白鳥省吾物語 第二部 会報十四号

(平成十二年十二月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   一、対立する新進詩人たち 大正四年〜六年

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    (四)、「詩話會」誕生 大正六年

 省吾が同人雑誌の様なことを初めて行ったのが『作と評論』と思われる(大泉書店版『ホイットマン詩集』大正三年十一月のこと・前掲)。これを*1『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象・富田砕花氏」「富田君のこと」の中では以下のように紹介している。

<私達の仲間で雑誌を出さうといふことで同年の秋「作と評論」といふ百余頁のものを出し、同人には私達の外に西宮藤朝君など七八人あったが、純粋に同人だけのものを載せるか、他から寄稿を仰ぐかといふ意見の相違から、一号きりで廃刊してしまった。その『作と評論』の関係で、富田君と一層親しくなった。/後略/>*1「富田君のこと」(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象・富田砕花氏」・新潮社発行)

 坪内逍遙も『作と評論』と言う雑誌を発行していたらしいが、それとの関係はわからない。ただ省吾は早稲田の学生時代のこととして、恩師坪内逍遙との関係を*2『文人今昔』に以下のように書き残している。片上天絃の頁より紹介する。

<早稲田時代の恩師は坪内逍遙、島村抱月、片上天絃(伸)、吉江孤雁(喬松)の諸先生である。坪内逍遙先生はシエークスピアの講義が有名で、四年間も習った。自宅に踊り舞台などもあって、名妓ぽんたの遺児の坪内くに子の朝妻舟の踊りを学生に見せたこともある。

 島村抱月先生の邸宅は戸山ヶ原にあって、玄関番に中山晋平氏が居た。二、三の雑誌に原稿の紹介をしてくれた。片上、吉江の両先生にはその自宅へよく訪問したものである。先生から話を自宅で聞くということは、今考えてみると煩瑣で迷惑千万だったろうと思うが、坪内先生は私の詩集「世界の一人」に対して、御高著の「劇場それから」を送って下さったり、片上先生は夏期講習の高野山から、また軽井沢からお便りをくれたり、当時、四大教育といわれた「文藝教育論」という本も送ってくれた。大正十一年十月とサインしてある。吉江先生は後にフランスに留学し、文科の創設者となり、片上先生はロシアに留学し、ロシア文科の創設者となった。/後略/>*2『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 省吾自身がはじめて主催した同人雑誌は『詩と評論』であったと思われる。『詩と評論』は『詩人』がこの年の六月五日に全五冊で終わっている(*3『日本近代文学大事典・第五巻』)のをふまえて、この年の七月に発行したことが「白鳥省吾年譜」より推測される。それによると、七月に「詩・自然・社会」と題した感想が発表されていることを伝えている。これは後に*4『詩に徹する道』に収録されていることは前項で紹介した。また、井上康文は*5「民衆創刊前後」(『福田正夫・追想と資料』)に「大正六年の春、福田氏に連れられて、高田老松町にいた白鳥省吾氏に逢い、白鳥省吾氏が出すという詩雑誌の同人になった。それが『詩と評論』で、これに詩を発表さして貰った。この雑誌は十六頁の(いまのB6版)位のもので、秋までに二号が出て廃刊になった。」と書いていたことも紹介した。

 この雑誌は二号で終わっていることになるが、*6朔太郎の十一月二十一日付けの葉書には、省吾が「詩と評論」を毎月送っていたようなことが書かれている。詳細は推測するしかないので、後にふれたい。 しかし、ここからは井上康文が出ている。これらの小冊誌の書名より、省吾はこの時期、詩よりも評論に重きを置いていたように感じられる。それには、想像の域を出ないが、詩だけでは生活できないと言う理由が感じられる。またこの時代、自分の雑誌を持っていないと、一人前の詩人として認められなかったのであろうか、主だった詩人がそれぞれ詩の同人雑誌を発行している。そしてお互いに自分の主張を発表していたようである。省吾は*7「大正詩壇の思い出」に以下のように記している。

<当時同人雑誌として川路の「伴奏」(季刊)、室生、萩原の「感情」、山宮、柳沢、富田、日夏、西条、白鳥の「詩人」(六号で廃刊)、その他、福士、千家も同人誌を持っていた。詩の発表機関としては若山牧水の「創作」、前田夕暮の「詩歌」、博文館の「文章世界」(編輯主任、西村渚山)「早稲田文学」(編輯主任、相馬御風)など位のものであった。>*7「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 そしてこの大正六年(1917年)十一月に「詩話会」が結成されている。

 「詩話会」の誕生した日は、二十一日であるらしい。*8『明治大正詩選全』(大正十四年二月十三日・白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・新潮社発行)には、附録として「明治大正詩壇年表」と「明治大正詩書一覧」が載せられている。この中の「明治大正詩壇年表」、大正六年の項には

<八月、欧州大戦乱の影響により民主々義の色彩、詩壇、文壇、思想界に濃厚となる。/中略/十月、白鳥省吾「詩と評論」に「ボードレール論」を掲ぐ。/十一月、詩話会成る。その第一回の出席者は山宮允、川路柳虹、日夏耿之介、茅野蕭々、福士幸次郎、多田不二、灰野庄平等/二十二日、萩原朔太郎「讀賣」に「叙事詩傾向の詩を排す」を発表す。>*8『明治大正詩選全』(白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

