白鳥省吾物語 第二部 会報十六号
(平成十三年二月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行
二、 民衆派誕生 大正七年
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(三)、民衆詩派誕生の頃 大正七年
省吾の
*1第二詩集『大地の愛』に収録された「殺戮の殿堂」を、諸氏が「民衆詩派」時代の作品として評価し、省吾も後に肯定しているように伺えるが、厳密に言うと、この詩はまだ正式に「民衆詩派」に参加していなかった、揺れ動いていた頃の作品である。乙骨明夫は*2「白鳥省吾論・民衆派のころ」、「三、民衆派との関連について」に、川路柳虹がこの四月に『文章世界』に発表した「詩壇の民主派・人道派」(文章世界一九一八・四)、岡崎義恵の「「現詩壇の瞰望」(帝国文学一九一八・七)を紹介し、省吾がこの頃はまだ民衆派に参加していなかったことを書いている。<白鳥省吾を民衆派詩人のひとりとして考えることはもちろん正しいし、省吾も「現代詩の研究」の中の「第三編民主主義の起源と発達」に「白鳥省吾の詩」と題する一節をもうけている。しかし、民衆派の名称を生むもととなった雑誌「民衆」(一九一八年一月創刊)の発刊計画に省吾はあずかっていない。そして、川路柳虹の「詩壇の民主派・人道派」(文章世界一九一八・四)には
先づ私の見聞している範囲に於いて民衆藝術の提供とも見るべき作品を提供し、その主張態度に一個の民主的精神を強調しようとしている詩人として挙げられるべき人に富田砕花、福田正夫、百田宗治、加藤一夫の諸君がある。(中略)白鳥省吾氏もこの派の雑誌に折々書かれるやうであるが併し氏の態度は単に民主主義の喧伝にはないやうであるから私は氏を以て民主詩派の一人とは数へていない。
と書かれ、岡崎義恵の「現詩壇の瞰望」(帝国文学一九一八・七)には、
次に最も華々しい一団に民衆派がある。「科学と文芸」による加藤一夫、福田正夫の諸氏、「表現」に拠る百田宗治氏、或いは富田砕花氏などがその最も著しい人人である。このひとびとは常に民衆といふ事を論じ又主張しているから、之を民衆主義の詩人と云っても憚る所は無いであらう。
と書かれているから、一九一八年ころには、省吾は民衆派の一員として数えられていなかったと思われる。/後略/>
*2「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』・昭和四十五年八月・至文堂発行)この三月に『文章世界』に発表された「國民的詩人を翹望す」(『詩に徹する道』収録)に、省吾自らも書いている。前掲の乙骨明夫の紹介文と重複する部分もあるが、抜粋して紹介する。
<民衆藝術及び伝統主義就いての論議が吾が文藝界に於ける興趣ある中心問題となりつつある。就中、詩と民衆との接触といふことは昨年の春頃から一二の人々によって唱道され、それを標榜する作品もぼちぼち見え出して来た。/中略/人類に対する広い愛は、これを民衆にまで及ぼすことは、寧ろ当然の行き方である。然し詩に民衆を題材とすることもいいが、その製作の刹那に於いて民衆を第一の標的として民衆に与える為に書くものであったら、私は大いに違ふ見地にある。即ち、われわれは只感動に執して絶対を捕捉すればいい、民衆に解り易くと、いふことは眼中にない、詩作の態度は飽くまでも自分本位である。出来上がったものを第三者がこれを見て、民衆的のものであるかどうかは作者の初めから関与したことではない。私は民衆、民衆と言って民衆に束縛されることを惧れる。/中略/ 詩に於いて、民衆を対象としてその理解を求めやうとする心が動いては優れた藝術の生まれようがないといふことは事実である。/中略/然るに詩人のみはその制作の時に於いて、民衆の理解を、民衆を題材とすることを、対象とすべきであらうか?/中略/
