伊豆の土肥温泉に、ある友人の別荘を借りて五月十一日から三十一日まで静養している。この時の様子は長編叙事詩『結婚の詩』につづられているが、先に「結婚前後」のところでは妻秀子の産後の養生のためと紹介したが、どうやら省吾の創作のようである。事実は自身の養生のためであったらしい。長編叙事詩『結婚の詩』によると、その頃、天雨(省吾)の知人が偶然に尋ねて来て、「伊豆の土肥温泉に一軒の別荘を持っているが、それは夏だけ使用するので夏までの間、貸してあげるから養生してはどうか」と言うことで、出かけたようである。友人とは、若山牧水のようである。
∧土肥温泉は知る人も希であらうが/伊豆の西海岸に添うた簡素な温泉地で、/その頃、交通は沼津より船路四時間、もしくは山越えに修善寺、船原をへて、船原より三里のところにある。/歌人若山牧水は夙(つと)にこの土地の温かい冬を愛して/その生活から多くの秀歌を残したが、/東京の人々にとっては土肥はまことに縁遠い温泉であった。/後略/∨*5『長編叙事詩・結婚の歌』
 
 入院中の間にも省吾の著書が出版されている。これらは前もって準備されていたものと思われる。*6「白鳥省吾年譜」によると、先に紹介したものの他に、二月「自由詩運動の前後」を『日本詩人』に発表している。この他*7『童謡読本』三月一巻・二巻、四月三巻、六月四巻・五巻をいずれも「東京出版社」より発行している。

 つづいて「白鳥省吾年譜」には六月の事として、印度の詩人「ラビンドラナス・タゴール」の来朝を伝えているが、これは省吾の各種著書に紹介されている。
 そして∧六月十七日茨城県真壁町羽島に福田正夫氏と共に泉浩郎氏を訪ふて伝正寺温泉に浴す。福田氏の長編叙事詩「筑波の白百合」のモデルはその時の酒席の女なり∨とあるが、その内情を和田英子著『風の如き人への手紙』(「民衆派の人々 百田宗治・加藤一夫・福田正夫・白鳥省吾・井上康文」)の中では福田正夫の絵葉書を紹介し「白鳥らの砕花来信は、常に会っていたので殆どないが、福田正夫が旅先から出した絵葉書が残っている。」として、以下のように紹介している。
∧大阪市外芦屋浜あしや 富田砕花様/
 怪しげな百田の案内で筑波登山を志す、ところが東道の主は来ず、未知なる白鳥と二人真壁を志して行く途中。嘗て土浦の佐藤(惣)が怪しい追憶談を思出しながら市中をのし歩いて小さな汽車に乗る。明日は筑波山にのぼる予定なれど、あとより東道の主の来ねば、酒におしまいにするかも知れず、震災以後はじめての旅行・・・・・別に嚢中暖かきにあらず。/中略/
 百田は約束を忘れ、福田、白鳥両氏は山に登らず泉宅で酒をくみ合ったことだろう。∨*8『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』
 この時の様子を省吾は、自著『詩と農民生活』(「第四編農村見聞七項」「蛙の唄」)の中で紹介している。
∧昨年の初夏、六月十七日に福田正男君と筑波山の傳承寺温泉に行った時は、丁度田植時であった。廣々とした田の面に薄濁った水がたっぷり湛へられて、馬は代掻きに働き、人々は田植えに忙しかった。/其の夜、私達は小高い丘の森にかこまれた鑛泉旅館の二階で、晝見れば一望の田であるその中にすむ千萬の蛙のコーラスが風のやうに湧き起こり寄せくるやうな聲をきいた。何といふ無数の賑やかな聲であらう、何といふ哀感めいた原始的の唄だらう。/中略/あの泥田の中に労作している農民の友とならうし、またその中に詩を見出す詩人は、少なくも図書館の黴の中に詩を見出す詩人よりも優っている。よしそれが傍観者であらうとも、自然はその詩人を祝福する。/後略/∨*9『詩と農民生活』(「第4編農村見聞七項」「蛙の唄」)
 この中で、省吾は蚊が多くて眠れなかった様子も記している。
 「大地舎」同人の泉浩郎(いずみこうろう)のことを『詩の農村を語る』(「村落の詩想」(自詩自釋)「一、巨像のやように」)の中では以下のように記しているが、それによると省吾は昭和三年八月にも訪れているようである。
∧筑波山下の真壁郡紫尾村に、若き詩人泉浩郎君が居る。詩集「曠野の彼方をゆく者」「大地の展望」の著者であり、同村の地主であり、全縣下で最も若い村長さんでもあった。/中略/その家は廣々とした田圃に面した豪家であった。/後略/∨*10『詩の農村を語る』

