白鳥省吾物語 第二部 会報十三号

(平成十二年十一月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   一、対立する新進詩人たち 大正四年〜六年

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    (三)、対立する新進詩人たち 大正六年

 大正六年(1917年)省吾満二十七歳、この年は新進詩人達にとっても、この後の詩壇にとっても重要な「詩話会」が誕生した年である。まずは一月十六日、省吾に鎌倉にいる朔太郎から葉書が届いた。

<先晩は失禮しました。貴兄とは創作の方で深い親しみがあるので始めてあった人とは思われませんでした。始めて顔を合わせたときは初対面の人といふ感じがしましたが、少し話をしている中にまるで以前からの交友のやうな気がして初対面のことをすっかり忘れてしまひました。非常になつかしく存じました。あのままでお別れしたことを今でも心残りに思って居ます。二人だけでゆっくりお話したくも思ひます。>*1『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 これは、前年より朔太郎等が「若い詩人達のネットワークを構築しよう」(前述)として、それが実現した「詩人懇談会」参加の御礼の意味もあったものと思われる。朔太郎は「日本詩人大会」と誇称している。朔太郎が大手拓次に宛てた一月五日付けの書簡には以下のように記されている。

<近日来、詩壇に活気を生びてきました、いま現に詩壇に四つの主なる詩社があります。即ち伴奏詩社(川路柳虹ちいふ人社)と未来詩社(三木露風といふ人の社)と詩人詩社(六人合同)とそれから私と室生との感情詩社とです。この四詩社が合同してこの一月十四日頃に日本詩人大会を開催しやうといふ決議がありました。それで主として詩人社と感情詩社が主催となって在京の代表的作家に案内状を出すことになりました。その人選は『現代の代表的作家』と『日本詩壇の先輩』と『英語で作詞をする詩人』とで約十八名を人選しました。>*1『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 「日本詩人大会」のことは渡辺和靖著*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』にも紹介されているし、また省吾も書いている。

<この時期の朔太郎の、白鳥、大手を含めた詩人達への活発な働きかけは、ここで言及された「日本詩人大会」として実現された。この会は、大正六年一月十四日「メエゾン鴻の巣」において開催された。>*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』渡辺和靖著(平成十年四月二十日・ペリカン社発行)

 この後、前掲の省吾宛の葉書を紹介し、以下のように結んでいる。前項と重複する部分もあるが抜粋して紹介したい。

<初めて会った二人が意気投合した様子がうかがわれる。この交友は、二人の詩に対する考え方の違いから、しだいに疎遠していく。しかし、少なくとも大正五年十月から翌年にかけて、朔太郎が白鳥に敬愛の情をもち、白鳥もまたこれに応えたという事実は記録されるべきであろう。二人の交友は、白鳥が、朔太郎の主宰する『感情』大正五年十月号に「海を恋して」「鈴懸の樹」「青草」の三篇を寄稿していることにも示されている。白鳥省吾は日本におけるホイットマン紹介史にあって重要な位置を占める詩人であるばかりでなく、その作品にもホイットマンの大きな影響を示している。詩集発刊を企画していたこの時期、朔太郎が白鳥省吾と接近をはかっていることは、朔太郎のホイットマンへの大きな関心と決して無関係ではあるまい。朔太郎は、白鳥の活動を通して、ホイットマンという詩人に興味を懐いたと考えられる。>*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』(渡辺和靖著・平成十年四月二十日・ペリカン社発行)

 省吾の*3「大正詩壇の思い出」には「誌話会の成立から解散まで」が掲載されている。それによると、「詩壇会」がそのまま「詩話会」につながったように見受けられる。

<誌話会は大正六年に、当時、主に仲間だけの薄い詩のいわゆる雑誌を刊行していた詩人数名の発起で、詩壇の人々の会合が計画され、実現した。お互いに雑誌の上では名を知って居り、同人雑誌を交換し合っても面識の無かった人が多かったので、初対面のこの会合はなかなか楽しかった。/後略/>*3「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 この中には『日本詩集』『日本詩人』の発刊の経緯も紹介されているが、これらに関しては後述したい。萩原朔太郎は『秀才文壇』一月号(大正六年一月号)「昨年の詩壇を論ず」中の*4「昨年詩壇の主なる作家」において、三木露風、山村暮鳥、福士幸次郎、加藤介春、白鳥省吾、富田砕花、室生犀星を論じている。この中から白鳥省吾を紹介する。

