白鳥省吾物語 第二部 会報十一号
(平成十二年九月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行
一、対立する新進詩人たち 大正四年〜六年
(一)、出会い 大正四年
大正四年(1918年)、前年の*1世界名著物語第U編『シルレル物語』の影響か、第一詩集『世界の一人』が好感を持って、詩壇に認められたことによってか、省吾は雑誌『新少年』の編輯主任となっていた。「新少年社」は*7「白鳥省吾年譜」に<大正三年十一月二舎書房創刊の「新少年」の編輯主任となる>と記されている。三月一日に、白鳥天葉の筆名で、*8少年詩集『天葉詩集』を定価三十銭で、「新少年社」より出版している。同年四月童話、新少年文庫『槍の王様』を定価二十銭で出版している。前年の二月一日には『世界の一人』の再版を「新少年社」より出版している(『天葉詩集』広告欄)。*3『地上楽園』「第一詩集の思い出」より紹介する。
<私の第一詩集『世界の一人』は大正三年六月二十二日発行で、集めるところ詩三十三篇と散文詩十八篇で、明治四十五年四月から大正三年四月まで満二ヶ年間の作品です。/中略/『世界の一人』は出版当時百部を売り、後に奥付だけ代えて再版として出して百部だけ売れ、合計二百部だけ売れたことになるのです。/後略/>*3『地上楽園』(白鳥省吾編輯・昭和二年八月号・大地舎発行)
*写真は*1世界名著物語第二編『シルレル物語』白鳥省吾著
『世界の一人』を出版したことによって、省吾は良きにつけ悪しきにつけ、日本の詩壇を背負うことになる民衆派の詩人達に、前年からこの年にかけて出会っている。その中の一人富田砕花は、省吾の第一詩集に好意的な推薦文を『早稲田文學』に書いてくれていた。これが機縁でもあったのか、終生の親友と呼ぶ仲になる。その富田砕花は省吾と同年の明治二十三年十一月十五日に岩手県盛岡市に生まれている。今の学制で言うと一年後輩となる。本名は戒次郎、日大植民科の卒業で、この年の四月処女詩集『末日頌』(大正四年四・岡村書店発行)を出版している。
芦屋市のホームページでは以下のように紹介して居る。また「富田砕花賞」の紹介もしている。
<上京し、十八歳で与謝野鉄幹、晶子主宰の新詩社に参加。筆名砕花で「明星」に短歌を発表した。石川啄木に思想的な影響を受け、明治四十五年(1912)五月、啄木の死を悼み、歌誌「曠野」に「民衆の中に行く」"GoingToPeople”というエッセイを発表している。歌集「悲しき愛」を大正元年に出版、その前後からカーペンター、トロウベル、ホイットマンを日本に紹介。訳詩集カーペンター「民主主義の方へ」(大正五年)、訳詩集ホイットマン「草の葉」(大正八年)、エッセイ「解放の芸術」(大正十一年)等を出版した。/中略/大正のはじめ、病気治療のため芦屋に転地。田島マチを知り,大正九年 に結婚。以後芦屋に定住した。詩作のかたわら全国各地を旅し、また多くの校歌、市町歌を作詞した。その多彩な業績から"兵庫県文化の父"ともよばれた。昭和二十三年(1948)第一回兵庫県文化賞を受賞。著作は上記のほか、詩集「末日頌」(大正4年)、「地の子」(大正八年)、「「時代」の手」 (大正十一年)、「登高行」(大正十三年)、「手招く者」(大正十五年)、「歌風土記兵庫県」(昭和二十五年)、「ひこばえのうた」(昭和四十五年)、「兵庫讃歌」(昭和四十六年) 、「視差錯落」(昭和五十年)などがある。昭和五十九年(1984)十月十七日九十三歳で長逝>芦屋市のホームページより抜粋。
白鳥省吾と伊藤信吉の、*4「対談・民衆詩派をめぐって」には以下のように紹介している。
<伊藤 富田砕花は啄木の友人なんですね。
白鳥 富田君は歌人なんです。『悲しき愛』という立派な歌集を出していて、若山牧水なんかとも友達で、そうとう歌壇では名が売れていたわけです。詩を作るようになったというのは、むしろ私なんかには驚きなくらいでした。
伊藤 そしてクリスチャンですね。
白鳥 富田君は盛岡生まれということになっていますけれども、どういう家庭に生まれたかということを一度もいったことはないんです。しかし非常にコスモポリタン風の、旅行好きな、そうしてまただれにでも愛されるようなところがあった人なんですよ。彼は、東京にいたある熱烈なるクリスチャン一家の援助を受けて生活していたんですね。それで彼は地方性もなければ、コスモポリタン風なんですね。そうして社会主義というものに非常に興味をもっていた、キリスト教から入る社会主義でしょうな。>*4「対談・民衆詩派をめぐって」白鳥省吾・伊藤信吉(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)