 『日本詩人』六月号は「新詩人号」として発行されている。これは「詩話會賞を投じて匿れたる秀才詩人の投稿を募り全誌を解放」して新人詩人の発掘を目的として行われたものであったが、該当作がなかったようである。投稿数は二千七百二十一篇で選者は川路柳虹、白鳥省吾、千家元麿、萩原朔太郎、佐藤惣之助、福田正夫であった。(『明治大正詩選全』) 
 省吾は『日本詩人』七月号に「星を裸身に浴びて」を発表しているが、これは*11詩集『野茨の道』に収録されている。七月十五日に「大正十三年の詩壇」を書いているが、これは*12『詩の創作と鑑賞』に収録されている。
 七月二十五日、長野県北佐久郡平根村に胡桃沢達吉を訪ねている。「白鳥省吾年譜」には「七月二十五日、長野県北佐久郡平根村に胡桃沢達吉(古沢虎吉)を訪ねて共に小諸、草津 、松原湖、梓川上流、別所、長野を周遊、八月四日帰京。」とある。この時の様子は『人生茶談』「丙午の女」と題した中に記されている。佐藤惣之助の懐古談でもある。
∧丙午の女は男を殺すという説、迷信であることに相違がなく、たまたま八百屋お七が丙午の女だったということに原因しているという説がある。/そういうことを別にして、詩人の佐藤惣之助は女弟子の丙午の女の家で急死した。/大正十三年の夏に私の、詩誌「地上楽園」に詩を書いていた北信の古沢虎吉の家に一週間ほど遊びにゆき、共に小諸の懐古園(藤村詩碑のある、千曲川のほとりの城跡)や草津 、別所温泉など周遊した時、古沢の従妹である長野のその女(田川省)の家に立ち寄ったのであるが、まだ女学生で、風呂を沸かしたり、白玉をこしらえたり甲斐々々しく働いていた。/中略/ 古沢の家は北佐久きっての大地主であるが、それと同じ位のやはり一門の大地主に田川は嫁入りしたということをきいた。その大地主は家督にはあまり進学させない家憲で、その夫も小学校卒業だけの学歴であった。極端な勤倹貯蓄の歌風であったので、長野の女専まで出た彼女と家風の合いようもなく数年にして不縁となって実家に帰っていた。「虎吉さんが白鳥先生についているなら、私はもっと気のきいた先生に詩を習うわ」/と言って彼女は詩誌「詩の家」に入門した。彼女が外の先生に入門していたら、無論、佐藤はどこか別の場所で別な死に方をしたであろうし、彼女も全く別な経験をしたであろう。/中略/大いに内助の功のあった永い間の糟糠の妻を失し、萩原朔太郎の妹と結婚した。朔太郎の姉妹は皆美人で、佐藤夫人となった周子さんも福田正夫に言わせると、「銀座のカフエーにもあれ位の美人がいないよ」/ということであった。/中略/
 萩原朔太郎の死んだ時、/「何しろ、男手は僕一人だから・・・・・」/告別式も何から何までよく世話し疲れきったように見えた。/そして萩原の追悼会をそのうちやろうと言っていたが、数日後に電話で「佐藤」という取次ぎなので電話口に出て見ると、それは「佐藤から」ではなくして、佐藤の死亡の通知の電話であった。/彼の死は昭和十七年五月十七日であり、彼が往復に寸暇を見て立ち寄っていた女弟子田川省の家でであった。苦しいと言って、片手で数回、心臓を煽ぐようにして、手当の仕様もなく、数分にして絶命したとのことである。/後略/∨*13『人生茶談』
 同じ『人生茶談』に別所温泉の「福渡戸の和泉屋の若主人泉漾太郎」のことが記されているが、胡桃沢達吉同様、「大地舎」同人の一人でもある。