<白鳥省吾氏。私が氏に注意をもち始めたのは極めて最近に属する。『世界の一人』時代に於ける氏の態度は私の好まないものである。氏は余りに安易な生活に馴れすぎて居る。その自然を見るにしても余りに抽象的であって個性の強み出て居ない。思ふに氏には熱烈な感情と、大きな意志が欠けているのであらう。その象徴主義にもどこか核心のない漠然たるものがある。併し、奇體のことには氏の詩には一種の説明すべからざる新しい味覚がある。この点で氏の詩は、三木氏加藤氏等に比して、「若い人の新しい詩」といふ感じを遙かに強く感知させる、昨年後期の作『青草』(感情十月号所載)及び『文章世界』の九人集における数篇の詩は何れも新らしみのある表現である。面白い未来を暗示した傾向の詩である。氏もまた、本当の所は昨年の後期から動き出して未来に完成を待つ新詩人であらう。>*4「昨年詩壇の主なる作家」萩原朔太郎著(初出は『秀才文壇』一月号・大正六年一月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

 当時、詩の同人誌を発行していた若い詩人達は、お互いに雑誌の交換をしたり、互いの詩の批評をしたり、詩集の宣伝をし合ったりしていたらしい。この新進詩人達が先輩詩人を誘って、詩の懇談会が企画され、これが「誌話会」へと発展したようであるが、まだ白秋、露風の系列から完全には脱しきれていなかったようである。前掲の四詩社の同人達が、一堂に会してみるとかえってライバル意識が強まったようである。 そしてそれぞれの立場から非難抗争が始まるのであった。日夏耿之介は*5『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』「群小詩壇」において以下のように分析しているようである。

<大正六七年代にあたって漸く対立の傾向が鮮やかになってきた二つの詩の傾向を考察するには、先ず当時事実として現存した詩壇に於ける三個の対立を挙げねばならぬ。第一は集団の対立である。第二は用語に於ける対立がある。第三には詩想に於ける対立がある。/中略/

 第一の集団の対立とは、北原白秋の傘下と三木露風一派との扞格カンカクの事実である。露風に友として宜しかった柳澤が、白秋抹殺を雑誌「黒猫」に於いて主張し、白秋門から出た萩原朔太郎が、雑誌「文章世界」に於いて、「三木露風一派の詩を放逐せよ」と呼号したことは既に一寸述べたが、これは別に正当な主張と主張との乖離から生じた争闘ではなくて、いはば、白秋といふ個人、露風といふ個人の私情のの齟齬から生じた抗争に基ずくもので、萩原朔太郎の説は、それから発して、自ずからにして別の抗論に入ったのである。室生犀星が露風を攻撃すれば、西條八十は、即ち萩原の「月に吠える」を冷笑した。>*5『改訂増補 明治大正詩史巻ノ下』「群小詩壇」日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

 その二、その三は後の問題となる。

 二月、『月に吠える』が「感情詩社」から出版された。『月に吠える』については諸氏があまた述べているが、ここでは割愛させていただく。ただこの詩集は刊行と同時に発売禁止となったらしいことと、従兄栄次氏に宛てた手紙を抜粋してみたい。まず、伊藤信吉の*6『現代詩の鑑賞上』「萩原朔太郎」より紹介したい。

<萩原朔太郎の第一詩集『月に吠える』(大正六年二月刊)は刊行と同時に、集中の作品が風俗をみだすという理由で発売を禁止された。田中恭吉・恩地孝四郎の十数枚の挿し絵と、その装幀によって飾られたこの豪華な詩集は、前田夕暮(歌人)が主催した白日社と、室生犀星・朔太郎のふたりが中心になって運営した感情詩社との、共同出版という形式で刊行された。ところが発売禁止という突発的な災厄にみまわれたため、書店に配布された本は止むなく当該の作品を切り取ってしまい、そのあとに「その筋の注意により『愛憐』『恋を恋する人』の二篇(一〇三ページより一〇八ページ)までを削除す」という断り書きを刷りこんでようやく発売した。いまとなっては容易にこの本を手に入れることはできないから、その断り書きを刷りこんだ初版をみたことのない人は、たぶん昔のこうした挿話を知らないだろうとおもう。>*6新潮文庫『現代詩の鑑賞上』伊藤信吉著(昭和二十七年六月二十八日初版・昭和四十三年四月三十日・昭和五十一年一月十日・新潮社発行)

 伊藤信吉は「このような作品のために、一冊の詩集が発売禁止となるということは、とうてい理解できないことである。」と書いている。このあと、切り取られたこの詩集の解釈に入っていく。渡辺和靖著・『萩原朔太郎・詩人の思想史』ではこの詩集が白秋、露風の対立の延長線上にあったらしいことを書いている。しかし、この当時、同様の扱いを受けた名もない詩人達が少なからずいたことも事実のようである。それらのことに対しても省吾は後に「地上楽園」に書いている。そして省吾もやがて同じ目に遭うのであった。

