白鳥省吾物語 第二部 会報十七号

(平成十三年三月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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   (一)、年刊詩集『日本詩集』 大正八

 大正八年(1919年)、省吾満二十九歳の一月、*1『民衆』新年号は省吾が民衆詩派に加わった旨を報じるかのように「白鳥省吾詩集」号と銘打って発行されたのであった。これを松永伍一の*2『日本農民詩史上巻』「民衆詩派の功罪」よりみると、掲載された詩の数が「一九一八年作・全二五編」と紹介されている。この中には「殺戮の殿堂」も採録されている。これを*3「白鳥省吾年譜」には「詩二十七篇を収め詩の印象小記を附す。」と書かれているが、実際に数えてみると二十六篇である。『日本農民詩史上巻』より紹介する。

<白鳥省吾詩集/一九一八年作/脈うつ生死/殺戮の殿堂/見知らぬ女達/町のかなたに/海の賜物/雨ふり始む/日の炬火/戦慄/追はれたる蛇/土地の憂愁/鍛冶屋の夕/一つの雲/人生/万有は見方す/青い芽生/土煙/煙草のむ貴婦人/蛙なく頃/薄暮線路に添ふて/地上/誇/月夜の踊り/巷の空/死人の都/宇宙の法燈/夜景/印象小記(詩作の月日と内容の印象)/中略/

 この号に「賀正」として、井上、花岡、小栗、小山内、渡辺、田熊、桑原、牧、斎藤、福田の名が出ており、これが当時の同人であった。このほか富田、白鳥、百田の名が行をあけて出ている。>*2『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 「白鳥省吾詩集」号については井上康文が*4「民衆創刊前後」(『福田正夫・追想と資料』)に書き残している。それによると、この時期、井上康文は上京し「東京市役所」の化学分析室に勤めることになった。住まいは省吾の借りていた家の一間に、同居させて貰っていた。「民衆創刊前後」より紹介する。

<私は白鳥省吾氏の厚意で、雑司ヶ谷亀原の黒瀬邸内の白鳥氏の家の一間に同居していた。そういう関係もあって大正八年の新年号は白鳥省吾詩集とした。表紙をオフセット印刷にしたのは私の親友宮川惣一郎君(素一郎、小田原生まれ)の寄付であった。/後略/>*4「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』・昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)

* 写真は『民衆』新年号(第十一号・大正八年一月一日発行・「白鳥省吾詩集」・資料提供・白鳥省吾記念館)

 三月「文藝の通俗化と詩と民衆化」を『叙情文學』に掲載されていることが、「白鳥省吾年譜」に紹介されている。これは*5『詩に徹する道』には「詩の民衆化と文藝の通俗化」として収録されている。「白鳥省吾年譜」の誤植と思われる。そして四月に*6『日本詩集』が新潮社より出版されている。「白鳥省吾年譜」では以下のように紹介している。

<四月、「日本詩集」の刊行を記念する会を森ヶ先大金で開く。会するもの廿余名。席上詩話会の基礎を確実にするために全会員より委員十五名を選ぶ。北原白秋、川路柳虹、室生犀星、山宮允、佐藤惣之助、日夏耿之介、百田宗治、福田正夫、福士幸次郎、西條八十、萩原朔太郎、柳沢健、白鳥省吾、正富汪洋、生田春月当選す。その後年間詩集は数名宛を当番とす。>*3「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

 これを日夏耿之介の*7『改訂増補・明治大正詩史』「第五編大正摂政時代・第三章摂政時代詩の展開」にみると、

<詩話会は大正八年二月、初めてアンソロジーを出版する企てを立て、委員に白秋等七人を任じたが、四月大正七年(一九一九年版)「日本詩集」上梓の記会集会席上、基礎を固めるため委員を改めて、北原、川路、山宮、佐藤(惣)、百田、福田、福士、西條、萩原、西條、白鳥、柳澤、正富、生田、日夏等十五人を選出して公正な総体的集団を成さむとした。>*7『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

とある。この中に、「西條」が二度出ているが、一方は「室生犀星」の誤植である。「記会集会」は「記念会集会」であろうか。『日本詩集』については省吾の*8「大正詩壇の思い出」「詩話会の成立から解散まで」に詳しいので抜粋してみたい。

<詩壇の年刊詩集「日本詩集」は大正七年版から大正十四年版まで合計七冊が詩話会という団体を母胎として新潮社から出版された。/中略/そしてこの会合を有意義にしょうと、毎月一回会合することを申し合わせ、その会合が度重なり、機が熟して、会員の詩を集めて毎年一冊年刊詩集を出そうじゃないかという提案があった。

