白鳥省吾物語 第二部 会報十二号

(平成十二年十月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   一、対立する新進詩人たち 大正四年〜六年

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    (二)、詩話會前夜 大正五年

 大正五年(1916年)の新年、省吾は詩「感嘆」三篇を『詩歌』一月一日号(第六巻第一号)に発表している。(*1『前期詩歌総目次』)同じく新年に、佐藤惣之助の第一詩集『正義の兜』(大正五年一月一日・天弦堂発行)、福田正夫の第一詩集『農民の言葉』(大正五年一月一日・南郊堂書店発行)が出版されている。

 佐藤惣之助について*2『詩の創作と鑑賞』と*3『文人今昔』には次のように書き残されている。

<佐藤惣之助の詩も光明的であるが、高村光太郎のやうに堂々と押してくる感じでなしに、絢爛で多彩である。それはグランド・ピアノに対するシムフォニーか、オーケストラのやうなものである。全体から来る感じの詩である。>*2『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

<彼は極めて陽気な男で国内はもとより、台湾や琉球に遊び、支那事変には報道特派員の一員として出かけた。彼が大正十年に琉球諸島を月余に亘って遊んだのが一巻の風物詩集となった。/中略/佐藤君の死んだのは昭和十七年五月の十五日なのだが、彼の夫人が萩原朔太郎の妹である関係上、十一日に萩原君が急性肺炎で死んだ前後の過労が原因して、数日後に心臓麻痺で死んだのである。萩原君の告別式の前日、私は萩原邸の応接間で佐藤君に遇った。

「何しろ、男手がないので僕が中心で大変だよ。今まで福田(正夫)が来ていたがね、室生も来たよ。福田は舌がもつれて何をいっているか分らんよ。室生は胃潰瘍で、弁当にお粥をつめてきて、ぺちゃぺちや食っておった。二十日間ほど入院したそうだ。あれは用心深いから大丈夫だ。福田も萩原も若い頃のたたりが大いにあるな。こういうことになると、僕は今夜にでもかえって、遺言状を書かねばならんと思うね。/中略/どうだ、そのうち僕らの仲間で四、五人寄ろうよ」と例の速射砲のような早口で佐藤はいうのだった。>*3 『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 当ホームページの「日本全国白鳥省吾関連文学碑」にも紹介している。以下は下田市のホームページに紹介されているものである。

<「春の港の街にて」の一節。撰文、白鳥省吾。惣之助は、明治42年19歳の頃より度々下田に遊ぶ。大正15年4月、詩話会同人、室生犀生、萩原朔太郎、川路柳虹、白鳥省吾等を案内して下田に来て、下田の鈴木白羊子、森斧水等と親交があった。下田の詩として、他に「1854年に」「白浜にて」「下田港」などがある。また惣之助は、「赤城の子守唄」「人生劇場」など歌謡曲の作詩もしている。>下田市のホームページよりtH11si06.jpg (14628 バイト)

  福田正夫の第一詩集について、省吾は後に『文人今昔』の「福田正夫」の頁に紹介している。同様のことを先に紹介した*4『福田正夫・追想と資料』「福田正夫君の追憶」にも書いている。『文人今昔』より紹介する。

<福田君の第一詩集「農民の言葉」(大正五年一月版)は装幀校正ともすべて私がやった。装幀は愛読したピーター・クロポトキンの「相互扶助」の普及版がたいへんいいと思ってそれを模した。数年後の大正九年一月に帝大教授の森戸辰男氏がこのアナーキストを紹介して、大学を追放されたのは人の知るところである。福田君は私と逢って間もなく、家庭の事情で学校をやめ、川崎在のその頃の橘樹郡平間村の小学校に就職した。その時の農村見聞録がこの一巻の詩集を成した。>*3『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*写真は福田正夫の『農民の言葉』・資料提供「白鳥省吾記念館」

 また、*5『現代詩の研究』には以下のように紹介している。

<福田正夫の第一詩集「農民の言葉」は大正五年一月の出版で、川崎在平間村の小学校教師時代にその周囲を歌った大正四年の下半期の作品二十三篇及び物語風な長詩篇二篇を収めている。数年前から詩作を続けていたが、それは抒情、象徴の意気を脱しないものであったから、第一詩集にはそれらを凡て省いたのであった。それで量に置いて賑やかなものでない、然し此の詩集は動かすべからざる価値、尊いものを所有している。平明な言葉を以ておもに農民の生活を歌ったもので、従来、吾が詩壇に於いて田園を歌ったものはないではないが、これほど実生活の中から生まれたものはない。/後略/>*5『現代詩の研究』(大正十三年九月三日・新潮社発行)

 白鳥省吾と伊藤信吉の*6「対談・民衆詩派をめぐって」には以下のように紹介している。

<白鳥 福田君は小田原で幼稚園や私立学校を経営している家の養子です。農家に生まれたのではありません。福田君は、高等師範の体育部を半途退学した、小学校教員としては頭の新しい型破りな人間なわけですね。そうして小田原在の石橋というところの分教場のたった一人の先生、つまり分教場主任をしていたわけですね。彼は農村の特質もありますけれども、もともとは小田原の漁村の見聞が豊なんです。

伊藤 それで海の詩が多いんですね。

白鳥 そうです。「農民の言葉」という詩集は、転任して川崎在の農村に一年あまりもおりましたか、そこで農村というものの生活に胸を打たれて作った詩なんです。>*6「対談・民衆詩派をめぐって」白鳥省吾・伊藤信吉(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)