 次に、従兄栄次氏に宛てた手紙、*7『若き日の萩原朔太郎』より、『月に吠える』の自負の部分のみ紹介する。これは大正五年十月二十九日付けの手紙である。

<栄次兄、/長い長い御無沙汰を致しました/僕はまだ無事で生きて居りますそして今日この手紙を書きます/中略//記念物といふのは処女詩集のことです、いずれ来年は出します、そしたら多少世間的の評価をうることゝ思ひます、此の第一版はつゝしんで貴兄にデヂケートしょうと思ひます、/中略/来年あたりから大いに奮闘して日本詩壇の潮流を根本からくつがへす大革命を実行する確信があります。それだけは屹度やってみます、/後略/>*7『若き日の萩原朔太郎』萩原隆著(昭和五十四年六月二十五日・筑摩書房発行)

 遡って、朔太郎は大正四年五月二十六日付けの北原白秋宛書簡に、「詩歌の虐待事件は慚愧にたえず、雑誌を見た上で何とか致します、川路の微笑みを想ふとぞっとする、一人や二人なら兎も角我々三人がそろひもそろって侮辱されたこと実に人魚詩社の歴史的屈辱です」(『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』)と書いている。これは白秋が『ARS』に川路柳虹の作品を載せることを拒否したことに端を発しているらしい。

 『ARS』は白秋の『地上巡礼』の後裔ともいうべきもので、芸術総合雑誌をめざしていた。そして『地上巡礼』の精神、「私は詩の工人でも商人でもない。悪いと想えばどこまでも没書にするるまた兼々矚望している人があまりにも拙いものを寄せられたときにはその人の将来のために誠意を以てわざと掲載しない場合があるかも知れない。」(*8「地上巡礼」「ARS」木俣修著)を受け継いでいたものと思われる。この雑誌に当時白秋、露風と並び称された川路柳虹の作品掲載を拒否したらしい。そしてその作品は『詩歌』に掲載された。渡辺和靖著・『萩原朔太郎・詩人の思想史』より紹介する。

<また久保は「三木露風一派の詩を追放せよまで」において、大正四年五月二十六日付の北原白秋宛書簡に見える「詩歌の虐待事件」すなわち白秋が『ARS』に掲載を拒否した川路柳虹の作品が、前田夕暮の主催する『詩歌』に、朔太郎らの作品よりも優遇されて掲載された事件が、朔太郎の一年間の沈黙の直接原因になったと分析している。(『国文学・言語と文芸』昭和四十三年一月、三四頁)>*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』渡辺和靖著(平成十年四月二十日・ペリカン社発行)

 大正四年七月、『未来』に参加していた柳澤健は『文章世界』に「輓近の詩壇を論ず」を三回にわたって発表した。その中で白秋、暮鳥、犀星を合わせて批判した。これに前掲の省吾の「最近の詩壇」(『創造』・大正四年四月号掲載)がからんでくる。しかし、まだこの時点では抗争は表面化していない。その証拠に、この年六年一月の「詩人懇談会」が成功裏に終わっている。このあと鬱屈していたものを吐き出すように抗争が始まった。

<朔太郎と柳澤との間に論争があったのは、柳澤が『詩人』大正六年一月号において、前年十一月『感情』に掲載された朔太郎の山村暮鳥論「日本に於ける未来派の詩とその解説」を批判し、これに対して朔太郎が『感情』三月号の「消息」欄で反論したのが最初である。>*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』渡辺和靖著(平成十年四月二十日・ペリカン社発行)

 そして大正六年五月、朔太郎は「三木露風一派の詩を追放せよ」(『文章世界』五月号)と「調子本位の詩よりリズム本位の詩へ」(『詩歌』五月号)を発表し、白秋派の擁護を明確にした。しかしそれは白秋詩からの自立を意味していた。即ち北原白秋と三木露風の詩壇に於ける確執からの発展が、結果的に明治期の象徴詩の終焉を示唆していた。これに対して省吾は『詩歌』六月号に「根底なき詩論を排す」を発表した。 朔太郎の反応は早かった。六月二日、前橋に戻っていた朔太郎は省吾に二枚続きの葉書を書いている。

<詩歌で貴兄の小生に対する反論を拝見しました。それについて二つの問題があるのを知りました。その一は、小生の神秘主義に対する(又は叛神秘主義に対する)意見が貴兄にまでよく徹していなかったために生んだ誤解です。その二は貴兄の神秘主義に対する(又は叛神秘主義に対する)主張が小生にまでよく徹していなかったために生んだ誤謬です。それ故、貴兄のあの御説は要するに「お互いに無理解の生んだ論争」です。そこで小生の義務としては小生の神秘思想に対する意見及びそれに対する自作の詩の矛盾を説明すればよいのです。尚、また、・・・・・もし貴兄が要求なさるならば・・・・・小生の貴兄に対する誤解を謝罪すること等が私の義務としての全部です。尚これ等のことについては七月の詩歌と感情とに発表する小生の感想を読んでいただければ解ることことと思ひます。ともかく貴兄のあの反論は私にとっては決して不快なものではなく却って兄との心情的友誼を感ずるものです。>*1『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行) 

