会  報  白 鳥 省 吾 物 語 (4)   siyogob2.jpg (12989 バイト) 

* 縦書きのものをそのままhtmlファイルに変換しています

 文責 駿馬


 三. 早稲田大学入学前後

 (一). 人生の岐路

 

 さらに「白鳥省吾年譜」は次のように書いている。

<明治四十一年(一九〇八)十九歳。三月十五日に仙台市宮城病院(後の大学病院)に入院、・中略・四月十四日に退院、後、宮城県中山平温泉松本屋にて療養す。ここが後に明治四十三年の鳴子温泉一帯の大洪水や、山津波で全滅して跡形もなく、そのあとに大熱泉が噴出している。今日は全く別箇の面影である。九月二十四日上京、本郷区根津藍染町に下宿して、近くの上野図書館に毎日勤勉に通い古今の文学書を耽読す。>

 この時期省吾は、二高受験失敗の不遇を跳ね返すように、詩作に励んでいたが、内心はもう一度二高を受験するつもりでいたらしい。この年の新年早々、思いもかけない災難が省吾を襲った。憧憬の丘』詩集中の「憧憬の丘」年表「青春苦」より抜粋して紹介する。

<前年の十二月初めから引き続いて気分が勝れなかったのが、背部に明らかな腫れ物となって現れた。色がついていないだけに悪性の深い腫れ物であった。二月二十日に町医者の診察を受け、三月八日に手術を受けた。手術室で痛みをこらえながら外を見ると、雪がちらちらと降っていたことを覚えている。更に三月十五日に父に伴われて仙台に赴き、宮城病院に入院、四月十四日まで一ヶ月ほど病院生活をした。「魔睡」等の詩は其の頃の追懐の作である。帰郷後も六月頃まで傷口が全快しなかった。よき友、よき異性を周囲に持たない自然そのものはいかに単調で憂鬱なものであったろう。孤独な頑なの心は詩に唯一の慰安を見出した。また空しい憧れの恋をもして見た。「紅の鳥」「ある結婚」などはその気分を表している。>

 『憧憬の丘』詩集には、宮城病院に入院していたときの作として「魔睡」「夜明けまで」「暗き春」「快癒」等がある。

 この年の二高再受験の道が閉ざされた省吾は、一時やる気を無くしたようである。そして気を紛らすように詩を書き恋をした。詩を読むと、省吾の一方的な片思いであったようであるが、この後も尾を引くのである。憶測の範囲を出ないが・・・、おもしろおかしく書かせていただけば、共に未来を誓った恋する人が出来ていた。「東京の早稲田大学を卒業して、いっぱしの学者になったら迎えに来るよ・・・。」そんな省吾の声が聞こえてくるような気がするのである。『憧憬の丘』詩集に明治四十二年の夏に帰郷した時の作として「秘めたる恋」その他の失恋のうたがあるところから、私の独感ではないと思われる。「秘めたる恋」を紹介する。

 

     秘めたる恋sora.jpg (11942 バイト)

   風よ、風よ、七月の風よ

   汝に悲しき歌を寄せん

   秋はいち早く吾が手に来る。

   愛する少女の嫁ぐ

   饗宴の声は町の一角にきこゆ

   ああ遂に触れ合はぬ胸の

   沈黙ぞ尊き謎なれ

 

 この時期のことを『現代詩の見方と鑑賞の仕方』より一部再録しておく。

<私にとって詩の目覚めは、私の少年と青年の境、即ち性の目覚めと同じに来た。そして藤村の抒情詩の、げにも若草萌ゆる丘に淡雪の流れるような詩情は、漠たる恋愛の情と共にいかにも甘く柔らかいものであった。その一面に少青年の持つヒロイズムは土井晩翠の詩調にも魅惑を感じたのである。>

 そんな心境の所へ、友人の辰野君から「文学をやるんだったら早稲田がよいぞ」と手紙が何通も来た。入院により勉強も満足に出来なかった省吾、そしてこの年の受験も諦めざるを得なくなった省吾にとって、詩はまさに唯一の安息所であった。四月に退院した省吾は中山平温泉で療養生活をしながら、投書雑誌を読み、傍ら詩作した。そしてこの間に東京行きを決行すべく考えた。「詩を書くには早稲田しかない」と。<「早稲田に来い」とすすめたのはこの辰野君で私の運命を決定したようなものだ。『栗報』第六号>とは省吾の後日談であるが、入院によって己の将来の方向を見失った省吾、人生の岐路に立たされた省吾にとって、文学なら早稲田という友の誘いがどんなにか心強かったであろう。そのころ早稲田には坪内逍遙、島村抱月、吉江孤雁、片上天弦(伸)、五十嵐力等々の文学関係の教授陣が揃っていたし、「恋した少女との約束もある」。この時点で省吾の早稲田大学への意志が固まったものと思われる。