*

 大正五年、省吾は「新少年社」に籍を置いたまま新年を迎えていた。「新少年社」は*7「白鳥省吾年譜」に<大正三年十一月二舎書房創刊の「新少年」の編輯主任となる>と記されている。三月一日に、白鳥天葉の筆名で、*8少年詩集『天葉詩集』を定価三十銭で、「新少年社」より出版している。同年四月童話、新少年文庫『槍の王様』を定価二十銭で出版している。前年の二月一日には『世界の一人』の再版を「新少年社」より出版している(『天葉詩集』広告欄)。 手元にあるものは「大空社」よりの復刻版であるが、外箱には「復刻 叢書 日本の童謡」とあるから、詩集と言うよりも、童謡集に分類されるべきものかも知れない。『天葉詩集』は煙草の箱を一回り大きくしたポケットサイズで、はしがきには以下のように記している。

<詩の領土は無限なり、われ詩作に身を委ねてより既に十年にちかし、最近ことに興ふかく感ずるは、森羅万象をあどけなき音律の裡に表し、また少年の至純なるこころを沓かに偲ぶことなりき。今、雑誌「新少年」誌上に発表せるものを中心とし、未だ世に問わざる数十篇の詩を加えて此の一巻を成す。凡て少年の美しき情緒と、勇壮なる士気とを最も高揚せんと欲したれど、茲に其の幾分を達したるや否やは覚束なし。終わりに画伯和田英作氏が此の詩書のために特に装幀の労を執られたるを深謝す。>*8『天葉詩集』(大正五年三月一日・「新少年社」出版・大空社よりの復刻版) 

     

      序 詩

     都を百里ふるさとの

     空美しく花さけば、

     そぞろに歌ふ春の鳥。

     春三月の雪とけて、

     山紫に匂ふころ、

     わがふるさとに啼く小鳥。

 その内容は、「少年の春」二十一篇、「劔と血」十四篇、「珠玉集」二十六篇、「男兒頌」十篇、「生立ちの記」(散文)三篇である。特に驚くのは、当時第一次世界大戦に参戦していた日本、その国民が注目していたであろう、ドイツ軍の最新兵器・潜航艇、飛行船ツエッペリン号を、またヨーロッパ戦線の模様を「血染めの風車」、「カイゼルの夢」の中でうたっていることである。大正四年五月三十一日、この飛行船がロンドンを空襲した。省吾はやがて日本にも飛来するかも知れないとでも予感したのか、「天空の独逸魂」と題したツエッペリン号の詩を書いている。また「潜航艇の狂暴」の中にもうたっている。その影響を受けてか日本軍も飛行船「雄飛号」を作ったのであろうか、省吾はこの飛行船「雄飛号」に乗ったのであろうか、「雄飛号の上から」という乗船記のような詩も書いている。ツエッペリン号が実際日本に現れたのは、第一次世界大戦が終わった昭和のはじめ、四年八月十五日の霞ヶ浦にであった。後に省吾は反戦詩を数多く書いているが、この『天葉詩集』中の戦争を扱った詩は、好戦欲を押さえているようにも感じられるが、本人は、少年の夢を壊さないようにと、当時の時代背景を考慮して、創作しているように思える。単に少年の好戦欲を煽っているものではないと信じたい。

 総じて童謡、歌謡集の感じがするこの詩集中の、「日本国民の歌」「新少年社の歌」などをみると、後に省吾は日本全国の校歌、社歌、音頭、小唄、新民謡を合わせて数百曲も作詞しているが、その片鱗が伺える。校歌だけでも二百曲を超えると言われている。現在分かっているだけでも、百八十九曲ある。なかでも、「珠玉集」にある「逗子の夕」は、後の大正七年以降に刊行される鈴木三重吉らの『赤い鳥』、野口雨情らの『金の星』『金の船』を彷彿させるが、それは『世界の一人』を好意的に『新潮』に紹介した、小川未明の影響などもあるものと思われる。

      逗子の夕ieten.jpg (6794 バイト)

     波は金色きらきらと

     夕べ静けき一湾の

     波に漕ぐ舟、金の舟

     舟人さへも金色に

     染みてゆくへの眩しさよ、

     桜貝手にわれは見る。

*写真は『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日「新少年社」出版・大空社よりの復刻版)

 ここで用いた、白鳥天葉の筆名は、ホイットマンの「草の葉」よりもじったものと思われる。これ以前は白鳥野石、白鳥銀河が使われていたようである。童話『槍の王様』を含めて、これで四冊の出版物をものしたことになるが、省吾はこの詩集を第二詩集とは、自ら認めていない。この後、省吾は浪々の身となるのであった。「白鳥省吾年譜」より紹介する。

<三月「新少年」の編輯を辞す。四月「福田正夫の農民の言葉を読む」詩歌。六月「感動より宣伝へ」讀賣新聞。十月「静かに輝く力」詩歌。六月、大久保より市ヶ谷加賀町に移転、玄米食に傾倒し、簡素なる自炊生活をつづく。>*7「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

