会  報 白 鳥 省 吾 物 語 (5)  siyogob2.jpg (12989 バイト)

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 文責 駿馬


 三. 早稲田大学入学前後

 (二). 早稲田入学と失恋

 

 明治四十二年一月、省吾は東京で越年して勉学に勤しんでいた。一月二十四日に小石川区高田老松館に三木露風を尋ねている「白鳥省吾年譜」より)。露風はそのころ、早熟の詩人として知られていたが、現代の学制で言えば省吾と同級生に当たる、明治二十二年六月二十三日に生まれている。そして明治三十九年一月、嘗て省吾も露風自身も投書していた『秀才文壇』(明治三十四年十月創刊、大正十二年終刊・文光堂発行)の詩欄の選を依嘱され、その任にあたっている。このとき萬十七歳であった。更に三ヶ月後の四月、尾上紫舟の第二次『新聲』(第一次は明治二十九年七月創刊、佐藤儀助・義亮主宰)に若山牧水、前田夕暮、有本芳水等と共に招かれ、その選にあたるなどしている。その後「早稲田詩社」に加わり、明治四十年九月早稲田大学文学部に入学、このころは人見東明の家に近い、小石川区雑司ヶ谷の目白館という下宿屋にいた。

 そして省吾が尋ねたときは高田老松館にいたのであるが、この時期露風は<四十一年暮れ頃から、早稲田詩社は結社の力が弛んで来ていた。露風はその才を認められて外の雑誌に書く機会が多くなり、その上何か悩みがあって、鎌倉の圓覚寺で参禅したり、京都の相國寺に行ったりして別行動をとっていた。>(『日本文壇史十四』伊藤整著・昭和四十七年一月二十八日・講談社発行より)とあるように、居が一定していなかったようである。省吾もこの時期下宿を本郷区湯島北辰館に変えている。

<貧しい流浪の青年にとって、都会は華麗であるだけに、田園以上の憂鬱と感傷とにひき入れもした。宿の都合で一月半ばに小石川区氷川下町に移ったが、工場付近の喧騒に堪えられず、半月ほどで、本郷湯島に転宿した。この高台は宿としても、図書館に通うにも凡て好都合で、上野の森、不忍池、朝夕のかへりは私を静かな詩思に導いた。・中略・五月の十日から早稲田大学に入学した。>(「憧憬の丘年表」より)とある。

 「白鳥省吾年譜」では<一月三十一日、本郷区湯島北辰館にうつる>とある。省吾が一面識もない露風を尋ねた理由は、今となっては想像するしかないが、早稲田の学生で新進詩人として詩壇で活躍している露風の名は、共に投書していた雑誌『新聲』『秀才文壇』上で見知っていたことと思われる。その露風がこれらの雑誌の詩の選者になっていた。羨ましくもあり、懐かしくもあったものと思われる。省吾はこの時期になるとこれらの雑誌から離れて、『文章世界』(明治三十九年三月創刊・田山花袋主宰、前田夕暮編集員)『新潮』(明治三十七年五月創刊・佐藤儀助発行)に詩の投稿先を変えている。

<上京したのはちょうど口語詩の台頭した直後ではあったけれど、蒲原有明、薄田泣菫の詩風をやはり老大家のものとして尊敬し、「有明集」のごときは図書館に於いて閲読、感銘すること深くその筆写が十一篇に及んでいる。そして当時、有明氏の選である「文章世界」と「新潮」に投稿して、それが四十二年の四月頃までに及んでいる。>(「明治詩壇の思いで」・『現代詩の見方と鑑賞の仕方』・昭和十年九月十日・東宛書房発行)

 この時期、たまたま露風も省吾も小石川に住んでいたのである。この時のことを『文人今昔』には以下のように紹介している。抜粋して紹介する。

<今、彼の伝記を読んでみると、その出生は私に僅か九ヶ月の先輩であるが、なかなかどうして十七歳の時、処女詩集「夏姫」を出版したというから大した早熟で、私が露風氏を訪ねたのは彼がまだ詩集「廃園」(明治四十二年九月出版)を出す以前の、彼は二十一歳、私は二十歳の時である。私は東北の田舎から出て来て早稲田に入学する直前であった。