 この年刊詩集が「日本詩集」として刊行に着手されたのは詩話会が始まってから一年後であった。この交渉は川路柳虹、山宮允、福士幸次郎の三君が引き受け、川路君が長谷川巳之吉(当時、玄文社員、後の第一書房主)に交渉して承諾を得、それと同時に福士君が予め新潮社に話して、後に川路君が社長佐藤義亮氏に逢って話をすると、「いい企てだから、是非こちらにやらしてもらいたい。」ということでこの二案を会員にはかり、新潮社の方に決定した。

 新潮社はさきに生田春月の『霊魂の秋』(大正六年十二月)等を出し、相当の売れ行きを示し、詩が国民に読まれる機運を察知していたせいもあったろう。/大正七年版の印税の金で、岩野泡鳴氏の発議で大森海岸の「大金」に集まった。大金は旅館兼料理店で、当時よく小説家が物を書きに行った所だ。/その写真が筑摩書房版の現代日本文学全集八十九巻の現代詩集に載っている。この詩集には岩野泡鳴、生田春月、川路柳虹、北原白秋、西條八十、佐藤惣之助、山宮允、白鳥省吾、千家元麿、高村光太郎、茅野蕭々、富田砕花、萩原朔太郎、日夏耿之介、福田正夫、福士幸次郎、堀口大学、三木露風、室生犀星、百田宗治、柳沢健、山村暮鳥等四十二人の詩を二、三篇ずつ集めている。/そのご、詩人の会合に、神田万世橋駅の楼上のレストラン「ミカド」がよく用いられ、それで充分陶然ともなり、和気靄々たるものであった。/後略/>*8「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 この中で「大正七年版から大正十四年版まで合計七冊」とあるが、合計八冊の誤植である。

 先に紹介した、「河野成光館」発行の*9『現代詩の研究』、白鳥省吾の「詩話會の思ひ出」には、毎月ミカドで「詩話會」の会合を持っていた席にて、年鑑詩集を出そうという話がまとまったと書いてある。この中にも、「日本詩集第一回の集ひ」として写真が挿入されている。しかしこれらには全員の名前が記載されていない。この写真は*10『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』「大正詩史」にも掲載されているが、こちらには全員の名前が記載されている。

 それによると、この会に参加した詩人の数二十六名、川路柳虹、日夏耿之介、室生犀星、岩野泡鳴、山宮允、百田宗治、福田正夫、水守亀之助、福士幸次郎、霜田史光、正富汪洋、白鳥省吾、高村光太郎、富田砕花、柳澤健、前田鉄之助、熊田精華、岩佐頼太郎、矢部季、柴田勝衛、多田不二、井上康文、平戸廉吉、竹村俊郎、相川俊孝、加藤謙とあるが、前の二書と人名に違いがある。白鳥省吾の「詩話會の思ひ出」より紹介する。

<いろいろ話し合っているうちに、私達の詩を自選して年鑑詩集を出さうといふことになり、第一集は大正七年度の作品を集めた一九一九年版で、版元は新潮社であった。印税は百圓で、岩野泡鳴氏の発案で、森ヶ崎の大金で會をしたが、その時庭前で撮影した写真は文章世界に出ている筈である。

 岩野泡鳴氏が一ばんの年長者で、その頃は小説家としても活動していた。作は少ないが詩の方にも若々しい元気があった。會が果てて茶になったころ、酔顔朦朧と畳に横になっていて、私の答へに「うん、うん」と横柄にうなづいていた岩野氏の姿がいまに眼に浮かぶ。「日本詩集」は大正十五年詩話會の解散するまで毎年刊行された。編輯員は會員中の四五人宛が廻り番のやうにしてそれを担当していた。/後略/>*9「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

 *

 『日本詩集』創刊号1919年版は北原白秋、川路柳虹、室生犀星、山宮允、福士幸次郎、富田砕花、佐藤惣之助の共編となっている。因みに*11『日本詩集』1920年版(大正九年七月十八日・新潮社発行)は生田春月、西條八十、白鳥省吾、柳沢健、日夏耿之介、正富汪洋、百田宗治の共編、*12『日本詩集』1921年版(大正十年六月七日・新潮社発行)は福士幸次郎、川路柳虹共編、

 *13『日本詩集』1922年版(大正十一年三月二十五日・新潮社発行)は百田宗治、佐藤惣之助、白鳥省吾共編、このなかに平戸廉吉の「日本未来派運動第一回宣言・P34」、萩原朔太郎の「詩の本質」が載っている。 