 朔太郎は『感情』六月号の「朔太郎の感想」において、「白鳥省吾君の最近の詩の傾向は山村暮鳥君のと、共に、私が最も多くの興味と期待とを持って居る」と書いている。*9『萩原朔太郎全集・第十二巻』「ノート六」には「朔太郎の感想」「現詩壇に對する公開状・白鳥省吾君に求む」等、省吾に関する朔太郎の感想が紹介されている。この時期、新生した朔太郎は躁状態にあったらしい。休筆後も『月に吠える』の構想を練り続けていた朔太郎は、これら詩壇の批判に立ち向かうべく熟慮していた。そして一月、矢継ぎ早に新進詩人に対して通信文を送った。その中の一人に省吾が居た。計画したように『月に吠える』は好評であった。これに気をよくした朔太郎は、省吾と詩論を戦わすのであった。

 こうした背景には『新潮』六月号に「新進詩人四家」として、福士幸次郎、萩原朔太郎、福田正夫、白鳥省吾等の写真が掲載されていることが影響しているものと思われる。(*10「現代詩読本8・萩原朔太郎」)

 後年省吾は*11『文人今昔』に朔太郎を以下のように紹介している。

<彼は孤独な寂しい男で、酒も一人静かに酌むのであるが、私は珍しく新宿の小料理屋に誘われて、二人で飲んだことがある。そこは懇意の行きつけらしく、テーブルに腰掛けであるが、気分も明るかったのはさすが再婚直前だったからかも知れない。酔余、私が「おけさ」を相川おけさ、小木おけさ、新潟おけさ、柏崎おけさ、ジャズおけさと五色に歌いわけてみせると、「君は民謡の大家だからな、それでは僕も一つやろうか」と「山は高こうて山中見えぬ・・・」と山中節を歌った。室生犀星がたまに歌う加賀の民謡の伝授らしい。そこのマダムは笑い出して、「先生めずらしいわね」といった。>*11『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 三好行雄は*12「大正期の詩歌」(『近代文学史2・大正の文学』)において、この時期の詩人たちの動向を以下のように分析している。

<おなじ頃、長く詩壇の双璧として君臨していた北原白秋と三木露風の併称にも、ようやく鋭角的なはげしい対立関係がともないはじめていた。朔太郎や犀星をふくむ白秋門下と、未来社にあつまる柳澤健、富田砕花らの露風門下との摩擦はなかば感情的な確執をもまじえて進み、柳澤健が『輓近の詩壇を論ず』(大四)を書いて、露風へのあらわな賛辞をを呈しつつ白秋をおとしめるなどのこともあった。朔太郎の『三木露風一派の詩を追放せよ』はそうした脈絡のなかに置かれた糾弾の文であるが、他方では大正の詩的個性がたからかに告げる前世代との決別の辞でもあった。口語自由詩の成立と明治象徴詩の終焉とはことの表裏をなして、新体詩時代から近代詩時代への移行を示す事態である。>*12「大正期の詩歌」三好行雄著(『近代文学史2・大正の文学』紅野敏郎、三好行雄、竹盛天雄、平岡敏夫編・昭和四十七年九月十五日・有斐閣発行)

 ここで明らかにしておかなければならないことがある。当時の詩人の仲間意識である。この当時北原白秋一派と三木露風一派の、詩想に関する明らかな仲間意識があった。白秋派は朔太郎、犀星が代表される、露風派は日夏、柳澤、山宮、が主で、富田、省吾等が取り巻きであったらしい。これとは別に川路派が感じられる。川路はどちらかというと、露風派であったようである。また西條八十も露風派であった。しかし、露風はこの状態を好まなかったらしい。そして、露風は宗教上の理由から殻に閉じこもってしまった。総帥を失った露風派は内部分裂をするのであった。これは後の「詩話会」分裂につながって行くものと思われる。

 西條八十は後に*13『私の履歴書・第17集』に以下のように、当時の様子を書き残している。

<僕が若い日、詩壇に出たころの回想を少々書いてみよう。当時の詩壇は、三木露風、北原白秋の両雄の対立時代だった。その中で、ぼくは偶然の機会から露風氏側の詩人たちと親しんでしまった。そのために白秋から最後まで敵視され、異端扱いされたような気がする。/中略/とにかく、若いぼくが当時声明ある詩人として会った最初の人は露風だった。それはさきに書いた内藤ユ策の雑誌「抒情詩」の会合で、この時ユ策は「もうすこし待ちたまえ、高村光太郎が来る。大きな手を持ってるよ。あんな大きな手の男はほかには居ないからあの手だけでも見て帰りたまえ」と言ったが、不幸ぼくは中座してしまった。/中略/

