白鳥省吾物語 第二部 会報十五号

(平成十三年一月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   二、 民衆派誕生 大正七年

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    (一)、雑誌『民衆』

 大正七年(1918年)省吾満二十八歳、詩壇から中堅詩人として認められたことを裏付けるように、省吾は積極的に評論を種々の雑誌に発表している。一月「詩と散文詩」を『詩歌』に、二月「詩、郷土、世界」を『科学と文藝』に、「民衆詩人としてのホイットマン」を『現代詩歌』に、三月「詩と民衆との交渉」を『科学と文藝』に「国民的詩人を翹望す」を『文章世界』、四月「詩の本質への使命」を『女子文藝』に、五月「成長する詩しない詩」を『新潮』にそれぞれ発表している。(*1『詩に徹する道』、*2「白鳥省吾年譜」)

 *3『前期詩歌総目次』一月号の欄には、評論「散文詩の要求」、散文詩「悪魔他四篇」が、*4『明治大正詩選全』中の、「明治大正詩壇年表」には「散文詩の要求」とそれぞれ紹介されている。ほぼ同じ内容のものが、『詩に徹する道』と「白鳥省吾年譜」には「詩と散文詩」と紹介されている。収録する際に手を加えているものと思われる。

 一月、福田正夫の*5『民衆』が創刊されている。雑誌『民衆』については「民衆詩派」と同一に論じられているようであるが、ここでは雑誌『民衆』に絞って紹介したい。松永伍一は*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」に総目次を掲載して詳しく解説し、また評論している。「民衆詩派の功罪・第一章時代的背景と『民衆』」より抜粋してみる。

<雑誌『民衆』が創刊された大正七年(一九一八)一月に、かれら一群の詩人たちの主張がはじめて文学主張として正面におし出されたのではなかった。/中略/これら総体的な主潮を「時の要求」と見立てて、福田正夫を中心とする小田原在住の詩人達が、エコールの母胎となって運動を展開したといった方が正確であろう。創刊号に福田の起草になる巻頭言があって、さまざまの想像と批判とを受け入れるに充分な面をさらけ出している。

 われらは郷土から生まれる。われらは大地から生まれる。われらは民衆の一人である。世界の民である。日本の民である。われ自らである。われらは自由に創造し。自由に評論し。真に戦ふものだ。われらは名のない少年である。しかも大きな世界のために立った。いまや鐘は鳴る。われらは鐘楼に立って朝の鐘をつくものだ。

 私はまずここで二つの疑問を投ずる。一つはこの「宣言」にうたいこまれた芸術家の思想がどのような背景をもっていたかであり、今ひとつはかれらが描こうとする民衆がその時点において具体的にはどのような動きをしていたか、その動向と見あう形で詩人は自己の行動をどう論理化したかという点である。/後略/>*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

* 写真は*5『民衆』福田正夫編(大正七年一月創刊(資料提供・白鳥省吾記念館)

 この疑問については「民衆詩派の人々」で紹介したい。また*7『シンポジウム・日本文学20・現代詩』中の「第二章大正から昭和へ」(吉田熈生、中村稔、分銅惇作、大岡信、原子朗の対談を分銅がまとめたもの)、その他よりも抜粋してみたい。

<中村 整理のため教えていただきたいんですが、大正七年一月の雑誌『民衆』は、だれが創刊したんですか。

分銅 『民衆』というのは、小田原で福田正夫が中心になって大正七年一月に創刊された。ーーー今日『民衆』が過大評価されているきらいがありますが、この雑誌に民衆詩派の詩人が結集されたと見るんですね。事実同人は十三人ほどおりまして、その中に富田砕花とか、百田宗治、白鳥省吾、井上康文など、いわゆる民衆派といわれる詩人が入っていますけれども、実際は福田正夫を中心にした小田原在住の若い詩人達が中心で、そこに福田が自分の友人たちを誘い込む形で、白鳥省吾、百田宗治、富田砕花らが協力している。

 だから『民衆』という雑誌そのものを検討しても、実質的にそれほど画期的な意義があるとは思いません。ちょうど当時の「民衆芸術論」論争が頂点に達するのが、大体大正五年から七年のころで、/中略/大正七年を中心に民衆詩運動が展開されていったと見るわけです。/中略/しかし、とにかく民衆詩派といわれる人々が中心になって、大正の後期までの詩壇をリードしてくるような形が出てきますので、詩における「民衆」の意識がどういうものか、それが詩の抒情や方法にどういう変質をもたらしたかを検討する必要があるのではないか。/後略/>*7『シンポジウム・日本文学20・現代詩』(昭和五十三年十二月十日「株式会社學生社発行」)

 同誌同章「民衆の観念」において、先に挙げた「民衆詩派の功罪・第一章時代的背景と『民衆』」の中で紹介していた、「宣言文」を

<たとえば『民衆』の創刊号に、これは古沢太穂が書いた宣言文だと思うんですが、こんなことを書いているんですね。「われらは郷土から生まれる。われらは大地から生まれる。われらは民衆の一人である。世界の民である。日本の民である。われ自らである。われらは自由に創造し。自由に評論し。真に戦ふものだ。/後略/」>*7『シンポジウム・日本文学20・現代詩』(昭和五十三年十二月十日「株式会社學生社発行」)

と同誌は記しているが、古沢太穂は年齢的に合わない、誤植であると思われる。

 *8『生命で読む・20世紀日本文芸』に収録されている大和田茂著「民衆詩派の詩人達」は、もっとも新しい民衆詩派の史観である思われる。雑誌『民衆』についても書かれているので抜粋して紹介する。