*5『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象・富田砕花氏」に、省吾は「富田君のこと」と題して以下のように記している。
<大正三年夏に私が第一詩集「世界の一人」を出したときに、当時下渋谷の齋田家に寄宿していた富田君を訪ねた。その以前にも挨拶だけは交はしたことはあったが、親しく話をしたのは、その時が始めてであったやうに記憶する。/富田君はその頃、短歌から詩に移って、第一詩集の「末日頌」がもう校了になったが、本屋との行き違ひからまだ出版にならないといふ風なことを話して、校正刷りを見せたりした。歌人としての富田砕花は「創作」「詩歌」などで、有名であったが、詩人としての名は大正以後であらう。/後略/>*5「富田君のこと」(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象・富田砕花氏」・新潮社発行)
この時期省吾は富田砕花に多くの詩人を紹介されていたようである。
<彼の人格は玉のごとく、極めて思いやりのある男である。相手の立場をよく考えているから、人には迷惑をかけたこともなく、世を楽しく生きている。彼の青春時代の旅行は国内の各地と満鮮に亘っていて、たいして金を浪費せず(そう持っても居ない)良き友を訪ねて、友にも喜ばれ、友のひきとめるままにそこへ寄寓することも適当にやった。>*6『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
とは親友、富田砕花を*6『文人今昔』に省吾が書き残していることである。民衆派の提唱者、福田正夫との出会いもこの年の四月であった。*7「白鳥省吾年譜」にも紹介されている。
<四月、高田氏の宅にて福田正夫を知る。種々の新聞雑誌に執筆。七月「立体派の詩」「詩歌」。九月「三木露風氏の幻の田園を読む」時事新報。十一月「開放されたる詩」讀賣新聞。>*7「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)
省吾は富田砕花の第一詩集『末日頌』出版のお祝いにでも行ったのか、彼を訪ねている。後にこの時の出会いを『文人今昔』に書いている。
<大正四年、その頃の渋谷区桜ヶ丘は閑静な郊外風の住宅地で、富田砕花の寄寓していた斎田家の真向かいが谷間をへだてて岩谷家の大邸宅で、塀に真っ赤な大天狗の面があり、たしか、ピンヘッドとか言う煙草を売り出していた。斎田家の二階に通されると、隣室からオルガンが聞こえ、やがて富田君が一人の学生を私に紹介して、「これが福田という高等師範の学生で、詩を近頃書きだしている」と紹介した。>*6 『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
富田砕花の寄宿していた家を「白鳥省吾年譜」では高田家と記し、『文人今昔』では斎田家と記しているが、これは、斎田家の方が正しいようである。金子光晴は*8『金子光晴全集・第十巻』「大正末期の諸傾向」、「僕が詩を作り始めた頃」「ポール・フォールの影響」「民衆詩派の横行」の中に、以下のように記している。
<川路柳虹は、僕のきいたこともない作家を知っていた。僕が会った二人目の詩人は、富田砕花であった。/富田はすでに大家だったが、飄々とした性格で、ひまがあれば旅行をしていて、うらやましかった。もっとうらやましかったことは、なんでも鶴見の方に斎田という恋人があって、そこの家をじぶんの家のようにして住んでいた。斎田にはもう一人の青年がいて、ややこしいような空気だった。その青年が中川一政だった。/後略/>*8「大正末期の諸傾向」(『金子光晴全集・第十巻』中央公論社・昭和五十一年一月二十日発行)
この時期の様子は和田英子著*9『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』に紹介されている。金子光晴が疑った富田砕花と中川一政の関係も記されている。
<残された砕花の本類の中に、砕花が少年の頃に直接購入したと推察される聖書、賛美歌集が数冊見出された。砕花が明治の終わり頃から大正のはじめにかけて庇護を受けた斎田家は熱心なクリスチャンであったので、砕花の宗教観はキリスト教に傾いたのであろう。>*9『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』和田英子著(平成十年十月十日・編集工房ノア発行)
同誌では「斎田武三郎氏 この人は小生の青年期の庇護者で小著第一詩集(大正4年)を献呈した在阪の事業家で、基督教の篤信家でしたが、東京の假寓を解放?して基督の説教所用に充てるほどの篤志家でした。/後略/」と、富田砕花の手紙の下書きを紹介している。この東京渋谷にあった斎田家は「シオンの家」と呼ばれていたらしい。そこには、吉井勇、森戸辰男、中川一政、金子光晴、福田正夫、白鳥省吾他の人々が訪ねている。つづいて紹介する。