 それは小石川区高田老松町の老松館の二階の一室で、朝九時に訪ねると、通された室には、ビール瓶二本とコップ二つが丸盆の上にあって、雑誌や手紙も散らばり、昨夜来客があった様子で、次の室から「ああ君、はいっていてくれ給え」と声がした。露風氏はすでに一家の風格があり、魚が水を得て詩壇に游いでいるようで大変元気が良かった。中略・しかし、この早熟なる詩人に対する印象は、素直な明るさで、後になって、殻の中から、絶対に出てこないものとは想像もつかないものである。露風氏は親切にも、この近くの雑司ヶ谷墓地には文人の墓があるということで、網島梁川の墓を訪ね、さらに小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の墓に対して「実に冷たいですなァ」と言った。>

 省吾は雑誌かなにかで、露風がこの辺に住んでいることを知っての訪問だったものと思われる。さらに「白鳥省吾年譜」はこう書いている。<六月早稲田大学英文科へ入学。教授に坪内逍遙、島村抱月、片上天弦(伸)、吉江孤雁(喬松)、五十嵐力の諸氏有り。ワルト・ホイットマンの詩を知る。四十二年頃より大正二、三年まで詩の傍ら和歌をつくる。尾上柴舟氏を知る。>

 「憧憬の丘年表」「白鳥省吾年譜」の早稲田大学の入学時期が違っているが、五月から通って、正式に入学が決定したのが六月であろうと思われる。早稲田入学前後のことは「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』に掲載・初出は『詩神』昭和二年三月)書いているので抜粋して紹介する。

<私の詩作は明治三十八年頃に始まり、四十一年四月上京してからその年一杯くらいは、いろいろの雑誌に詩の投書をしたが、早稲田にはいるようになってから投書は殆ど止め、そうかと言って所謂本欄に載せてくれる縁故もなく、悶々の裡に日を暮らしていた。しぜん詩作も少なくなって、友人の小杉寛君が尾上柴舟に出入りしていた関係から、短歌なども試みたり、発表機関のないことには不満な憂鬱な日が続いた。>

 尾上柴舟は落合直文の「浅香社」で与謝野鉄幹、金子薫園等と同門であった。後に省吾は『新しい詩の国へ』においてこう書いている。「鉄幹と共に落合直文門下であった尾上柴舟は、静かなる歌風で、しかも清新を失わず、一方の重鎮となっていた。嘗てハイネの詩なども訳して好評であった。車前草社をつくりその門に若山牧水、前田夕暮等を排出せしめた。」

 以上より、上京してから『文章世界』『新潮』に投稿していたが、早稲田に入学してからはこれを止めていることがわかる。これは投書家として過ごすことの不満が原因かと思われる。詩は書きたいが、それは投書家としてではなく、一人前の詩人として書きたい。そんな焦りが感じられる。三木露風を尋ねたことの本音もその辺にあったのでは無かったかと思われる。詩集『憧憬の丘』ではこの時期を「青春苦」と題して、三十三篇の詩を掲載している。

 

* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 引用図書『日本文壇史十四』(伊藤整著・昭和四十七年一月二十八日・講談社発行)より

* 引用図書・「憧憬の丘年表」・詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)より

* 引用図書・『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 引用図書・「明治詩壇の思いで」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・東宛書房発行)、「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」に掲載・初出は『詩神』昭和二年三月)

* 引用図書・『新しい詩の国へ』(大正十五年十二月二十五日・一誠社発行)


 そしてこの年の夏休みに郷里築館に帰った省吾を待っていたのが、中学時代に恋した少女の嫁入りだった。「憧憬の丘年表」に<「秘めたる恋」「川のほとり」は夏休みで帰郷した作、夏休み中の閑寂な心持ちは短歌にも親しましめた。上京後間もなく九月二十二日に寄宿舎生活に入った。>とあるのみで、外はこの詩集の詩より類推するしかない。

     秘めたる恋

   風よ、風よ、七月の風よ

   汝に悲しき歌を寄せん

   秋はいち早く吾が手に来る。mtiyuu06.jpg (16866 バイト)

   愛する少女の嫁ぐ

   饗宴の声は町の一角にきこゆ

   ああ遂に触れ合はぬ胸の

   沈黙ぞ尊き謎なれ

 

     絶望

   吾が胸は静かなり

   君の嫁ぎし後のこの静けさ、

   おもふ嵐のあとの花園の静けさを

 