<民衆詩派の詩人たちとは、ふつうには一九一八(大正七)年一月小田原から創刊された雑誌『民衆』を中心に結集した詩人たちをさす。すなわち、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾、冨田砕花、加藤一夫、井上康文などが゛代表的である。しかし、このなかで冨田砕花は『民衆』トラウベル号に英文のトラウベル論と翻訳「パンカースト」を書いているだけで一篇の詩も発表していない。また、白鳥は後年『民衆』とのかかわりが消極的だったと言っているし、さらに百田は、批判的立場を早い時期から明らかにしている。/中略/しかし、後述する雑誌『科学と文芸』や『民衆』、そして彼らが共同編集したアンソロジー『民衆芸術選』(聚英閣一九二〇.二)や『日本社会詩人詩集』(日本評論社一九二二.一)を見れば、白鳥も、百田も、そして冨田も高らかに民衆詩を詠じ、民衆芸術について熱っぽく論じていたことが明瞭であり、一時的にでもせよまぎれもなく民衆詩運動において共同行動をとった詩人たちだった。そこには、時代をリードしようという情熱と思想的なバック・ボーンのようなものが彼らに共通してあったのではないか。日夏から現代にまでつづく民衆詩派否定の脈々たる流れに対して、逆に近年は再評価の動きの方がより多く見られるが、ここでは彼らを支えた情熱と思想の源をできるだけ検討してみたい。/後略/>*8「民衆派の詩人達」大和田茂著(『生命で読む・20世紀日本文芸』・『国文学解釈と鑑賞』別冊・平成八年二月十日発行)

 このあと「生命主義」と言う観点から「民衆詩派」の検討に入っていく。この中で雑誌『民衆』の命名については、「民衆芸術論争が、ピークに達していたことが重なっていたからではないか。」とその経緯を説明して、以下のように記している。

<井上康文の回想(「『民衆』創刊前後」『民衆』復刻版別冊一九六八)には、福田から雑誌名について相談をうけたとき、「The people are The master of Life・・The people The people!」という創刊号裏表紙に刷りこまれたトラウベルの言葉「people」をめぐって、最初「庶民」と訳していた福田が迷った末に「民衆」に決めたことが書かれているが、これも同様の事情だろう。/後略/>*8「民衆派の詩人達」大和田茂著(『生命で読む・20世紀日本文芸』・『国文学解釈と鑑賞』別冊・平成八年二月十日発行)

 『民衆』の同人については、この論中の「注(1)」に以下のように記されている。抜粋して紹介する。

<『民衆』にはどこを見ても同人名簿はないが、第11号(一九一九.一)の年賀の挨拶欄に、井上康文、花岡謙二、渡辺順三、福田正夫ら、10名の連盟が載り、一行あけて、冨田、白鳥、百田の名が並んでいる。よって、この三人は同人でなく協力者と解せるが、第二号の百田「民衆雑記」(編集後記)には「この月から(表現)を(民衆)と一つにして出すことになった」とあり、少なくても初期において百田は同人であったはずである。/後略/>*8「民衆派の詩人達」大和田茂著(『生命で読む・20世紀日本文芸』・『国文学解釈と鑑賞』別冊・平成八年二月十日発行)

 この辺の事情は後に井上康文自身が*9『福田正夫・追想と資料』に「民衆創刊前後」と題して詳しく書いている。雑誌「民衆」については、あまり知られていない面が多いように見受けられるので、以下に抜粋して紹介したい。

<私が福田正夫氏を親しく知ったのは、大正三年の暮れである。大正五年一月には「農民の言葉」が出版されているが、福田氏が詩集を出したということはかなりあとで知った。私は大正三年の春(満十七歳)、上野の東京薬学校に入学したが、/中略/小田原の高等小学校を卒業する前後、短歌をやっていて、友だちの紹介で、家の近くの江良医院の薬局生をしていた花岡謙二氏を知った。/中略/私は春休みや、夏の休暇で小田原に帰り、福田氏の家が近い関係もあり、屡々訪ねていた。/中略/私は十二月の初め頃か、雑誌をやるから仲間に入れといわれて喜んで同人にして貰った。

 この時同人になったのは私の友人だった瀬戸一弥、斉藤重夫と、それに小栗又一(小栗上之介の孫)、銀行員だった桑原国次、桑原の友人の大磯の酒屋の息子という宮代直吉、花岡謙二、渡辺順三、田熊保行であった。花岡、渡辺、田熊は短歌、小栗、宮代、桑原は小説、瀬戸、斉藤、井上は詩の方であった。/中略/福田氏は雑誌を出すことを、白鳥、富田、加藤一夫に知らしていたし、大阪で百田宗治が「表現」を出していたが、「表現」をやめて、新たに福田正夫の出す雑誌に合流する相談をしていたようだ。この事は「民衆」の二号に百田が雑記に書いている。/以上が「民衆」創刊当時の同人の顔振れで、後に川崎長太郎君と、瀬戸弁護士の所に書生をしていた松田不久二が加わった。/中略/>*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 このあと、福田正夫と井上康文は雑誌の題名を決めるのに思案し、結局トラウベルの詩の「The People」を「Mob」から得た情報によって「民衆」に決定したと書いている。この時期、福田正夫がトラウベルと文通していたことを、同誌に*10「福田正夫とトローベル」と題して長沼重隆が書いている。そして、福田正夫がおのれの雑誌『民衆』を発刊する動機とも成ったと思われることを、長沼重隆が書いている。これは長沼重隆のホイットマン研究の動機にもなったものと思われる。長沼重隆著「福田正夫とトローベル」より紹介する。

<このトローベル訪問中、福田君の話が出、また福田が出していた雑誌「民衆」の話もよく出た。私はトローベルから福田の住所を聞いて福田との文通を始めた。井上康文兄との文通もそれからはじまり、トローベル訪問記を井上兄宛てにかいたりした。富田君もその後文通するようになった。/中略/百田宗治君もその詩集を送って貰った。/中略/アメリカではホイットマンの若い弟子であるということで、これという文名もないトローベルにとって、こうした日本からの手紙は余程嬉しかったようだ。『民衆』で出したトローベル号は彼はこれを手にして子供のように喜んでいた。/中略/

 私のホイットマンへの傾倒もトローベルあってのことであった。なぜ私の文集などを手がけずに、ホイットマンの研究を手がけて見ぬかといったのはトローベルその人であった。(一九七一年七月二十七日)>*10「福田正夫とトローベル」長沼重隆著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行)