私は吾が國の民衆を題材とすることを是認する、然しその詩作態度に於て民衆のためを念頭に置くならば、根本的に誤っていることを主張する。そして『自然』の神秘を背景もしくは根底とすることなしに民衆のみに詩があるとすればその要素に於いて最大のものを欠く、私は民衆を愛する。而して同時に『自然』の絶対を愛する。自然を離れて真に民衆に対する感動はない筈である。民衆のみに詩があると思ふのは、海が波だけであって、その底に静かな底があることを知らぬものである。/中略/そして私は、人、自然、社会、この三つのものを深く考察する事によって眞の民衆藝術が生まれると信ずる。かくて私はこの詩と民衆との交渉は、これを徹底せしむるには、わが民族の特性の上にまで及ぼさなくてはならない。/中略/私は吾等の祖先の古代の生活を『古事記』等を通じて見るときに一種の深い歓喜を覚える。/中略/ホイットマンの指示する霊肉の渾然とした奔放の叫びは私の傾倒して措かざるものであり、わが古代人の生活には世界のどの民族にも優れるこの近代的要素がある。/中略/民衆の現状に満足しないで破壊すべきは破壊して個性の絶対の解放を叫ばなくてはならない。/中略/
私は詩の庶民的を寧ろ國民的とすべきことを嘗て説いた、私は繰り返していふわれは民衆を愛す、而して同時に『自然』の絶対を愛する。そして内容の如何を問はず詩作の態度は感動そのものに絶対でなくてはならない、民衆に理解さるることを意識的に求めてはならない。
眞の民族の上に純粋なる解放を以て、詩壇革新の第一聲が叫ばれねばならない、眞の東邦の詩人が生まれ出ねばならない。>
*3『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)*
写真は3『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)そして省吾がたどり着いたのは・・・。この月に『科学と文明』に掲載された「詩と民衆との交渉」(『詩に徹する道』収録)は更に一歩踏み込んで独自の詩論を展開している。
<日本の現時の詩を一体誰が読むであらう、そしてその詩がどれたけ人を動かす力があるであらう、読む価値があり人を動かす力があるに係らず人々は風馬牛にそれを顧みぬのであらうか。私はそれに否と答へる。
吾等の前面にはそれを突破して行かねばならない大きい壁がある、それをうち砕いた時にこそ輝く領土が展開するであらう、現代の詩人は蝸牛のやうに小さい殻の中に姑息な眠りを貪ってると言はれても仕方がない理由がある、
私らの使命は一切のデレッタントを排することである。力の限りを以て詩作する場合に其処に必然的に平明が生まれる。その詩は最も民衆に理解され易く透明である。詩が民衆に溶け入るには詩人が詩句を強ひて通俗化させねばならない思ふのは大きい誤謬で、詩人が真剣であり熱烈であれば其の詩は必然的に平明になるのだと私は断言する。畸形的に表現された詩、衰へ果てた胡弓のやうな詩の価値は頗る希薄である>。
*3『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)という、詩想であった。そしてこの詩想で翌四月に「詩の本質への使命」を書き、その中で日夏耿之介の「轉身の頌」、萩原朔太郎の「月に吠える」、室生犀星の「愛の詩集」を批評したのであった。この詩想は「殺戮の殿堂」へと通じるものであったと思えるのである。日夏耿之介は
*4『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』、「群小詩壇」において<第三の詩想の対立は民衆的なる民本的なる詩歌を主張する者と、それから超然高踏の詩想を尊び喜びを主とするものとの対抗であるが、民衆詩、民衆藝術を呼ぶ者が、ホイットマン、カーペンタ、トラウベル等の祖述、翻訳を試み、在来の詩の超然主義、社会的無関心を攻撃して民主主義詩想の露骨なる詩的表白のみを現代詩の全生命なりと主張したに対し、藝術派、超然派の立場にある者は傾向詩、目的詩の芸術的本質上欠陥を説いて、詩の本来の意義が、かかる一点にのみ固執して存在する事の不可能を論じた。/後略/>