 『日本詩人』八月号は福田正夫の編集となっている。「詩人の印象・その二」は萩原朔太郎が特集されている。これには室生犀星の「萩原と私」、谷崎潤一郎の「萩原君の印象」、多田不二の「朔太郎の印象二三」、大野勇次の「むしろ独逸風」が掲載されている。興味が引かれたのは、勝承夫(よしお・宵島俊吉)が『日本詩集』と『日本詩人』(六月号「新詩人号」)の「月評」を「批判と主張」と題して書いていることである。勝承夫はそれらの詩人の作品を批評した後、
∧次は自分のことで少し書きたい。それは昨年のあの騒優事件で僕は五十日も投獄されたりしたがその事件がやっと四五日前に片付いた、そのことはどの位僕を軽快にし又一面落ち着かせてくれたかしれない。今更ながら僕ごときもののためにも大いなる同情と友愛を示された多くの先輩知友に對して心から感謝せずにはいられない。思へば、僕は色んな方面で常に反抗つづけてきた。大正十年以降詩話會から勘当されていたのもそう云ふ僕の性質に多くの理由があった。/それにしても『日本詩集』などに書いて真面目な詩人たちく(と)肩を並べるのがいやだった。/後略/∨*19『日本詩人』大正十三年八月号
 と書いていることである。
 これを読むと先に『白鳥省吾物語・上巻』「詩話會分裂」の項で、「井上康文が脱会していない」と書いたのは早計であった。井上康文は大正八年の『日本詩集』に、勝承夫は大正九年の『日本詩集』に新人として登場しているが、翌十年の分裂騒ぎの際に「新詩人会」を組織した首謀者として「勘当」されていたらしいことが分かった。それが何時復会したのかは分からないが、『日本詩人』大正十四年一月号「現代詩人号」には両名とも詩を発表している。

 九月、省吾の評論集『現代詩の研究』が「新潮社」より出版されている。そのはしがきを紹介する。
∧現詩壇の人々はたいてい明治四十年以後にその獨自の詩風を示した人々であり、私も其の前後から詩を作りだしたのである。そこで私はその頃を中心として今日までの詩壇の推移と運動といふものを記録しやうとといふ希望は豫て念頭を去らなかった。/ともかく、最近三十年間程の詩壇の各々の詩風を研究することは、詩の本質を明らかにすることであり、自分の経路を明らかにすることであり、かねて、詩作者に何等かの参考とならうと思ふものである。
 私が寂しい東北の田舎町で、全くの孤獨で詩を作り始めたのは明治三十九年で十七歳の春であった。そして今日まで間断なく詩作を続けて来ているが、その周圍であるところの詩壇といふものは、これでいくらか明確にし得たと思ふ。
 新体詩の創始以来、大きいエポックを画した自由詩運動の前後の頃の事は、四十一年の秋(十九歳)上京以来、約半ヶ年ほど毎日、上野の図書館に通って詩に関する書籍雑誌等を渉猟し、傍ら愛誦の詩句を筆写したものも多い。今になってそれが大いに役立った。しかし、まだ材料の不足の分は最近、数日間、同じ図書館に通って調べた。また民衆詩運動の頃の事は、私もその一人として記述して置く必要を感じたのである。
 本書は現代の新しい詩の潮流を主として述べたので、他の有力な詩人で本書中に漏れたのも二三ある。また新進の詩人は凡て省いた。これらは追って増補する機會もあらう。なほ詩に就いての諸問題は次から次と無限であることを感ずるし、詩の分野として散文詩、劇詩、童謡、民謡等もあるが、本質的な現代の新しい詩の研究はこれで十分だと思ふ。一先ずこれで此の小冊子の一段落をつけて置く。/大正十三年七月/東京市外雑司ヶ谷にて/白鳥省吾∨*18『現代詩の研究』