 「民衆創刊前後」よりつづいて紹介する。

<結局「民衆」ということになった。私は大いに賛成し、創刊号の校正には福田氏に連れられて汽車に乗って藤沢の印刷所に行った。福田氏は学校があり、小田原から石橋まで通っていたし、二、三号は福田氏が編集したが、校正は私が殆どやり、やがて編集も私がやるようになった。私は三月の「井上康文詩集号」を出すと上京し、下落合の製薬所に勤め、間もなく東京市役所の化学分析室に入り、「民衆」の印刷所も東京に移し、何もかも一切、私の上にふりかかってきたような結果になった。/中略/「民衆」は、大正七年一月創刊号を出し、大正十年一月同人の短編小説を集めた新年号を出して終ったが、まる三年間に十六冊を発行した。経済的な内容はかなり苦しかった。/中略/>*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 井上康文はこのあと『民衆』全号を列記し、その内容をかいつまんで紹介している。

<五号は私が上京したので、印刷所を東京に移さなければ不便なので、福田氏が加藤一夫氏に相談したのであろう。加藤さんの紹介で、九段下の小川町の大成社でやってもらうことにした。この工場は春秋社のトルストイ全集の印刷を引き受けていたし、/中略/加藤さんの紹介では断り切れずに引き受けてくれたのである。>*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 上京した井上は、雑司ヶ谷亀原の省吾の借家に同居して、日給五十五銭の東京市役所に通い、『民衆』の編輯もしていたようである。そのせいもあって、大正八年の新年号が「白鳥省吾詩集」となったらしい。

<この新年号の終わりの方に、賀正として、井上、花岡、小栗、小山内(瀬戸)、渡辺、田熊、桑原、牧、斉藤、福田の名が列記され、一行あけて、富田、白鳥、百田の三人の名が出ている。これは、当時の「民衆」の同人と協力者をはっきりさせたものである。>*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 井上康文は、『民衆』創刊号から編輯、校正にたずさわってきたが、それは二円の同人費を払えないために、詩に対する情熱だけで行ったことであったと記している。そして印刷所を東京に移してから、福田正夫のまとまった送金もなくなり、同人費も集まらず、大正八年三月、十二号、二回目の「井上康文詩集」号を出して休刊となった。大正九年九月に新たに川崎長太郎、松田不久二を同人として復活号が出た。編輯校正は斉藤重夫であったが、印刷所は井上の所になり、「一切の面倒を見た」と記している。しかし、大正十年一月、十六号をもって終刊となった。井上はこの十六号を出すために花岡謙二の所へ金を借りに行ったが、断られ新年を迎えるために質屋から出してきていた、自身と妻の晴れ着を犠牲にしてお金を工面し、小田原の友人達の所に雑誌を届けに行った。井上は「大変だったろう」の一言もない友人達に失望し、続刊を諦めたようである。

 ここに井上康文は「民衆詩人」の呼称を初めて使ったのは「朝日新聞」の記者であるとして、以下のように記している。

<大正七年一月八日の「朝日新聞」文芸欄に、「『民衆』創刊号。最近民衆詩人として文壇に確かなる歩みを踏み出せし福田正夫氏の編輯せるもの。」という紹介記事が載った。これによると、民衆詩人という呼称を使ったのは朝日文芸部の記者が一番最初であるとみられる。(昭和四十七年一月二十九日)>*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行・非売品)

 このように雑誌『民衆』の発刊には井上康文が深く係わっていたことが分かる。これを松永伍一の『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪・第五章井上康文と花岡謙二」において見ると以下のように記されている。

<井上は小田原の染物屋の生まれ、のち東京薬学校を出るが、その年すでに白鳥の雑誌『詩と評論』(大正六年)で詩を書いた彼は、福田の誘いによって『民衆』の創刊にあずかった。当時のかれは、東京薬学校を出て中野製薬会社の職工をしていた。その後、東京市役所の技手を経て大正八年(一九一九)『新小説』の編集者となった頃から頭角をあらわし、『日本現代名詩集』を編さんして春陽堂から出したりした。/中略/井上は詩話会に入会してからも、『民衆』を第五号から終刊号まで編集していたが、福田と袂をわかつと詩人会を結成している。/後略/>*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪・第五章井上康文と花岡謙二」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 同誌の「民衆詩派の功罪」「第二章文学論争と批判」には以下のように記されている。

<雑誌『民衆』は三号で井上康文詩集号を、五号では北村透谷、六号では花岡謙二号を特集している。十号でトラウベル特集号を出し、創刊号でThe people are The master of Life:The people The people!を作品を通じて深める試みをしたが、十年(一九二一)一月、十六号をもって廃刊となった。その経費の大半は福田の負担であったらしく、全般的に経済上の困難さがつねにつきまとっていたことも、井上康文の「民衆のこと」を通じて知ることができる。(「民衆碑」建立の際のパンフレットによる)

 すなわち「『民衆』が創刊されたことによって、日本の自由詩の上に大きな革命をもたらし、民主主義の詩の運動はさかんになった。私たちは民主主義の詩人として人生を自覚し、『民衆』の生活の中に詩を見いだしたが、やがて新聞などにも民衆という言葉が使われたし、詩の批評家たちは、民衆詩とか民衆詩派とか民衆詩人とかいうようになり、われわれは加藤一夫、冨田砕花、白鳥省吾、福田正夫、百田宗治などと共に民衆詩人になってしまった。民衆詩の詩壇に於ける批判は厳しかったが、民主主義の詩人たちが、自由詩の上で大きな運動を起こしたことは事実であり、難解な象徴詩から自由、平明な詩が日本の詩壇にひろがったことは否めない」というのだ。この自負を含んだ井上の回想にウソはあるまい。/後略/>*6『日本農民詩誌・上巻』「第二章文学論争と批判」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 松永伍一の挙げた例文の続きを「民衆碑建立の際のパンフレット」より紹介する。

