* 縦書きのものをそのままhtmlファイルに変換しています 文責 駿馬
四、第一詩集『世界の一人』出版
(四)、処女詩集『世界の一人』出版
大正三年(1914)、省吾二十四歳。三月一日・『詩歌』(第四巻第三号「白日社」発行)に散文詩「我の舞踏二篇」、五月一日・(『詩歌』第四巻第五号「白日社」発行)に散文詩「一人」を(これは後の『若き郷愁』収録されている)、同じ五月に泰西名著物語第二編『シルレル物語』(「実業之日本社」発行)、六月一日・『詩歌』(第四巻第六号「白日社」発行)に詩「人類」、書評「かなたの空を読む」を発表し、六月二十二日に念願の第一詩集『世界の一人』を「象徴詩社」と名付けた自宅から自費出版している。この時期のことは「大正初期詩壇漫談」に詳しく書いているので、それを引用しながら話を進めていきたい。
<私自身の環境から、大正初年の詩壇のことを漫談、もしくは追憶談というようなものとして試してみようと思う。過去を悔いるにもあらず、もとより誇るにもあらず、平凡なる経路の漫談に過ぎない、人々これを読むも大した得もなかるべく、また損もないであろう。
私は大正二年の夏に早稲田の英文科を出たが、同じ卒業生には谷崎精二・広津和郎・矢口達・原田実の諸君がある。同期に卒業はしなかったが、或る期間を同じ課業を受けたのに、今井白楊・西宮藤朝の諸君がある、谷崎君は卒業までには島村抱月先生の推薦で短編小説を「早稲田文学」に発表してその天分を出しかけていたが、広津君はほとんど発表して居らず、「文芸倶楽部」に通俗的な小説を一編発表したのを見かけた位で、柳浪氏の令息としては、寧ろ物足りなさを感ぜしめた位である。以下略>
ここで卒業の時期を大正二年の夏としているが、「白鳥省吾年譜」には「六月早稲田大学英文科卒業」とある。入学の時期も五月と六月の二種書かれている。この頃は入学月とか卒業月は決まっていなかったのであろうか、単なる誤植なのであろうか、その辺の所は手元の資料からは特定できない。ただ『文学・1957・2・VOL.25』中<日本の文芸雑誌>「奇蹟」(昭和32年2月10日・岩波書店発行)のなかで谷崎精二が舟木重雄を評した中にカッコ書きで「その頃は六月に学年試験があって、七月に卒業する事になっていた」と書いている。そうすると、夏の卒業でもおかしくないと思われる。「白鳥省吾年譜」にはこの年の出来事を以下のように紹介している。
<前田夕暮の「詩歌」のほか若山牧水の「創作」に執筆すること多し。実業日本社より森鴎外、島村抱月の監修による泰西名著物語の第二篇「シルレル物語」を出版。第一編「ホーマー物語」は松山思水氏、第三篇「ゲーテ物語」は谷崎精二氏、第四篇は広津和郎氏、その稿料を基本として詩集「世界の一人」を自費出版。小川未明氏(新潮)、吉田絃二郎氏(六合雑誌)に推奨さる。このころ富田砕花を知る。十一月二舎書房創刊の「新少年」の編輯主任となる。>
そのころ省吾は西大久保に二人の友人と一軒家を共同で借りて、自炊生活をしていた。「大正初期詩壇漫談二」より紹介する。
<私はその頃は西大久保百〇四番地の家を二人の友人と共同で借りて自炊生活をしたのである。戸山ヶ原に近いところだった。二階は六畳、四畳半二間で廻り縁で、私は二階に納まり、下は八畳、六畳、四畳半ぐらいで、庭もあり十二円の前屋賃であった。今なら六十円程度の家だが、その頃として特に安いわけでもなかったのである。この家構えを見て、私を相当の資産家の息子と思った人も多かったらしいが、某氏の如きは素人下宿を始めたなどと推測し噂した。>
省吾が同人として参加していた『劇と詩』は前年の九月に『創造』と改題されていた。『劇と詩』は事実上人見東明の経営になっていたのであるが、『創造』と改題されるようになってから、前述のように、当時の洋画家の最新派とも言うべきヒュウザン画会に傾いていた。こうした事情から省吾は『詩歌』、『創作』に寄稿することが多くなっていた。その頃の詩壇は、省吾の懐古するところによると、以下のようであった。続いて「大正初期詩壇漫談」より紹介する。