     川のほとり

   やはらかき黄昏の

   飽和するもののにじみをよけてkawa01.jpg (12556 バイト)

   独りあゝ哀しみの一縷をひける

   ほの明かり暮れのこる川 −−−。

   心にふるゝ親しみある冷たさ

   何ものかたよりなき額みるごとき

   絶望のほの明かり

   人もなし架せる橋に

   つくるなき歓楽もさめし心に

   われ今ひとり棄てられし寂しさまさる

   ・中略・

   あるなしの月かげ−−−

   わづらひの雲もれて

   静けき夜のほのかなる光り

   軽く軽く水をうてり

 

 「絶望」は「憧憬の丘年表」には別に記されていないが、両詩の間に挟まれて載せられているから、恐らく同時期の作であろうと思われる。省吾が恋した相手が誰か興味のあるところではあるが、今となっては想像するしかない。「憧憬の丘年表」の「青春苦」には入院していた時期に「また空しい憧れの恋をもして見た。」とあるところから、病院に関係ある少女と思われる。大正十一年十二月十三日、省吾は詩集『愛慕』を「新潮社」より出している。これは省吾の初恋から青年期の恋愛だけを扱った詩集であるが、この中に前掲の「秘めたる恋」「絶望」が再録されている。此の詩集中の「恋の素描」中に「恋文」と題された詩があるが、それを紹介する。

     恋文

   孤独なるふるさとの窓

   秋の雨、風さへまじへ

   いたづらに向ひ家の

   新しき塀を濡らしつつ。

 

   ふるさとは人の世の寂しき極み

   遠くわかれて始めて知る

   抑へたる君恋しさは溢れて

   涙はわが頬ぬらせど

   詮もなし。

   秋雨を眺めつつ

   君に

   初めての文を書く。

   

 また、平成十三年四月に発行された『栗駒の里・佐々木真夫米寿記念画文集』中の「栗駒讃歌5」に佐々木真夫氏が以下のように書いているのは興味がもたれる。

<昭和三十二年ことで、当時先生は六十七歳、喜代夫人と園枝嬢にも会うことができた。初対面であったが、快く迎えてくださった。私の父・三郎とも親交があり、そのうえ築館町屋敷の先生の生家の直ぐ向かい側には、私の叔父である町医者の及川清純一家が住んでいた。及川医院には三人の娘がいて、時どきビアノの音が聞こえてきたり、また時には娘たちのうたう賛美歌が聞こえてきたりして、そのころ築中の生徒であった省吾青年にとっては、この娘たちのことがいつも心にあって、あこがれたものだ、と話された。・・・後略>(『栗駒の里』佐々木真夫米寿記念画文集・平成十三年四月二十日・佐々木真夫発行)

 省吾の恋した少女はこの三人娘の一人かも知れない。しかし、早稲田大学に入学したことを伝えに故郷に勇んで帰ってみると、その少女はすでに人妻に決まっていた。遠くから聞こえてくる結婚式の饗宴の声が、省吾の淡い恋の終わりを告げていた。詩集『憧憬の丘』ではこの時期を「幻像の都」と題して、二十五篇の詩を掲載している。

 

* 引用図書・「憧憬の丘年表」・詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)より

* 『栗駒の里』佐々木真夫米寿記念画文集(平成十三年四月二十日・佐々木真夫発行)

* 写真は省吾の生家近く、斜め向かいの紀州屋郵便局跡と成田橋付近より眺める迫川。遠くに見える杉山はお薬師さん。


 憧憬の丘』詩集の小序にみえる「私の憂鬱な青春時代」とか「全き孤独で詩作を続けていたその頃の私は、何等の発表機関を有せず」とか「それは光に現れずに暗い地底に根を張るやうな日々であった。」とかいう述懐は、この時期の省吾の偽らざる心境であったろうと思われる。

 こうして省吾が「暗い地底に根を張るような日々」を送っていた頃、雑誌『明星』(明治三十三年四月創刊、同四十一年二月百号で終刊・与謝野寛主宰「新詩社」発行)の後身ともいうべき『スバル』(同四十二年一月創刊・大正二年十二月終刊・全六十冊)が発行され、北原白秋、生田春月、佐藤春夫等が詩を寄せていた。この年の春「早稲田詩社」の結社の力がゆるんで来たのを期に、人見東明は新しく別に詩の結社を作っていた。結社の名を「自由詩社」と名付け、五月に『自然と印象』(明治四十二年五月創刊・同四十三年六月廃刊・全十一集)というパンフレット状の小冊誌を発行し始めた。同人に加藤介春、福田夕咲、三富朽葉、今井白楊がいた。後に福士黄雨(幸次郎)、山村暮鳥、斎藤青雨が参加している。更に十月には北原白秋、太田正男、長田秀雄等の『屋上庭園』が創刊され、詩壇に新進気鋭の詩人達が台頭し始めていた。