 大正三年、露風が「未来社」ていう詩人の結社を興し、季刊雑誌を出す企画を立てた時、かれはみずから灰野庄平を連れて、ぼくを訪ね、入会を勧誘した。/中略/雑誌「未来」が活動を始めると、萩原朔太郎が「三木露風一派の詩を駆逐せよ」ていう痛烈な攻撃文を雑誌「文章世界」に発表し、こちらの論客である柳沢健がまたその誌上で花々(華々)しく応酬したりした。未来社にはこのほかに山宮允、服部嘉香、新城和一などという詩人が居り、これに対し白秋が主宰する「地上巡礼」「ザムボア」などの雑誌があって、朔太郎や室生犀星などはそれを通じて白秋に親しかったように想う。/後略/>*13『私の履歴書・第17集』西條八十著(昭和三十七年三月二十五日初版・四十年十月一日・日本経済新聞社編発行)

 また当時の様子を萩原朔太郎は*14「『感情』を出した頃」に書き残しているので抜粋してみたい。

<僕等と同時代を代表して、同じ同輩としての人々には、福士幸次郎、山村暮鳥、白鳥省吾、室生犀星、加藤介春、千家元麿、大手拓次、日夏耿之介等の諸君がいた。/中略/室生君と結んで雑誌「感情」を発行した。僕等の一派感情派の特色は、何よりも詩語の平明素朴を尊び、できるだけ通俗の日用語を使用して、感情を素直に打ちまけて出すことであった。したがってこの詩風は、当時の一般的詩壇を代表していた三木露風氏等の難解晦渋の古典詩風と対蹠し、互いに両立できない反目の関係に導かれた。当時三木露風氏を中心とし、柳澤健、富田砕花、川路柳虹、西條八十等の詩人を総括しいた雑誌があり、その一派の詩風を称して、詩壇は「象徴派」と名称していた。そこで我々の感情詩派は、当時の詩壇の専制的権威であった、この所謂「象徴派」を對手に廻して、革命の戦闘を開かねばならなかった。僕と室生君とは結束して、象徴派對手に戦争した。

 当時、詩壇の権威であり、時流の内閣を組織していた人々は、上述した象徴派の人々であったけれども、一方時流の外に立ち、在野党として、反政府への抗争を続けていた一派があった。即ち福士幸次郎、加藤介春、山村暮鳥等の諸君が結束した、当時の所謂「自由詩派」の一派であった。この自由詩派と象徴詩派とは、実に犬猿の関係であり、互に憎悪の牙を向け合っていた。そこで僕等は、その敵を共同にする関係から、自然に自由詩派の人々と接近した。単にその共同戦線のためではなく、詩論に於いても詩風に於いても、僕等と福士君の一派とは、深く本質上一致するものがあったのである。>*14『「感情」を出した頃』萩原朔太郎著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

 文中の「何よりも詩語の平明素朴を尊び、できるだけ通俗の日用語を使用して、感情を素直に打ちまけて出すことであった。」と言う一文だけに限って言えば、後に省吾が終生目指した詩と何等変わらない。しかし省吾は当時、富田砕花との友情関係から、象徴派のグループ雑誌『詩人』に属していた。今日の二人の評価からすると、全く逆転している。どうしてこういう現象が起きたのか・・・。省吾は友人富田砕花のコスモポリタン的考え方に共鳴していたからと思われる。その証拠に、やがて富田砕花はカーペンタに心酔し、象徴派から離れ民衆詩に流れていくのである。省吾もその跡を追うように民衆詩を書き始めるのであった。

 大正六年七月、省吾は福田正夫等と組んで雑誌『詩と評論』(大正六年七月創刊)を発行している。(*15『明治大正詩選全』「明治大正詩壇年表」)、松永伍一の*16『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」、「井上康文と花岡謙二」にも記されている。

<井上は小田原の染物屋の生まれ、のち東京薬学校を出るが、その年すでに白鳥の雑誌『詩と評論』(大正六年)で詩を書いた彼は、福田の誘いによって『民衆』の創刊にあずかった。/中略/井上は先にあげた白鳥の『詩と評論』という「薄っぺらな詩誌に、十九歳とはおもえぬしっかりした構図の農民詩を書いている。「農人の娘」と題するその詩は、/後略/>*16『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 雑誌『詩と評論』ついて、後に井上康文は*17『福田正夫・追想と資料』「民衆創刊前後」の中に書いている。