 その内容は「第一編・詩を作る基礎」「第二編・自由詩運動の前後」「第三編・民衆詩の起源と発達」「第四編・新しき詩の要素」「第五編・象徴詩の本質」である。附録として「参考図書一覧」が掲載されている。この『現代詩の研究』に福士幸次郎が『日本詩人』大正十三年十一月号誌上にて「白鳥省吾君に一言する」を書いて反論していたことは先に紹介した。
 『日本詩人』九月号は「トラウベル追悼号」となっている。これには長沼重隆の「トラウベルの種々相」白鳥省吾の「トラウベルの詩に就いて」福田正夫の「トラウベルに捧ぐ、生の頌歌」等が掲載されている。
 省吾は十月三日から十一日まで伊那地方に「大沢重夫、細江忠逸の諸氏の招きにより」公演に出かけている。(「白鳥省吾年譜」)この時の模様は後の随筆集『旅情カバン』に「竜峡小唄と思い出」と題して記されている。
∧私は足跡天下に普ねしというほどでもないが、可なり日本各地を歩いているが、なかなか同一の土地に二度ゆくということは少ない。然るにそのうちで長野県と新潟県とは詩の門弟の多い関係上五、六回も行っているのが珍しい。竜峡小唄もそうした関係で生まれたのである。/思い出を繰ると、私が始(初)めて伊那地方に行ったのは大正十三年の秋で、上片桐村、飯田市、天竜峡、竜岡村、大島村、赤穂村などで講演し、その前年頃、一世を聳動した共産党事件を主題として調査し、報徳精神との相克を描いた長編叙事詩「青春の地へ」を書いた。再遊は大正十四年三月で、伊那町、山本村、大島村、松尾村、飯田市で講演した。三度目に行ったのは翌十五年十一月で、高遠町、三義村、伊那町に赴いた。/これらの會遊の見聞を素材として竜峡小唄が生まれたのである。∨*14『旅情カバン』「竜峡小唄と思い出」

 十月十九日「築地小劇場」にて詩話会講演で「詩人の日」が催されている。『文人今昔』「与謝野晶子」の項より紹介する。
∧与謝野寛・晶子の二人は、福士幸次郎氏の「展望」の発起人だったし、私の「大地の愛」にも出席し、大正八、九年頃は気軽に会合にも出られたこともあり、私のところにも伊上凡骨の木版による酉年にちなむものや、水車に梅の花の美しい賀状が寛氏の直筆と思われる宛名で来ている。/大正十三年十月十九日、(日曜)築地小劇場において、その主催で、詩人の自作朗読による「詩人の日」というのが催された。島崎藤村、与謝野寛、晶子、北原白秋、川路柳虹、野口雨情、福田正夫、佐藤惣之助、竹友藻風の諸氏と私などであった。音楽家として山田耕筰氏や萩野綾子さんなども出た。/後略/∨*15『文人今昔』
 この時の写真が*16『現代詩鑑賞講座・第十二巻』「明治大正昭和詩史」「大正詩・七・民衆詩派の興隆」(安西均著)の中に載っている。それには「詩話会主催の詩の朗読会、前列右より中田のぶ子、与謝野晶子、深尾須磨子、萩野綾子、後列右より尾崎喜八、川路柳虹、佐藤惣之助、福田正夫、与謝野寛、白鳥省吾、山田耕筰、島崎藤村、富田砕花、野口雨情、小山内薫、北村喜八」とある。
 この写真の中には北原白秋、竹友藻風の名は見えないが、省吾と白秋は論争は論争として詩の普及に競っていたものと思われる。
 十一月六日から八日にかけて『朝日新聞』に「農民の生活と文學」が掲載されている。