<渋谷の羽沢にあったシオンの家には福田正夫も逗留した。社会学者の森戸辰男や砕花の終生の友人ジャーナリストの嘉治隆一ともシオンの家ではじめて会ったようだ、いわば、梁山泊の趣きの場所であった。/中略/そこへ中川一政がやって来て食客の食客として過ごした。絵の具を知人から貰い、中川一政の絵の出発点となったという。/後略/>*9『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』和田英子著(平成十年十月十日・編集工房ノア発行)
中川一政は、富田砕花の食客という身分で、「シオンの家」に転がり込んだというのが、真相のようである。中川一政は終生富田砕花の恩を忘れなかったようである。吉井勇とは、斎田武三郎が勇の生家、吉井伯爵家の財産管理を任されていた関係で古くからの知己であった。斎田家が伝道の関係で兵庫県芦屋に移転すると、富田砕花も芦屋を訪れるようになり、そこで田島マチを知り、大正九年に結婚している。
福田正夫は明治二十六年三月二十六日に神奈川県に生まれている。生い立ちはかなり複雑なようである。彼については松永伍一の*9『日本農民詩史・上巻』に経歴が紹介されている。手元にある最新資料としては*10『福田正夫・追想と資料』がある。これは「小田原市立図書館編」で昭和四十七年三月二十六日に非売品として発行されている。これに省吾は「福田正夫君の追憶」を、「ホイットマンの詩蹟巡礼」の旅から帰って直ぐに寄せている。先に紹介した『文人今昔』には次のような思い出話しが書き残されている。
<或る夏のこと、彼を訪ねることを富田君が提唱して、二人とも片道の汽車賃だけで出かけたところ、彼はあいにく上京して留守だったので、二人は甚だしく失望した。それでも座敷にあがって、寺のおかみさんに南瓜の煮つけで昼食などをご馳走になって、やや元気づいた富田君は置き手紙に、「今日、白鳥君と二人で、君の生活している村も見たいと思ってやって来たが、君が居ないのでがっかりした。それに困ったことは二人とも片道だけでやって来たことだ。今日は空模様も怪しいので、これから二人で東京までいそいで歩いて帰る・・・。」ということを書簡箋に書いて、封筒を探そうと机の抽出しをぬいたところ、そこに燦然と数枚の銀貨があったのである。もちろんおいらの仲だから有難く頂戴して、徒歩もせずに、乗車したが、間もなく電光雷鳴、驟雨沛然しゅううはいぜんとして車軸を流すとはこのことであった。二人は雨後の爽やかな東京に下車、残りの金でバナナの大房など抱えて斎田家に帰ったところ、令嬢は「ついさっきまで福田さんが来て待って居ましたのよ」とのことだった。彼の詩はあまりに平明なのでザアマスやカマトト風の面白味はない。彼こそは明朗率直な海の詩人としてその領域を持つ。/中略/彼の長編叙事詩「嘆きの孔雀」が栗島すみ子の主演で成功し、その映画と講演の会が催され、帰途百キロを自動車で吉野川に添うて池田に出た。佐藤惣之助君も一緒であった。>*6『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
この斎田家の令嬢の女学校友達に帝大一年生の芥川竜之介が初恋をして、彼女の実家の千葉県一の宮に訪ねたりしたらしい。そして相手の女性の結婚式の前日に、富田砕花のところで会見したらしい。この女性は芥川を嫌っていたらしく、ヒコポンデリックになり、不眠症になったようである。それでも芥川はなかなかこの女性を諦めきれなかった様子が『文人今昔』には紹介されている。省吾は後に室生犀星を通じて芥川竜之介と「句会などで一緒になり、酒席を田端の自笑軒や竹むらで二三回」同席しているらしい。この斎田家を富田砕花は翌年には出ていたようである。
七月、柳澤健が『文章世界』に「輓近の詩壇を論ず」を、富田砕花が『早稲田文學』にカアペンターの訳文「デモクラシイの方へ」を掲載されていることが、*11『明治大正詩選・全』の「詩壇年表」に紹介されている。省吾はこの時期、後に民衆派と呼ばれるもう一人の詩人百田宗治から、手紙を貰っているらしい。
<百田宗治君は最初は楓花と号して和歌を作っていたそうだが、私はその頃は知らない。私と大阪・東京間で文通をはじめたのは、彼の第一詩集『最初の一人』(大正四年六月版)の少し前からであり、やがて彼は上京し巣鴨に居を構えた。彼は大阪の下駄屋さんの息子だが中村しをりと言う資産家の未亡人に見込まれて一緒になったという。>*6『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
と『文人今昔』に記している。百田宗治が上京するのは大正八年の春であるから、このころの省吾とのやりとりはもっぱら手紙によるものらしい。
