会  報  白 鳥 省 吾 物 語 (3)   siyogob2.jpg (12989 バイト) 

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文責 駿馬


(三). 二高受験失敗

 

 省吾七十六歳の夏に出版した詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)はこれまでに出版した詩集の中でも豪華な詩集である。この中に載せられている「白鳥省吾年譜」(「大地舎」同人・月原橙一郎氏作成)は白鳥省吾、七十六歳、昭和四十年までの活動のほとんどを網羅している。いま明治三十八年から同三十九年までを転載紹介してみる。

<明治三十八年(一九〇五)十六歳。日露戦争勝利の年なり、提灯行列せる提灯いまなを髣髴す、秋季に早朝四時に出発し松島日帰りの旅行ありに、先ず富山の眺望、五大堂瑞巌寺を見て日帰り、この時、初めて海を見たのである。>---(中学四年)

<明治三十九年(一九〇六)十七歳。この時の修学旅行は九里歩いて鳴子温泉へ一泊、十里歩いて山形市へ一泊、山寺を見て二口峠を越えて十里歩いて長袋へ一泊、更に仙台へ七里そして瀬峰から築館へ二里半、殆ど四日間も十里内外の旅行であった。この強行軍には勿論一人の落伍者もなかった。中学四年の頃より辰野正男氏ら数名と共に、「新聲」「明星」「文庫」「早稲田文学」等を購読し、晩翠の「天地有情」「藤村詩集」を読み新体詩に心酔す。その形式を学びて先ず「秀才文壇」に投書、三十九年五月号に「エジプト巌頭に嘯きて」、(選者文学士中内蝶二)に一等当選。つづいて「新聲」に投稿(選者児玉花外)に数回掲載された。その詩はいずれ後年出版の詩集「憧憬の丘」に収む。>---(中学五年)

 この文中の辰野正男氏とは、当時の栗原郡長辰野宗治氏(第七代、明治三十五年九月就任、大正元年九月離任)の息子である。辰野正男氏は前項でも紹介したが、省吾と須川温泉、鬼首温泉に小旅行をしている。後年『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)には以下のように紹介している。

<会津若松出身の郡長の息子の辰野正男君は辰野隆氏の遠縁になるので、私が第一詩集『世界の一人』(大正三年)を出したとき、「隆さんに一冊進呈したまえ」と私を帝大に連れて行ったのが初対面である。・中略・正男君は金吾博士には畑違いだが、森鴎外博士に紹介して貰って、『三田文学』に小説を発表したこともあり、金吾博士逝去後は『辰野金吾伝』(大正十五年十二月一日・辰野葛西事務所発行)を依嘱されたが、病のため私が引き継いで完成した・・・云々。>

 辰野隆氏とは後の東京帝大教授・仏文学者であり、東京帝大工科大学学長辰野金吾博士の長男にあたられる。また築館高校の会報『栗報』第三号(昭和四十二年八月六日発行)にも書いている。抜粋して紹介してみる。

<修学旅行を他にして中学時代に小旅行のプランをたてて同行したのは、辰野正男君と石川一郎君とである。辰野君とは中尊寺から須川温泉に行ったことがある。当時栗原郡長の三男であって後には「文学の方ならば早稲田の方がいいぞ」とすすめて、私より一年先に上京し入学した。天分もあったが病弱のため中途で夭折したが、同君との交友については簡単にいえぬ程深く大きい。>

 漠然と文学を考えていた省吾にとって、都会的な郡長の息子が読んでいた『藤村詩集』は、驚異であったに違いない。そして自らも詩作し始めたのであった。その素質は父林作より受け継いだものであった。また「国漢方面の読書に優秀を発揮す」という記事からは、文学全般が好みであったろう事が想像できるが、これなども漢籍を教えていた父の影響によるものと思われる。敬一先生も<祖父林作は文学が好きで、中央から雑誌を取り寄せたりしていて、自分でも俳句を作ったりしていた。叔父省吾は、そんな祖父の血を受け継いだのでしょう。>と話しておられた。