とある。ここから、「詩話会」が誕生したのは大正六年の十一月中で、二十二日以前となる。この誕生の場に、省吾も朔太郎も参席していなかったのであろうか、名前が見えない。「詩話会」の母胎「詩壇会」については前述したが、その席上には省吾も朔太郎も同席していた。まして朔太郎はその立て役者でもあったようだが・・・。この時期『伴奏』十一月号には二人とも名前が載っている。『明治大正詩選全』の附録、「明治大正詩書一覧」より紹介する。

<伴奏第五篇(詩文集)川路柳虹編、十一月曙光詩社発行。朔太郎、大學、砕花、蕭々、介春、光太朗、犀星、柳虹、健、暮鳥、正夫、八十、白秋、省吾、耿之介等の詩を収む。「詩壇の推移と現在」なる文を添へて日本現代詩選とした。>8『明治大正詩選全』(白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

 乙骨明夫の*9「白鳥省吾論・民衆派のころ」には以下のように記している、抜粋して紹介する。

<「伴奏」第五篇「日本現代詩選」(一九一七・一一)にも省吾の名は見られるのであるが、この「はしがき」で編者(川路柳虹であろう)は「私は最近一二年の間に常に詩壇に作物を寄与している方を選んだ」としるしているのである。これによっても、省吾が一九一六年には一家をなしていたということが知られると思う。>*9「白鳥省吾論・「民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

 また松永伍一は『日本農民詩史・上巻』の「第四編・民衆詩派の功罪・第五章・井上康文と花岡謙二」では、『詩学』昭和三十六年九月号に発表した井上康文の抜粋文を以下のように紹介している。

<「詩話会は詩人の社交的な親睦的な会で、万世橋駅上にあったミカドの二階で、毎月二十一日に集まっていた。二人位ずつ順番に幹事のようになってハガキで通知していたようだが、ただ二十一日の夜集まって詩の話をしていたのである。私は大正七年四月頃会員になった。福田正夫氏の紹介であった。会員二人の紹介がなければ入れなかったようで、白鳥省吾氏か富田砕花氏のどちらかがもう一人の推せん紹介者になってくれたものと思う。そのころは岩野泡鳴、吉江孤雁、茅野蕭々、堀口大学、日夏耿之介、室生犀星、白鳥省吾、川路柳虹、富田砕花、福士幸次郎、柳沢健、山宮允、佐藤惣之助、西條八十氏などが集まっていて、私しと前後して多田不二と北村初雄君が入った。百田宗治はまだ大阪にいたし、山村暮鳥は水戸にいたし、高村光太郎、生田春月、北原白秋、三木露風は出てこなかった。誰と誰とが始めに集まってこういう会合をしたのか、誰が詩話会という名をつけたのか知らないが、川路、富田、柳沢、白鳥などが会合の中心になっていたようだ。会が終わるとしぜんに民衆派と象徴派に分かれて、神田や銀座を歩いた。」/後略/>*10『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 これは、大正七年四月頃の「詩話会」の様子であると思われるが。この中には、萩原朔太郎の名が見えない、また毎月二十一日に会合がもたれたことが記されているところから、大正六年十一月二十一日が「詩話会」の誕生した日と推察される。後の「詩話会」のメンバーから察するに、前掲の『伴奏』に掲載された詩人達が、創立当初の「詩話会」の主だった詩人達ではなかろうかと思われる。日夏耿之介は『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』、「第四編大正混沌詩壇」「第二章群小詩壇」「第二項現実派と新浪漫派との対立」に於いて、以下のように書いている。重複する部分を除いて紹介する。

<大正六年十一月詩話会が生まれて、最初の会合に茅野蕭々、灰野庄平、山宮允、川路柳虹、福士幸次郎、多田不二、日夏耿之介等集まって、/中略/すなわち、最初の目的は、詩壇が衰へて、他の歌壇、俳壇にも小説界劇界にも著しく劣った傾向に在ったので、詩団的勢力の下に詩壇の意義を闡明し、詩を普遍せしめようとて、呉越互ひに同舟して復興をはかったのである。後略>*11『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

*12『現代詩読本8・萩原朔太郎』「附録・年譜」の大正六年の十一月の欄には以下のように紹介されている。

<11月21日、万世橋のレストラン・ミカドで詩人の会合が開かれ、綜合的詩人団体「詩話会」設立され、会員となる。この折り、毎月二十一日にミカドで集会を開くことと、年刊アンソロジー刊行を決める。朔太郎は第三回目あたりから出席の模様。/後略/>*12『現代詩読本8・萩原朔太郎』「附録・年譜」(昭和五十四年六月一日・思潮社発行)

 ここでもう一度、前掲した朔太郎が大手拓次に宛てた一月五日付けの書簡、省吾の「大正詩壇の思い出」、*13『日本の詩100年』の抜粋文を紹介してみたい。

○ 朔太郎が大手拓次に宛てた大正六年一月五日付けの書簡

<近日来、詩壇に活気を生びてきました、いま現に詩壇に四つの主なる詩社があります。即ち伴奏詩社(川路柳虹ちいふ人社)と未来詩社(三木露風といふ人の社)と詩人詩社(六人合同)とそれから私と室生との感情詩社とです。この四詩社が合同してこの一月十四日頃に日本詩人大会を開催しやうといふ決議がありました。それで主として詩人社と感情詩社が主催となって在京の代表的作家に案内状を出すことになりました。その人選は『現代の代表的作家』と『日本詩壇の先輩』と『英語で作詞をする詩人』とで約十八名を人選しました。>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻』(書簡集・昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