<私は当時の詩壇に大きい空虚を感じていた。「明星」・「スバル」・「吾等」と系統をひいてきたロマンチックな享楽的な詩も、三木露風氏などの修辞的な象徴詩も、更にまた自分といくらか傾向を同じうする自由詩風の詩も、魂の奥底から揺るがす何物もなかった。新しい目ぼしい詩人も台頭していなかった。「詩歌」や「創作」には室生犀星・萩原朔太郎の名が見えたし、「仮面」には日夏耿之介・西條八十の名があったが、あまり認められてはいなかった。詩壇は白秋・露風・柳虹の時代であった。>
人間は常に現状を脱しようと生きるものであるらしく、詩を発表し評論を発表して行くうちに、省吾はどうしても詩集を出さなければ、と言う気持ちになっていた。
<詩の発表は一編一編が独立した個性があり、力があるものだとしても、読者には軽々しく素通りされてゆく、その個性の力が押してゆくように認められるには、どうしても詩集を出さなくてはならない。>
しかし、今はそれも夢でしかなかった。
<だが詩集出版ということは、書肆からの出版は無論望めないことである。自費出版の経費も、学校卒業後、学資さえ郷里から取りにくくなって生活に困りかけている自分には、空想に近いことであった。中略>
そうこうしている間に、夢がかなえられそうな話が持ち上がったのである。
<だが求むる者に路はつくものである。詩集を出したいという希望は、どうやら実現出来そうであった。同期に早稲田を出た加藤美侖君が、実業之日本社の出版部にはいって、泰西の名著物語と言って、泰西の名著の梗概を一編二百枚く゛らいの原稿にして、新進の文士十二名の手によって十二篇つくる予定で、私に「シルレル物語」を依頼して来た。谷崎・広津の諸君も書いた。監修は島村抱月・森鴎外の二氏であった。二百枚の原稿料八十円で、一枚四十銭に相当したが、その頃としてはひどく安いものでもなかった。そう金がはいるときまると、一丁と隔たっていなかった前田夕暮氏から出版費のことなどをきいて見ると、いくらか足すと出そうなので、詩集出版を決心した。>
そして日記にこう記した。
<如何なる困難を排してもこの夏には詩集を出さなくてはならない。自分の過去をいつくしめ、そして幾ら立派な評論も自分の内容を明らかに示すことが出来ない。内容を纏めて出すことが何よりも正しいものだ。どんなに深いいろいろの屈辱を被らねばならないだろう。自分は正しく示さねばならぬ、これ以上痛快なことはない。二十五という若さが機会が永久に去ってしまうのだ。>
この日記の書かれた月が判明していない。大正三年の十二日の日記とあるのみで、何月なのか記されていないが、同書中より『シルレル物語』の依頼の月と同じであることが分かる。しかし同様に『シルレル物語』の依頼の月が記されていない。よってこの物語の発行された月より推測するしかない。「大正初期詩壇漫談二」冒頭には以下のように書いている。
<私の第一詩集「世界の一人」は大正三年六月二十二日発行で、輯むるところ詩三十三篇と散文詩十八篇で、明治四十五年四月から大正三年四月まで満二ヶ年間の作品集である。「劇と詩」・「早稲田文学」・「詩歌」・「創作」等に発表したものである。>
世界名著物語第一編は松山思水著『ホーマー物語』が出版されたのが六月二十日、そして第二編『シルレル物語』(実業之日本社発行)が発行されたのが七月二十三日(日本近代文学事典第六巻・索引・日本近代文学館、小田切進編・昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行より)であるから、それ以前であることが分かる。また数え年で「二十五という若さが機会が永久に去ってしまうのだ。」と書いているところから、省吾の誕生日二月二十七日以前となるものと思われる。『世界の一人』に最後に収められた詩が四月十二日に創作された「遠景」であるところから、この四月の日記であろうと推測する方も居られるようであるが、もっと以前と思われる。そこで『世界の一人』の目次より推測してみたい。この詩集は大方制作年順に添って配列分類されている。
詩は「恍惚の時」(明治四十五年四月から大正元年十一月作の十五作品)・「踊り子」(大正二年一月から八月作の九作品)・「地上」(大正三年一月から四月作の九作品)、散文詩「黄昏」(大正元年十月・十一月作の五作品)・「日の祈り」(大正二年一月から十二月作の十三作品)。この中の散文詩「未来の悩み」「埴輪」「赤兒が生まれた」「我」「舞踏」は『詩歌』に発表されたものである。大正三年の作品は「地上」内の詩九篇だけである。この中の「世界と僕」が一月十四日の作であるが、これを読むと詩集出版を決意した後の、『世界の一人』という詩集の表題を決めた時点の気持ちがうかがえるのである。ここからこの前後の日記と思われる。「世界と僕」を紹介する。