 省吾は二舎書房の経営が他社に移ったの契機に、「新少年社」を辞めている。これで元の木阿弥に戻ってしまった省吾は、生活のあてもなく途方にくれた。それでも『詩歌』四月号に批評「最近二詩集を評す・福田正夫氏の農民の言葉を読む」(第六巻第四号)を、五月号に「輝く大地」(第六巻第五号)を、六月号に散文詩「蒼穹の蜘蛛他三篇」(第六巻第六号)を、同じく六月「詩の庶民的傾向」「感動より宣伝へ」を讀賣新聞に掲載されている。『詩歌』七月号には、ホイットマンの訳詩「日光浴ー裸體」(第六巻第七号)が一ページから四ページにわたって掲載されているほか、「感動の陶酔と自覚」(第六巻第九号)、「静かに輝く力」(第六巻第十号)と立て続けに掲載されている。創作欲は旺盛だが、書いてもあまり生活の足しにはならなかったようである。『詩の創作と鑑賞』には以下のように記している。

<私は大正二年に早稲田の英文科を出たが大正三年の秋から四年の秋まで少年雑誌を月給二十円で編輯した。時間の約束はかなりルーズであった。その雑誌が他社の経営になるとともに私は手をひいて浪々の身となった、職業を求むる心と職業を厭う心とが私の心内で戦った。私は次第に困って来た。原稿生活なんと言うことは不可能であった。詩には原稿一枚に対して五十銭の報酬で、しかも原稿を出してくれるのは文章世界で年に一二回ぐらいであった。

 そのころ私と富田砕花とは無二の親友であった。彼は代々木の奥の梅原茶園の中の小さい家に老母と住んでいた。私はよく泊まりがけに出かけた、彼もよく泊まりがけに来た。二人とも悪く言えば、浮浪の生活であったが、詩の愛に於いて一致していた。>*2『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

 雑誌『新少年』の編輯主任の月給は二十円であったらしいが、三十円との説もある。松永伍一の*9『日本農民詩誌・上巻』「第四編・民衆詩派の功罪」「白鳥省吾の略歴および著作集」より抜粋してみる。

<三年(一九一四)に実業之日本社から出版した『シルレル物語』の稿料八十円を基金として第一詩集『世界の一人』を同年刊行し、その年から少年雑誌『新少年』の編集主任となり、月給三十円をもらう。五年はじめその雑誌がつぶれ、七年から『民衆』の同人となり、民衆派の闘将として活躍した。/後略/>*9『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 どちらの金額が正しいかは、手元の資料からは分からないが、入社時に二十円で、辞める頃には三十円になっていたのかも知れない。また「新少年社」を辞めた時期が、四年の秋と、五年のはじめと二種書かれている。「白鳥省吾年譜」には五年三月とある。『天葉詩集』『槍の王様』が二舎書房より出版されたのが、五年の三月であるからこちらのほうが正しいようであるが、詳細は分からない。おそらく編輯主任を辞めたのが、四年の秋で、二舎書房を辞めた時期が五年の三月であろうと思われる。

 この年の五月、タゴールが初来日(二度目は大正十三年六月)している。省吾は後の大正十五年出版の*10『新しい詩の国へ』、昭和八年出版の*11『童謡の作法』、昭和三十三年発行の*12『アポロン・思想と文学』創刊号にこの時の模様を「タゴールの思いで」と題して書いている。

 そして六月、省吾がいよいよ転居せざるを得なくなっていたこの時期、室生犀星、萩原朔太郎によって雑誌『感情』(六月)が創刊されている。萩原朔太郎が初めて詩を発表したのは、北原白秋主宰の「朱鷺」大正二年五月号(終刊号)にであったらしい。生涯の友となる室生犀星との出会いもこの誌上であった。そして四年の六月四日付けで北原白秋に書簡を送って、休筆宣言をしていた。それが復活したのはこの年の四月であったらしい。渡辺和靖著*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』より抜粋して紹介する。

<「新生」は、突然朔太郎をおそった。この事件の顛末を記述した「握った手の感覚」(『詩歌』大正五年七月)によれば、それは四月十九日朝のことであった。/中略/五月に入って、朔太郎は上京し、室生犀星等と語らって、新しい詩誌の創刊に奔走する。誌名は朔太郎の発案で『感情』と決められた。同人として、犀星のほか、竹村俊郎、恩地孝四郎、のちに山村暮鳥が加わった。/後略/>*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』(渡辺和靖著・平成十年四月二十日ペリカン社発行)

 これで大正三年二月に創刊された、三木露風、川路柳虹等の季刊詩集『未来』(*14『討議近代詩史』)と、この時期を代表する詩人のグループが揃ったわけである。そしてもう一つのグループの雑誌、『詩人』が出るのは十二月である。

 もどって八月、『未来』のグループに参加していた、富田砕花が思いもかけないところから、便りをよこした。『文人今昔』より紹介する。

<大正五年八月十九日付けで彼は膽振国八雲から、次のような便りをよこした。遂々津軽海峡を渡りました。そして函館からさらに北走二十里、噴火湾に臨んだ一村落から拝啓します。ここはアイヌの部落があります。追われ滅びゆく民族の瞳には痛ましさが宿っています。/中略/そして即興詩の一節「漂泊者」をつけている。>*3『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 九月、萩原朔太郎は『詩歌』九月号(第六巻第九号・大正五年九月号)に「最近の詩壇」として以下のように書いている。引用文は*15『萩原朔太郎全集・第八巻』よりの抜粋である。