 ところで、当時省吾がどんな詩を書いていたのかというと、それは文語定型詩であった。『白鳥省吾自選詩集』(昭和四十四年八月十五日・大地舎発行)の中にそれまで発表した詩集の解説がある。そのなかの『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)の項を抜粋して紹介する。

<この詩集は私の詩作の当初(明治三十九年、十七歳)から(同四十三年二十一歳)までの五年間の詩百篇を収む。詩作の系列から言えば最初のものである。いずれも実際の見聞そのものをうたった自伝の一部というべきもの、文語の定型詩から、象徴詩へ、口語の自由詩へ、詩壇の影響そのままを語っている。>

 文中「詩作の当初」を明治三十九年としているが、これは『秀才文壇』に投稿して一等当選した頃のことを指しているものと思われる。『萬朝報』という新聞に投書した詩を後年出版の自分の詩集に入れていないところから、一等当選したものの、余り気に入らなかったものと思われる。「エジプト巌頭に嘯きて」は「埃及哀歌」と改題されて憧憬の丘』詩集に収録されている。

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   傾ぶく日霧の宮に落ち

   高士の死か静かに眠る、

   風寒く霜気を帯びて

   血の涙氷るか寂し、

   黒人の影は悲び

   駱駝ひき歌を歌へり。

      ・中略・

   露は涙か雲血なりtuki6.jpg (14324 バイト)

   暗の黒旗世を撫でて

   八萬里の野黄昏て

   ニール川重う流れ

   コロダイルス飢えによぶ、

   星一つ北極の空。

 

 翌年省吾は二高(当時は第二高等中学校と呼んだ。以下二高と記す)を受験するのであるが、何故二高を選んだかは自明の理である。当時の出世するとか、偉くなるという言葉の裏には「二高」から「帝大」へ進み、将来は大臣か、大将、或いは学者になるという、暗黙の理があった。それがエリートコースであった。省吾の場合、前掲した『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)にその頃、漠然と文学をやりたいと思っていたが、所謂軟文学というものはどちらかと言うと軽蔑していた。而してカーライルの『英雄崇拝論』とか『樗牛全集』とかを愛読していた。>と自ら書いているように、将来は文学者として身を起てたいと想っていたようである。その決意の裏には土井晩翠の影響も考えられるのである。

 その当時省吾が愛読していた『樗牛全集』の高山樗牛は土井晩翠より一年上級で共に二高の卒業生であり、樗牛も一時二高の教授であった。また、後年省吾は「大正デモクラシー」の思想の下に「民衆詩」を書き、民衆詩人と呼ばれるようになるが、二高から帝大に学んだ古川出身の吉野作造は「大正デモクラシー」の理論的支柱といわれ、富谷町出身の内ケ崎作三郎は、後年省吾も寄稿していた「六合雑誌」の編集責任者であり、早稲田時代からお世話になっている。気仙沼出身の小山東助(鼎浦)は内ケ崎作三郎、吉野作造と共に二高の同窓生であり、三人は晩翠翁の後輩で共に帝大に学び、後、内ケ崎作三郎、小山東助は政治家となっているが、二人は一時早稲田の講師をしていたこともある。等々「二高」には県内外各地から秀才達が集まっていた。自尊心の強い省吾が憧れたのも無理からぬ事と思われる。

 現在気仙沼市の観音寺に鼎浦と省吾の詩碑、前田夕暮(省吾の第一詩集の出版に関わっている)の歌碑が建立されているが、縁浅かならざるものを感じる。kese12.jpg (15564 バイト)

 

* 写真は詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)と詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)

* 参考資料『みやぎの文学碑』平成六年五月九日・財団法人宮城県芸術協会発行

* 『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 築館高校の会報『栗報』第三号(昭和四十二年八月六日発行)

* 『白鳥省吾自選詩集』(昭和四十四年八月十五日・大地舎発行)