 これらの雑誌の中で省吾の目を引いたのは『自然と印象』であった。後に『新しい詩の国へ』の中で以下のように書いている。抜粋して紹介する。

<後に、自由詩の形式と精神を進展さした若い詩人の一団がある。それは自由詩社の人々で、パンフレット「自然と印象」を出した。二三十項の小冊誌で十冊位しか出ていないが、それに詩を発表した人見東明、加藤介春、三富朽葉、今井白楊、福士黄雨(幸次郎)の詩はいづれも清新な香気があった。>tilih77.jpg (8989 バイト)

 また「大正初期詩壇漫談一」には次のように記されている。

<私の感興を惹いたのは、百数十項で小説、散文の間に詩を介在せしめたるこの「スバル」ではなくして、「自然と印象」の新鮮な詩風であった。・中略・三富君は私より二年か上の学生だった。今井君は同じ組みだが教室には滅多に顔を見せなかった。来ると南国風の明朗な調子で多少気取ったやうに仲間とものを言ふ男だったが、谷崎・廣津の諸君と親しいらしかった。詩はともかく態度は平凡でありたいと思ふ私に、今井君のどこか天才風な態度に軽い反感さへ持ったやうに記憶する。同じ組の佐藤楚白君も第五集頃には加わっていた。山村暮鳥君も書いた。いづれにせよ「自然と印象」のグループは、私にとって羨ましい存在に見え、唯一の対象であった。>

 省吾のクラスの中には『自然と印象』のグループに混じって詩を書いている今井白楊、佐藤楚白等がいたが、省吾自身は詩を発表する場もなく、これらの人々を羨ましがっている様子が伺える。

 この時期、早稲田の学生の詩の結社として、「早稲田詩社」(明治四十年六月)があったが、このグループは自分たちの機関誌を持たずに、その作品や詩論は『早稲田文学』や『文庫』に寄稿していた。(明治四十年に自然主義文学運動が興り、早稲田大学を中心に明治四十年六月に「早稲田詩社」が生まれ、島村抱月が詩に於いても自然主義的態度が必要と唱えた。同人として相馬御風、人見東名、加藤介春、三木露風、野口雨情がいた。この運動は明治四十二年の「自由詩社」に引き継がれ、口語自由詩運動を誘った。前記詩人の他に福田夕咲、三富朽葉、今井白楊、福士幸次郎、山村暮鳥、斎藤青雨等が参加した。)前述。その後「早稲田詩社」は解散し、旧結社の中心人物であった人見東明が主になって「自由詩社」が結ばれたのであった。

 こうして新しい詩の傾向が芽吹き始めていた頃、詩壇はこの年の三月、詩集『邪宗門』(明治四十二年三月・易風社発行)を出版した北原白秋と、同じく詩集『廃園』(明治四十二年九月・光華書房発行)を出版した三木露風の、所謂「白露時代」をむかえていた。

 

* 引用図書・写真『新しい詩の国へ』(大正十五年十二月二十五日・一誠社発行)

* 引用図書・「大正初期詩壇漫談一」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』昭和十年九月十日・「東宛書房発行」に掲載・初出は『詩神』昭和二年三月)

* 参考図書『日本文壇史十四』(伊藤整著・昭和四十七年一月二十八日・講談社発行)

 

つづく

以上・駿馬    


U. 「白鳥省吾のふるさと逍遙」出版について

 第1回編集会議がもたれたのが、平成11年1月16日(土)でした。編集委員の皆様のおかげを持ちまして、この度ようやく出版の運びとなりました。発行日は当初、「白鳥省吾生誕110周年記念日」にしたいと思っておりましたが、少し早くなりました。編集委員の皆様のご意見を尊重しまして、1月10日に致しました。詳しいことはここをクリックして下さい。


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最終更新日: 2002/06/10