 *14『日本詩集』1923年版(大正十二年五月十八日・新潮社発行)は福田正夫、白鳥省吾、福士幸次郎共編。この中に白秋と省吾の論争文が掲載されている。

 *15『日本詩集』1924年版(大正十三年五月二十日・新潮社発行)は川路柳虹、佐藤惣之助、福田正夫共編、*16『日本詩集』1925年版(大正十四年四月・新潮社発行)は白鳥省吾、室生犀星、多田不二共編。

 *17『日本詩集』1926年版(大正十五年五月十二日・新潮社発行)には百田宗治の「所謂民主詩の功罪・P28」、白鳥省吾の「駄弁に答える」が載っている。 この号を以て『日本詩集』は廃刊となった。この最終号で推薦を受けた詩人の紹介が*18『地上楽園』大正十五年七月号「新刊紹介」、「最近詩書批評」中に記されている。前者より抜粋して紹介する。

<日本詩集(詩話會編)一九二六年版で詩話會の編するところの日本の全詩壇の年鑑詩集第八冊である。今年度の推薦を受けた八木重吉、田邊憲次郎、宮本喜久雄、國井淳一、能村潔、田中清一、大鹿卓、泉浩郎、岡田刀水士の九氏の外、反詩話會の立場にある人々を加へて空前の多数を網羅して、詩壇の鳥瞰景として好箇のものである。巻末に、例により詩論の抜粋、主なる事項を記載す。(五月十二日、新潮社発行、四六版三五六頁、値一,八〇)>*18『地上楽園』七月号、「新刊紹介」(大正十五年七月一日・大地舎発行)

 「最近詩書批評」中の「日本詩集の新人」は「大地舎」同人の大澤重夫が担当している。それによると自分を含めて、「泉浩郎、内野健兒、岡田刀水士、岡村二一、岡本潤、大澤重夫、大鹿卓、梶浦正之、國井淳一、後藤大治、佐々木秀光、佐藤八郎、杉江重英、田中清一、田邊憲次郎、中村恭二郎、能村潔、廣瀬操吉、福原清、宮本喜久雄、八木重吉」の諸氏をとりあげその詩風を批評しているが、これらの詩人全員がこの年に推薦されたわけではないようである。前年に推薦された中村恭二郎が含まれている。この文の最後に「以上より余り批評し盡されて居ない新人と目さるべき人に就いて評を試みたが、/後略/」とある。

 最終号の編集者が佐藤惣之助であったことが大正十五年の*19『地上楽園』八月号、「詩壇雑記・今年度の日本詩集ー芳賀融君の質問に答ふー」に、

<「日本詩集」に赤松君が寄稿したことに就いては、後に知ったことであって、それは編者の佐藤惣之助君の一存によるものである。>*19『地上楽園』八月号、「詩壇雑記・今年度の日本詩集ー芳賀融君の質問に答ふー」(大正十五年八月一日・大地舎発行)

と記されている。また、この中に「詩話會」に対する不満が「詩話會」の一般会員から寄せられていたことが記されているが、「詩話會分裂」、「詩話會解散」については項を改めて紹介したい。『日本詩集』の発行部数について省吾は「大正詩壇の思い出」「詩話会の成立から解散まで」に於いて、以下のように書いている。

<ちなみに「日本詩集」も平均二千五百部で多くも三千五百部を超えたことなく、第一集は印税契約でなく、後に印税として支払うようになっても、約半額を出版記念会費とし、約七十部は購求して会員に配布したので、残額は寡少であった。>*8「大正詩壇の思い出」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 百田宗治は当時の様子を*20「自伝的に」に於いて、以下のように書いている。

 <私が上京したのは大正八年(二十七歳)の春で、雑誌『解放』の編輯に当たるためであった。その年、『改造』と『解放』が創刊され、河上肇氏の個人雑誌が学生の間にうばひ合って読まれ、東大の学生たちが新人会を結束して立ったーーーその年であった。その一二年の間に日本の詩壇の空気といふものも大変に変って、それまで狭い詩壇一部の空気のなかに閉ぢこもっているやうに見えた詩人の活動が次第に当時の社会一般のうちに浸潤しはじめ、詩話会といふ詩人の団体なども既に生まれていたし、全日本の詩人の作品を蒐めた年刊の『日本詩集』なども刊行されるやうになっていたが、それといっしょにいつの間にか私なども当時の詩人の一人に登録されていて、上京の翌年、新しく新潮社から出る雑誌『日本詩人』の最初の編輯に当たることになった。詩壇のいはゆる民衆派(民主派と言った方が正しい)が全盛を極めたかのごとく取沙汰されたのはその時期で、私は巣鴨に住んで日本詩人編集部といふ標札と自分の標札をいっしょに門に貼りつけておいた。芥川龍之介君が染井の墓地へ墓参に行ったかへり、偶然に私の家の前を通って「百田君は立派な家に住んでいるね」と室生に話したといふその家である。堂々としているにもいないにもその堂々たる大家の門がかりのなかに私の三間きりの小さい家があって、同じ堂々たるその門柱に大家の名といっしょにそれらの標札がかゝっていたのを芥川君はそのまま記憶に留めたのである。日夏耿之介が『明治大正詩史』のなかで私をブルジョア詩人視しているのなどもどうやらこの同じ轍を踏んだものらしい。>*20「自伝的に」(『爐邊詩話』・百田宗治著・昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)