<大正六年の春、福田氏に連れられて、高田老松町にいた白鳥省吾氏に逢い、白鳥省吾氏が出すという詩雑誌の同人になった。それが「詩と評論」で、これに詩を発表さして貰った。この雑誌は十六頁の(いまのB6版)位のもので、秋までに二号が出て廃刊になった。この大正六年の十一月に私は学校を卒業した。/中略/白鳥氏の「詩と評論」は出なくなったが、/後略/>*17『福田正夫・追想と資料』(昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 省吾はこの月「詩、自然、社会」を『詩と評論』(大正六年七月)に、「詩壇の根本的欠陥」を『中央文學』(大正六年七,八月)に発表している。同じ八月、朔太郎は「現詩壇の神秘主義と現実主義」を『早稲田文學』に発表している。これに対して省吾は朔太郎と書簡にて何度か論争している。それは十一月、「詩話会」誕生前後のこととなる。

 「詩、自然、社会」には「努力」「人間味」「種子」「自然のままに」「詩の二大要素」「神秘に就いて」「眞の韻律」「詩の民衆化」「自由生活への憧憬」「詩の核心」「新規と創造」「大地を踏んで」「若い老人」「新しい表現」「詩の範囲」の小論が書かれている。これらは後に*18『詩に徹する道』収録されている。その中より抜粋して紹介する。

<「詩の二大要素」

 深い思想と強烈な感動−それは自然の殿堂への二つの通行券である、この二つが相俟っていい詩が出来るの詩の二大要素である。思想だけでは詩にならない、盲目的の感動だけでも物足らない、詩の一皮奥に何かなければならないのだ、/中略/そこへゆくとホイットマンやヴエルハアレンは、さすがに感動と思想がしっかり融合して居て自由な韻律が其の中心を脱していない、日本の詩人には感動のみか、近来は思想のみかの詩が多い、感動は奔放であれ、思想は新しくあれ。/後略/>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

<「神秘に就いて」

 想像はその人を虹のごとく擴大し、藝術家としての眞の禀質に徹せしむるものである、誰ぞ『膚淺なる現實』を以て詩を書かんとする愚を為すものは!幻像を得てここに『眞の現實』がある。楯の一面を見て、他の一面を知らざるは哀れむべきである。/神秘は漠然たる気分のなかに生ずるものと思ふから誤解があるのだ、敏感な人が最も白熱緊張した時に感ずる生に対しての神秘感−感動の奥に潜んでいるこの神秘を尊まざるを得ない、神秘は詩に於いて出発点であり到達点である。/神秘は敏感な藝術家にとっては自然と湧くものである。然るに鈍感な者には故意であるが、或いは感動の希薄を強いて詩的にする為めに造ったものである、自然と湧く尊い絶対の感動、それが悪いわけはないのである。>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

<「詩の民衆化」

 トルストイは自由主義者が妄に人民の意志なる語を口にすることに対して憤慨して『彼等は民衆に就いて知るところのものは何であらうか、民衆とは何ぞや』と反問した。現詩壇に於いても民衆といふ語が余りに安値に取り扱はれている感がある。詩の民衆化といふ事は詩を通俗化することであるか、詩を一般人に解り易く調子を下ろすとすれば一種の堕落である。又民衆を題材として歌う故に民衆化といふのであるか、其の場合に於いては社会乃至民衆ていふものに徹底した独自の理解と感動がなくてはならない。/詩の民衆化といふことは、来るべき詩壇にとって大きい難関であり興趣ふかき領土である。選ばれた人々によって、民衆に対する徹底せる理解と表現を示して貰いたいものである、詩は如何なる場合でも絶対であり、個性の上に立って居ねばならない。>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

<「大地を踏んで」

 四月の夜の星空のもとを歩くと/自然のあらゆるものをしみじみと愛する心が湧く/大地を踏んで/この大地の力強く尊いのを知る/自然の何一つとして好意を持ち得ぬものはない/然るに人間をなぜもっと深く愛することが出来ないのだらう/自然の一つの現象としての人間を/観音の現れである人間を/樹木を愛するように何故人間を愛することが出来ないか/四季の樹木の変化を見るやうに人間の善悪の細目を/愛を以て観察することが出来ないか。>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

<「若い老人」

 彼等の存在−私がゆるみのある多少古い感じのする技巧本位の詩を発表すると、彼等は案の通り褒める、古ければ古いほど彼等はきっと喝采する、そして私の詩が真剣で奔放で力に充ちて居れば居るほど彼等は貶す、私は最近さうした一二の場合を見た。/ 然からば自分の行く路は誤って居るのか、新しいものに突破することを避けて古い完成をのみ望むか、私はそれに否と答へる、彼等は一時期おくれているのである、いつの時代にもあるやうにさうした連中は若いものにも大分あるものだ。>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