*4『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)云々と書き、前掲の岡崎義恵の「「現詩壇の瞰望」(帝国文学一九一八・七)を紹介し、「この一文は詩壇局外の文學研究者が、内部事情に暗いためと、/中略/全然に的を外れた観察では勿論ないけれども、」云々と書いている。これを抜き書きしてみると、当時の詩人の帰巣が分かるものと思われる。
<白秋の周囲に集まった「詩篇」同人も、露風門下の稚き北村初雄も、露風周囲の柳澤健、西條八十も、柳虹の「現代詩歌」の一派も「象徴詩の流れを汲んで夫々若干の特異性を有する」
「象徴詩第三期の代表詩人として特に挙げたいのは日夏耿之介、萩原朔太郎の二氏である。」
「暮鳥と省吾とは詩風が変化したやうであるから取り立てゝ云はない。」
「この象徴詩の流れに対抗するものとして人道派、民衆派と呼ばれて良い詩人達が居る。」
「人道主義の一群、室生、千家元麿、近藤栄一、佐藤惣之助の内千家、室生の両者を代表的人道主義詩人」
「次に最も華々しい一団に民衆詩派がある。加藤一夫、福田正夫、百田宗治、富田砕花を挙げ、福士、加藤、高村等は或る範疇の下に片づけてしまえない」ものであると分類した。/後略/>
*4『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)これを見ても、暮鳥と省吾は民衆的詩人とは認められていなかったと思われる。また、省吾も前掲の「詩の本質への使命」の後半に於いて「民衆詩」について以下のように評している。
<最後に残っているのは、福田正夫氏らによって代表されている民衆的傾向の詩である。それは詩の埋もれた本質に新しい鶴嘴を加えた観はあるが、その表現に於いて未だ深厚な考察が必要である。民衆の叫び声は先ずその詩に内容的に出て来ねばならない。民衆を叫ぶ騒音のみ残って本質が残らないのである。カーペンターの『トワーズ、デモクラシー』を読んで感ずるのは如何に自然の深奥からその詩の泉を汲み、神秘と微妙を具へているかといふことである。やや萌芽しかけた民衆の詩篇に於いての致命的欠陥は表現に焦燥と粗雑があるということである。>
*3『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)この時期、省吾は友人の福田正夫等を含めた「民衆詩」を創作している詩人達の詩にも、不満を感じていた。この不満は独自の詩想より発した「民衆詩」を模索していたからであると思われる。
省吾の
*5『現代詩の研究』の「目次」、「第三編、民衆詩の起源と発達」には「十一、民衆詩運動第二期」と言う項目がある。それによると大正十一年頃をさしているらしい。しからば第一期はというと、諸氏は明治の終わり頃から大正三年頃をあげているようであるが、省吾は同誌同編「三、日本に於けるホイットマン、カアペンタア、トラウベルの文献の経路」の中に、「民主詩人の紹介は大正三年以降であり、民主的の要素を持った作品が実際に表はれたのは大正五年頃からである」と書いているところから、大正五年前後ということであろうか。そして、「民衆詩派」と言えば、前掲の大和田茂のいう「民衆詩派の詩人たちとは、ふつうには一九一八(大正七)年一月小田原から創刊された雑誌『民衆』を中心に結集した詩人たちをさす。」(*6「民衆派の詩人達」)というのが、今日的見方となるものと思われる。後に「民衆詩派の土台骨」(*7『日本農民詩誌・上巻』)とまで言われた省吾が「民衆詩派」に参加したのは何時かというのが気になるところである。省吾の周辺を月を追って紹介してみたい。*8
『明治大正詩選全』には、大正七年四月の「詩話会」例会に与謝野寛の紹介で、露西亜未来派詩人ベネデイクトマルトが出席したことが書かれている。そして五月に千家元麿の第一詩集『自分は見た』(玄文社発行)が出版されている。千家元麿について*9『文人今昔』には以下のように紹介されている。<千家元麿君は男爵千家尊福氏の庶子と言われている。/中略/尊福氏は出雲大社の出で司法大臣も東京府知事もやった。元麿君は会合に呼んでも、たとえば詩話会とか「日本詩人」の編集とかに葉書をとばしても、全くやって来ないのだが、珍しく、晩春の或る二泊三日の旅に参加し、石楠花の咲くころの伊豆の落合楼に泊まった思い出がある。同行人川路柳虹、室生犀星、萩原朔太郎、千家元麿、佐藤惣之助、福田正夫、百田宗治と私とである。/中略/