                                                                 †

 この時期の省吾の心境示すものに「大正十三年の詩壇」がある。『詩の創作と鑑賞』「第三編最近詩壇の諸問題」の中より抜粋して紹介する。
∧現在の詩壇は、その存在を確認する為には、まだまだ二重の戦ひをしなければならぬ行程にある。一つは小説中心の吾が文壇といふものに對して、他の一つは一般の社會に對して、先ず啓蒙の第一歩から進まねばならない。/中略/詩が盛んになったと言はれるやうになったのは、大正八年頃からであって、爾来五六年の日月を経過して、詩壇もいくらかの進展を見せているが、今のやうな状態では仕方がない。/中略/詩人と小説家との関係は、諸外國に比して吾が國では特殊である。現在の小説家は自分たちと環境を同じくする詩人と(の)作物を読んでいないばかりでなく、いったいに「詩」といふものを知らなさ過ぎる。「日本詩人」五月号で今の小説家、評論家に対して「現代詩人の作をお讀みですか」「いかなる詩人のお作を愛好されますか」等の回答を求めた時、全く讀まない人が大部分を占めていたが、/中略/そして出来上がったものは、新聞雑誌のカット代りに使用される。職業化された文壇に於て、こんな割の合わない仕事はない。
 詩に対して、雑誌はもっと積極的にその紙面を詩のために解放すべきものだ。正しい文化のためにも、詩をもっと目立つやうに待遇すべきである。/中略/
 童謡、民謡が賑やかになったところでそれで詩が盛んになったと楽観出来るものでない。寧ろ詩といふものが、かの少女詩と言はれる程度の薄っぺらな甘いものに解しているものが大部分なのだ。/中略/タゴールが来朝しても、はしがき風の紹介が四五の新聞に出た程度のもので、一般の詩壇は殆ど没交渉であった。/中略/
 殊に昨年の震災以来、これといふめぼしい詩集は幾らも出ていない。出版界がいち早く復興しても余り儲からない詩集の出版は最先に制限される。今年度のものとして「日本詩集」「ヨネノグチ代表詩」「西條八十童謡集」「あしの葉」新進のものでは「火山灰」「高層雲の下」「原始と文明の中間に怯える者」「萬物昇天」「火星」「味爽花」等数巻を数へることが出来るが、今年前半期の詩壇は何となく寂しい感じがした。詩の雑誌として「詩聖」「詩と音楽」が休刊した昨今では、「日本詩人」だけとなった。/中略/
 今年度の「日本詩集」に推薦された新人だけでも十二名を加へているのを見れば、飛躍的な独創といふものは希にしか出ないものであらうから、ともかく詩壇が新人の方面でも相当に賑やかなものと言へやう。新人の輩出は枚挙に遑あらずだが、その中でも昨年四月に「散華集」を出し、今年三月に「火山灰」を出した三石勝五郎の素朴な閃めきを捉へた詩篇、昨年七月に「こがね蟲」を出した金子光晴の詞藻上の耽美主義、今年六月に第二詩集「高層雲の下」を出した尾崎喜八の清浄な健康性の詩、昨年三月に「鷗」を出した国木田虎雄の冷徹した詩風、一昨年の七月に「憂鬱なる風景」を出した鈴木信治や、昨年の九月に「畑の午餐」を出した松村又一の田園詩などはその尤もなるものであらう。殊にも詩壇に於けるプロレタリヤ意識は時代思潮につれてその鋭い爆発性を端的な詩に表はさうとして、詩壇の最新派の如く、在来の労働詩篇といふよりもダダイスト風な詩として表はれた。萩原恭次郎の今年度の「日本詩集」所載の詩の如きはそれである。これに類したものが他の人にもあるから言ふが、私はかうした詩を全くは否定しないが、感動の絶対性を示した鋭い線であってもらひたい。かうした詩は真贋との距離はほんの背中合わせをしている。/中略/
 プロレタリア意識の新人の集まりとして「左翼戦線」といふ年刊詩集も最近出た。が標榜するほどの新しさも奇抜さもない。その大半は陶山、石川、角田等、他奇なき新進詩人である。その中で野村吉哉のものに特色がある。
 既成文壇と呼び既成詩壇と呼ばれる。其詩壇は文壇ほど行き詰まってはいまい。詩壇の革新といふ威勢のいゝことも甚だ結構なことである。ただそれが詩によって実質を示さずに、對詩壇的にのみ焦燥するところに最近の新進
の弱点がある。/後略/∨*17「大正十三年の詩壇」