<「新しい表現」

 永遠に向かって、自然に向って人間の突破してゆく力、それが詩である。燃える個性詩である。我等は日常何を考ふべきであらうか、行ふべきであらうか、それを表現するのが詩である。/そして詩は出来るだけ大胆に自由に物を言えば言ふほど光ってくるわけである、技巧でなければ(それも生気のない)いい詩が出来ないなどといふのは何といふ情けないことだ、無論詩としての形式は無茶苦茶であればいいといふのではない、自由のうちに根底があればいいのである。/私は全然技巧無用論者ではない、然し今までの多くの詩人の有難かった内容を制限し、若しくは空虚を粉飾する皮相な技巧は極力排斥する、そして大胆に物を言はう、窖でものを言ふやうなあらゆる詩を排す。/詩は単純な美の陶酔でもなく自己逸楽でもない、詩は生の力である、輝きである、力なきところに詩のありやうがない、人生の根底となり生活を支配する至上の宗教のやうな詩でありたい。/姑息な古い殻にしか゛みついている「若い老人」連が、呆れて詩ではないと思ふものをこそ私は望んですすむ、日本の詩壇はまさしく斯く行くべきである。>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

つづいて「詩壇の根本的欠陥」(『詩に徹する道』)を抜粋して紹介する。これは『詩に徹する道』に収録する際に手を加えているようである。書かれているものの中に、大正七年のものが含まれている。

<私は現詩壇の根本的欠陥として次の三つを是非ともその要素すべきものとして挙げ、随次説明していかう。/一、日本民族の特性に根ざす事/二、絶対に口語を使用する事/三、自然と社会とを考察する事/

 元来、日本民族は詩歌に縁遠い民族ではない、/中略/其の上、萬葉集に見る豊麗な詞藻は、人間の感情として最も純真なものを最も力強く示したもので、我が民族のいかに詩の国民として恵まれた天賦を有しているかを知ることが出来る。/中略/けれども私が此処に民族の特性を知らねばならないといふのは、在来の國粋論者とは大分趣が異なっている。只、要は民族を根として世界的であるべき我等の詩の基調として、此の民族の血液を保有したく思ふのである。吾等は飽くまでも世界的であり、吾が民族の所有せずして他の民族の有せる長所は盛んに取り入れて行かねばならない。詩に於いて言わばポー、ボォドレール、ホイットマン、ヴエルレーヌ等とこれだけ挙げても、全く日本になき異国の香りに人を酔はして了ふ。吾等はそれらを驚嘆する。然しそれを無条件に模倣する事は避けやうと言ふのである。力のある本質をもってそれ等に臨まねばならない。

 第二に用語の問題である。日本の現代の詩人はあまりに日用語を軽蔑しすぎる。然し言葉といふものは偶然に生まれ出たものではない。たとへそれが蕪雑であらうとも人間の生活に何等かの必要があって生まれて来たものである。吾等は二十世紀の日本人である以上、われらの詩は現代の言葉によって表現さるべきではないか。思ふに詩は不朽の永遠性を帯ぶると共に、時代の影を明らかに映じたものでなければならない。そして日本の今までの詩は孰れかというと、あまりに古典主義的であったのだ。五六年以上まえに一二の人に依って詩形打破といふことも称道されたが、結局またもとの迷夢の中に迷ひ居るに過ぎなかった。/中略/成るたけ吾等に耳遠い言葉を用ふることによって詩に高雅な詩品を帯びるものと思惟するごときは旧時代の迷夢に浸る徒のなすことである。然し前にも言った通り詩に於いていかなる俗語でも無理やりに用いよといふのではない。多少の磨きと手加減の必要であることは言うを埃たない。ただ吾等は出来得るだけ自分と直接なものを勇敢に表現しょうと思ふ。況や最も開放されたる自由詩を指して、それは詩ではないとか、散文に近いとかいふごときは何等の定見なき議論が多く、寧ろ、これからの詩は外面的の形式に拘泥せずに内面律を本位として鑑賞し、一見極めて散文に近い詩にも、力ある眞の詩のあるのを認めねばならない。

 最後に自然と社会とに対する理解が詩に必要である。斯う言ったなら詩人の或る人は「今更そんなことを言ひ出すのは愚だ。」と笑ふかも知れない。然し私は反対に、『貝の化石のやうに貧弱に固定した内容に執せずに、もっと広い深い世界を見よ。』と言ひたい。/中略/眞の詩人たるには、文学上の教養は無論のこと、世界の一人、宇宙の市民としての自己を明らかにすることである。斯くて自然を映す我、社会を映す我は、飽くまでも深く明快で力に充ちて居なくてはならない。自然そのものと均しく力に充ちて奥深く社会そのものと均しく複雑に交響楽をなす『我』でなくてはならない。貧弱な感動のみで単純な社会を表現するものに何の詩があらう。/中略/