<最近の日本の詩壇には、二つの明星が輝いている。その一つは室生犀星氏で、他の一つは福士幸次郎である。/中略/最近の詩壇を代表するものは、以上二氏の外に加藤介春氏と山村暮鳥氏と白鳥省吾氏の三氏がある。此等の人たちは、てんでにちがった道から進んで行ってるが、中でも加藤氏のもっているあの恐ろしい深刻な哲学に、私は非常な驚異をもっている。/中略/山村暮鳥氏は象徴詩を最極度にまで徹底させた人である。/中略/白鳥省吾氏に至りては、未だ言ふべきことがない。氏は未来に属すべき人である。現在では明るい健康性をもった人のやうに思はれる。/北原白秋氏には近来作がないやうだ。三木露風氏は既に過去の詩人である。氏の詩篇はあまりに古典的であって我々とは交渉がない。兎に角、最近の詩壇は行きづまっている。けれども決してだれてはいない。新しい生命は地の下から筍のやうに頭をもちあげかかっている。ほんとにおそろしい力である。>*15「最近の詩壇」萩原朔太郎著(初出『詩歌』大正五年九月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

 萩原朔太郎は『感情』十月号に「現代詩人号」と銘打って、朔太郎、介春、光太郎、犀星、柳虹、暮鳥、白秋、省吾、耿之介、幸次郎、水野盈太郎、露風等十二名の詩を載せた。省吾は三篇の詩を寄稿している。渡辺和靖著『萩原朔太郎・詩人の思想史』には以下のように紹介されている。

<朔太郎は、十一月十八日(推定)の高橋元吉宛書簡で、「たしか兄はホイットマンの『リーブス・オブ・グラス』(特集)をお持ちのやうでしたが、若し、御入用がなかったら、失礼ですが小生にゆづって戴くわけに行きませんか」と依頼し、十二月初(推定)の書簡で「草の葉を頂戴したことを「非常にうれしく存じます」と、それを入手したよろこびを伝えている。/中略/しかし、朔太郎が『草の葉』に言及するするについては、それなりの理由があったにちがいない。ここで、白鳥の影響を指摘したい。朔太郎はこの時期急速に白鳥との接近を計ったようにみえる。大正五年十月十六日付けの白鳥宛書簡で、二日前の上京の約束を病気のため実現できなかったことをわび、「現詩壇にに対する意見、雑誌の上にては人情、義理としてほんとのことを言ひがたきこと多し、今次御面会の折りは私談としてそれらの腹蔵なきことをお互いに打ちあけて御話致したし」と記している。上京の予定は、恩地孝四郎、竹村俊郎、多田不二などにあてた手紙にも見えており、朔太郎には、上京によって若い詩人達を糾合しようとする意図があったものと推測される。

 朔太郎は十一月十九日付けで大手拓次に、「異香詩社のことを今日上毛新聞で知りました。大兄のご住所もそれで初めて知ったわけです。」/中略/と書き送っている。朔太郎は、面識のなかった大手に手紙を発し、今後の協力を懇請している。ここにも、若い詩人達のネットワークを構築しようとする朔太郎の意図が感じられる。しかし、少なくとも大正五年十月から翌年にかけて、朔太郎が白鳥に敬愛の情をもち、白鳥もまたこれに応えたという事実は記録されるべきであろう。二人の交友は、白鳥が、朔太郎の主宰する『感情』大正五年十月号に「海を恋して」「鈴懸の樹」「青草」の三篇を寄稿していることにも示されている/後略/>*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』(渡辺和靖著・平成十年四月二十日ペリカン社発行)

 大手拓次は白秋の「地上巡礼」(大正三年九月創刊)の同人でもあった。ここには他に室生犀星、山村暮鳥、萩原朔太郎がいた。この「現代詩人号」と銘打った『感情』十月号を日夏耿之介は*16『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』「第二章群小詩壇」「大正混沌詩壇」にとりあげているが、欄外に、こう書いている。

<「感情」は犀星の雑誌で、新詩家を集めたのも一種の幼稚な営業政策の一端に外ならなかったが、他の立派な有力な雑誌が新詩の展開に留意しない時代であったので、このみすぼらし小汚い同人雑誌の特集号が期せずして計らずも史価を持つ事になったのである。小さい史価ではあるが。>*16『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』(日夏耿之介著・昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

 朔太郎がこの時期省吾に急速に近づいたのは、省吾のこれまでに発表されたホイットマンの評論に興味を持ったからであるらしい。そして朔太郎は、この時期ホイットマンを、第一詩集『月に吠える』に採り入れるべく、奔走していたらしいことが渡辺和靖著『萩原朔太郎・詩人の思想史』には紹介されている。その「白鳥省吾とホイットマン」の中では、ホイットマンが省吾に与えた影響を、諸氏の論文を例に挙げ分析し、省吾が『詩歌』(大正四年三月号)に掲載された、「歩みの上」(詩六篇)の中の「光の隅」(*17『大地の愛』に収録する際に「月光の隅」と改題されている。)をとりあげて、以下のように評している。

<「吠えている」「触れている」「顫へている」「垂れている」と同じ語末の繰り返し、冒頭と最終二行で「犬」が「吠える」と三度繰り返している。このようなスタイルはホイットマンに学んだものといっていいだろう。また、この作品は、月に吠えるのイメージを提示している点でも興味深い。>*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』(渡辺和靖著・平成十年四月二十日ペリカン社発行)

 この「月光の隅」(大正四年の作品)を『大地の愛』より紹介する。

     月光の隅

   月の光を浴びて

   犬は建物のかげに吼えている、

   その声は何処へゆく・・・・・、

   足は温かく大地に触れている、

   無知な魂は獣の熱に顫へている、

   空には香気に煙る星、

   薄明るい空の端は円く暗く鋼鉄のやうに

   地に垂れている。

   犬は吼える、

   月の光の広広とした中に

   犬がーーー「自然」の一片が顫へて吼える

 渡辺和靖著『萩原朔太郎・詩人の思想史』「3さびしい人格の成立」では

<こうしたホイットマンの影響が、白鳥省吾を経由したものであることを示す明白な証拠がある。『詩人』創刊号所載「詩十篇」のなかの「秋の夜の遠方に」を引く。/後略/>*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』(渡辺和靖著・平成十年四月二十日ペリカン社発行)

