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白 鳥 省 吾 物 語 (7) 

四、第一詩集『世界の一人』出版 (一)、詩人としての出発  (二)、『詩歌』と『劇と詩 

* 縦書きのものをそのままhtmlファイルに変換しています    文責 駿馬


 四、第一詩集『世界の一人』出版

(一)、詩人としての出発

 明治四十四年(1911年)、省吾二十一歳。「夜の遊歩」が『劇と詩』(明治四十三年十月創刊・大正二年八月終刊)に載せられてから、省吾は意欲的に詩作している。その詩をどんな雑誌に発表していたかは、故乙骨明夫氏(当時白百合女子大学教授)の「白鳥省吾論」(『國語と國文学』昭和四十四年一月号)に詳しいので、以下に抜粋して紹介する。

<「夜の遊歩」が「劇と詩」にのせられてからは、省吾の詩は主として「劇と詩」に発表されることになる。翌一九一一年に入ると、「劇と詩」には四月、六月、八月、十月、十一月に発表されている。そして「創作」二月号と、「早稲田文学」十二月号にも発表されている。つぎの年の一九一二年には「劇と詩」二月、三月、四月、五月とたてつづけに発表されている。詩人としての一歩をふみ出したということになろう。

 しかしながら、その作品には、まだ独自性が乏しい。一言でいうならば「自然と印象」の「気分詩」の傾向をはっきりと示している。加藤介春の作に見られる思索的な傾向を持つものはないと言ってよいが、人見東明や福田夕咲の作に見られる、淡く甘いムードは、当時の省吾の詩に色濃くただよっている。形式の点から見ても、まだ独自の領域をひらいていない。だいたいにおいて、口語の自由詩なのであるが、文語詩もあるし、口語と文語が入りまじっているものはたくさんある。>

省吾は念願かなって、一人前の詩人として『劇と詩』『創作』『早稲田文学』等に詩を発表するようになった。しかし、この頃の詩は「いろいろの人の影響を受けた時代」(「大正初期詩壇漫談二」より)の作品であり、その詩風が「気分詩」の傾向にあった。同様のことを省吾は後に『詩の創作と鑑賞』の中で以下のように書いている。

<当時、詩壇は既に詩形打破を叫ぶ口語詩の運動が起こり、作品も現れて来たが、一般詩壇はまだ象徴と雅語との域を脱しなかった。象徴詩の内容に不満を感じながらも、若き新詩人さへ雅語を捨てかねていた。私もその一人であった。しかし、詩壇にはその現実生活から直接詩材を得て平明にそれを歌う一種の気分詩ともいうべきものが顕著になって来た。中略・私の象徴詩への傾倒は次第に自由詩の平明に心を惹かれて来たが、それよりも二十一二歳頃に誰しもあり勝ちな恋愛の感傷から抒情詩が私の詩を支配した。>

 この時期の詩は処女詩集『世界の一人』(大正三年六月二十二日・象徴詩社発行) より遅れて出された、『幻の日に』(大正九年三月二十二日・新潮社発行)詩集や『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)詩集に収められている。この中の『幻の日に』を紹介する。この詩集は「小曲集」と「散文詩集」に分かれている。

 小曲「若き日の夢」・明治四十三年より大正二年までの五十八作品。「現し世」・大正二年より大正七年までの二十七作品。

 散文詩「傷つける果実」・大正元年より大正二年までの十一作品。「いのちの宮」・大正五年より大正八年までの二十八作品。

 以下に「若き日の夢」より「指輪」をあげる。

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   ふれがたい指に

   うつくしい指に

   こともなく光る指輪のにくらし

   ダリやの散る

   ともしびの光り

   みずみずしい六月のある夜あるとき

 

 省吾のこうした抒情詩の時代はこの後もしばらく続いている。『詩の創作と鑑賞』には以下のように記されている。抜粋して紹介する。

<明治四十五年の四月から大正三年の四月までの作品を集めて、第一詩集『世界の一人』を出したが、この集中のものは凡て象徴的のものであった。その頃は詩の用語に口語をもちいると云うことは、詩壇を通じて決定的なものと言ってもよかった。文語、雅語を用いるものは極少数しかなかった。この象徴詩の境地は第二詩集『大地の愛』のうちの大正五年の頃まで続いた。>

* 「白鳥省吾論」(『國語と國文学』昭和四十四年一月号・白百合女子大学教授・乙骨明夫著)

* 引用図書・写真・詩集『幻の日に』(大正九年三月二十二日・新潮社発行)

* 引用図書・『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)