* 『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

* 『辰野金吾伝』(大正十五年十二月一日・辰野葛西事務所発行)

* 写真は天台宗別格本山・観音寺境内の白鳥省吾歌碑(「現世に寄り添ひ生くる 目出度さをみ空に歌ふ 連理の欅」昭和五十六年秋建立)


 つづいて「白鳥省吾年譜」は中学校卒業前後の様子を、次のように書いている。

 <明治四十年(一九〇七)十八歳。近視眼の傾向を生ぜしも校内には眼鏡をかけしもの一名もなく、町内には眼鏡屋もなく、眼鏡なしの授業にて、数学等を疎略にし、国漢方面の読書に優秀を発揮す。・中略・四月中学を卒業。六月第二高等学校英文科受験、当時の試験官は欧羅巴より帰朝せる土井晩翠氏であった。受験は不合格であった。その冬十二月初めの頃より柔道による打撲傷らしき体の具合悪く、発病。>

 大正十年に出版された憧憬の丘』詩集の中に「憧憬の丘」年表がある。この時期の様子が書かれているので抜粋して紹介する。

<この詩集は「埃及哀歌」、「山の幻想」の二編を除いては、凡て正しく製作順に配列した。いま各部門の背景を略記して置く。

▽憂鬱の田園(一九〇七年明治四十年、十八歳作)

 私は宮城県でも北方の山地なる栗原郡築館町に生まれて、小学校も中学校も其の町で学んだ。田園は真に私の揺籃である。始めて詩を作ったのは十七の春で、この篇の最後に収めた「埃及哀歌」「山の幻想」の二篇はその時の作である。其の年に他数篇の詩作があったが、今は散逸して手に入らないので、収録することが出来なかった。・中略・杉薬師の丘続きには古い城趾があり、築館丹後の守の居城と言われているが、さほどの要害でもなく、記録等も不明なるを見れば極めて小さい城主であったろう。・中略・十八歳の四月に中学校を卒業した私は、いずれかといえば全く孤独で、それらの丘陵を中心として分布している自然の中に、農民の傍観者として朝夕を暮らした。

 六月三日に仙台に行った。前年修学旅行の途次、立ち寄ったことがあったが、今度の上仙は小さいながら都会に居住した最初のものである。高等学校受験準備の為であった。勉学が偏していたので、まんまと落第し、滞在四十日ほどで再び帰郷した。この年は卒業試験、入学試験と続いて詩作も出来なかったと見え、「憂鬱の田園」の諸篇は凡て仙台から帰郷しての夏以後のものである。そして一種不遇な慰められない心は、益々深く詩に私を沈潜させた。>

 数々の詩の当選という絶頂から二高受験不合格という、どん底に落とされる運命に遭っている。まるで現代の学生達の受験地獄をかいま見るような気がするのは私だけであろうか。尊敬する土井晩翠先生が試験官であったにもかかわらず、不合格であった。かなりのショツクがあったものと思われる。これには後日談がある。『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)より紹介する。

晩翠先生と私

 土井晩翠先生の「天地有情」を読んだのは、築館中学四年の頃であった。家から学校までは、裏道の貯水池のほとりを通り、桑畑の中を行く四五丁の道のりであるが、その雪道をあの小型の詩集を読みながら歩いた印象は、今なお鮮やかである。西欧の詩をよく消化し、且つ漢詩の修辞を体得したロマンテックな最大級の表現は、青少年を魅了するに十分であった。「星落秋風五丈原」とか「暁鐘」などいう詩は、何といふことなしに幾度読み返しても飽きないものであった。・中略・

 仙台は言うまでもなく東北一の都会であり学都であった。他所ながら最初にお逢いひしたのは、明治四十年六月に、仙台市の第二高等学校の教授としての先生を、其の受験場で見た。私は生徒であった。今も覚えているがその時、晩翠先生の作文の出題は「広野に想う」といふのであって、私にとっては快心の題なので、大いに気乗りして書いたものだ。その時は落第したので、上京して早稲田に入学した。