○ 省吾の「大正詩壇の思い出」

<誌話会は大正六年に、当時、主に仲間だけの薄い詩のいわゆる雑誌を刊行していた詩人数名の発起で、詩壇の人々の会合が計画され、実現した。お互いに雑誌の上では名を知って居り、同人雑誌を交換し合っても面識の無かった人が多かったので、初対面のこの会合はなかなか楽しかった。そして、この会合を有意義にしようと、毎月一回会合が度重なり、機が熟して、会員の詩を集めて毎年一冊年間詩集を出そうじゃないかという提案があった。/中略/「詩人」の大正六年二月号の雑記に、山宮允が「『伴奏』、『感情』及び『詩人』の三詩社の主催で一月十四日に「鴻の巣」で第一回の詩談会を開いた。病気や其他の都合で大分見えられない方があったが、こだわりのない愉快な会合であった」とある。これが誌話会の母胎を成したものと考えられる。/後略/>*7「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)(「大正詩壇の思い出」・『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行) 

○ 「V日本の詩一〇〇年の動行・大正時代・橋浦洋志執筆」中の川路柳虹の言

<山宮允と私が最初の発起者となり、同志に檄を飛ばして会合をもとめた。而して又当時の凡ゆる集団の人々にも呼びかけたのである。>*13「V日本の詩一〇〇年の動行・大正時代」橋浦洋志執筆(『日本の詩100年』・日本詩人クラブ編・二〇〇〇年八月三〇日・土曜美術社出版部発行)

 河野成光館発行の*14『現代詩の研究』の中には、河井酔茗の「新體詩概説」、日夏耿之介の「日本象徴詩の研究」、福士幸次郎の「自由詩の発達とその研究」、佐藤一英の「現詩壇の分布と傾向」、春山行夫の「散文詩の展開・上・下」、三木露風の「日本詩の通ってきた道」と「明治大正詩壇の思ひ出」がある。この「明治大正詩壇の思ひ出」の中に、島崎藤村「若菜集時代」、蒲原有明「有明集当時の思ひ出」、横瀬夜雨「きれぎれの思ひ出・文庫時代」、川路柳虹「明治末期詩壇の思ひ出」、加藤介春「自由詩社とその前後」、萩原朔太郎「感情を出した頃」、白鳥省吾「詩話会の思ひ出」、挿し絵として「日本詩集第一回の集ひ」の写真、その他雑誌の写真が掲載されている。「明治大正詩壇の思ひ出」中より省吾の「詩話會の思ひ出」に創設当時のことが記されているので紹介する。

<詩話會は大正六年十一月二十一日の創設で、その頃詩人が相集まって談話を交わす會であった。その頃は出版記念會といふやうなものも無かったし、詩人相互にこちらから特に訪ねて行くといふ必要も気持も無かったから、印刷物の上ではお互いに承知していても、顔の知らない人が多かった。詩集や雑誌のやり取りもしているほど心持の親しみを持っていても、人としてはほとんど没交渉な人が多かった。

 その頃、比較的諸傾向を綜合した「詩人」といふ雑誌の同人は西條八十、日夏耿之介、山宮允、柳澤健、富田砕花、白鳥省吾の六人であったが、それとても半年ぐらいで止した。川路柳虹は「伴奏」といふ年四回刊行の小型のパンフレットを出していた。萩原朔太郎、室生犀星の両君は「感情」を出していた。百田宗治は「表現」を大阪で出していた。西村渚山の編輯で博文館から出ていた「文章世界」は二頁ぐらい新人の作品を載せていたが、稿料が一頁壹圓程度であった。現今いくらか市價のある童謡民謡といふやうなものも当時はまだ無かったから、詩に依る収入といふものは殆ど無いと言ってよかった。

 その頃、神秘主義に関する論争を、前田夕暮の「詩歌」や、上記の「文章世界」を舞台として、福士幸次郎、萩原朔太郎、岩野泡鳴、白鳥省吾などが書いた。そしてお互いに面接して意見を交換することが、いかに詩壇にとっても美はしいかといふやうな機運から詩話会が生まれたのである。

 詩話會の第一回は萬世橋駅上のミカドといふレストランで、會費も一圓乃至一圓五十銭といふ質素なものであった。爾来、毎月二十一日に集り、且つ會場もミカドに決まっていた。詩話會といふとミカドを連想する位であった。/後略/>*14「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

 同誌中の福士幸次郎著「自由詩の発達とその研究・五」の中でも「詩話會」にふれている部分があるので、抜粋して紹介してみたい。

<露風攻撃は実に連錦として持続した努力で行われ、「三木露風の如き象徴小僧は・・・・・」(大正二年夏、前田夕暮氏主宰の「詩歌」に現れた室生犀星氏の言葉である)等の反響を最初とし、議論は漸次に沸騰しはじめ、やがて三木氏側の川路柳虹の首唱によって、其の頃活動し始めた新詩人が集會し、意見を交換する事によって互ひの議論の不明なる分子を除かうではないかといふ主旨のもとに、會合が催す時まで続けられた。この會からやがて間もなく生まれたのが「詩話會」(大正六年十一月)である。/後略/>*15「自由詩の発達とその研究・五」福士幸次郎著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