 この年は省吾が詩人としての第一歩を踏み出した年であるが、また多くの先輩詩人達との出会いの年でもあった。「白鳥省吾年譜」には以下のように書いている。「早稲田の先輩の秋田雨雀、人見東明、中村星湖、相馬御風、本間久雄の諸氏を知る。」中でも山村暮鳥とあったのが、生涯を通じてこの年の三月三十日ただ一回きりであったと「大正初期詩壇漫談一」に記されているが、後の『文人今昔』には大正二年の三月三十日と書いている。その両方を抜粋して紹介する。

<明治四十四年の三月頃であったろう。山村暮鳥君が上京してくるというので、「劇と詩」の小集を森ヶ崎で催したことがある。あとにもさきにも山村君と逢ったのはこの一度きりである。市電に乗って品川で更に電車を乗り換えたが、あとさきのことは茫乎と忘れてしまったが、いっしょにつり革にぶらさがっていて、山村君は何か世相を概して、「擲るぞ」と軽く掌を上げて憤慨されたのを覚えている。それが、どこか軽薄にも気軽にも見えたのである。やはり牧師としては異端者であったろう。しかし詩人としては牧師の臭味があった。会場は森ヶ崎の大金であったが、帰りはどう歩いたか菜の花畑があったり、海の向こうに夕日が赤く沈むのを見ながら歩いた。集まったのは山村君の外に人見・福田夕咲・小杉寛・萩原朝彦の諸君であった。>

 つぎに『文人今昔』にはこう書いている。

<山村暮鳥との初対面は大正二年三月三十日で、彼は前橋あたりの牧師で、私は卒業間際の早稲田の学生であり、大森森ヶ崎の東海楼で「劇と詩」の会があった時だ。人見東明、秋田雨雀などわずか十人足らずの同人風の会合であった。山谷で下車して十余丁も歩いて会場に行った。途中の茅ぶきの家並みや見事な菜の花畑や葱畑、そしてどこまでも遠浅の海。掘割りをさして男女の海苔採りの無数の小舟が帰る光景、キュッキュッと櫂の音が春の暮れ方の情緒にいかにもふさわしかった。何しろ五十数年前のことで、今はどの辺りになるかまるで見当がつかないし、暮鳥と何を話したものやら印象もないが、歩きながら詩壇の何かを憤慨して「あんなのなぐってやるがよいよ」と軽く拳をあげて言ったのが、軽薄才子風で私を笑わせた。>

 以上より、会場の名も、年月日も異なっているが省吾に好印象を与えたことは事実のようである。後に、大正六年から七年にかけて萩原朔太郎と暮鳥論を手紙で取り交わしているし、大正十四年十二月六日の暮鳥の一周忌講演会に佐藤惣之助、百田宗治等と共に参席し、翌日墓参している。また暮鳥忌句会にも参席している。

 一方この時代の社会面を覗いてみると、明治四十二年十月に伊藤博文暗殺、四十三年の大逆事件、四十四年の一月二十四日、大逆事件の被告十二名の刑の執行が行われている。社会主義運動は冬の時代を迎えていた。しかし徐々に社会主義思想が浸透していたと思われる。

<明治最後の年は、東京市電の大ストライキのうちにあけた。かねて市会とのくされ縁を避難されてきた東京鉄道会社は、明治四十四年八月に東京市に買収されて解散したが、運転手・車掌らにたいする解雇手当の分配があまりに少なかったため、六千の市電労働者が増額を要求して大晦日にストに入った。ストは翌年の一月二日までつづいて、労働者は手当増額をかちとったが市電労働者の会合で演説した社会主義者の片山潜は、ストを煽動したという理由で懲役五ヶ月となった。>(『日本の歴史』23大正デモクラシー・昭和四十六年十月十日・中央公論社」発行より)

 そして明治四十五年七月三十日に明治から大正に改元となった。

 

* 引用図書・「白鳥省吾年譜」詩集『北斗の花環』昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 引用図書・「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」・初出は『詩神』昭和二年三月)

* 引用図書・『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 引用図書・『日本の歴史』23大正デモクラシー・(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)


 (二)、『詩歌』と『劇と詩』

 大正元年、省吾二十二歳。この年『劇と詩』に同人として加えられた省吾は、詩の他に随筆等も発表するようになった。また『早稲田文学』に詩と評論、前田夕暮の『詩歌』に詩と短歌を発表している。(「白鳥省吾年譜」より)