<高村光太郎、福士幸次郎、山村暮鳥、室生犀星、佐藤惣之助、萩原朔太郎などの自由詩人、武者小路実篤、千家元麿などの白樺派の詩人たち、これらの詩人たちは一面民主主義の詩人たちと共通なところをもっていたし、象徴主義に抵抗した自由詩人であった。民主主義の詩人がもったヒューマニズムと、白樺派の詩人たちのもったそれと共通であり、白樺の有島武郎がホイットマンの「草の葉」を訳し、白樺でホイットマンを紹介したことなども「民衆詩」の運動と共通するところがあった。

 「民衆」は「民衆詩」という新しい詩脈を作った。それは日本の自由詩運動の上の大きな革命であった。>*「民衆碑」建立の際のパンフレット(「民衆」のこと・昭和三十三年十一月六日・杉並区荻窪の家にて・井上康文記・「民衆碑」に就いて・井上付記)

 「『民衆』の総目次」は松永伍一の『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」「第一章時代的背景と『民衆』」の末尾に紹介されている。それには「創刊号に牧雅雄を発行人にしたのは、福田が小学校教員であったため名を出せなかった」こと、『表現』を『民衆』と一つにしたこと、編集は井上康文が創刊号から終刊号まで当たっていたことが記されている。

 省吾のものとしては、大正七年の十二月号「トラウベル号」に「ホーレス・トラウベル論」があり、大正八年の新年号が「白鳥省吾詩集」号と銘打ってあるが、『民衆』に発表されたものはこの二件だけであり、深く関与していないことが察せられる。

雑誌『民衆』発刊の頃については白鳥省吾も、自著*11『現代詩の研究』「民衆詩の起源と発達」の中で一項目を設けている。 これは民衆詩派に加わってから発表されたものである。重複する部分もあるが、「民衆詩の起源と発達」「四、『科学と文藝』『表現』『民衆』に就いて」を紹介する。

<詩壇の民主主義運動がこれ程までによく徹底したことは、その主張が時代の生きた要求に 適応したのと、各詩人の長い間の忍従的な努力にある。古き文芸並びに社会に対する反抗、破壊、それと同時に新しき文芸並びに社会の建設、それらへの論議と作品とは各新聞雑誌に発表されてきたが、次のような純粋な同士の発表機関がその機運を助けたこと甚だ大であった。

 『科学と文芸』は加藤一夫編集で、大正四年九月の創刊、四六倍版であったが、詩壇との直接的な交渉を持つようになったのは、洛陽堂の発行に移って菊判百三十余項になった大正七年以後である。その頃加藤一夫、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾が詩や評論を発表した。

 『表現』は百田宗治編集で大正四年七月創刊、菊判十六項であつた。必ずしも月刊でなく、また一人雑誌とも称すべきものであるが、富田砕花、福田正夫、白鳥省吾も時として執筆した。大正七年頃まで続いた。通巻三十冊であった。
『民衆』は福田正夫編集で大正七年一月創刊 、「われらは郷土から生まれる。われらは 大地から生まれる。われらは民衆の一人である。世界の民である。日本の民である。われ自 らである。われらは自由に想像し、自由に評論し、真に戦うものだ。われらは名もない少年 である、しかも大きな世界のために、芸術のために立った。今や鐘は鳴る。われらは鐘楼に 立って朝の鐘をつくものだ 。」と表紙に標語を掲げていた。菊判二十四項前後で、福田正夫が主となり、その周囲の井上康文、井上謙二、小栗又一、齋藤繁夫の推奨につとめた。時として百田宗治、富田砕花、白鳥省吾、加藤一夫も書いた。同年三月「井上康文詩集号」、 五月「北村透谷号」、七月「花岡謙二詩集号」、十二月「トラウベル号」、八年一月「白鳥省 吾詩集号」を出してまもなく休刊した。九年九月復活号を出して、執筆者も大差なく十一月 「福田正夫詩集号」を出したが、十年一月には内容が小説中心に移動して、やがて廃刊した。


 「民衆」という言葉はトラウベルの詩に多く見受ける The pepoleから出ているが、世にいつからともなく、民衆詩人なる言葉がこれらの詩人に冠せられるようになったのも、この『民衆』創刊の以後のことである。民衆詩の萌芽は大正五年前後からであるが底力ある開花期を示したのはやはり『民衆』発行の頃である大正七、八年である。これは泰西の民主詩人の紹介と相俟って作品もまた充実に向かったものである。

大正八年三月、富田砕花の詩集『地の子』が出、六月、白鳥省吾の詩集『大地の愛』が出た。今日に於いてこそ社会問題が堂々と論議されているが、しかも民衆という言葉さへ大正七年頃には危険視されていた。福田正夫が『民衆』を創刊した頃その題名が悪いというので、時々、刑事に悩まされたという話は、今でこそ一笑話であるが、その頃は重大なことであったのだ。時代も変わったのである。そして言うべきことを力強く言ってきた少数の詩人の力を認めねばならない。> *11『現代詩の研究』「民衆詩の起源と発達」「四、『科学と文藝』『表現』『民衆』に就いて」白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

 この中に紹介されている井上謙二は花岡謙二の誤植である。この他、*12「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「雑誌民衆のことなど」では、『民衆』発刊の頃のことを以下のように話している、抜粋して紹介する。

<伊藤 最初に出た雑誌は福田さんの『民衆』ですか。

白鳥 そうじゃありません。民衆詩運動は、雑誌としては『早稲田文學』とか、『文章世界』とか、『科学と文藝』とかに散らばって、全体としてムードをかもし出したわけですね。しかし民衆詩派という意味において、雑誌というふうなものを出したということになれば、あるいは『民衆』かもしれませんね。しかし『民衆』には、僕らは参加していないのです。福田君が小田原の後輩とやっていたのを、ときとして横ちょから応援したという程度で・・・・・。『民衆』というのはばかに派手なんで、歴史に残っておりますけれども、実際の仕事はあまりしてないんですよ。

伊藤 そうでもないんじゃないですか。白鳥さんの作品も特集号になって載っていますし・・・・・。百田さんが大阪で出した『表現』はどうなんでしょう。

白鳥 あれは百田君が一人で大阪でやって、せいぜい十六頁内外のものです。あれには富田と私が時折書いていますね。

伊藤 あと加藤さんの『科学と文藝』は?