世界と僕
世界は奥深い嗟嘆と輝きに咽んでいる
あらゆるものを含む不思議な異性だ
いつも僕を美と真実と力で恍惚させる
僕はたゝ゛一人で世界に向かっている
世界と僕とは女と男とだ
炎と蜜との相互だ
在るものは世界と僕との二人だけだ
また世界は無数のものが無限に素裸に踊るものだ
草木・花弁・太陽・苔・動物・その中に僕も踊っている
神秘な雷と月光と雨とを御互いに降らすものだ
この作品について乙骨明夫(当時白百合女子大学教授)は「白鳥省吾論」(『國語と國文学』昭和四十四年一月号・至文堂発行)に於いて、以下のように書いている。以下に抜粋して紹介する。
<この作品にあらわれる「僕」はすでに象徴詩のベールをはらい去り、明るい太陽のもとにおのれの姿をさらしている。形式的に見ても、内容的に見ても、これが書かれた時代の作として注目されていいものではある。「世界」の中の「一人」という意識は、この詩の中にもはっきりとあらわれ、表現はきわめて率直で平明である。この詩は、その点で、詩集「世界の一人」の中の代表作とも見られる。>
ところで、この詩集の出版社について、諸氏が「二舎書房」と紹介している。これは再版が、当時省吾が編輯主任をしていた「二舎書房」から大正四年二月一日付けで出されているのであって、初版ではない。因みに日夏耿之介著『明治大正詩史巻ノ下』所載の「明治大正新詩書概表」内に「六七六世界の一人(詩集)、白鳥省吾著。六月、二舎書房発行」とあるが、これは初版が見つからなかったからであろうと思われる。
この年四月に省吾は福士幸次郎から第一詩集『太陽の子』(大正三年四月・洛陽堂発行)の寄贈を受けていた。「黒のクロースに金で太陽を押したがっちりした装幀で、紙質も内容も新人の意気を示して申し分なかった。」・・・「大正初期詩壇漫談一」。「福士君との初対面は彼の詩集「太陽の子」(大正三年版)の寄贈を受けた頃だと思うが、彼は兄さんの民蔵氏の深川の家に寄寓していた。たしか「テラコッタ」という僅か三、四人の同人誌の一人も来て居り、一緒に散歩しようと町へ出たが、どこまで歩いてゆくやら甚だ見当がつかず、やがて永代橋の停留所で別れたことを記憶している。後略」・・・「文人今昔」
省吾は自分も詩集を出せるといよいよはやる気持ちを、嬉しさを隠しきれずに、西宮藤朝に詩集出版のことを話した。「そういう金が僕にあるなら旅行をしたり本を買ったりするね」と素っ気なく言われた。省吾は内心憮然とした。今に見ていろと言う気持ちが湧いてきた。さっそく『創作』の仲間に相談に行ったら、若山牧水、太田水穂、『詩歌』の前田夕暮が骨を折ってくれることになった。そして表紙の中扉に「陸前築館なるわが父母にささぐ」と印刷した。こうして詩集出版の準備は着々と進みつつあった。その実務経緯については以下のように記している。
<印刷所は若山牧水・太田水穂の両氏の世話で「創作」の印刷所の元眞社に依頼して、組代も現在の半額ぐらいであったから、百五十頁のもの五百部で製本共に百円ぐらいで出来た。一冊二十銭の実費になるわけで定価を六十銭とした。発売所を東京堂とする事に就いては、前田夕暮氏の骨折りを願った。「世界の一人」の原稿を印刷所に渡して、その校正の出る間を、五月下旬の数日を三崎に遊んだ。ついこの間まで北原白秋氏や西宮氏などが居たところであった。中学の修学旅行の外は友人と同行したりして、唯ひとりの旅行らしい旅行は、前年の夏に磐城の釣師濱に行ったのをあわせるとこれと二度目であったので楽しくもあった。太平洋の雄大な風向に馴れた眼には三崎は小さくまとまり過ぎていたが、失望させるほどのものではなかった。質素な旅ではあったが出版費もいくらか食い込んだ。中略・