として省吾のホイットマンを経由して朔太郎が詩作したとみられる作品「私の町に就いて」、「さびしい人格」を評論している。問題の「秋の夜の遠方に」を『大地の愛』より紹介する。

     秋の夜の遠方に

   秋の夜の遠方に

   星と露との明かりの彼方に

   私は故郷の丘を目に浮かべる。

   夜ふけの山国の澄んだ空気

   その丘の黒い樹立につつまれた

   過去の祖先の幾人かを思ふ、

   あるものは全く土となり

   あるものは白い骨の砕片で

   あるものは新しい骸骨で

   あるものは肉が黒みがかっている。

   それら一切は流るる夜気のなかに

   涼しく薄明るく愛のなかに溶け合ふ、

   それら人人の足音は、聲は、今はどこに行った

   秋なれば蟲啼き星はふるへ

   樹立のかげに鳩はひっそりと眠る。

   ああわが親しい幾人かの魂は

   その秋の夜空をお互いに楽しい沈黙に

   何を語るであらう。

   岡の裾の町並も真暗く、

   古い屋根が薄明るい空を限っている

   ああ生きた者も死んだ者も

   深く深く楽しく眠りまた目覚めている時だ。

*初出は『詩人』大正五年十二月号。詩は、*17詩集『大地の愛』より。

  

 省吾は大泉書店版の*18『ホイットマン詩集』に、「大正三年の十一月にモーリス・クレールの『ワルトホイットマン』の全訳を、友人との同人雑誌『作と評論』に発表したが、大正期でこれに先立って紹介したのは大正二年七月白樺所載の有島武郎氏の評論だけで、これは後に新潮社版の『叛逆者』に収めてある」と書いている。また『現代詩の研究』には大正四年十月に「ホイットマンの芸術と人」と題して、早稲田大学にて講演したことが記されている。ホイットマンと省吾のことは*19『世界文学全集・48・世界近代詩十人集』その他にも書かれているので後述したい。

 朔太郎が休筆宣言から立ち直って「若い詩人達のネットワークを構築しよう」としていたこの十一月、『文章世界』は砕花、介春、花外、犀星、暮鳥、省吾、耿之介、幸次郎、露風の詩を「詩壇九人集」として企画、発行したのであった。

<「文章世界」が九人集を掲げたのは編集人の単なる思いつきではあろうが、特別な意味が生じるに至った。この雑誌が詩文壇の有力な雑誌の一つであったからである。>*16『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』(日夏耿之介著・昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

とは、日夏耿之介が*16『改訂増補 明治大正詩史・巻ノ下』の欄外に書いていることである(*20「白鳥省吾論・民衆派のころ」にも関連記事あり)。この中に朔太郎の名は見えない。朔太郎はこの『文章世界』十一月号について記している。*21『萩原朔太郎全集第十三巻』より、十月十六日に省吾に当てた朔太郎のはがきを紹介する。

<御端書拝見しました、一昨日上京する都合にて、貴兄等と逢ふのを楽しみにしていた処急に健康を害し当分出京不能になりました、近来小生疾病になやまさるること多く健康を欲するの念切なるものあり、御推察を勾ふ。現詩壇に対する意見、雑誌の上にては人情、義理としてほんとのことを言ひがたきこと多し 今次御面会の折りは私談としてそれらの腹蔵なきことをお互に打ちあけて御話致したし。文世にて高村氏と小生が除外されたことに微笑を感ず>*21『萩原朔太郎全集第十三巻』(書簡集・昭和六十二年十月二十五日補訂版一刷・筑摩書房発行)

 朔太郎は自分と高村光太郎が除外されたことに不満を感じているようである。『文章世界』に紹介されて、新進詩人として認められた省吾と砕花は、当時こんなことをしていたらしい。『文人今昔』より紹介する。

<私が早稲田を出て数年、まだ独身時代に、さる砕花君の知っている閨秀作家の令姉が、日本女子大学の晩香寮の寮監をしていたので、その閨秀作家を通してこう交渉したものである。「晩香寮は女子大でも最もハイカラな寮と言うことを聞いていますが、一日、私たちを招待して紅茶を御馳走してくださいませんか。御礼には何も出来ませんが詩を書きます」

 その寮監さんは男子禁制の寮に私たちを歓待してくれた。寒々とした貧しい二人の詩人は、カラ手で出かけて、女子大生の捧げ出す素晴らしい茶菓を御馳走になり欣々として帰ったものである。>*3『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 この年創作された詩は詩集『大地の愛』に「自然の聲」として収録されている。諸氏は後の民衆派時代に通ずる詩のみしか紹介していないので、揺れ動く省吾の生の声を吐露したと思われる、詩二篇を同誌「自然の聲」中より紹介する。

     自分の死

   さやうなら!

   巨いなる暗き手を揮る彼方

   黄に燃ゆる小さなる裸體は

   今隠れようとする、

   われは心の眼を閉じて

   自分の死の幻覚を見る、

   燃え輝きつつ自己の裸體を

   涙もて見送る。

     少女

   別れてから十年にもなるが、

   静かな美しい眼を今も想ひ出す。

   物思ひに潤んだ深い湖水のやうな五月の青空の

    やうな眼、あの澄んだ眼、それを見た私のこころ

   尊いあの時分よ。

   それは返らぬ「自然」のうつくしい目ばたきであっ

    たか!