 乙骨明夫は*21「詩における民衆・民衆詩派の問題」の後半において以下のように書いている。

<一九一八年は、一九一七年にひきつづき口語の自由詩が花咲いた年である。/中略/一九年になると「民衆」が休刊し、「感情」が十一月で終刊になるなどということがあって、口語自由詩は安定期のマンネリズムにおちてっているように思われる。そして一九二〇年になると、現代詩の胎動がはじまるのである。民衆詩派に大きな影響を与えた、ホイットマン、トラウベル、カーペンターの紹介が盛んにおこなわれたのも一九一八年と一九一九年の二年間である。民衆詩派の頂点はしたがって、一九一八年から一九一九年にいたる約二年間であり、それが同時に口語自由詩の確立期であった。民衆詩派はもちろんこのあとすぐに衰えたわけではない。口語自由詩も同様に衰えなかった。というよりも、口語自由詩はこの時期において日本近代詩の型を決定づけてしまった。一九〇七年おこった口語自由詩の運動は、ここまで発展しなければならなかったのである。その発展の一翼を民衆詩派がになったのである。そして、口語自由詩の確立を明確に世にうったえたのが詩話会であった。

 一九一九年から一九二六年まで八冊の年刊アンソロジー「日本詩集」を出し、機関雑誌「日本詩人」(一九二一年十月ー一九二六年十一月)五十九冊を世に送った詩話会を民衆詩派の牙城と見るのが一般的な考え方であるが、私はその考え方に疑問を持つ。川路柳虹もこの一般的な考え方をしりぞけている(「日本現代詩大系月報第九号」)。民衆詩派を含めた自由詩作家の集合体としての詩話会を考える方が妥当である。したがって、私はこの稿で、詩話会や「日本詩人」をとりあげることをしなかった。「日本詩人」を論じるときには、民衆詩派と結びつけることが過大になってはならないと思う。「日本詩人」を通読すればそのことはわかるはずである。(この点に関して私は、私の大学の今年度の紀要で論じることにしているから、読んでいただければさいわいである)。ー白百合女子大学教授ー>*21「詩における民衆・民衆詩派の問題」(『國文學・解釈と教材の研究・特集近代詩と現代詩』・昭和四十五年九月二十日・學燈社発行)

 この中で述べているように「詩話会」を「民衆詩派」の牙城と見るのは、問題視されて良いと思われる。前掲の「全会員より委員十五名を選ぶ。北原白秋、川路柳虹、室生犀星、山宮允、佐藤惣之助、日夏耿之介、百田宗治、福田正夫、福士幸次郎、西條八十、萩原朔太郎、柳沢健、白鳥省吾、正富汪洋、生田春月当選す。その後年間詩集は数名宛を当番とす。」(「白鳥省吾年譜」)と言う文からも、この時期の詩人たちの民主主義的態度が伺えるのである。後に日夏耿之介が「呉越同舟」と評した「詩話会」は、いよいよ『日本詩集』を発行し大正デモクラシーの時流に乗って、新「詩壇」を確立したのであった。白鳥省吾もここへきて、押しも押されもしないいっぱしの詩人として認められたのであった。

 この時期のことであろうか、面白いことが*22『文人今昔』に書かれている。

<福田正夫君はどういう風の吹き回しというのか、片上先生とは極めて懇意にしていて、或る日、「この間、片上さんに遇ったが、君に学校の教壇に立って貰いたいといっていたが、一度遇って相談してみたら・・・といった。私は言下に、「とても気ままな僕には勤まらんよ。レコードを回すようになかなか講義は出来ませんよ」とにべもなく断ったことがある。あとで福田君は、「白鳥君も変わっているよ。H君なんかはあんな傲慢な面をしている癖に学校の先生になりたいとお百度を踏んだというのに・・・/後略/」>*22『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 もう一つ省吾の息女、白鳥園枝女子が書いている。*23『白鳥省吾のふるさと逍遙』にも掲載されている(初出は『みやぎ県政だより平成七年三月号』「父と栗駒山」より)。