 また、萩原朔太郎も*16「詩壇の思ひ出」(初出は『日本詩人』大正十四年四月号)と題して「詩話會」の誕生から『日本詩集』『日本詩人』発行の経緯、その舞台裏のことを「僕は田舎にいるため、詩話會の諸君とは殆ど交際が無く/中略/ただ時々の創作を寄稿するのと新潮社からのご依頼で投書家の詩を選するだけが、詩話會員としての僕の役目と思っている。/かくの如く、現在の僕の立場は、詩話會に対して準客員的であり、またいささか無交渉である如く見えるけれども、本来から言ふと、僕と詩話會とは、非常に深い関係があるので、この際、さうした歴史的の思ひ出を述べ、合わせて詩壇の追懐を語りたい。」と詳しく書いているので、『萩原朔太郎全集・第八巻』より抜粋して紹介したい。

<今の詩話會なるものが、始めて具体的に成立したのは、いつかの「日本詩人」で、川路柳虹君が発表した通りであるから、ここに再説を避ける。私の話さうと思ふのは、むしろ川路君の発表しない詩話會以前の歴史で、あのイヤミな小説の題目を真似て言ふと「詩話會の生まれるまで」の話である。

 詩話會以前の詩壇!それはずいぶん活気のあった詩壇である。しかし世間的には、詩が最も虐待され、極端に侮辱された時代である。即ちあの自然主義レアリズムが、極端にロマンチシズムを擯斥して、詩の本質的生命たる「感情」を虐殺した時代であった。この頃、僕等二、三の同志が発行した詩の雑誌に、故意に『感情』といふ名題を附したのも、一つは全くこの「叙情詩虐殺時代」に対する詩人的憤慨に発したのである。/中略/

一例をあげれば、自己の党派に属さない新作家は、実力の如何にかかはらず、之を芽生えの中に枯らしてしまふべく、既成の大家等が全力をあげて迫害した。之を現在の詩壇、実力ある新人を推薦すべく、先輩等が先馳けで努力している現詩壇と比較すれば、殆ど驚くべき時代の相違ではないか。/中略/三木露風の一派が、全詩壇の実権を独占していたのである。/さて当時に於いて、かくも詩壇が党派的であり、排他的の陰険な感情にみちていることは、最も僕等の文壇的気分を不愉快にした。藝術上の不満ならば、正面から理論を以て解決し得るが、この種の内情的な問題は、理屈で解決がつかないのである。如何にして此の不愉快な敵意を、相互の感情から融和すべきか? これが僕等の常に考へていたことである。そこで思ふに、これは詩壇の人々が、相互に交際の機会がなく、個人としての理解と友情がないためである。よろしく詩人は一堂に会し、藝術上の敵意を離れて交歓笑語しなければならない。/中略/

 かく僕の考へた時、ここに始めて今日の詩話會が萌芽したのである。詳説すれば、この時、僕と室生犀星を発起者として、詩壇の全方面に交渉し、一夕、一堂に会談せんことを要求した。幸ひにしてこの発起は、各方面の人々に同意され、党派の別を問はず、すべての詩人の参与する所となった。その第一回の会合は、しかしなから雑誌の上で行われた。即ち「感情特別号」がそれであって、露風氏、白秋氏を始めとし、当時一流の詩人が悉く一つの雑誌に作品で会合された。かうしたことは、今日では別に珍しくないが、当時の排他的であった詩壇では、実に空前の現象であったのだ。

 これに勢いを得た僕等は、進んでさらに人間的の友情を交換すべく、事実上の会合を要求し、誌上で大いに檄を飛ばしたのみならず、自ら感情詩社が発起者となって、実行の計画にかかったのである。然るにこの時、別の方面からして僕等の計画に賛同され、大いなる熱心をもって事の実現に努力された詩人が現れた。即ち川路柳虹君である。この川路君の熱心な尽力により、僕等の希望は直ちに実現されることができた。或る夏の夜、東京に於ける多くの知名な詩人たちが、始めて一堂に集合し、互いに初対面の挨拶を交換した。我々は早くから、互いにその名を知っていたけれども、人間として逢ったのは、実に今夜が最初であったのだ。しかしてこの会合こそ、今日の「詩話會」の最初の起原であったのだ。>*16「詩壇の思ひ出」萩原朔太郎著(初出は『日本詩人』大正十四年四月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

 こうして「詩話会」の誕生の様子を見てみると、一月十四日に朔太郎等が奔走して四詩社の第一回「詩壇会」がもたれ、その後何回か(毎月二十一日)この会合が開催されていた。そして十一月二十一日、山宮允と川路柳虹等が機が熟したとみて、「詩壇会」の席上において正式な会を創ろうということになったのではないかと推察される。であるからして「詩壇会」創立当初のそれぞれのグループの詩人各々が、自分たちがこの会を創ったという気概に溢れていたのではないかと推察される。この自分たちが創ったという自信が、後に「詩話会」の新人詩人達の反感を買い、解散へと追いやられたものと考えられるのである。この時期の朔太郎との論争は、「筑摩書房」版の『萩原朔太郎全集』に詳しい。