彼の詩は光明と歓喜に充ち、卓上に現れてくる一個の蜜柑も、野外の一反の麦も、常にその生命の尊貴を称賛せずには居ない。ホイットマンへの傾倒やトルストイの思想にも共鳴したが、彼は絵画にも見識広く、油絵を描いた。/中略/室生犀星君はいつか私にいった。「千家君は面白いそうだよ。何でも出雲の大社から毎月三十円ずつ生活費が来るそうだが、それを畳の下に隠して置くという説があるよ」と。/大正六、七年ごろであるから、生活の基本はそれで賄えたかも知れない。さすがは大家のお坊ちゃんだと思った。/後略/>
*9『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)六月、省吾は「新詩壇に逆行する偏見を排す」を『科学と文藝』に発表している。これはこの年の五月二日、三日の両日に柳沢健が『讀賣新聞』に発表した「仏蘭西詩人の群」に対する反駁であった。この論争については、乙骨明夫他の諸氏が述べている、が、しかしこの年の抗争は二月に山宮允が『早稲田文学』に発表した論文が発端であったと思われる。省吾は『現代詩の研究』、「第三編、民衆詩の起源と発達」、「十、非難と主張」に於いて、以下のように書いている。
<山宮允は大正七年二月の「早稲田文学」で、たまたま民衆詩人を評して「漠然たる民主々義の理想の美名に憧れて民人の向上は究極、個人内生のの拡充にあることに思ひ至らぬ軽浮硬心の徒」とし、また、「このがさつな嫌悪すべき民主時代」と形付けているに対して、福田正夫は「民衆」三月号で「詩の一民衆から」として、「私は単に一人を考へません、全体としての一人、一人としての全体を考へます。そして互いの理解を、愛を考へます。そこから私たちの詩が生まれます。・・・・・詩は骨董ではない、私はそれを深く深く感じます。内面のものから既に言葉は彫琢されて表現されて来ます、正直に詩はうたはれるほど尊ひと思ひます。その中に言葉はひとりでに生まれるのです。しかも、私たちがどの位、詩作に苦しんでいるか、あなたは知らないのです、私たちはなるほど彫琢には努力はしないでせう、しかし詩をうむことに努力します、苦しみます、愛することに苦しみます・・・・・」と答えている。>
*5『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)そしてこの後、福田正夫の「詩の現在とその精神」(『民衆』大正八年一月)、百田宗治の「昨日の詩と今日の詩」(『表現』大正六年十月)、先に挙げた自身の「新詩壇に逆行する偏見を排す」を採りあげ、「反デモクラシイに対する痛烈な反撃であった。」と書き、民衆詩派を擁護している。『現代詩の研究』、「第三編、民衆詩の起源と発達」、「十、非難と主張」中より「新詩壇に逆行する偏見を排す」を抜粋してみる。
<白鳥省吾の「新詩壇に逆行する偏見を排す」(「科学と文藝」大正七年六月)も、反デモクラシイに対する痛烈な反撃であった。
来るべき詩壇を支配するものは、真に人間性に目覚めた自由な表現を持った詩である。社会と自然の奥底から湧いてくる永遠の聲である。詩人の稟質のある人なら、大胆に平明にものを言ってそれが詩でない筈がない。詩はつねに人類の哀感の糧となるべき大河の決するやうな輝きと力の所産でなければならない。/中略/詩は女子供の手も触れまいとする大地の塊を掴むところから生まれる。/中略/「讀賣新聞」五月二、三両日に発表した柳澤健君の「仏蘭西詩人の群」といふ一文も、明らかに詩壇の新精神に逆行する偏見であると認めるので簡略な反駁を試みることにした。私には柳澤君の一文は、何の合理的意見もなく、誠に言ひたいことのみ言っているとしか思へなかった。