白鳥あれも長く続かなかったんでしょう。

伊藤 中心メンバーの詩人達が集まって、会議というほどのことがないにしても、話しあったことはありませんでしたか。ともかく顔を合わせるようになったのは、雑誌『日本詩人』が出てからですか。

白鳥 つまり集まるようになったのは、詩話会のグループとして集まっただけで、思想的な集いというのは、ほとんど見られなかったですね。/後略/>*12「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」(『文學』19647・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 省吾は「民衆詩」と雑誌『民衆』を分けて考えているように感じられる。雑誌『民衆』には直接関係していないが、間接的には応援していた。それらは「民衆詩」あるいは「民衆詩派」に包含されるものであったようである。また民衆詩派を論ずる諸氏は「思想」を問題にしているようであるが、省吾はあまり深くは考えていなかったようである。このことに関してはまた後に触れたい。

 この月に、室生犀星の第一詩集『愛の詩集』が「感情詩社」から発行されている。室生犀星は当時の様子を*13『私の履歴書・第十五集・室生犀星』に書いている。

<私もようやく自分の仕事を大切にするようになり、詩の雑誌「感情」を通巻三十二冊発行した。いまの同人雑誌である。多田不二、竹村俊郎、山村暮鳥、萩原朔太郎、恩地孝四郎の顔ぶれであった。雑誌の経営の下手な私だったが町の本屋でよく売れ、私の生活もそれに打ち込むようになった。印刷とか製本とか洋紙のことが判りはじめると、私は自分の詩を集めて一冊にしたいのぞみを持ち、その時養父が死去して金が私の手元にはいり、それを元にして「愛の詩集」の印刷に着手したのである。もちろん、萩原や竹村は部数引き取りという名義で手伝ってくれ、恩地孝四郎が装幀してくれた。私は二十九歳になり大正七年の十二月の発行であった。/後略/>*13『私の履歴書・第十五集・室生犀星』室生犀星著(昭和四十年十月一日・日本経済新聞編・野田金治発行)

 

 このなかで犀星は『愛の詩集』の発行を十二月としているが、一月の誤植であると思われる。『感情』大正七年一月号「詩壇時言」には萩原朔太郎が白鳥省吾の事を書いている。*14『萩原朔太郎全集・第八巻』より抜粋して紹介する。

<● 「平凡なる実相の奥に神秘をみる」といふのは、白鳥省吾氏などの藝術上に於ける表現的信条であるやうだ。かうした態度(言はば神秘的写実主義)は明らかに汎神論の思想からきて居る。私は必ずしもさうした信仰に意義をもつものではない(一時は白鳥氏を誤解したこともあるが)。併しながら、私自身の特別な個性と肉体とは、さうした汎神論的信仰にはどうしても安心することができない。すべての人には「眞」であることも私自身には「眞」でない。私には私一人のための「特別な神様」しか必要がない。だから私は私の肉体としての哲学から、私以外の他の全ての思想を異端として排斥する。私はあくまで私の信ずる神秘的感傷主義のために、「彼等」を敵として闘ふつもりだ。

 ● 神秘思想が文明の敵であるなどといふ福士幸次郎氏の説は全く意味のないことだ。文明を妨げるのは神秘思想ではなくして、却ってトルストイなどの現実思想だ。私はトルストイの呪った文明生活を極端に熱愛するものだ。しかもそれがために私の神秘思想は少なくも矛盾を感ずることはない。/中略/

 ● 藝術上に於ける信条の争闘を、個人としての私情と混同して、女の子のやうな意地悪な素振りを見せる人がある。/私共の争闘はいつも男らしく堂堂としかも無邪気にやりたいものだ。意味ありげな「あてこすり」や、人の内股をねらって舌を出すやうな下品な態度の人を見るのは不愉快だ。/後略/>*14「詩壇時言」萩原朔太郎著(初出は『感情』大正七年一月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

 

 これは、前年に省吾と書簡でやりとりした内容とよく似ている。朔太郎が十二月三十一日に省吾に寄せた書簡には以下のように記されていた。

<私共の議論はどんな場合に於いても公儀の怒りであって私情に渡らないことを主眼としませう、無邪気といふ言葉は取り消して「英雄的」又は「貴族的」といふ態度でやりませう、>(前掲)

 

 この後、省吾と朔太郎は不仲になり、絶交したように詩史は伝えているが、二人は「論争は論争として」この後も、「詩話會」を中心にして、旅行をしたりしているのである。最後まで紳士的につき合っていたことが*15『文人今昔』には描かれている。(前掲)

 二月に発表した「詩、郷土、世界」(『科学と文藝』)は、省吾の詩の原点にふれることが記されているものと思われる。

<わが血液には郷土の音楽が流れている、遠く歩んで来た民族の心が蘇生っている、これはどうしても否定することの出来ない事実である。私はこの郷土といふものの影響を脱却することが出来ない、又、脱却しようと欲求することもない、寧ろこれを喜ばなくては鳴らない、これを本質として飛躍するところに前面に展開されている『世界』を明確にし、詩の広い領土を純粋にする、その出発点を与へる、この意味に於て東方を出でて東方に囚われざる解放されたる東方の詩人の出現を俟つ、真に日本的なることは真に世界的なることである、これからの詩は世界人の詩でなくてはならない。>*1『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 萩原朔太郎が『日本詩人』第五巻第四号・大正十四年四月号に寄せた*16「詩壇の思ひ出」の中に、「民衆詩派」についてふれている部分があるので、抜粋して紹介する。