 特に『詩歌』は省吾にとって忘れられない存在であった。これは明治四十四年四月に前田夕暮が主宰した「白日社」から創刊され、大正七年十月通巻九十二号で休刊している。省吾は大正元年十月第二巻第十号に「森より都へ」という短歌二十三首を発表して以来、その休刊まで、詩、短歌、散文詩、評論等を計三十一回も寄せている。これらの作品は後の詩集『世界の一人』(大正三年六月二十二日・象徴詩社発行)、『若き郷愁』(大正十一年八月・大鐙閣発行)、『大地の愛』(大正八年六月・抒情詩社発行)にそれぞれ収録されている。この中で特筆すべきは『大地の愛』に収録された、省吾の代表作「殺戮の殿堂」は『詩歌』大正七年三月一日発行の第八巻第三号に掲載されたものであった。この他、評論は『詩に徹する道』(大正十年十二月・日本評論社出版部発行)に収録されている。前田夕暮氏については

<夕暮氏の雑誌「詩歌」は整然たる見事な編集ぶりで、明治四十四に創刊して大正八年の頃まで続いた。殊に詩人の作品や散文にスペースをとったことは特筆すべく、萩原朔太郎、室生犀星、山村暮鳥、それに私などに紙面を提供した。中略・夕暮氏は自由律の和歌に関心を持って、和歌は必ずしも三十一文字にこだわらず、秀作を残した。十和田湖畔に次のような歌碑が建っている。

/あざやかな晴天の紅鱒/十和田ははれやかにわれらによびかける/

夫人は、狭山信乃のペンネームで短歌を書き、令息透氏は、中堅の歌人として活躍している。「詩歌」の奥付の東京府下豊多摩郡大久保町西大久保白日社は、広大な戸山ヶ原の一隅で、私も白日社の近くに二,三年居住していたことがあり、訪問の機会も多かった。>kese12.jpg (15564 バイト)

と、後に『文人今昔』に省吾が書いている。また「大正初期詩壇漫談一」には以下のように紹介している。

<若山牧水氏の「創作」は明治四十三年三月に創刊され、前田夕暮氏の「詩歌」は翌年四月に創刊した。両誌とも短歌を中心としたものだが、詩と詩論をも掲載して、詩壇のためにつくすところあった。私も詩や詩論を書いた。>kese22.jpg (15627 バイト)

 

現在宮城県気仙沼市の観音寺に省吾の詩碑、前田夕暮(省吾の第一詩集の出版に関わっている)の歌碑が建立されている。

* 写真左は天台宗別格本山・観音寺境内の前田夕暮歌碑(「雪かづく山にむかひて幾うねりよせくる波のおほうねりはも」昭和四十六年五月九日建立)。写真右は天台宗別格本山・観音寺境内の白鳥省吾歌碑(「現世に寄り添ひ生くる 目出度さをみ空に歌ふ 連理の欅」昭和五十六年秋建立)

 この夕暮の師にあたる尾上柴舟氏との関わり合いが省吾を『詩歌』の人々と結びつけたといえる。同誌より抜粋して紹介する。

<尾上柴舟氏の訳詩集「ハイネの詩」(明治三十四年十一月・新声出版)は、こういう種類の本はあまり出なかった頃なので、極めて印象の深いものである。中略・明治三十七年頃になると歌人として大家の風格を帯び、その門下に若山牧水、前田夕暮、正富汪洋、有本芳水などの新鋭がいずれも才気を競っている。その人達が巣立った後とも思われる第二次の車前草社が、明治四十一年頃、哲学館大学(今の東洋大学)の学生有志数人で組織された。私は詩を中心としていたが、友人に尾上先生に懇意にしていた者があってオブザーバー的に数回出席してからしばしばおたずねした。中略・柴舟氏の家は植物園の北側の高台の二階建てで、そこで車前草社が催され、若山牧水氏なども出席した。その時に、朗詠した和歌を今でも憶えている。>

 人見東明氏と『劇と詩』については「大正初期詩壇漫談一」には以下のように書いている。

<「劇と詩」の小集は時折鬼子母神境内の「あやめ」というのでやった、雀焼きを名物とした数件の家も今では蝶家だけが残っているが、その頃はまだ昔の面影を止めていた。「劇と詩」の主宰で、やはり「あやめ」で文士の会合をしたのが明治四十五年の三月であったが、会するもの四十余名、小説家では徳田秋声、上司小剣、評論家では片上、本間、吉江、歌人では窪田空穂、土岐哀果などで詩人では「劇と詩」の連中があり、文芸家を綜合していた。人見氏が讀賣新聞の文芸欄の主任をやっていた便宜もあったろうが、ともかく麗しい会合であった。