「最初の詩歌集というものは何とも言えぬなつかしさがあるもんですよ。」とは「世界の一人」出版当時に若山牧水氏が私に言った言葉であった。「世界の一人」の装幀は全部私の好みからであったが、表紙の金は、私の下絵をこれも前田氏の紹介で中村正敏氏という柏木在住の画家が複写してくれた。 私は誰か有名な画伯に依頼したいというような俗気を持っていたが、それにも及ばないことであった。その後中村氏に逢う機会もないが、何でも陸軍少佐かの令息で少し耳の遠い人で、静かな邸宅に住んで居られた。この表紙絵はそれを圓い輪郭でかこんで、今年から「地上楽園」の裏絵とし、大地舎のマークとした。これも昔なつかしい思いでのためである。「世界の一人」を出した時には、実際、扉の活字の号数さえ知らぬのであって、活字は初号二号というふうに数えるものと考えていたものである。つまり一号という活字を知らなかったのである。以下略>
こうして省吾の第一詩集は、この年の六月二十二日に発行されたことになっているが、実はなかなか、そうではなかったことが書かれている。つづいて紹介する。
<「世界の一人」は二十二日発行となっているが、二十三日になってようやく見本二冊が出来、それを前田氏と同行で東京堂に持って行って、入金を願った。二十七日に東京堂に行って見ると、百部だけ入金してくれた、たしか六がけ半で、四十円足らずの金を受け取った。これでほぼこれまで印刷所に渡した残額を支払うことが出来てほっと安心した。>
その反響は省吾の書くところによると、以下のようであった。
<広告は讀賣新聞に六十行位のをした。雑誌は「詩歌」や「創作」に出してもらった。詩集に対して最も推奨してくれたのは小川未明氏で「新潮」に、北原白秋氏と私との詩風とを比較して新生命の興隆を賞賛した。富田砕花氏は「早稲田文学」に長論を書いて紹介した。福永挽歌氏は「反響」(生田長江氏の主宰したる)に私の散文詩に就いて詳論して推奨してくれた。その外、当時、ユニテリアン教会の「六号雑誌」を編集していた吉田絃二郎氏は、特に丁寧な新刊紹介風の記事を本欄の中に書いてくれた。他の新聞雑誌の新刊紹介もみな好意ある批評をしてくれた。>
ともかくこれで、第一詩集『世界の一人』は出版できたのであった。この詩集は全部で五百部出版されたが、実際に売れたのは二百部であったと記されている。それでも省吾には驚きであったようである。
<「世界の一人」の売上高は後に半年ほど経て取りに行ったとき、その入金した部数だけしか売れなかった。それはその筈で、東京堂では出版当時、運び込んだままの状態で二階の倉庫に積んで置いて、一般の小売店に回さなかったからである。それは何故かと言うに、憶測でなくて、私の詩集はその包み紙を空色のものとしたが、それは店頭に出すとすぐ色の褪める紙であった。新しい時に見ると新鮮だが、店ざらしのものは見られたものでないのである。つまり一ヶ月でも店頭に置いたものは直ぐわかるのである。然るに、東京堂では製本当時の新しさのものを、半年後に於いても渡したのである。私はこれに就いて大売別を批判しようとは思わないし、洪水のように出版される書籍を、売れると見当のつかぬものを、いちいち克明に地方に廻しては居られないであろう。殊に無名の詩人の詩集をである。雑誌の如きもそうした憂き目に遇うことを覚悟せねばならないのである。中略
「世界の一人」は後に在る書肆の好意で、直接に百部ほど売れたので、合計二百部だけ売れたことになる。なかでも、神田の稲葉書店というのに、私が直接依頼したものは、三冊のうち二冊も売れ、早稲田でも二冊のうち一冊売れていたのは以外でもあり、嬉しくもあった。『世界の一人』は今から考えると全然眼につかない装幀でもあった。>
こうして省吾が第一詩集を世に問うたこの年の二月、東雲堂より詩文集『未来』第一号が発行されている。これは前年の二月に三木露風を中心に川路柳虹、服部嘉香、山宮允、柳澤健、西條八十、富田砕花、増野三良等「未来社」に寄った詩人達によって編輯発行されたものであった。北原白秋は同じく十二月に巡礼詩社を結成していた。そしてこの大正三年九月には機関誌『地上巡礼』を創刊するのであった。やがてここからは室生犀星、萩原朔太郎、山村暮鳥、大手拓次等が育っていく。詩壇は所謂白露時代の終焉和をむかえつつあった。時代は確実に口語自由詩へと流れていた。やがてこの両派はお互いの詩の立場をめぐって、激論に走るのであった。
この年の十月、高村光太郎の第一詩集『道程』(大正三年十月・抒情詩社発行)が出版されている。高村光太郎は今日、萩原朔太郎とならんで口語自由詩の完成者とされているが、詩を書き始めたと言う動機が面白いのでここに抜粋してみる。