 そして学業の遅れることを恐れて、九月二十四日に上京。本郷区根津藍染町の素人下宿屋に宿泊して、早稲田大学入学までの間を上野の図書館に通って勉強している。この間のことを『現代詩の見方と鑑賞の仕方』に書いているので抜粋して紹介する。tuki21.jpg (10098 バイト)

<私の上京したのは明治四十一年の九月二十四日で、農家であるところの自分の家の厩から駄馬を引き出して、それを義理の伯父にひいてもらって、二里半ほどの東北本線の瀬峰停車場から上京したのである。前年、中学を卒業して、仙台の高等学校の英文科を受験したが、落第したので一度でこりてしまって、見返してやるというふうな気持ちもあって、創作なら文科だという声もしたので、学士にならないのも癪だという俗気もあったけれど、早稲田の文科とねらいをつけたのである。それにもう一つはその年の末から翌年の五月頃まで、病気でブラブラしてろくな勉強も出来ないで入学準備などどころではなかったのである。その頃の早稲田の文科はほとんど無試験同様であった。けれども九月までは少し入学期日が遅れたためもあって、来年の四月から入学することにしたのである。>

 つづいて憧憬の丘」年表「青春苦」には次のように書いている。

<学業が人後に遅れるということに対して今から考えるとおかしな程の焦燥を感じていた。まだ回復しきらぬ病後の身を押して九月二十四日に東京に来た。早稲田大学入学の希望であったが、少し時期が遅れたので来年からはいることとして、その間上野の帝国図書館に通って勉強した。根津藍染町の素人下宿から毎朝はやく図書館に行き、文学の雑書を愛読した。『墓のほとり』『月』『野良犬』は其頃の作である。>

 早稲田大学の前身は明治十五年に大隈重信が創設した東京専門学校である。それが三十五年に早稲田大学と改称されたものである。しかし、正式に大学として認可されたのは大正九年の大学令発布後である。そして昭和二十四年に現制の大学となっている。(『ブリタニカ国際大百科事典』より)。その頃、早稲田大学では島村抱月が坪内逍遙の主宰した『早稲田文学』(明治二十四年十月創刊・同三十一年十月七巻十三号で終刊)の後を継いで第二期『早稲田文学』(明治三十九年一月再刊)を刊行していた。そして翌四十年五月、相馬御風に働きかけて、人見東明、加藤介春、野口雨情、三木露風等を募って「早稲田詩社」を興していた。省吾は「自分もこうした人達の仲間入りをして、それ以上の詩を書くそんな夢を抱いていたのかも知れない。そして父林作を説き伏せ、単身上京したのであった。

 しかし父林作は省吾が詩人の道を歩むのに賛成はしなかったようである。事実、省吾が早稲田に入学して以来、林作は何度となく帰郷を促していたそうである。この帰郷の催促には、林作の小学校教師としての俸給だけでは、仕送りが大変だという理由があったものと思われる。省吾の甥に当たられる敬一先生も<林作は省吾にも教師になって貰いたかったのかも知れません。田舎出の一青年が、一度や二度投書雑誌で認められたからといって、そうたやすく詩人になれるものではない。また詩人になれたとしても、それだけで生活していけるわけがない。そう言って何度も帰郷を促していたようです。当時林作の給料は十二円、兄廉蔵も林作の後を継いで小学校の教師をしていましたが、準訓導で六円でした。それで省吾に毎月二十円の仕送りをしたと言いますから、かなり苦しかったようです。>と話しておられた。後に省吾も「明治詩壇の思いで」(『現代詩の見方と鑑賞の仕方』)の中で<私は上京してから、ほんの切りつめた金しか送金してもらはなかったから、書物を買うことはあまりしなかった>と述べている。

 明治四十年(一九〇七)十八歳の春に、二高不合格。明治四十一年(一九〇八)十九歳の初春に入院、そしてこの年の九月に上京し、翌年五月に早稲田に入学している。現代の受験生に譬えて言えば、所謂「予備校生活を送り、二浪」している事と同じになる。勉学を志す者にとって、今から百年近く前も現代も、経過においてあまり変わらない厳しい道であるといえよう。詩集『憧憬の丘』ではこの時期を「青春苦」と題して、三十三篇の詩を掲載している。