君の所論の一半を約言すると「デモクラシイなんかといふただ騒々しい一方の楽隊なんかを連れて歩かないで、活力のある熱情のある芸術的奢侈の仏蘭西の詩に目覚めよ・・・・・仏蘭西詩壇の豊麗な燦きのまへには英國の詩壇も、独逸の詩壇も墺匈國の詩壇も一様に跪座してその光を享けるに至った」といふ意味になる。
私は茲に、英米その他の詩壇と仏蘭西詩壇との優劣を論じやうとはしないが、第一に来る疑問は、一体柳澤君はどれだけの程度で英米その他の詩壇乃至は仏蘭西の詩壇に理解をもって斯く断言し得たかといふ事である。/中略/そのヴェルハアレンに少しでも理解ある人ならば、ホイットマンを単に「味の粗い野人」とか「第二流の詩人」とか言ひ得ない理由がある。
何となればホイットマンの自由精神及びその奔放な形式がいかに後の仏蘭西の象徴派の人々のみならず、近代独逸の諸詩人にまで影響したかは、あまりに顕著な事実である。それは諸詩人それ自身から、又、卓越した評家の明白に示す所のものである。ホイットマンに可なり負ふところのあった仏蘭西文學を愛好する君が、ホイットマンから「無作法とあくどさ」を感じたり、「二流の詩人」といふのは、結局、君がホイットマンを二流だけの程度しか味読しなかったか、/中略/
柳澤君は又、詩壇の民衆精神に数十言を費しているが、それは根拠なき漫罵に過ぎないから、それに就いて今言及する必要はない、/中略/柳澤君はまたこの文中に、「労働者は醜い」と言ふやうなことを言って居た、これらは同君ばかりでなくさうした考へをもつ人も二三あるだらうと思われる故に特にこれだけ一言しやう。/中略/労働者を単に醜いと排除し去ったものは恐らく如何なる藝術家と雖もあるまい。/中略/然も君は何をもって労働者は醜いと言ふか。社会の機関の一部として働く省局の使用人も亦労働者である。只指が太いのと細いのとの相違である。そしてこの地上の人間が小さい段階の上に自らを高うしやうとするところに何の優秀な藝術が生まれやうぞ。君のやうに極めて普通人の常識的見地を出ることの出来ないかゝる安価な膚浅な貴族主義とも見るべきものに逢着するたびに私は失笑せずには居られない。
詩壇は一刻も早くこの安易が生む時代錯誤から全然飛躍しなくてはならない。これからの詩の要求するのは生命力の徹底せる表現である。感動の自由な表現を主にして、一見散文に近づいたものであっても私は是認しやう。これまでになかった広い輝く領土は其処から展開して来る。/後略/>
*5『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)これは明らかに民衆詩派の友人達が柳沢健に「漫罵」されたことに対する怒りの反駁文である。なによりも省吾が崇拝して止まないホイットマンを「第二流の詩人」と卑下されたことに、省吾には堪えきれないものがあったと思われる。そして省吾は友人達の詩を弁護する民衆詩派の側に立った事を示すように、「感動の自由な表現を主にして、一見散文に近づいたものであっても私は是認しやう。」と詩の間口を広げてしまったのであった。
そして大正十三年の「十、非難と主張」では「結局、民衆詩派と象徴詩派とはその根底に於いて表現に於いて、到底、相容れざる溝渠が感ぜられる。」と言う結論に達するのであった。しかしこれは民衆詩派に加わってから発表されたものであり、六月のこの時点で省吾の心はまだ揺れ動いていたものと思われる。省吾と柳沢健の論争は、乙骨明夫の「白鳥省吾論・民衆派のころ」、「三、民衆派との関連について」にも紹介されている。それによると「柳沢健との論争がおこったころから、省吾はしだいに民衆派に近づいていったように思われる。」と書き、つぎに柳沢健の「仏蘭西詩人の群」を抜粋し、これに対する省吾の反駁文「新詩壇に逆行する偏見を排す」(前掲)を引用して、以下のように書いている。
<この論戦は、詩について論じるという範囲をこえて、雑誌「詩人」(一九一六・一二創刊)を刊行していたころの私的行為をめぐる応酬に発展した。健の「苦笑」(現代詩歌一九一八・七)と省吾の「人格的誹謗に対して」(現代詩歌一九一八・八)とがそれであるが、その内容をここに引用する必要はあるまいと思われる。ともかく、この論戦で、省吾が民衆派のがわに立つことは明らかになり、すでにふれたように、一九一九年に入って、省吾が民衆派の一員として数えられるようになったのである。>