<私は泣菫、有明、上田敏時代には詩を書く気がしなかった。(中略)ところが日本へ帰ってきて所謂白秋露風時代の詩を見ると、日本語でも斯ういう表現の自由詩のあることが分かり、詩は結局自分の言葉で書けばいいのだと言う、以前からひそかに考えていてしかも思い切れなかったことを確信するに至った。>(『知性』昭和十六年五月・河出書房発行)
また、その当時の反響を、「『道程』の思ひ出−藝術院受賞に際して−」(『高村光太郎全集・二十巻』一九九六年七月三十日・筑摩書房発行)には(談話筆記)として以下のように書かれている。
<「道程」は大正三年に友人の内藤ユ策氏がやっていた抒情詩社が発行した形になっているが実は自費出版で、刷ったのは二百部位であった。その頃の思ひ出を少し語ろう。
明治四十三年フランスから帰り、始めて三木露風さんや北原白秋さんの詩を見て日本語でも詩が書けると覚った。その頃、文壇や詩壇のことはさっぱり知らず、それまでは短歌ばかり書いていた。私は日本で詩を知るよりフランスでヴエルレーヌやボードレエルの詩を知った。日本語では感情を直接に出す詩形がないやうな気がして書かなかった所、今の二人の詩を見て道が拓けたやうな気がした。/更に川路柳虹さんの新しい詩集も当時出て、その三人の人に教はったやうな気がして夢中で書いた。毎日、二篇三篇と二、三年は書きつゞけた。始め「スバル」に発表し、次いで「白樺」に出した。さうした中から人に勧められ適当に選んで出したのが「道程」である。
反響は何もなく七冊売れたさうである。友人の中では面白がってくれた人もあったが。当時の詩の正形とは非常に違っていたらしい。格外れの傍系のやうに目されたらしい。中略・「道程」はその後世間の眼に触れていない。何十年まるで出ていなかったものを友人が編纂してくれ去年、山雅書房から改訂版として出した。しかし内容は前のとはたいへん違ふ。/今日「道程」で賞を貰ふのは私としては何だか気まりが悪い。・・・後略。>(『高村光太郎全集・二十巻』一九九六年七月三十日・筑摩書房発行)
日本は日清、日露戦争に勝利を治め、第一次世界大に参戦(大正三年七月開戦・八月参戦)し、戦争と同時に社会主義が論じられると言う世相であった。
* 引用図書・「三・大正初期詩壇漫談一・二」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」・初出は『詩神』昭和二年三月)
* 日本近代文学事典第六巻・索引(日本近代文学館、小田切進編・昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行)
* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)
* 引用図書・第一詩集『世界の一人』(大正四年二月一日・二舎書房版)
* 写真は『現代詩の見方と鑑賞の仕方』・『世界の一人』・(二舎書房版)・『地上楽園』
* 参考図書・『文学・1957・2・VOL.25』<日本の文芸雑誌>「奇蹟」(昭和32年2月10日・岩波書店発行)
* 参考図書・『大正の文学』(昭和四十七年九月十五日・有斐閣発行)
* 参考図書・『討議近代詩史』(1976年八月一日・思潮社発行)
* 参考図書・『明治大正詩選全』(大正十四年二月十三日・白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集・詩話会編・新潮社発行)
* 参考図書・『明治大正詩史巻ノ下』日夏耿之介著(1948年12月・東京創元社発行)
* 「『道程』の思ひ出−藝術院受賞に際して−(談話筆記)」(『高村光太郎全集・二十巻』一九九六年七月三十日・筑摩書房発行)
以上・駿馬
第1回編集会議がもたれたのが、平成11年1月16日(土)でした。編集委員の皆様のおかげを持ちまして、この度ようやく出版の運びとなりました。発行日は当初、「白鳥省吾生誕110周年記念日」にしたいと思っておりましたが、少し早くなりました。編集委員の皆様のご意見を尊重しまして、1月10日に致しました。詳しいことはここをクリックして下さい。
無断転載、引用は固くお断りいたします。
Copyright c 1999.2.1 [白鳥省吾を研究する会]. All rights reserved
最終更新日: 2002/06/10