* 写真は省吾の校正が加えられていると思われる、省吾の蔵書「日本詩集」に夾まれていた紙片「詩話会」規則。この中に記されている委員十名の氏名は次の通りである。「生田春月、川路柳虹(会計)、佐藤惣之助、白鳥省吾、千家元麿、富田砕花、福士幸次郎(日本詩人編輯)、福田正夫(日本詩人編輯)、室生犀星、百田宗治。」この頃の会員は三十七名。月日は不明だが分裂後のものと思われる。資料提供「白鳥省吾記念館」

     

 省吾は自誌『詩と評論』を毎回朔太郎に送っていたらしいことが、朔太郎の十一月二十一日付けの葉書に書かれていたことは、先に紹介した。その葉書からみてみたい。

 <久しく御無沙汰して居ります。時折は貴兄からも御通信を下さい、「詩と評論」を毎月ありがたうございます、拝見はしながらつい御禮を怠ってすみません。それに就き十月号から田中茂氏の作を最近の論文の中に引例致しました、これは昨日と今日の讀賣に出て居ますからご笑覧下さい、早稲田文學で書いた私の文章が貴兄の感情を害したことを心苦しく思って居ます。>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 この文中の『早稲田文學』に書かれたものとは八月号に掲載された「現詩壇の神秘主義と現実主義」を指している(『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』)。これに対して省吾は書簡を送ったもようである。朔太郎から長い手紙を貰っている。文中の田中茂は省吾の『詩と評論』の同人でもあったのか、*17「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」の中には、「これは妙な関係で、幸徳秋水の所に田中茂という若い詩人がいたんですが、それが幸徳秋水の蔵書を全部僕に見せてくれたんです。」と記されている。省吾はこの青年の詩を『詩と評論』に掲載したらしい。それに対する批評を朔太郎は、省吾宛の封書にしたためた。これは十一月下旬の(推定)の封書として、『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』には以下のように掲載されている。長い文なので抜粋して紹介したい。

<貴兄の御注意に関して大体のご返事を致したく思ひます。/第一に田中氏の詩にリズムがある。ない、といふことで、小生はないといひ貴兄はあるといふのですが、かうした感覚上の問題については論理的な證明をすることのできないのを残念に存じます。/中略/兄はホイットマンやヴエルハーレンはもっと自由だから、田中君のも一向差支へないと言ふが、それは少しも意義のない反駁です。私は田中君や室生の詩が自由だからいけないと言った覚えはない、むしろ大いに自由であるべきことを要求しているのです。私の非難するのは/中略/「だらけた言葉」なのです。言葉のリズムといふことは勿論、私の言ひ出したことでも何でもなく、ずっと以前から皆の知っていることです。/中略/とはいへ、もちろん、私自身の作はまだ駄目です。殆ど我ながら愛想のつきるやうな未成品です、それ故、私自身の作に対する貴兄の非難は異議なしに(寧ろ悦んで)肯定いたします。/中略/

 次に「言葉の問題」で日本民族に感情生活がなかったといふ私の説に対して貴兄が古事記や萬葉集を引例して反駁されたのは興味あることでした。/中略/私はずっと以前から信じているのですが、日本人の藝術で純真なる感情をもったものは「萬葉集」以外に全くないといふことです。順ってこの点では貴兄の説に全然同感します。ただあの文中で私の説明が足らなかったことが兄の反駁を招いた原因でした。

 尚、神経衰弱云々といふ兄の言葉は私の場合には全くあてはまりません、実際、私の肉体及び私の藝術にはそうしたものの多いことは事実ですが、/中略/室生君の詩を貴兄が認めてくれたことは何よりも私の悦ぶ所です。/中略/尚、讀賣の論文で私が特に室生君と田中君とを引例したのは少しく考へる所があったからです。室生君に対しては前述のやような意味で彼を自省させる必要があったのと、表現上に於ける彼の近来の衒気を不満に思ったためにも彼を引例する要があったのですが、特に彼を名指しにしたのは(他にも求めればいくらでも名を指すべき人があるのに)、彼が私の親友であり私のすべてを理解しているからです、/中略/讀賣で室生を特に引例したのも、成るべく他人の神経を傷けたくなかったからです、(室生なら私が何を言っても怒るはずがない)

 それから田中茂君を引例したのも、深く考へての上でのことです、私も自分自身で経験のあることですが、詩壇に出始めの頃は、黙殺されるといふことが何よりも不愉快だったのです、自分に反響がないよりは、寧ろ罵倒される方がずっと嬉しかったのです。川路君が始めて私の詩を「未来」で「瓦だ」と罵った時、私は川路君に対して怒りよりも寧ろ異常なる感謝の念を抱いたことを記憶しています。そういふ私の経験からして、特に貴社の田中茂君を引例したのです、(ああした詩の例は他にいくらでもあるにもかかわらず)/中略/