*2「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』・昭和四十五年八月・至文堂発行) 七月、『短歌雑誌』は特に「抒情小曲集」と題して三木露風、川路柳虹、柳沢健、室生犀星、白鳥省吾、日夏耿之介諸氏の小曲を集めて掲載している(「白鳥省吾年譜」)。同じ月に岡崎義恵が「現詩壇の瞰望」(帝国文学一九一八・八)と題して、民衆詩人の詩を称賛していることが『明治大正詩選全』には書かれている。この「現詩壇の瞰望」については乙骨明夫も日夏耿之介もとりあげている。(前掲)この月の一日に鈴木三重吉の童謡雑誌『赤い鳥』が創刊されている。『民衆』七月号は「花岡謙二詩集号として発行されている。
世情は第一次世界大戦の影響を受けて、米価が高騰していた。そして八月二日、日本はシベリア出兵に踏み切っている。これと前後して民衆が米騒動を起こしている。堪えきれなくなった寺内内閣は九月二十一日に辞表を提出した、その結果、我が国初の政党内閣が誕生した。「平民宰相」原敬内閣である。
<おりから世界はデモクラシーにむかって揺れ動いていた。この年の七月いらい、戦局の主導権を連合国に奪われ退却をつづけたドイツは、十月初めに一四ヶ条を基礎とする休戦と講和をアメリカ大統領ウイルソンに申し入れた。/中略/十一月十一日には休戦が実現し、四年四ヶ月にわたって闘われた第一次世界大戦は、連合国側の勝利によって幕を閉じた。「デモクラシーの勝利」が高らかに叫ばれた。ロシア革命・米騒動につづくドイツの革命と「デモクラシーの勝利」とは、日本のなかにもさらにデモクラシーの波をわきたたせた。/後略/>
*10『日本の歴史・23大正デモクラシー』「民本主義と米騒動」(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)十一月、山村暮鳥の『風は草木にさゝやいた』が「白日社」より出版されている。十二月、
*11「白鳥省吾年譜」には『民衆』「トラウベル号」に「ホーレス・トラウベル論」を発表していることが書かれている。『明治大正詩選全』には以下のように紹介している。<十二月、雑誌『民衆』はトラウベルの七十歳生誕を記念するため「ホーレス・トラウベル号」を出し、それに関する評論訳詩を収む。富田砕花の「詩に於ける新精神の一詩徒」(英文)、白鳥省吾の「ホーレス・トラウベル論」、福田正夫の「トラウベル詩集」等にしてトラウベルを具体的に紹介せし最初の企てとす。>
*8『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編(大正十四年二月十三日・新潮社発行)同月、省吾は「トラウベルの詩想」を『現代詩歌』に、「ワルトホイットマンの使命」を『新潮』に、「ワルトホイットマンの歩める道」を『文章世界』に書いている。(
*12『白鳥省吾先生覚書』)、この他『短歌雑誌』に、室生犀星の『抒情小曲集」(九月・感情詩社発行)、川路柳虹の『勝利』(十月・曙光詩社発行)、百田宗治の『ぬかるみの街道』(十月・大鐙閣発行)の批評文を発表している。これらを前掲した*3『詩に徹する道』より抜粋して紹介したい。<室生氏の小曲集は、其の覚書に断ってあるある通り、二十歳から二十四歳位までの作品であって、氏の現在の心持から言っても頗る遠い物であらうし、可なりに古い時代の物である。/中略/室生氏の此の抒情小曲集の時代は小説界にては、言ふまでもなく自然主義全盛の頃ではあったが、詩壇は尚ほ著しくローマンチックの色彩に富んで居たのである。斯かる時代の若き詩人の産物は此の小曲集である。吾が詩壇の過去に、強てこの小曲集と類を同じうするものを求むれば、北原白秋氏の『思ひ出』がある。『思ひ出』一巻は、いかにも南国人らしい然も特異な官能に充ち満ちて、才気溢るゝばかりのものである事は既に定評があるが、/中略/然し偶然にもこの二つの詩集は、一は南国的で他は北国的、一は肉情的で他は精神的である、面白い対比をなしている。/後略/(「室生犀星氏の『抒情小曲集」を読む」)