 

* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 引用図書・詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)

* 写真は『現代詩の見方と鑑賞の仕方』(昭和十年九月十日・東宛書房発行)

* 参考図書『ブリタニカ国際大百科事典』(昭和四十九年十一月ティービーエス・ブリタニカ発行)


 上京した省吾は毎日上野の図書館に通って勉強している。<新体詩の創始以来、大きいエポックを画した自由詩運動の前後の頃のことは、四十一年の秋(十九歳)上京以来、約半年ほど毎日、上野の図書館に通って詩に関する書籍雑誌等を渉猟し、傍ら愛誦の詩句を筆写したものも多い。今になってそれが大いに役立った>(『現代詩の研究』昭和十三年・新潮社発行の「はしがき」より)。また『現代詩の見方と鑑賞の仕方』中の「明治詩壇の思いで」には以下のように記されている。

<上京してからは、今まで田舎にいて「早稲田文学」「新声」「文庫」「明星」などの広告や批評などだけで知っていて、見たいと思って買えなかった詩書を片っ端から貪り読んだのである。

 いま日記を繰ってみると、たとえば、十月二日、文学入門。(長江)ゆく春(泣菫)ふところ日記(眉山)漾虚集(漱石)。三日、二十五弦(泣菫)白羊宮(泣菫)。四日、行く雲(花外)、泡鳴詩集。・中略・万事この調子で日参して、半年間以上もつづいたのだから、文字どおり貪り読むという格好で、心を惹いた新刊書は何もかも見逃さぬ流儀なのである。まるで文学中毒という気味だが、一貫して重点となったものは詩書であった。>

 この文より省吾はすでに独学で詩の本格的な勉強を始めていたことが分かる。続いて『詩の創作と鑑賞』の中より抜粋して紹介する。

<その当時(明治四十一年)の文芸界は自然主義の論議が盛んで、それにつれて代表的な作品も雑誌を賑わしていた。しかし詩壇は薄田泣菫、蒲原有明の象徴主義が中心となっていた。私はその孰れもの感化を受けた。貧しい田舎の青年にとって、都会は華麗であるだけに、刺激も強すぎ、灰色の憂鬱と感傷とにひき入れもした。・中略・その頃の私の詩は耳慣れない古語雅語を用いたり、また絶えず陰影に囚われているような詩が多かった。二十歳前後の青年らしい軟らかい歓喜と光とは乏しかった。それは半ばは境遇の然らしむるところであったが、半ばは時代の影であった。

 

     月

   こともなく半月はie2.jpg (14542 バイト)

   青寂びの空に懸かる、

   墓のごとく乾らびし大地を

   ほの暗き光は照らす

   大都会、創もあらはに

   照らされし哀れの骸

   血のごとき燈火を連ねて

   夜の胸に何をか嘆く。

   月は荒野に落ちて匂ふh11hon19.jpg (13022 バイト)

   しろがねの蹄鐵か

   寄るべなけれど愁ひず

   天にありて錆びたり。

   月夜−

   大地に通ふ灰色の脈

   わが胸にも通ふ。

 

 けれども顧みて、私は時代から悪い影響のみは受けはしなかったと思う。こうした心境と表現とは翌年の春、早稲田大学に入学してからも爾来両三年の間続いた。>

 以上より、省吾がこの時期詩作していたのは文語詩であり、その詩の傾向は自然主義、象徴主義の両方を相持っていたことが分かる。とにかく省吾には「詩」しか見えない時期であったようである。自尊心の強い省吾であったから、二浪というハンデイを乗り越えるべく、がむしゃらに突き進むしかとるべき道は無かったのである。こうして省吾は人生の第一岐路を乗り越えつつあった。

 

* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 写真は『現代詩の研究』(昭和十三年九月三日・新潮社発行)と『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

* 引用図書・『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

つづく

以上・駿馬    


 U. 「白鳥省吾のふるさと逍遙」出版について

 第1回編集会議がもたれたのが、平成11年1月16日(土)でした。編集委員の皆様のおかげを持ちまして、この度ようやく出版の運びとなりました。発行日は当初、「白鳥省吾生誕110周年記念日」にしたいと思っておりましたが、少し早くなりました。編集委員の皆様のご意見を尊重しまして、1月10日に致しました。詳しいことはここをクリックして下さい。


top  HOME  

無断転載、引用は固くお断りいたします。

Copyright c 1999.2.1 [白鳥省吾を研究する会]. All rights reserved

最終更新日: 2002/06/10