 『日本詩人』は大正十二年十二月号から十四年十月号まで川路柳虹と白鳥省吾が編輯に当たったことになっているが、省吾の入院、川路柳虹の都合等から、福田正夫(大正十三年四、七、八、九月号他)、百田宗治(大正十四年十月号)が代わって編集したことがあったようである。この文に記されている「ダダイスト」「プロレタリア」詩人達の活発な活動が始まっていた。十一月、福田正夫の長編叙事詩『嘆きの孔雀』が「松竹キネマ」に於いて映画化されヒットしているが、先に紹介した省吾の著書『文人今昔』その他のに紹介されている。

 十一月二十一日の夜、萩原恭次郎、岡本潤、赤松月船が酒気を帯びて省吾を訪ねていることが、「白鳥省吾年譜」に記されている。赤松月船が省吾を訪ねたのは、川路柳虹の言を省吾の言と勘違いした事を詫びるためであったらしいが、これは省吾のみならず詩話会委員に対する不満が、詩話会の一般会員の中でくすぶっていたことによるものと思われる。
 この時の事情は大正十五年の『地上楽園』八月号「今年度の日本詩集ー芳賀融君の質問に答ふー」に記されているので後述する。こうして「詩話会」の新詩人たちが内紛しはじめていた頃、十二月八日、山村暮鳥が常陸磯濱にて逝去している。

* 参考引用資料 (資料提供・白鳥省吾記念館・他)
*1 随筆集『土の藝術を語る』白鳥省吾著(大正十四年二月二十日・聚英閣発行)
*2『辰野金吾伝』白鳥省吾著(大正十五年二月一日・辰野葛西事務所発行)
*3『明治建築をつくった人びとーコンドル先生と四人の弟子ー』(大成建設株式会社制作ビデオ)
*4「朝夕の窓からー入院生活二ヶ月間の見聞録ー」白鳥省吾著(『随筆・世間への觸角』昭和十一年六月五日・東宛書房発行)
*5『長編叙事詩・結婚の歌』白鳥省吾著(昭和十一年二月十五日・東宛書房発行)
*6「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』白鳥省吾著・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)
*7『童謡読本』(大正十三年三月一巻・二巻、四月三巻、六月四巻・五巻・「東京出版社」出版)
*8『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』和田英子著(平成十年十月十日・編集工房ノア発行)
*9『詩と農民生活』(「第4編農村見聞七項」「蛙の唄」)
*10『詩の農村を語る』白鳥省吾著(昭和十二年三月五日・佐藤新興生活館発行)
*11 詩集『野茨の道』白鳥省吾著(大正十五年五月十五日・大地舎発行)
*12『詩の創作と鑑賞』白鳥省吾著(大正十五年十月十五日・金星堂発行)
*13『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)
*14 随筆集『旅情カバン』白鳥省吾著(昭和二十九年六月二十日・明玄書房発行)
*15『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
*16「大正詩史・七・民衆詩派の興隆」安西均著(『現代詩鑑賞講座・第十二巻』「明治大正昭和詩史」伊藤信吉・井上靖・野田宇  太郎・村野四郎・吉田精一編・昭和四十四年十月三十日・角川書店発行)
*17「大正十三年の詩壇」白鳥省吾著(『詩の創作と鑑賞』大正十五年十月十五日・金星堂発行)
*18『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)
*19『日本詩人』大正十三年八月号(詩話會編・大正十二年十月一日・新潮社発行)
*20『地上楽園』大正十五年八月号「今年度の日本詩集−芳賀融君の質問に答ふ−」(大正十五年八月一日・大地舎発行)
* 『青い階段をのぼる詩人たち』菊地康雄著(昭和四十年十二月十五日・青銅社発行)
* 「変革点の詩人たち(下)」伊藤信吉著(『文学』1966・7・VOL34・昭和四十一年七月十日・岩波書店発行)
* 『文学』1985・1・VOL53∧プロレタリア詩の時代∨(昭和六十年一月十日・岩波書店発行)
* 『福田正夫ー追想と資料ー』(一九七二年三月二十六日・小田原市立図書館編発行)
 

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十五年一月十三日発行

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最終更新日: 2003/01/13