川路氏は才人である。その詩風は飽までも温藉を極めて絢爛である。『勝利』一巻は調和のいい少しの破綻もない作品に充ちている。私は或る『新鮮』な感動を期待して読んだ。/中略/川路氏が十年一日のごとく詩壇の新しい思潮の渦中に投じ、新しい問題のよき理解者となって来たことは少なからぬ敬意を払ふ。然も同時代の三木、北原の両氏が、兎も角、或る特異の境地を樹て人気の頂上を贏ち得たのに対して、川路氏にはさうした時期のなかったのは、そして作品そのものもさほどの出来栄えを見せてくれなかったは、どこか核心の感動に於いて希薄なためではなからうか、才余りありて一事に集中しない為ではなからうか。/後略/(「川路柳虹氏の『勝利』を読む」)
民衆藝術といふ称呼に対しては、種々の解釈の下に可なりの非難があった。そして現在もある。中には民衆藝術の論議が有耶無耶の中に何の得る所もなしに立ち消えになったやうに、気早にかたづけやうとしている者もあるが、/中略/百田宗治氏はこの民衆詩人の一人であるとして世間から認められる。『ぬかるみの街道』は氏が此の両三年間の努力の結晶であり、殊に前二集の『最初の一人』『一人と全體』からも数篇づつを抜いて此に収めてあるから、氏の全貌を知るに最も便宜である。/中略/私は此の詩集一巻に収められてあるものは、テピカルナ民衆詩であるかどうか断言は出来ない。/中略/我等は民衆的である場合に、幾らでも美麗に、いくらでも強烈になり得やう。然し詩に於いて最も大切なのは、作者は『どう感じたか』であって『どれほど器用であるか』では無いのである。(「百田宗治の『ぬかるみの街道』を読む」)>
*3『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)この中の川路柳虹について、省吾は『文人今昔』にはこう書き残している。
<柳虹氏こそは現代詩の記憶すべき自由詩の先覚であり、詩の運動に一生をささげた人である。
柳虹氏は東京美術学校日本画科出身だが、何時も詩に熱意を持ち、性格は穏健中正で、詩はフランスとの近代詩の才気溢るるものがあった。大正七年以来、曙光詩社を主宰し、詩の同好者を糾合して年四回刊行の「伴奏」を最初にそれを拡充して、詩誌「現代詩歌」「炬火」等を発行し、後進を指導した。彼がフランス等を外遊するにあたり、詩壇は「昭和詩選」(新潮社版)を編集し、記念としてその印税を贈った。その編集責任者は私であった。詩話会が約十年間の久しきにわたって、常に調整の役を務め、中には自分勝手な暴言を吐く者もあったに対して、つねになだめ役をつとめたのは彼である。
伊豆の下田に柳虹氏と朔太郎、犀星、元麿、惣之助、正夫、宗治と私と、同行八人で遊んだことがある。そこの観光協会から「寿屋」という料亭で歓待されたが、床の間には柳虹氏の祖父で、下田条約の大立て者川路左衛門尉聖謨の書がかけられていた。/中略/昭和十九年の初夏のこと、戦争が苛烈になった時、千葉の鶴巻町というところが物資が豊富だということで青山郊汀氏の提言で柳虹、中西悟堂の諸氏と私が一泊旅行を試みたことがある。/中略/また千葉市で百田宗治と私の三人で詩の講演会を開催したこともある。/中略/昭和二十年春になってからは手紙を東京からよこして「九十九里海岸に居る君の方に干しものはないか、送ってくれ」といってきたので、一度訪問したが、中野近くまで焼けて、野口米次郎氏のお宅もついこの間やられたとのことだった。そして柳虹氏のお宅も五月の空襲にやられたのである。曙光詩社からは村野四郎、山崎泰雄、沢ゆき子等が排出していて、近く遺稿の詩集が出るとのことである。>
*9『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)この頃のことを百田宗治は、