<丁度この頃、思潮界に於いてデモクラシイの声があげられ、政治活動と相俟って、文壇における民主主義が新興し、盛大の勢いで創作壇を風靡した。吾が詩壇に於て、まっさきに此の潮流に乗じ、民衆詩派の先頭に立ったのは、小田原に於ける福田正夫君であった。福田君の雑誌を「民衆」といひ、ずいぶん元気の好いものであった。彼等の敵手に立てたものは、詩壇の高踏的貴族主義者の一派であって、その黒表(ぶらっくりすと)には、多分僕などが楽書されていた。そしてこの民衆派の運動は、当時既に大家であった白鳥省吾君によって、統括的に指揮されていた。大阪の百田宗治君が、同時にこの運動の先鋒に立った。別に一方で、加藤一夫君等の社会主義者が之れと連接していた。/中略/

 即ち「象徴詩派」「自由詩派」及び僕等の「感情詩派」の他に、別に「民衆詩派」の一派が加はり、/中略/今日の詩壇の現象たる無詩派時代を現すべき、時代の流動が前兆されてきた。始め僕等の予想した如く、詩話會創立以来、個人間の私怨的感情が一掃され、同時に党派的偏見や政略が絶滅し、詩壇の空気は、非常に自由で明るいものとなってきた。尤も詩話會の創立当初は、多少前時代の遺風が残っていて、種種の政略的なる陰謀術作が行はれ、盛んに一部の人々の暗中活劇が行われたやうに噂されている。しかし僕は、この頃既に田舎に帰郷してしまっていて、爾後の消息に通ずることができない。僕が詩話會に出席したのは、当初の一・二回に過ぎなかった。爾後の事務は主として川路君と室生君が継続していた。>*16「詩壇の思ひ出」(『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行より・初出は『日本詩人』第五巻第四号・大正十四年四月号)

 中堅詩人として活躍し始めた省吾の脳裏に浮かんだものは、中学時代まで過ごした、故郷築館町の農民の姿であり風土であった。「民衆」と呼ぶには余りにもかけ離れた生活をしている、小作人の姿であった。


     (二)、「殺戮の殿堂」 

 『詩歌』三月号に「殺戮の殿堂」が掲載されている。遊就館はかつて、東京九段の靖国神社境内にあった武器博物館である。この詩は今日、省吾の代表作として諸誌に掲載されているものであり、*17『民衆』大正八年の新年号「白鳥省吾詩集」号、*18詩集『大地の愛』に収録され、『日本社会詩人詩集』(大正十一年一月七日・日本評論社発行)に収録された際には、検閲によって削除された作品でもある。内藤ユ策の「抒情詩社」より発行された『大地の愛』より紹介する。行替えに一段下げた数文字を入れるのが特徴でもあったのか、決して当方の誤植ではない。原文にはふりがながふられているが、ここでは都合上ふしていない。

     殺戮の殿堂

   人人よ心して歩み入れよ、

   静かに湛へられた悲痛な魂の

   夢を光を

   かき擾すことなく魚のように歩めよ。

   この遊就館のなかの砲弾の破片や

   世界各國と日本とのあらゆる大砲や小銃、

   鈍重にして残忍な微笑は

   何物の手でも温めることも柔げることも出来ず

    に

   その天性を時代より時代へ

   場面より場面へ転転として血みどろに転び果て

    て、

    さながら運命の洞窟に止まったやうに

   疑然と動かずに居る。

   私は又、古くからの名匠の鍛へた刀剣の数数や

   見事な甲冑や敵の分捕品の他に、

   明治の戦史が生んだ数多い将軍の肖像が

   壁間に列んでいるのを見る。

   遠い死の圏外から

   彩色された美美しい軍服と厳しい顔は、

   蛇のぬけ殻のやうに力なく飾られて光る。

   私は又手足を失って皇后陛下から義手義足を賜

    はったといふ士卒の

   小形の写真が無数に並んでいるのを見る、

   その人人は今どうしている?

   そして戦争はどんな影響をその家族に与へたら

    う?

   ただ御國の為に戦へよ

   命を鵠毛よりも軽しとせよ、と

   ああ出征より戦場へ困苦へ・・・・・

   そして故郷からの手紙、陣中の無聊、罪悪、

   戦友の最後、敵陣の奪取、泥のやうな疲労・・・・・

   それらの血と涙と歓喜との限りない経験の展開

    よ、埋没よ、

   温かい家庭の団欒の、若い妻、老いた親、なつかしい

    兄弟姉妹と幼児、

   私は此の士卒達の背景としてそれらを思ふ。

   そして見ざる溜散弾も

   轟きつつ空に吼えつつ何物をも弾ね飛ばした、

   止みがたい人類の欲求の

   永遠に血みどろに聞こえくる世界の勝ち鬨よ、硝煙

    の匂ひよ、

   進軍喇叭よ、

   おお殺戮の殿堂に

   あらゆる傷つける魂は折りかさなりて、

   静かな冬の日の空気は死のやうに澄んでいる

   そして何事もない。

*18詩集『大地の愛』(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)より

* 写真は昭和初期の靖国神社

 あえて全部載せてみたが、この詩については諸氏が評論を書いている。乙骨明夫の*19「白鳥省吾論・民衆派のころ」より紹介する。

<この作品ははじめ「詩歌」(一九一三・三)に発表され、「大地の愛」に収録された後「日本社会詩人詩集」(一九二二・一)にのせられた時には、検閲にかかって削除されてしまったという作品である。この作品は省吾の代表作であるとともに、その時代の傑作のひとつであると私は考えたい。民衆詩派の作品の一欠点と見られる感情過多がこの作品には見られない。作者はよく感情をおさえ、客観的表現に徹し、しかも反戦の心を読者におこさせるものがある。>*19「白鳥省吾論・民衆派のころ」(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

 伊藤信吉は*20『鑑賞現代詩U大正』、*21『日本反戦詩集』においてとりあげている。『鑑賞現代詩U大正』より紹介する。

<遊就館へいって陳列されたさまざまの武器をみ、戦功のあった将軍たちの肖像や、傷ついた兵士たちの小さな写真などをみて、作者はそこに軍国主義日本の象徴を見た。殺戮の殿堂!そう恐るべき殿堂を見た。しかもそれは軍国思想鼓吹のために扉をひらいている。詩の表面には書かれていないが、作者は「あらゆる傷つける魂は折りかさなりて」いるその殿堂で死の戦慄をおぼえた。戦争に対する反撥と嫌悪。軍国主義に対する反対。作者はそういう批判的認識を、「殺戮の殿堂」という主題で書きあらわした。>*20『鑑賞現代詩U大正』(昭和四十九年六月二十日・筑摩書房発行)