百田宗次は、この年の六月に第一詩集『最初の一人』を大阪から出版している。そして雑誌『表現』をこれも大阪から発刊している。百田宗治著*12『爐邊詩話』内の「自伝的に」より紹介する。
<私が詩を書きはじめたのは、厳密には十七八歳(明治の末、大正のはじめ)ごろではなかったかと思う。そのまへには主に短歌を作り、はじめのうちは新詩社(当時与謝野寛氏夫妻を中心に組織されていた歌の結社)風の歌をつくっていたが、後に若山牧水、富田砕花などと知り合うようになってからは、尾上柴舟氏の作品などに傾倒するようになった。/中略/私の最初の詩集は『夜』という題で、明治四十五年の七月に一友人の手で出版された。/中略/私の純粋な意味での第一詩集とも呼ぶべき『最初の一人』(大正四年自費出版)に/中略/
私が独力で『表現』というザラ紙菊判十六項の雑誌を出しはじめたのはこの詩集を出して間もなくで、『表現』では私は最初批評を遣るつもりであった。表紙にも「文明批評云々」というような大層なサブタイトルをつけて出したくらいで、詩はほんのつけたりぐらいの意味で書いたのであった。それがいつの間にやら詩の雑誌になり、福士幸次郎君や、富田砕花君なども執筆するようになった。福士幸次郎君が終始批評的にではあったが、その後民衆詩などと呼ばれた私たちの詩の有力なパートナーであったのはその頃からのことである。当時の『白樺』からも柳宗悦君などが私のこの小さい仕事に好意を持って寄稿してくれ、また『白樺』とは交換広告をやったりした。さきにも書いた通り、ザラ紙十六項にハトロン紙の表紙をつけた粗末な活版刷りの雑誌で、定価は七銭であった。>*12「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)
*写真は百田宗次の雑誌『表現』・資料提供「白鳥省吾記念館」
『表現』は省吾の*13『現代詩の研究』中の「民衆詩の発達と起源」にも紹介されている。
<「表現」は百田宗治編輯で大正四年七月創刊、菊判十六項であった。必ずしも月刊でなく、また一人雑誌とも称すべきものであるが、富田砕花、福田正夫、白鳥省吾も時として執筆した。大正七年頃まで続いた。通巻三十冊であった。>*13『現代詩の研究』(大正十三年九月三日・新潮社発行)
九月には加藤一夫の『科学と文芸』が創刊されている。同じく 省吾の『現代詩の研究』中の「民衆詩の発達と起源」より紹介する。
<「科學と文藝」は加藤一夫編輯で、大正四年九月の創刊、四、六倍版であったが、詩壇との直接な交渉を持つようになったのは、洛陽堂の発行に移って菊判百三十餘頁になった大正七年以後である。その頃加藤一夫、富田砕花、百田宗治、白鳥省吾が詩や評論を発表した。>*13『現代詩の研究』(大正十三年九月三日・新潮社発行)
続いて、稲垣達郎著*14「大正期雑誌の概観・上」より紹介する。
<この年創刊されたもので、ちょっと注意されるのは、九月、天弦堂発行・加藤一夫編輯の『科学と文芸』であろう。科学者の論文にあわせて人道主義・理想主義その他の思想家・芸術家のものをかなり多方面に集めている。のち、交響社・洛陽堂などと発行所が移り、一時『近代思潮』と改題したこともあるらしいが、全過程をつかめない。洛陽堂時代はすでに一九一八年(大正7)へ降りるのだが、ここらへ来ると民衆的・社会的色調が濃くなって来ている。>*14「大正期雑誌の概観・上」稲垣達郎著(『文學』1957・2・VOL.25・昭和三十二年二月十日岩波書店発行)
これで、後に民衆派と呼ばれる詩人達が出そろったわけである。この年省吾は前掲した緒論の外に「歩みの上に」を『詩歌』第五巻第三号に、「永遠の祈念」を同誌第五巻第六号に、第五巻第八号には「ボードレールに対するポーの影響」、第五巻第十一号には「輝く裸体」を発表している。また「危うい哉象徴詩」を「時事新報」(九月二日)に掲載されている。乙骨明夫の*15「白鳥省吾論・民衆派のころ」によれば、この他に『創造』の四月号に「最近の詩壇」が掲載されているという、それを紹介する。
<僕は今の詩壇に対して何等の価値をも認めなければ従って期待をも持って居ません。好奇心を本意として詩を玩具あつかひにする人に白秋、暮鳥、犀星、朔太郎の諸氏があり、空虚な象徴や淡淡しいセンチメントを勿体ぶって現している人に、露風、柳虹等の諸氏が居る。>*15「最近の詩壇」(「白鳥省吾論・「民衆派のころ」乙骨明夫著『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)
省吾の詩文評論はこの大正四年から活発になっている。これは第一詩集を出版して、詩人としての道を歩むことに自信が出来てきたからだと思われる。