*13「自傳的に」に於いて、以下のように書き残している。<それからまた大阪に帰り、天下茶屋に住んで、翌年の秋(二十六歳)過去二年の作品をあつめて詩集『ぬかるみの街道』を出版した。私が加藤一夫、坪田譲治、賀川豊彦、沖野岩三郎、富田砕花等の諸君とともに『科学と文藝』といふ雑誌の同人になったのもその頃だし、また讀賣新聞の文藝部にいた柴田勝衛君から頼まれて「民衆藝術論」といふものをはじめてその文藝欄に書いたのもその当時である。この原稿料はたしか七圓五十銭で、これが公の新聞から原稿料といふものを貰った最初である。>
*13「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』・昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)そして、翌大正八年の春、大正デモクラシーに沸く東京へ上京するのであった。省吾はこの時点で「我等は民衆的である場合に、幾らでも美麗に、いくらでも強烈になり得やう。」(「百田宗治の『ぬかるみの街道』を読む」)云々と書いているところから、民衆詩派入りを決意したものと思われる。
敬称は省略させていただきました。
つづく
以上文責 駿馬*
この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)*1
詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)*2
「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』・昭和四十五年八月・至文堂発行)*3
『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)*4
『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)*5
『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)*6
「民衆派の詩人達」大和田茂著(『生命で読む・20世紀日本文芸』・国文学解釈と鑑賞別冊・平成八年二月十日・至文堂発行)*7
『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」「第四章白鳥省吾の位置」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)*8
『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編(大正十四年二月十三日・新潮社発行)*9
『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)*10
『日本の歴史・23大正デモクラシー』「民本主義と米騒動」(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)*11
「白鳥省吾年譜」白鳥省吾著(詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)*12
『白鳥省吾先生覚書』元大地社同人高橋たか子著(昭和六十二年一月二十日・仙台文学の会発行)*13
「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』・昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)*
参考資料*
『前期詩歌総目次』小野勝美編著(昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)*
『明治・大正家庭史年表・1868ー1925』(下川耿史・家庭総合研究会編・平成十二年三月三十日・河出書房新社発行)
白鳥省吾を研究する会事務局編
平成十三年二月一日発行、平成十四年三月四日改訂版発行
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最終更新日: 2002/07/03