 省吾は、やっと一人前の詩人として認められ、幾分かの余裕が出てきたのであろうか、昔恋した少女(白鳥省吾物語第一部・二早稲田入学と失恋参照)を想い出している。私どもはこれらの詩を、これまでの歩んできた自分の詩のあり方と決別すべく、揺れ動く心の中をかいま見せた詩と解釈したい。

 十一月、川路柳虹主宰の季刊詩集『伴奏』(曙光詩社発行)が刊行されている。そして十二月には*22『詩人』が創刊されている。この雑誌『詩人』は明治四十年に河井酔茗が発行した詩雑誌と同名であるが、それとは別のものである。大正十五年十二月〜六年六月五日までに全五冊発行されている。編集兼発行人は山宮允で、創刊号の扉には以下のように記されていた。*22『日本近代文学大事典・第五巻』「詩人」の項より紹介する。

<「茲に同友相寄って雑誌「詩人」を刊行する。吾等必ずしも同一の主義信条に依るものではないが、深く詩を愛し、詩的霊悟を追ふの心は一つである。」といい、同人として名を連ねたものは、日夏耿之介、富田砕花、柳澤健、白鳥省吾、西條八十、山宮允である。毎号海外詩人の写真(たとえばルーバート=ブルック)で表紙を飾り、サマン、ポール=ホォール、イェイツ、ゲールモン、モレアス、モリス、トローベル、ブレイクなどの詩人が紹介された。そして富田は民主詩人を、西条は海外詩壇の消息を、白鳥はホイットマンを、山宮は現代英詩を、柳澤は露風の詩を説くなど、象徴派と民衆詩派の主要詩人が一誌を形成していたことに詩史的意義があり、日夏も日常語による作品を試作した。『エミール・ブェルハーレン号』特集(大六・二)も編んだ。>*22 「詩人」(『日本近代文学大事典・第五巻』・編者日本近代文学館、小田切進・古川清彦担当・昭和五十二年十一月十八日第一刷講談社発行)

 その中の一員日夏耿之介について、省吾が後年出版した『文人今昔』には以下のように書き残されているので、抜粋して紹介したい。

<日夏氏の自伝によると「十四歳、飯田中学校に入学、十五歳上京、小石川京北北中学校に入学、第四学年の頃、脳神経症を患い、退学して病院を転々し、二十歳、早稲田大学文学科予科に入学、二十五歳、英文学科を卒業と同時に家産を蕩尽して三年狂臥せる父をうしない、すなわち家督を継ぐ」とある。以て同氏の詩作と評論の根元を知られる。彼の出生は私より五日早く、早稲田は私より一年後輩である。大正五年十二月、富田砕花、柳沢健、日夏耿之介、山宮允、西条八十、私の六人で雑誌『詩人』を創刊した。その時に鎌倉にいた日夏氏の葉書に次のようなのがある。

 未だお目にかかりませんが、山宮君からも申し上げた事と存じますが、明日天気が快くなりましたら同人諸兄と御一緒でぜひご来遊を待ち上げます。手前九時三十五分発の列車(横須賀国府津行き)がよろしい様に思われますからこの列車にて御越しを願います。凡ては御免晤の時お話ししたいと存じます。/後略/>*3『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 日夏耿之介は本名を樋口圀登という。長野県飯田市生まれで後に、英文学者で早稲田大学、青山学院大学の教授として勤めている。この時期のことは省吾の『詩の創作と鑑賞』には以下のように記されている。

<その頃、雑誌「詩人」の計画が具体化していた。同人には山宮允、柳澤健、西條八十、日夏耿之介、それに私たち二人であったが、富田は山宮や柳澤とは以前からの知人であったし、そのグループにはいるとなれば私を道連れにせぬわけにはゆかなかったのだろう。私はあまり気乗りもしなかったが、仲間入りした、私はその頃、前田夕暮のやっている「詩歌」などに詩を発表していた。私としては生活の窮乏時代であったが、詩壇としても暗黒の時代であった。詩集と名のつくものは一年に何冊とも出なかった。>*2『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

 雑誌『詩人』について金子光晴は*23『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞T』(昭和二十七年四月五日・創元社発行)の「日夏耿之介」の紹介中に以下のように記している。

<浅黄色の表紙の雑誌「詩人」は表紙の上の方に、月々、現代の西洋の大詩人の写真がのっていた。うすっぺらと言ふほどの雑誌でもなかったが、柳虹、耿之介、砕花、省吾、八十、それに山宮允、堀口大学も同人だったかと思ふが、あの雑誌程、内容のいゝ詩雑誌を僕はその後見なかった。なかでも耿之介の詩は圧巻だった。/後略/>*23「日夏耿之介」金子光晴著(『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞』・金子光晴他著・昭和二十七年四月五日・創元社発行)

*写真は『詩人』二巻三号・山宮允編(大正六年三月七日・詩人発行所)資料提供「白鳥省吾記念館」

 『詩人』時代のことは日夏耿之介も『日本詩人』大正十三年十一月号「洛陽砕花居士」(この時代の詩人仲間の意識から出た言葉遊びによる居士名)の中に以下のように紹介している。