先に福田正夫との出会いのところで紹介した「立体派の詩」、「三木露風氏の幻の田園を読む」「開放されたる詩」は後に出版された『詩に徹する道』に収録されている。「立体派の詩」はマックスウェーバーの詩集の評論であり、「開放されたる詩」は高村光太郎の『道程』と福士幸次郎の『太陽の子』の評論である。また*16「開放されたる詩」は近年出版された『現代詩読本5・高村光太郎』に採録されているが、『詩に徹する道』収録と内容が同じである。以下に『詩に徹する道』より抜粋して紹介する。
<詩に表れたる自由な韻律、・・・それに対して今の詩人達はどう考えているのだろう。現代の凡ての詩を通じて、僕はその感動の源に根本的の疑問を持つものである。感動が明確に掴むものを掴んでいないから、彼らの説くリズムは何等個性的権威のないリズムであり、文字上の技巧に止まるのである。安直なる享楽的の作品、誇大に作成されたる根底のない病的傾向、歪んだ象徴の眼鏡を通して作られた膚淺なる象徴詩、それらの所産は只一つに帰する、即ち感動が絶対でないからである、感動の追求が足らないからである。/中略/
わが敬愛する詩人は、凡て人生に対する素朴と厳粛とを高調した人々である。彼らには何等の気取りもない、修飾もない。只感動に徹せんことを求めている。自分の有するものを無限に発露して行こうとする。/中略/インガァソルはトラウベルを評して「恐らく今後、小心に韻律を用いふる詩人にして、大詩人り得るものはないであろう。新時代の詩人は奔放なる形式を要求する」とまで言っている。凡てが革命的で清新な吾等の叫びを要求する現代に於いて、其の詩形に自由を求むるインガァソルの言は、あながち過言でないかも知れぬ。
わが詩壇で最近に於いて、此の自由なる形式を幾分か詩に表現したものは、高村光太郎氏の『道程』、福士幸次郎氏の『太陽の子』の二詩集である。/中略/現代に於いて自由な詩形が、如何に明らかに必然的に要求されているかは最早疑いを容れない。近代の詩人は多く人民の詩人である。民衆の詩人である、吾人はイエーツ、シモンズを思うと共に、ホイットマン、ヴェルハーレン、カァペンター、トラウベルに深い同感を禁じ得ない。/中略/『道程』と『太陽の子』は内容に於いて、必ずしも民衆的といふを得ないが、これまでの吾が詩壇の作物よりも、形式に於いて自由であり平明であることは、今後の詩壇にとって喜ばしい先駆をなすものと言い得る。自由詩のいい芽生えを語るものと認める。/後略/>*17『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)
これは「讀賣」に発表されたものと内容が一部異なっている。収録する際に手を加えているようである。当時「讀賣新聞」に発表されたと思われるものは、乙骨明夫の「白鳥省吾論・民衆派のころ」に紹介されてあるものと思われるが、それとは内容が一部異なっている。しかし注目されるのは、評論の中で用いている、人民とか民衆という言葉である。乙骨明夫はその「白鳥省吾論・民衆派のころ」において以下のようにしるしている。
<注目しなければならないのは、自由詩が民衆詩の言葉と結びつけられていることである。省吾は「民衆」ということばを、とりたてておおげさな身ぶりで使ったわけではない。「高貴めいた詩」に見られる「ディレッタンズム」に反抗した省吾が、平明な用語で平明な詩境をうたうことを願い、そこから生まれたことばを民衆のことばといったものであろうが、ともかく、民衆という語の登場は注目に価する。>*15「白鳥省吾論・「民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)
この年の秋、省吾は翌大正五年一月に出版される福田正夫の第一詩集『農民の言葉』の校正を手がけていた。*18詩集『大地の愛』にはこの時期(一九一五年の作品)の詩を「輝く裸體」と題して、二十一篇掲載されている。これらの試作品は未だ民衆詩からかけ離れた、象徴詩風のものが多い。この中より「地底の生」を紹介する。
地底の生
私は地の上の魔術を見た、
柔らかい氈(かも)のやうな地に萌える草、
白銀のやうに織り交し囀る小鳥の群、
風、雨、空、太陽、あらゆる賛嘆。
けれども未だ地の底に朽ちた
澤山の人間の魔術を見たことがない、
彼等は永久に地の埃と異るなきに至ったのか、
光溢るる蒼空と没交渉に朽ちて了ったのか。
だが私は地底の底の生の魔術と力とを感ずる。
地の上に広がり渡る微妙を鳴らしつつ
私はこれら無数の聲なき霊を踏んで歩いてい
る。
*18詩集『大地の愛』(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)