 と書き、つづいて「リアリスティックな重量感のある作品」と評価している。

<ある意味でこの詩は作者の激情に発しているけれども、しかし作者はそのような主観の激発を抑え、落ちついた態度で、リアリスティックに遊就館の情景を描いた。私はこの作品構成に迫力と重量感を感じるが、それは作者が激情を抑え、そうすることによって陳列された武器や器具や写真を一つ一つその目でたしかめ、それをリアリスティックに表現したことによるのである。もちろん作者はその認識や激情をすべて抑えてしまったのではない。「鈍重にして残忍な微笑みは、何者の手でも温めることも出来ずに」という部分をとってみれば、ここで作者はあきらかに戦争の残忍性をみたし、軍国主義の冷酷さをみた。また「命を鴻毛よりも軽しとせよ、」以下十余行の部分では、「御国の為に戦へよ」という絶対命令が、戦場へ連れ出された兵士たちをどんな運命にみちびき、その家族たちにどんな思いをさせたかを、ひとつの典型として描き出している。そこに作者の激情がひそむ。作者の認識や批判−そこに発する激情が、リアリスティックな手法ととけあって、作品ぜんたいに重量感をあたえた。

 戦争や軍国主義に対する反対は、幾人かの詩人・作家によって作品化されている。それらの作品の中にあって、この詩には観念の空転や主張の怒号がなく、動きのない遊就館の空気をそっくり生かして、落ちついた態度で、「殺戮の殿堂」とその意味を描いている。わが国の反戦詩の中でもすぐれた一篇である。>*20『鑑賞現代詩U大正』(昭和四十九年六月二十日・筑摩書房発行) 

 次に、*21日本反戦詩集』では

<白鳥省吾はふしぎな詩人である。この詩人がもっとも旺盛な作品活動をしたのは大正中期だったが、その業績をたどると、「耕地を失ふ日」「殺戮の殿堂」をはじめ、はっきりとした主題の反戦詩が目につく。その数は十余編を数えるだろう。十編以下ということはない。おそらく明治・大正期を通じて、反戦詩の第一人者は白鳥省吾だった。質的にも量的にも注目すべき作品が多い。>*21『日本反戦詩集』・秋山清、伊藤信吉、岡本潤編(昭和四十四六月二十五日・「大平出版社」発行)

 と書き、省吾の「殺戮の殿堂」の内容を「白鳥省吾の発言は強烈である。」であると評価し、

<「殺戮の殿堂」「耕地を失ふ日」の二編は、単に民衆藝術のすぐれた収穫であったばかりでなく、「国民的感情」の魔力を突破した作品として、歴史的に高く評価される。このような意味で白鳥省吾は、すぐれたブルジョワジーの歌い手といえるが、そこに一人のホイットマンを見ることができるだろうか。たぶん困難である。そしてこれを反戦詩にかぎっていえば、やはり島崎藤村・与謝野晶子・白鳥省吾らをつらねたところに、ようやく一人のホイットマンが望見されるのではないか。一八九七(明治三〇)年から一九二一(大正一〇)年前後にいたるおよそ二五年間を圧縮し、そこに三人の詩人を重ねあわせるとき、はじめてブルジョアデモクラシーによる一人の反戦詩人の像が、確実に形成されるのである。>*21『日本反戦詩集』・秋山清、伊藤信吉、岡本潤編(昭和四十四六月二十五日・「大平出版社」発行)

 と結んでいる。また、*22『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞』中の「詩の鑑賞X」に、小野十三郎が書いているので、批判的部分を除いて抜粋してみる。

<民衆詩派の詩人たちの中でも精力的に仕事をしたのは白鳥省吾で、大正の全期間を通じて十七冊の詩集を出している。/中略/この詩はそれらの中で比較的構成においてまとまりを見せている。民衆詩派のエコールを代表する作品としてこの詩をここに挙げたのは、その構成力の点と、歌われている反戦的テーマの今日的意義を考えたからである。/中略/当時のデモクラシー思潮のながれと雰囲気の下にあってもかなり勇気を要しただろう。ここから全体としてまだ芸術至上主義的な傾向にあった詩壇に対して、民主主義的な立場を明確にし、抒情の基盤を人民の現実生活におこうとする「民衆詩」の主張を読みとることができよう。/後略/>*22『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞』小野十三郎著「詩の鑑賞X」(昭和二十七年四月五日・創元社発行)

 松永伍一も『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪・第四章白鳥省吾の位置」に以下のように書いている。

<彼の代表作「殺戮の殿堂」は反戦詩の遺産の例証として今日考えるのに充分な力量感にみちている一つだ。中略。白鳥はこの詩に「皮肉」をこめるよりむしろ激烈な怒りをこめているようであるが、その怒りがかれの持ち味であり、また民衆詩派に共通する社会への眼を裏書きするものであった。/後略/>*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪・第四章白鳥省吾の位置」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 

 この他、伊藤信吉は*23『文学』(昭和六十年一月十日・同年六月十日・六十一年六月十日・岩波書店発行)において三回にわたり「白鳥省吾論」を書いており、この中の「民衆派のプロレタリア詩的先駆性・上・中」に於いてとりあげている。また先に挙げた、*24『文学』誌上の「対談・プロレタリア詩とその周辺・伊藤信吉・大岡信」でも伊藤信吉は以下のように話している。「U民衆詩派ー白鳥省吾、福田正夫」より抜粋して紹介する。

<伊藤 民衆派は軟骨の文学だと私は言ったけれども、しかし、白鳥省吾さんの仕事をみると、軟骨であるにもかかわらず、不思議なことに戦争について、厭戦、非戦、反軍国主義などのテーマの詩を、あの穏健な人が驚くほどたくさんつくっている。戦後は居住地の公安委員になったりした穏健な思想の人が、反軍、反戦の詩をいちばん多くつくっている。不思議な詩人です。