 尚、貴兄が私のくだらぬ論文や創作に対して丁寧に読んだり反駁したりして下さることを深く感謝致して居ります、/中略/私の敵になる人ほど私はなつかしい気がするのです(かうした私の感情をかつて日夏君に話しましたが同君には理解されませんでした。室生と私はこの点で全く同じです。)ただ一度、柳澤君に対してはほんとに憎しみを感じました、/中略/併し一度詩談会であってから、柳澤君に対しても心から好い感じを抱くやうになりました。今では私は詩壇の凡ての人人と、晴々とした愉快な気もちで思想上の論争をすることができると思ひます(その必要があれば)、中略・とにかく今日は御返事まで申し上げます。/中略/それによって私共は一層よく理解し、且つ一層大きな敵国同士となるかも知れません。ではこれで失礼致します。萩原朔太郎>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 朔太郎のこの書簡に対して、省吾はすぐに返事を送ったらしいが、その内容は手許の資料からは分からない。しかし抗争はこれで終わらなかった。省吾の親友富田砕花が動いた。砕花と省吾の関係は、朔太郎と犀星の仲と同じであった。犀星は、朔太郎に非難を浴びせられると、直ぐに奔走した。砕花も省吾に非難が浴びせられると、すぐさま対処した。朔太郎の鋭い勘はそれを見抜いていたのだろうか、高田老松館にいた省吾に十二月十日付けの葉書が、前橋から届いた。

<御手紙は興奮と興味とを以て拝読致しました、あなたに対して私は一つの「義務」を欠いています、それはいつかの「詩歌」でかかれた、あなたのきびしい抗議に対して未だに御返事をしないことです。併しそれは近く出版する書物で弁明するつもりです、(もちろんあなたに宛てた具体的の文ではなしに)、こんどの御手紙に対しては、二,三日中に御手許までお返事を送ります、>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 「詩歌」でかかれた、とは「根底なき詩論を排す」(『詩歌』第七巻第六号・六月一日発行)である。十二月二十三日、富田砕花は『讀賣』に「詩の暴論者に」と題して萩原朔太郎に反論した。十二月二十四日、そして、また長い手紙が高田老松館の省吾の元に届いた。(『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』)

<御手紙拝見しました。/議論は議論としてお互い寛容なよい心もちを以て文通することのできるのは何よりもうれしいことです。/中略/詩に関するあなたの説に私の反駁をかくとあまり長くなりますから、それは後日にゆづることとし、ここではあなたの私に対する一つの最も明確な誤解について弁明致しませう。/あなたは私が山村暮鳥君の詩について書いた言葉を攻撃されます。/第一にあなたは山村君の詩が、日本の何びとにも理解されないのに私がそれを理解したやうな口吻をもたらしたのは虚偽だといふやうな考えをもたれているやうですが、これは明らかにあなたの考へちがひです。/中略/もしお望みならばあの「聖三稜玻璃」の中にある、どの詩篇でもあなたの御選定次第にお示し下さい。私は充分の解義をしてお答へ致しませう。/中略/

山村君の過去のすべてはかうした「言葉の新しい美」を捉むことによって成りあがったものです。言はばあの人の詩は「言葉のにほひ」が一切の生命となっているものです。然るに多くの人々は彼の詩から強いて言葉の表現する観念や意味や暗示をさがし出そうとします。そして失望します。それ故、私からみるとそうした人たちの態度が実に滑稽なのです。彼等はまるで見当違ひの方角をさがしている。順ってあるものは彼を一種の不可解な神秘思想家の如く考へ、またある者は狂人(これほど私を笑はせた批評はない)だとまで言ふのです。/中略/

 その結果、私は一面、その珍しい藝術に充分な独創的光輝をを認識すると同時に、一面、極力それを排斥しなければならなくなったのです。/中略/併し私は人間としての感情の純真を伴わないそうした卓上藝術を自分の信念の上から断じて許すことができない。私と室生とが山村君から別れて「感情」を出したのは実に、この反感に基因したものであった。/中略/もし、以上の私の言に疑があったら尚質問して下さい。かういふことで誤解をうけるのは実に不愉快ですから。

 次は福士幸次郎君に対する私の態度を申します。あなたはあの人に対する私の言に矛盾があると言はれますが、私は少しもそんな筈はないと思ひます。/中略/然るに私が「早稲田文學」及び「感情」の六号で同君を非難したのは彼の詩ではなくして、彼の思想でした。/中略/私は福士君の藝術が好きです。そして福士君の議論や主張に多くの抗議をもちます。

 かうした私の態度が矛盾でせうか。富田砕花は「早稲田文學」に於て、私の詩のあるものに賛辞を呈しながら一方に私の態度を非難しました。しかし私はそれを少しも同君の矛盾とは感じません。/私にとってはいつも「創作」は創作。「議論」は議論、「態度」は態度です。私は三木露風君の詩にはずっと以前からも不満をもっているのですが、同君のよい所を認めていることでも私はまた他の人に劣らないと思ひます。/中略/

 今日はこれだけのことを申しあげます。これでも私に対する貴兄の誤解の大半をとくことができると思ひます。尚、富田君の讀賣に書いた非難はあまりに乱暴です。私も反駁を書きましたが、もし新聞社で掲載してくれたらよんで下さい。/萩原生、/白鳥省吾様、>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 文中の「富田君の讀賣に書いた非難」とは、讀賣に発表された十二月十四日の封書「詩の暴論者に−萩原朔太郎君に寄す」を指している。(『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』)

 朔太郎の反駁は新聞に掲載されなかったらしい。『萩原朔太郎全集・第十二巻』には十二月十四日の封書と書いてあるが、二十四日の誤植ではないかと思われる。なぜなら、富田砕花が二十三日に「讀賣」に発表した「詩の暴論者にー萩原朔太郎君に寄す」を書いているからである。日夏耿之介は『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』、「群小詩壇」において、「用語の対立」として以下のように書いている。