一方社会面を覗いてみると、ヨーロッパの労働運動を目の当たりにして帰国した、同郷の士東京帝大教授の吉野作造は、大正三年頃から「民衆的示威運動を論ず」等の評論を『中央公論』に発表していた。そして大正五年一月、『中央公論』に「憲法の本義を説いて其の有終の美を済すの途を論ず」を発表して、いよいよ大正デモクラシーに突入するのであった。これは日本の天皇制をそこなわずに、民主政治を行おうという「民本主義」思想であった。(*19『日本の歴史』23・大正デモクラシー)十二月、山村暮鳥の『聖三綾里玻璃』(人魚詩社発行)が出版されている。
敬称は省略させていただきました。
以上文責 駿馬
* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)
*1世界名著物語第二編『シルレル物語』白鳥省吾著(大正三年七月二十三日「実業之日本社」初版・大正三年九月二十八日「河村書店」版・大正十年三月二十三日再版)
*2詩集『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日「新少年社」発行・「大空社」よりの復刻版)
*3『地上楽園』白鳥省吾編輯(昭和二年八月号・大地舎発行)
*4「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)
*5「富田君のこと」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象その四・富田砕花氏」・新潮社発行)
*6『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)
*7「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』白鳥省吾著・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)
*8「大正末期の諸傾向」金子光晴著(『金子光晴全集・第十巻』中央公論社・昭和五十一年一月二十日発行)
*9
『風の如き人への手紙ー詩人富田砕花書簡ノート』和田英子著(平成十年十月十日・編集工房ノア発行)*10
『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)*11
『福田正夫・追想と資料』(昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)*12
『明治大正詩選全』(大正十四年二月十三日・白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・新潮社発行)*13
「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)*14
『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)*15
「大正期雑誌の概観・上」稲垣達郎著(『文學』1957・2・VOL.25・昭和三十二年二月十日岩波書店発行)*16
「白鳥省吾論・「民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)*17
「開放されたる詩」白鳥省吾著(『現代詩読本5・高村光太郎』昭和五十三年十二月二十日・思潮社発行)*18
『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)*19
詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)*20
『日本の歴史・23大正デモクラシー』(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)* 参考資料
*『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)
*『新しい詩の国へ』(大正十五年十二月二十五日・一誠社発行)
*「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」に掲載・初出は『詩神』昭和二年三月)
*『前期詩歌総目次』(小野勝美編著・昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)
*『近代文学史2・大正の文学』(紅野敏郎、三好行雄、竹盛天雄、平岡敏夫編・昭和四十七年九月十五日有斐閣発行)
*『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』(日夏耿之介著・昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)
白鳥省吾を研究する会事務局編
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最終更新日: 2002/07/10