<父が早稲田大学英文科の卒業の時に教授として大学に残るようにとお薦めを受け、それをきっぱりお断りしたという話を後になって聞かされたとき「なぜそんないいお話を、もったいなかったですね。」と言ったことがあった。父はその時「詩人として生きていくことは時間の束縛の中で片手間な生やさしい気持ちでできるものではない。絶対自由な立場に立って一筋の信念で立ち向かってこそ本当の詩人の生活であり、だからこそお父さんは全国いたる所へ旅にも出かけられたし、地方民謡の仕事もできた。」と、お断りした理由を分かりやすく話してくれた。それは結局、詩は大地と民衆の中の生活でしか書けない、という信条につながるのだろう。父は名誉欲も何もない、そして生活の安定を考える前に強靱な詩精神を貫き生きた詩人だったのだ。/後略/>*23『白鳥省吾のふるさと逍遙』(平成十二年一月十日・白鳥ナヲエ発行)

 両方を読んでみると、早稲田に残るようにと言う話があったのは、貧窮の生活をしていたこの時期、大正八年ではなかろうかと思われる。なぜなら、省吾が福田正夫と知り合ったのが大正四年四月であることは前掲した。そして片上伸(天絃)がロシア留学から帰国(大正四年から七年にかけてロシアに留学、翌九年に早稲田大学が新設した「ロシア文学科」の主任教授、後文学部長。大正十三年から十四年にかけてもロシアに留学している。/*24『新潮日本文学小辞典』/)した大正七年以降でなければ、つじつまが合わないからである。詳細は後述するが、省吾はこの年『露西亜評論』の雑誌記者をしていたものと思われる。

 省吾はいっぱしの詩人として認められはしたものの、生活は相変わらず苦しかった。そんな中でも詩人として生きる道を選んだのであるが、これには並々ならぬ、詩と心中しようとする省吾の決意が感じられるのである。最後の吟遊詩人としての・・・。

* 写真は『1919年版日本詩集』創刊号・『1922年版日本詩集』・『1926年版日本詩集』(資料提供・白鳥省吾記念館)

敬称は省略させていただきました

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『民衆』新年号・福田正夫編(第十一号・大正八年一月一日発行)

*2『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*3「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』白鳥省吾著・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*4「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』・昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)

*5『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*6『日本詩集』「1919年版」(詩話会編・大正八年四月・新潮社発行)

*7『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

*8「大正詩壇の思い出・詩話会の成立から解散まで」白鳥省吾著(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

*9「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

*10『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』、安西均著「大正詩史」(昭和四十四年十月三十日・角川書店発行)

*11『日本詩集』「1920年版」(詩話会編大正九年七月十八日・新潮社発行)、

*12『日本詩集』「1921年版」(詩話会編大正十年六月七日・新潮社発行)、

*13『日本詩集』「1922年版」(詩話会編大正十一年三月二十五日・新潮社発行)、

*14『日本詩集』「1923年版」(詩話会編大正十二年五月十八日・新潮社発行)、

*15『日本詩集』「1924年版」(詩話会編大正十三年五月二十日・新潮社発行)、

*16『日本詩集』「1925年版」(詩話会編大正十四年四月・新潮社発行)、

*17『日本詩集』「1926年版」(詩話会編大正十五年五月十二日・新潮社発行)

*18『地上楽園』七月号、「新刊紹介」(大正十五年七月一日・大地舎発行)

*19『地上楽園』八月号、「詩壇雑記・今年度の日本詩集ー芳賀融君の質問に答ふー」(大正十五年八月一日・大地舎発行)

*20「自伝的に」(『爐邊詩話』・百田宗治著・昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)

*21「詩における民衆・民衆詩派の問題」乙骨明夫著(『國文學・解釈と教材の研究・特集近代詩と現代詩』・昭和四十五年九月二十日「學燈社発行)

*22『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*23『白鳥省吾のふるさと逍遙』(平成十二年一月十日・白鳥ナヲエ発行)

*24『新潮日本文学小辞典』(昭和四十三年一月二十日・新潮社発行)

*参考資料

*『日本近代文学事典第六巻・索引』(日本近代文学館、小田切進編・昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行)

*『新潮日本人名辞典』(新潮社辞典編集部編・一九九五年五月三十日・新潮社発行)

 

 

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十三年三月一日発行・平成十四年七月十日改訂

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   つづく


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最終更新日: 2002/07/11