<第二に用語の対立とは、口語自由詩を主張する者と文語を固守する者との対抗である。中略・萩原が「讀賣」に「叙事詩傾向の詩を排す」を掲げ、富田砕花が同紙に「詩の暴論者に」に答へたのは、直接用語の問題よりも寧ろ長編叙事傾向その事に座していたと記憶するが、凡そ詩形詩語の問題は当時何れの人々の間にもその重要な関心事となっていたのである。>*11『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

 この年もおしつまった十二月三十一日、また朔太郎から長い返書が届いた。山村暮鳥の過去の詩と現在の詩の解釈を巡って、先の手紙の続きの論争である。長い手紙なので、抜粋して紹介する。

<たびたび御手紙ありがたく存じます。/さて話が少しく枝葉にわたって心苦しく思ひますが、言ひかけたことだからしまひまで言わせてもらひます。/中略/それ故、もし夢からさめた山村君が今にしてまた過去のやうな詩を作ればそれは虚偽です。併しながら理性の目をさまさない過去に於いて、ああした詩を作っていたのは、極めて正しいことです。それは彼の「人」として恥ずべき過去ではあっても、「藝術家として」恥ずべき理由はないのです。/尚、この問題について御一考を願います。

「新潮」の十月号に書かれたあなたの主張は大体に於いて殆ど私と同感です。/詩は民衆を対象として作られるべきではないのです。あなたの言ふとおりに一人のよき霊魂は萬人に通ずべきものです。私もこのことは「月に吠える」の序で書いておきましたが一人の特異な感情は、−それがもし純真のものであれば−同時に萬人の感情に通ずべき筈のものなのです。福士君などのいふやうに詩人が民衆を度外視してはならぬなどといふことは、馬鹿気たことです。/私は極端な藝術上の貴族主義者です。順ってこの点ではあなたの説に大賛成です。尚、私に対する抗議を公表なさることは、私の最も同意する所です。「どこまで」あなたと私は一致するか、「どこまで来て」二人は別れるか。この分岐点をはっきりと認識することが、お互に最も肝心なことです。/中略/

 順って二人が共通する論題は、お互に素直に肯定して早くパスしてしまふことです。/「讀賣」の富田氏の反駁は、私にとってまるで無意義です。(私の反駁は同じ新聞に送っておいたが)あれは、少しも私の論議の主題にふれて居ません、あのたくさんの引例などは、私の主張とどんな関係があるのか少しも分からない。あれはまるで「ひやかし」半分のやうなもので同氏の態度の真実性が疑はれます。/私はあなたからは、あんな無意義なものでなく、もっと突っこんだ根本的な抗議をききたく思ひます。ではこれで失礼します。/萩原/白鳥省吾様/私共の議論はどんな場合に於いても公儀の怒りであって私情に渡らないことを主眼としませう、無邪気といふ言葉は取り消して「英雄的」又は「貴族的」といふ態度でやりませう、>*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

 「新潮」の十月号に書かれたあなたの主張とは、「新潮」十二月号に発表された「詩壇の一転機」のことである。(『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』)この時期省吾は萩原朔太郎と論争しながら、富田砕花、福田正夫等友人の民衆詩なるものに、懐疑をいだいていたようである。前掲した「詩、自然、社会」では「現詩壇に於いても民衆といふ語が余りに安値に取り扱はれている感がある。詩の民衆化といふ事は詩を通俗化することであるか、詩を一般人に解り易く調子を下ろすとすれば一種の堕落である。」と書いていた。乙骨明夫は「白鳥省吾論・民衆派のころ」に以下のように記している。

<そして雑誌「民衆」が登場する前後に出た次の二論文を見ると、民衆と詩との接触について、省吾が非常に慎重な態度で望んでいることがわかる。二論文のひとつ「詩壇の一転機」(新潮一九一七.一二)では

/私は詩が民衆を取材とした労働詩篇であることを要求しない、民衆の理解を標準とする通俗化を喜ばない。詩をもって民衆の思想を代表しようとは思わない。それには一面社会国家のためといふ風な功利的な見地をを交ふる危険があるからである。詩はもっと大きな高いところに標準を置かれねばならない(中略)彼等が民衆の詩と呼ぶホイットマン、カアペンターの如きも民衆を標準として詩作はしなかったらう。ホイットマンは自然の中に人間を置いて輝く肯定に詩の根底を置き、カアペンターはやはり楽天的な自然から発足して社会批評まで進んだのである。/

 と書き、「国民的詩人を翹望す」(文章世界一九一八.三)では

/私は吾が國の民衆を題材とすることを是認する、然しその詩作態度に於て民衆のためを念頭に置くならば、根本的に誤っていることを主張する。そして『自然』の神秘を背景もしくは根底とすることなしに民衆のみに詩があるとすればその要素に於いて最大のものを欠く、私は民衆を愛する。而して同時に『自然』の絶対を愛する。自然を離れて真に民衆に対する感動はない筈である。民衆のみに詩があると思ふのは、海が波だけであって、その底に静かな底があることを知らぬものである。/

と書いている。この頃の論文を見たところでは、省吾を民衆派の一員と見なすことにややためらうのである。/後略/>*9「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