 私から一年あとに二高の独法科に入学した目賀田正一君は、その後晩翠先生に逢った時、先生は私の作文を覚えてくれていて、「実に素晴らしかった」と誉めてくれたそうである。私は「さもありなんと」アゴを撫でたほど自惚れが強かった。>以下略

 

 余談になるが、後に省吾は晩翠先生と数回席を共にしている。昭和二十一年一月に河北新報社五十周年記念事業としての「宮城県民歌」の選h11hon25.jpg (17312 バイト)者として同席、同二十四年には「晩翠草堂」に病床を見舞い、「欧米漫遊」、「天地有情」の話を伺っている。また同二十五年の文化勲章受章の祝賀会に招待されて、「晩翠先生の詩業」と題して講演している。二十七年十月十九日晩翠先生逝く。二十四日仙台市民葬に臨み、弔詩を会場に捧げている。

<面会謝絶の札がかかっていたが特に逢って下すった。ベットでマッサージされていたのだが、端然と起き上がられ、御付き添いの御令妹に命じて羽織を持って来させ、手をのべて欣然と握手された。凛たる古武士の風格があり、其の時の姿を二葉、河北の記者が撮影してくれたのが今では悲しい記念となった。

  詩の聖、病の床にほほえみて

  わが手握りぬなどか忘れむ> 

 省吾は、昭和二十七年八月十一日、青葉城に「荒城の月」の詩碑が建立されたときに詩を献じ、主催者が朗読している。また、翌二十八年五月十日、金華山に晩翠先生の碑が建立されたときに、招かれて詩を献じている。このときの詩はNHKより全国放送され、河北新報に掲載されている。

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 現在、宮城県栗原郡栗駒町岩ヶ崎、軽部河畔公園の終わるところに白鳥省吾筆の歌碑、「淙々の 軽部の音の 清しさよ 老い欅の影を 遊ぶ白雲」(岩ヶ崎小学校の校歌作詞依頼を受けて、旧岩ヶ崎町沼倉旅館・現沼倉外科・に泊して軽部川を詠じた、沼倉氏所蔵の条幅を模刻したもので、昭和二十三年頃の作といわれる。)が建立されている。

 軽部河畔公園の始まるところには土井晩翠の歌碑「流れゆき 田に注ぎ入る 軽部川 穿ちし君の わざぞとうとき」(氏が旧岩ヶ崎町沼倉旅館・現沼倉外科・に投宿して、軽部六右衛門の威徳を讃え軽部川を詠じた、沼倉氏所蔵の条幅を模刻したもので、昭和二十三年頃の作といわれる。)が建立されている。平成十年三月、栗駒町が都市計画整備事業の一環として建立したもので、誠に粋な計らいと感じ入る次第である。karub08.jpg (16404 バイト)

 

* 引用図書『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)

* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 引用図書・詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)

* 写真は『晩翠献詩』

* 写真左は土井晩翠の歌碑・右の縦長は白鳥省吾の歌碑(平成十年三月建立)


 この時期省吾は、二高受験失敗の不遇を跳ね返すように、詩作に励んでいたようである。『築館中学校学友会雑誌』第3号(明治四十一年三月発行)に掲載されている。「白羽鳥」というペンネームの詩が、この時期の省吾の作品として『築館新聞』平成4年10月3日号に紹介されている。

<津山町に旧築館中学友会誌・浪々の白鳥省吾・白羽鳥のネームで・十八の春の作品、いま世に・「我が影」「無言の雪」会誌で遠藤教諭が調査・遠藤さんは、省吾の著作詩集を調べているうちに、第六詩集『憧憬の丘』の新体詩の一篇に目をみはった。「森の夜」が同じ表題で掲載されていたからで、一部字句は違っていたが、まぎれもなく交友会雑誌の発表作品だったからだ。以下略>