<彼にあった最初は、雑誌「詩人」をやっていた時であった。これは彼と柳沢健と堀口大学と山宮允と西條八十と予と外にも一人白鳥省吾がいたが、六七冊出して同人費を出さないものが出て来て経費が足らなくなりやめたしまったから別に何の業績も残さなかったが、予の終生の友堀口、柳沢、山宮、西條、富田の五人を獲たことは予としては記念するに足ることだ。/中略/予は病身で鎌倉坂の下に隠退し、たまに近所の広津和郎や芥川と逢って話した位多くは濱の砂丘に寝ころんで雲ばかり見て暮らしていたのであるが、或る日「詩人」誌の集合の寄書きにたっしゃな筆で砕花も一文を寄せて来て、その後間もなく何処かで現実の砕花を見た。/中略/

 ある時は、当時横濱の外国課長をしていた龍卓軒(柳沢をかう呼んでいた)を誘ひ出し局の汽船で湾内を遊び廻らうと一緒に行った事もある。又ある時、雑誌同人が写真を撮った処珍妙な出来栄えで山宮はガマの如く予は代診然とし西條は呉服屋の番頭に似、柳澤は金貸の若旦那、白鳥は重箱をひしゃいだやうなていたらくの中に碎花のみ悲哀詩集著者たるべく余りに活然と悠々と立派にとれてからかはれたものである。その後、デモクラシー提唱者の聲に伴ひ、彼はフイットマン訳者となり民主詩人の一人となった。が、彼の熱望は空想的領域にいつもあった。彼の詩集「地の子」祝賀席上、司会者加藤一夫の言に応じ森戸辰男が彼の民衆的態度を賞美し、一層実際的に徹底せよと云ったに対し亦予も立って森戸君の注文は無理だ。彼はロマンテイチルである。ここが彼のゆく路であると駁した。/後略/>*24「「洛陽砕花居士」日夏耿之介著(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象その四・富田砕花氏」・新潮社発行)

 西條と日夏を除いた、四人は皆東北の出身であった。この中の同人の面々を拝見して気づくのは、『改訂増補明治大正詩史巻ノ下』の「増訂新刻本叙」において、「おもえば、旧刻本は世のいちじるしき反響慇譽の渦中の中に図らずも投ぜられたる宿命の書であった。若き著者がもっとも力を込めて菫孤筆をふるうたのは、当時好みの文学上民衆一派の諸君子のの運動の上に対してであり、」とまでに非難抗争している日夏耿之介が、松永伍一に「民衆詩派の土台骨」(『日本農民詩誌上巻』)とまで言われる白鳥省吾と同席している不思議である。後に民衆詩派を再起不能にした日夏耿之介等を応援する諸氏は、この事実を何処まで把握しているのか、書き残された詩史からは察せられない。

 日夏耿之介はこの後も数年は省吾と詩友関係にあったらしい。省吾は日夏の裏切りにも当たるこの後の行為をしばらく信じられなかったらしい。このことは後述したい。

 砕花は『未来』の同人で、山宮、柳澤、日夏等は知己であった。後にこの三人は砕花、省吾等の「民衆詩」に徹底的に反発するのであるが、この時期は詩誌『詩人』の同人としてつき合っていた。この『詩人』は山形出身の山宮允編集で、かれは後に英文学者、法政大学名誉教授を勤めている。柳澤健は福島県生まれで、東京帝大法科大卒業後、逓信省を皮切りに朝日新聞社、外務省と勤め、最後は外交官として活躍している。日夏は紹介済みである。西條八十については『文人今昔』には以下のように紹介されている。

<この間、日比谷の陶々亭で日本詩人連盟の総会後の懇親会があって、久しぶりで会長の西條八十君に逢った。/中略/彼は早稲田の在学中、恩師吉江孤雁先生の紹介で、私が同人だった「劇と詩」に詩を書いていたこともあったが、幽艶微妙な詩は、女性かと思われたかして、ある時は「西條八十子様」と手紙をもらったこともあったとか。彼は大正四年の英文科出身だが、その頃は正課ではなく自由科目のフランス語をマスターして、大正十三年渡仏して十五年帰朝した。>*3『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 後に西條八十は初代「日本詩人連盟」の会長を務めている。因みに、第二代会長は省吾が務めている。この『詩人』創刊号に、省吾は「花屋のマダムに」という詩を寄せている。これは後に『大地の愛』に収録されている。『詩の創作と鑑賞』、『新しい詩の国へ』にも採録されている。六十三行という長い詩なのでその初めの部分を『大地の愛』より紹介する。