 私は現詩壇の根本的欠陥として以上の三つを指摘した。第一の日本民族の特性に根ざす事と、第三の自然と社会との真相に徹する事とはこれまで誰しも言及しないことであり現代の詩人のさほど気付いたものでもないらしいが、第二の口語詩の問題はこれまでも時々、論議されたがいつしか曖昧になって、詩壇の一隅に今尚ほ古典的の文語体の詩の存在してるのを見て、奇怪に思ふの余り、やはり詩壇の欠陥として挙げて置く。/後略/>*18『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 省吾のこれら論文はこの年の二月に発表した「生命の基調と詩」(『読売新聞』二月十八日)、同月「詩の生活から」(『詩人』二月号)、「根底なき詩論を排す」(『詩歌』第七巻第六号・六月一日発行)に引き続いて発表されたものである。まだこの時期には民衆派なる名称は生まれていないが、民衆という言葉は、詩壇に於いても問題視されていたようである。「詩を一般人に解り易く調子を下ろすとすれば一種の堕落である。又民衆を題材として歌う故に民衆化といふのであるか、其の場合に於いては社会乃至民衆ていふものに徹底した独自の理解と感動がなくてはならない。」(「詩の民衆化」)と省吾は、後の民衆派と呼ばれる詩人達とは一線を画して、独自の詩の道を探していたようである。

 この年に発表された詩は、「地上の飢三篇」(『詩歌』第七巻第三号・三月号)、「相逢ふ二人三篇」(『詩歌』第七巻第九号・八月号・これは後に『大地の愛』に収録されている)、「私の帰ったとき、ウイリアム・デーヴィス三篇」(『詩歌』第七巻第十一号・十月号)、散文詩「仁王様と農夫」(『詩歌』第七巻第十二号・十一月号)がある。『詩歌』は第七巻第七号が「自選歌号」として六月十五日に出ている。六月に二冊発行されている。よって八月号は第九号となる。(*19『前期詩歌総目次』)

 社会面では、大正六年十一月にロシアで革命が成功し、ソビエト政権が樹立された。第一次世界大戦に参戦していた日本は、翌七年八月にシベリアへ出兵していくのであった。省吾がこの時期頻りに「世界」とか「社会」という言葉を使用しているのは、これらの世界情勢が絡んでのものと思われる。こうした世情のなかで、「詩話会」が誕生して行くのであった。(*20『日本の歴史・23大正デモクラシー』)

敬称は省略させていただきました。

   以上文責 駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

*2『萩原朔太郎・詩人の思想史』渡辺和靖著(平成十年四月二十日・ペリカン社発行)

*3「大正詩壇の思い出」白鳥省吾著(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

*4「昨年詩壇の主なる作家」萩原朔太郎著(初出は『秀才文壇』一月号・大正六年一月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*5『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

*6新潮文庫『現代詩の鑑賞上』伊藤信吉著(昭和二十七年六月二十八日初版・昭和四十三年四月三十日・昭和五十一年一月十日・新潮社発行)

*7『若き日の萩原朔太郎』萩原隆著(昭和五十四年六月二十五日・筑摩書房発行)

*8「地上巡礼」「ARS」木俣修著(『文學』1957・4・VOL.25・昭和三十二年四月十日・岩波書店発行)

*9『萩原朔太郎全集・第十二巻』「ノート六」(昭和五十二年十月三十日初版・昭和六十二年九月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*10『現代詩読本8萩原朔太郎』「附録」「年譜」(昭和五十四年六月一日・思潮社発行)

*11『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*12「大正期の詩歌」三好行雄著(『近代文学史2・大正の文学』紅野敏郎、三好行雄、竹盛天雄、平岡敏夫編・昭和四十七年九月十五日・有斐閣発行)

*13『私の履歴書・第17集』西條八十著(昭和三十七年三月二十五日初版・四十年十月一日・日本経済新聞社編発行)

*14「『感情』を出した頃」萩原朔太郎著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

*15『明治大正詩選全』(白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*16『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*17『福田正夫・追想と資料』(昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

*18『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*19『前期詩歌総目次』小野勝美編著(昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)

*20『日本の歴史・23大正デモクラシー』(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)

* 参考資料

* 『白鳥省吾のふるさと逍遙』(平成十二年一月十日・白鳥ナヲエ発行)

* 詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十一月一日発行、平成十四年三月改訂版発行

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 つづく


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最終更新日: 2002/06/10