 その頃の諸種の雑誌と雖も小説、評論、和歌と同席したものが多かった。中略・「劇と詩」の頃には三富・今井・福士の諸君はどういうわけか全く姿を見せなかった。人見氏はどちらかと言えば親分肌のところがあって、後進によく、浅黒い顔と丈高い巨體とは人を圧服するように見えたが、目の細かい優しいセンチメンタルなところがあった。「劇と詩」の経営はなかゝ困難であったろうが、私は西宮藤朝君などと一緒にたずねたりした。中略・そして大正二年の九月になって、かのヒュウザン画会の人々の交友関係と感化から「劇と詩」を「創造」と改題するようになってから、私達とも心持ちがそぐわなくなり、自然交渉が疎かになってしまった。だが人見氏は若い詩人に対してばかりでなく、当時の洋画の最新派とも言うべき、ヒュウザン画会の人々にも尽くすところ多かった。最近岸田劉生氏遇って、人見氏の噂の出た時にも、氏を徳としていた。>

 ヒュウザン画会は高村光太郎、岸田劉生等が結成した、当時の洋画の最新派であった。人見東明氏について『文人今昔』には以下のように書いている。抜粋して紹介する。

<昭和女子大学の学監(創立者)の人見円吉氏は、大正の初期、自由詩運動の先駆としてパンフレット「自然と印象」の中心の詩人の東明氏であることは知る人ぞ知るであろう。中略・まことに今日といえども私は東明氏に五十余年一日の如く敬愛の念を持っている。

 東明氏が讀賣新聞記者で愛妻を亡くした頃、私は早稲田の学生で、明治四十五年四月二十二日の午後四時頃、戸山ヶ原の散歩の帰りに立ち寄ると、雇い婆さんと二人で手不足で困っていた東明氏は、もう夕刻だが、明日の引っ越しの楽なように掃除だけして置こうというので、五,六丁しかない引っ越し先の家につれ立って行った。東明氏はバケツを手にし、私は彼の亡妻の小さい鏡台を下げて行った。その頃、貸家は今と違って到る所にあると言ってもいい位であった。東明氏は人一倍、縁起を担ぐほうであって、東京市の地図の上に磁石を置いたりして方角をいつも気にして家を探した。新知識を受けた人に似合わぬといった人もあったが、当人は大真面目であった。>

 秋田雨雀氏について『文人今昔』には以下のように紹介している。

<秋田雨雀氏は明治四十三年十月に創刊した「劇と詩」の劇方面の中心人物であったので、その頃、お宅によくお訪ねした。鬼子母神の入り口に近い森にかこまれた二階建てて゛あった。夫人は軍人の未亡人とかで、よほどの年上らしいが気軽な愛嬌のいい人であった。中略・その頃鬼子母神で小鳥の雀焼きを名物としていた小料理屋が数軒あり、季節によってたけのこご飯、栗飯なども出した。

 大正元年の九月号に「あやめ」で開催された「劇と詩の会の人々」として裏表紙に載っているが、福田夕咲、土岐哀果、相馬御風、秋庭俊彦、上山草人、片上伸、本間久雄、人見東明、吉江孤雁の先輩に早稲田の学生で詩、小説、劇方面の人が私の他五人ほど写っている。文芸家協会の芝居の予告や自由劇場、土曜劇場のことなどが編集余録に出ている。雨雀氏は何かの都合で出席していないが、こうした先輩が後進と隔意なく語る機会を時折催したことを追憶すると、実に有難く思う次第である。>

 これらの引用文より、この時期省吾が一人前の詩人として認められはじめていたことが読みとれると思う。それは早稲田の先輩達によって育まれた、同窓の連帯意識にあると思われる。「この当時、東京大学の出身者は学者か官吏、早稲田の卒業生が新聞記者で、慶応出身者が財界というのが、社会通念になっていた。」(文芸文庫『日本文壇史十七・転換点に立つ』・伊藤整著・平成九年八月十日・講談社発行)。

 こうして省吾は結社の中の一人から、白鳥省吾個人として、詩壇に関係してゆくのであるが、その心の内には、「自分の詩集を発行しなければ」という幾分のあせりと、将来への夢があったと思うのである。

* 参考図書・『前期詩歌総目次』(小野勝美編著・昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)

* 引用図書・「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」・初出は『詩神』昭和二年三月)

* 引用図書・『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 引用図書・文芸文庫『日本文壇史十七・転換点に立つ』(伊藤整著・平成九年八月十日・講談社発行)

 

つづく

以上・駿馬    


 U. 「白鳥省吾のふるさと逍遙」出版について

 第1回編集会議がもたれたのが、平成11年1月16日(土)でした。編集委員の皆様のおかげを持ちまして、この度ようやく出版の運びとなりました。発行日は当初、「白鳥省吾生誕110周年記念日」にしたいと思っておりましたが、少し早くなりました。編集委員の皆様のご意見を尊重しまして、1月10日に致しました。詳しいことはここをクリックして下さい。


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最終更新日: 2002/06/10