     花屋のマダムに

   カッフェーのまどのそとに

   秋の雨が泣くやうに降って居ました、

   青い篠懸の葉に、敷石に、行き交ふ人影や車の

    上に・・・・・

   ああ世界は雨と灯と影の

   濡れそぼちながら溜息する幻想曲。

   私達は遠い港へ着いた旅人のやうに、

   どこまでも雨夜の町を歩いて

   このカッフェーの椅子に腰を下ろしました。

   私達は語りました。

   鉋屑まで食べたといふクヌウト・ハムズンの飢渇

    を、

   詩を書く紙さへなかったといふトムソンを、

   夫婦で三日間も物を食べなかったといふミレー

    の窮乏を・・・・・・

   涙で温める悲痛な歓喜でそれを語りました。燃える水のやうな都会の秋雨、

   魂を寂びしく慰める秋雨。

   ああ私達は未だ貧乏らしい貧乏をして居ない、私達は未だ幸福だ、

   私達には未だ帰るべき明るい室も取るべき食物

     もあるではないか。

     ・・・後略

 この詩の背景を省吾は『新しい詩の国へ』に書き残している。

<この「花屋のマダムに」は大正五年十月三日の印象で「詩人」の創刊号に発表したものである。同夜の印象は富田も作って同誌に載せている。その前夜に富田が私の家に泊まった、翌朝私は無一文だったので、(市ヶ谷加賀町で貸間生活のようなことをしていた)三町ほど隔ってる質屋に古びた袷を質に置きに行った、秋の雨がさんさんと降っていた。袷には三十五銭しか貸さなかった。帰ってみると富田は昏々として眠っている、病気ではないかと思うほどよく眠る。 その頃の電車賃は往復九銭であったろう。それだけの金はどうやら残っていたので、それで芝に山口某君をたずねた、コーヒーをおごらせる予定であった。ところが留守であった。更に市川君をたずねた、その男も窮乏していたが、どうやら五十銭かいくらかはもっていたらしい。三人で夜の東京をぶらつく、南鍋町のカフェー・パリウスに行ってコーヒーを飲んだ、その頃唯一とも言っていいハイカラな喫茶店で、何でもそこのコーヒーの味は東京一だと私共は考えていたものだ。その熱いコーヒーのうまかったことよ。

 雨に濡れた銀座街、プラタンヌの青い葉、私達は日比谷のかげから赤坂の方に出た。この花屋のマダムは耕農園という花屋のマダムである。実に夥しい切り花や鉢植えが室内にあった。私達が「いい匂いがするよ」と言った時、うしろから「たんと嗅ぎなさいまし」というマダムは三十二三の美しい人で、女の子をおんぶしていた。

 ああ、あの夜の聡明な美しいマダムに祝福あれ!

 雨はもう殆どやんでいた、私達は三角公園の濡れた石に腰掛けたりして夜のふけるのも知らずに十一時頃までふらついていた、そして十二時頃に富田の知人の家に行って宿ったのである。あの漂泊の生活にもどこか喜びと希望を持たせ、窮乏のどん底にも都会にかじりついて初一念を徹そうとした精神は、ともかく詩の愛によって恵まれたものと私は思っている。>*10『新しい詩の国へ』(大正十五年十二月二十五日・一誠社発行)

 省吾はこの時期、牛込区市ヶ谷加賀町で間借り生活をしていたようである。詩人として認められわしたものの、二舎書房を辞めてから定職もなく、食うに困ると友人間をさまよい歩く生活を送っていたらしいことが、前掲文より察しられる。

敬称は省略させていただきました。

   以上文責 駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『前期詩歌総目次』小野勝美編著(昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)

*2『詩の創作と鑑賞』白鳥省吾著(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

*3『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*4『福田正夫・追想と資料』(昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)

*5『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*6「対談・民衆詩派をめぐって」白鳥省吾・伊藤信吉(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)

*7「白鳥省吾年譜」(白鳥省吾著・詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*8『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日「新少年社」出版・大空社よりの復刻版)

*9『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*10『新しい詩の国へ』白鳥省吾著(大正十五年十二月二十五日・一誠社発行)

*11『童謡の作法』白鳥省吾著(昭和八年六月十日・金星堂発行)

*12『アポロン・思想と文学・創刊号・タゴール特集』(加瀬正治郎編・昭和三十三年五月一日・アポロン社発行)

*13『萩原朔太郎・詩人の思想史』渡辺和靖著(平成十年四月二十日ペリカン社発行)

*14『討議近代詩史』(一九七六年八月一日・思潮社発行)

*15「最近の詩壇」萩原朔太郎著(初出は『詩歌』大正五年九月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*16『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

*17詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)

*18翻訳詩集「ホイットマン詩集」白鳥省吾著(昭和二十四年三月五日・大泉書店発行)

*19『世界文学全集・48・世界近代詩十人集』伊藤聖著(昭和三十八年二月十五日・河出書房新社発行)

*20「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

*21『萩原朔太郎全集第十三巻』萩原朔太郎著(書簡集・昭和六十二年十月二十五日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*22『日本近代文学大事典・第五巻』編者日本近代文学館、小田切進・古川清彦担当(昭和五十二年十一月十八日第一刷講談社発行)

*23「日夏耿之介」金子光晴著(『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞』・金子光晴他著・昭和二十七年四月五日・創元社発行)

*24「「洛陽砕花居士」日夏耿之介著(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象その四・富田砕花氏」・新潮社発行)

* 参考資料

*「大正期の児童文学」国分一太郎著(『文學』1957・2・VOL.25・昭和三十二年二月十日岩波書店発行)

*『明治・大正家庭史年表・18681925』(下川耿史・家庭総合研究会編・平成十二年三月三十日・河出書房新社発行)

*『近代詩物語』(分銅淳作、吉田ヒロ生編・昭和五十三年十月二十日有斐閣発行)

*「現代詩読本8・萩原朔太郎」・附録「年譜」(昭和五十四年六月一日・思潮社発行)

*『近代文学史2・大正の文学』(紅野敏郎、三好行雄、竹盛天雄、平岡敏夫編・昭和四十七年九月十五日有斐閣発行)

*『新潮日本人名辞典』(新潮社辞典編集部編・一九九五年五月三十日・新潮社発行)

*『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*『明治大正詩選全』(大正十四年二月十三日・白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・新潮社発行)

*『萩原朔太郎全集第十二巻』(ノート集・昭和六十二年九月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*『詩人』山宮允編(大正六年三月七日・詩人発行所)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年六月二十四日改訂版発行

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最終更新日: 2002/07/11