 この「詩壇の一転機」は、*18「白鳥省吾年譜」には同月に「新潮」に発表され、『詩に徹する道』に収録された「民衆詩の出発点」の内容とほぼ同じである。収録する際にタイトルを変更したものと思われる。またこの時期、三木露風等の詩に対しては、「詩は単純な美の陶酔でもなく自己逸楽でもない、詩は生の力である、輝きである、力なきところに詩のありやうがない、人生の根底となり生活を支配する至上の宗教のやうな詩でありたい。/姑息な古い殻にしがみついている「若い老人」連が、呆れて詩ではないと思ふものをこそ私は望んですすむ、日本の詩壇はまさしく斯く行くべきである。」(「新しい表現」)として、一線を画していたようである。しかし、こうも書いている、「詩の民衆化といふことは、来るべき詩壇にとって大きい難関であり興趣ふかき領土である。選ばれた人々によって、民衆に対する徹底せる理解と表現を示して貰いたいものである、詩は如何なる場合でも絶対であり、個性の上に立って居ねばならない。」(「詩の民衆化」)と、誰もが書けない、独自の民衆詩を模索している様子も伺える。省吾の心は揺れ動いていたのだと思われる。この月、日夏耿之介は第一詩集「轉身の頌」を自費出版している。

 省吾は朔太郎との論争から何かを掴んだのであろうか、論争はこの年で終わっている。そして、朔太郎が 「讀賣」に書いた「叙事詩傾向の詩を排す」の裏を行くように、叙事的散文詩を書いている。*19『大地の愛』ではこの時期の作品を「力の嘆美」として四十三篇載せている。中でも「母の幻覚」は八十九行にも渡る散文詩である。「力の嘆美」中の「おお東邦の詩人よ」は、今後の自身の詩の在り方を暗示しているのだろうか・・・、ホイットマンの影響を色濃く受けているものと思われる。以下に詩集『大地の愛』より紹介する。

     おお東邦の詩人よ

   土より生まれて蒼穹にも優(ま)してかがやく

   おお東邦の詩人よ

   汝は森林の若葉から生まれた

   暁の風から生まれた

   日に焦げたる強健なる人民の子として、

   おお暖き黒潮のかしこの岸より

   世界の果ての星を打つように

   汝の心は躍る。

   剣と霊(たま)と鏡とに象徴されたる

   恵まれたる民族よ

   力と愛と生殖とよ

   汝の血には太古に垂落(したた)る潮の香が歌っている。

   東海の国土の上に

   輝く肉體の古代人の足音の揺曳を汝は尚ほ感ず。

   思へ凡ての物は均しく、低首(うなだ)れて汝に歌はるるを

    待つ

   第一の聲を待つ。

   都市、港湾、田圃は新しい文明の衣を着けて、

   鉄道、汽船、軍艦、船渠、電信等の不思議なる妖精に刺

   繍されているが

   それらをも讃めたたへよ

   その奥の尊い脉博、美しい魂を更に讃めたたへよ

   あらゆるものの思想と感覚の流るる音楽よ

   汝は聡(さと)き耳と心を持つ

   人のごとく山や川や草木や蟲や鳥や獣との友

    愛は汝を包む

   稚くして乳脂のごとき大地の

   空の下に輝いて素肌のごとく横はる喜びよ。

   汝は現時に於て虐げられたる沙門

   つねにその背に爛れた鞭の痕を感ず、

   されど屈せずに高く叫べ

   鋼鐵(はがね)の拳を以て自らの信條を立てよ、

   汝は東邦の太陽を乳房として

   限りなき蜜を吸ひ、永遠の路にすすめ。

* 詩は*19『大地の愛』より

 萩原朔太郎は翌七年四月頃から、再び作品発表をしなくなっている。しかし省吾と年賀状のやりとりはしていたようである(『現代詩読本8・萩原朔太郎』)。省吾は翌七年二月に発表した「詩、郷土、世界」(『科学と文藝』)と、三月に発表した「國民的詩人を翹望す」(『文章世界』)の結びで、この「東邦の詩人」を熱望している。

 

敬称は省略させていただきました。

   以上文責 駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1「富田君のこと」(『日本詩人』大正十三年十一月号、「詩人の印象・富田砕花氏」・新潮社発行)

*2『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*3『日本近代文学大事典・第五巻・新聞雑誌』(昭和五十二年十二月八日第二刷・日本近代文学館、小田切進編・野間省一・株式会社講談社発行)

*4『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*5「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』・昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)

*6『萩原朔太郎全集・第十二巻・書簡集』(昭和五十二年十月三日・筑摩書房発行)

*7「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

*8『明治大正詩選全』(白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*9「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

*10『日本農民詩史・上巻』松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*11『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

*12『現代詩読本8・萩原朔太郎』(附録「年譜」・昭和五十四年六月一日・思潮社発行)

*13「V日本の詩一〇〇年の動行・大正時代」橋浦洋志執筆(『日本の詩100年』・日本詩人クラブ編・二〇〇〇年八月三〇日・土曜美術社出版部発行)

*14「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

*15「自由詩の発達とその研究・五」福士幸次郎著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

*16「詩壇の思ひ出」萩原朔太郎著(初出は『日本詩人』大正十四年四月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*17「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「雑誌民衆のことなど」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*18「白鳥省吾年譜」(白鳥省吾著・詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*19詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十二月一日発行、平成十四年三月改訂版発行

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 つづく


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最終更新日: 2002/06/10