 学友会雑誌の発見に伴い、省吾の未発表詩が発見された。当時築館高校に勤務していた遠藤教諭が調査した結果、省吾の浪人時代の作品であると確信している。「我が影」「無言の雪」「森の夜」が掲載されていた。「無言の雪」読んでみると、省吾が、町医者の病院に入院中のものであろうことが想像される。

     無言の雪

   ああ降りて積もりて消えて、

    天よりくだる奇しきもの、gihon29.jpg (23279 バイト)

     清らかなる無言の雪よ、

      われ汝れの音なきを愛す。

   ああ時にさらさらと戸に笹に、

    懐かしき、ささやかの音は

     耳かたむけて美しき香の、

      響き憧がる静けき胸の、

       思の糸の韻に通ふ。

   無言のしらべ空中に、mati07.jpg (19489 バイト)

    冬の綾衣あや織りて、

     透く白翔のちらちらと、

      ゆるやかの風の輿や。

   ああ人の世に神居ます、

    しろがねの清き雪国、

     星と日に蘇生へる朝夕、

      静けさに居て詩を思う。  

 

 秋に、同級生正一君の父でもあり恩師でもある、平準弥先生の息子が亡くなっている。このときの模様を随筆『世間への触角』に「煙」と題して書いている。抜粋して紹介する。

<私は平先生と一緒に旧街道を行った。昔の旅の面影をのこす古い松はみな伐られて、短い雑草の路を塞いで生えていて、風趣は少しもなく、午後三時頃の日ざしが急ぐ二人を汗ばませた。・中略・平先生は町の中学の国語の先生である。大柄な温厚の人で、羽織袴をつけ右手に扇子を持って呻吟するやうに歩いていた。・中略・「ああ煙がたちのぼった」と平先生の声に向こうを見ると、平らかに低いいくつもの青草山の襞の陰から、淡い煙が一筋南風に靡いて草をなめて乱れていた。山までは小川を隔てて五、六丁ほどしかなかった。路の両側の稲は黄ばみかけて、その上をやや雲にくぐもったやうな日が照っていた。人通りのほとんどない広い道を行く二人、そして私は愛児を焼く煙を見ながらそれに近づいてゆく平先生の心持ちを傷ましく思った。・中略・平先生は町の中学に赴任してから十一年になる。そしてその間にこの山で愛児を焼くのはこれで二度目なのであった。他郷に来てこの煙を見る先生の心持ちには涙の浸むものがあった。>以下略

 受験に失敗した省吾、息子を焼く煙を眺める平先生。卒業したとはいえ、師弟の関係は続いていたものと思われる。卒業しても省吾が『学友会雑誌』に詩を掲載することが出来た背景が想像される。詩集『憧憬の丘』にはこの時期を「憂鬱の田園」と題して、二十篇の詩を掲載している。

 

* 引用図書・詩集『北斗の花環』(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

* 詩「無言の雪」は『築館新聞』平成4年10月3日号より転載。

* 引用図書・詩集『晩翠献詩』(昭和三十二年十一月十九日・大地舎発行)

* 写真は随筆『世間への触角』(昭和十一年六月五日・東宛書房発行省吾の生家跡地前より望む、お薬師さん(昭和五十三年一月撮影)

* 平準弥先生は旧築館中学校第七代校長を務められている。当時は省吾の学級主任をしておられた。

* 『築館中学校学友会雑誌』第3号(明治四十一年三月発行・旧築館中学校発行)

 

つづく

以上・駿馬    


U. 「白鳥省吾のふるさと逍遙」出版について

 第1回編集会議がもたれたのが、平成11年1月16日(土)でした。編集委員の皆様のおかげを持ちまして、この度ようやく出版の運びとなりました。発行日は当初、「白鳥省吾生誕110周年記念日」にしたいと思っておりましたが、少し早くなりました。編集委員の皆様のご意見を尊重しまして、1月10日に致しました。詳しいことはここをクリックして下さい。


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最終更新日: 2002/06/10