大岡 はあ、そうですか。それは知らなかったな。

伊藤 海軍の詩まで作っている。普通はだいたい陸軍でおしまいだけれども。

大岡 そうですよね。だいたい戦争批判の詩で対象になるのは陸軍ですものね。

伊藤 その系統の白鳥作品の典型が靖国神社を背景にした遊就館の「殺戮の殿堂」と、「耕地を失ふ日」。この二つを白鳥さんの反軍、反戦、非戦の代表詩としていいと思います。/中略/こういう詩をみて、これは民衆派の文学ということでなく、むしろプロレタリア詩として第一級の作品であるという、そういう反省が私に出てきたわけです。/中略/

大岡 僕ら、白鳥さんの詩は、僕らなりに先入見がありますからね。民衆詩派、ああ、行分け散文詩、とかね。北原白秋のやっつけた言い分に従って、この一派の詩は行分け散文詩に過ぎなくて、全く非詩的なもの、非芸術的なものであるという、そういうことで最初に頭に入っちゃっているから、詩そのものについてよく読んでいないのですね。>*24『文学』「対談・プロレタリア詩とその周辺・伊藤信吉・大岡信」「U民衆詩派−白鳥省吾、福田正夫」(昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

 

 このように諸氏が評価しているこの詩は、省吾の数多い詩の中でも群を抜いているものと思われる。さながら写真集を眺めているような錯覚に陥る。この中で「海軍の詩」と呼ばれれている、「海上の憂鬱」を紹介する。

 

     海上の憂鬱

   海に浮かぶ軍艦十数隻、二万の水兵の形づくる男

    性の國、

   煤煙と雑音と港をながれる重油の匂い。

   一切の兵器は磨き上げられ、

   巨大なる砲門は日に熱し、大砲の弾は三里もブ

    ッ飛ぶのだ。

   科学の力と極致と國の富とを傾注して、

   人間の集団の血と汗によって完成された壮観。

   ああこの時代錯誤の哄笑、軍縮申し合わせは一つの

    良心であるか、

   ムズムズと戦争がしたくなるのは誰だ。

   緊張とナンセンスと虚無と残虐と浪費と

   個々の人間の生活難とおおそして平和といふ

    奴。

   千の人間をのせてる軍艦には

   ほぼそれに近い灰色のシャツとズボンが洗濯さ

    れて干されてある。

*21『日本反戦詩集』(昭和四十四六月二十五日・「大平出版社」発行)より

* 写真は昭和初期の航空母艦と複葉機

 「海上の憂鬱」は*25『明治大正文学全集三十六巻』(昭和六年十二月・春陽堂発行)その他にも掲載されている。

 これら一連の反戦詩はかつて省吾が中学時代まで過ごした、郷里築館への哀愁へとつながっているものと思われる。このことに関してもまた後に紹介したい。伊藤信吉は「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」において、この作品を詳しく解説をしている。なお、省吾の反戦詩については第二詩集『大地の愛』の頁において再度採りあげてみたい。

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*2「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』白鳥省吾著・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*3『前期詩歌総目次』小野勝美編著(昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)

*4『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編(大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*5『民衆』福田正夫編(大正七年一月創刊)

*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*7『シンポジウム・日本文学20・現代詩』(昭和五十三年十二月十日・株式会社學生社発行)

*8「民衆派の詩人達」大和田茂著(『生命で読む・20世紀日本文芸』・国文学解釈と鑑賞・別冊・平成八年二月十 日・至文堂発行)

*9「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行)

*10「福田正夫とトローベル」長沼重隆著(『福田正夫・追想と資料』昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編発行)

*11『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*12「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」(『文學』19647・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*13「私の履歴書・第十五集・室生犀星」(昭和四十年十月一日・日本経済新聞編・野田金治発行) 

*14「詩壇時言」萩原朔太郎著(『感情』大正七年一月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*15『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*16「詩壇の思ひ出」萩原朔太郎著(『日本詩人』大正十四年四月号・『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

*17『民衆』大正八年新年号「白鳥省吾詩集」号

*18詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)

*19「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』・四十五年八月・至文堂発行)

*20『鑑賞現代詩U大正』伊藤信吉著(昭和四十九年六月二十日・筑摩書房発行)

*21「海上の憂鬱」白鳥省吾作(『日本反戦詩集』・秋山清、伊藤信吉、岡本潤編・昭和四十四六月二十五日・「大平出版社」発行)

*22「詩の鑑賞X」小野十三郎著(『現代詩講座第三巻・詩の鑑賞』・金子光晴他著・昭和二十七年四月五日・創元 社発行)

*23「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・上・中・下」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・同年六月十日・六十一年六月十日・岩波書店発行)

*24「対談・プロレタリア詩とその周辺・伊藤信吉・大岡信」(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

*25『明治・大正詩集・日本詩人全集32』(森鴎外他著・清岡卓行編・昭和五十年七月十日五刷・新潮社発行)

* 参考資料

*「民衆碑」建立の際のパンフレット(「民衆」のこと・昭和三十三年十一月六日・杉並区荻窪の家にて・井上康文記)

 同誌の<「民衆碑」に就いて・井上付記>によると、「民衆碑」の建設委員と世話人の中に省吾の名が見える。

 「通信欄」

 インターネット上のハンドルネーム「ごんべさん」のホームページ「なつかしい童謡・唱歌」にて、白鳥省吾の作詞した文部省唱歌「麦刈り」がメロディー入りで紹介されてありましたので、本人のご承諾をいただいて紹介いたします。

 ホームページ http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/00_songs.html

「麦刈」 白鳥省吾作詞・井上武士作曲/初等科音楽(三)・昭十八年二月/文部省唱歌・小学五年生

 

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十三年一月一日発行、平成十四年七月十三日改訂

ホームページ http://ww5.et.tiki.ne.jp/~y-sato/index.html 

Eメール   y-sato@mx5.et.tiki.ne.jp

 つづく


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最終更新日: 2002/07/24