白鳥省吾物語 第二部 会報二十六号

(平成十三年十二月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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    (十)、白秋と省吾の論争 大正十一年 

 大正十一年(1922年)九月『太陽』に発表した詩「森林帯」は、省吾の故郷栗駒山麓にある鞍掛沼をうたったものである。これは、中学時代に父と兄とともに数里の山道を歩んだ時の思い出を詩にうたいあげたものと思われる。省吾の言い分に従って以下にこの論争を紹介してみたい。

 詩史ではこの詩に北原白秋が『詩と音楽』十月号に「これでも詩か」と、散文に書き直し民衆詩に挑戦したことになっているが、その発端は白秋の処遇にあったようにも思える・・・。どちらが最初に仕掛けたものかは定かでないが、この論争の根はもっと早くからあったものと思われる。省吾は*1『日本詩人』大正十一年十月号誌上に於いて「新しき民謡について」を発表しているが、この中で白秋の民謡を例に挙げて民衆詩派詩人の立場から以下のように批評している。

<民謡は言ふまでもなく民衆の心の生きた表現である。漢詩、和歌、俳句、その他の一切の文藝の間にあって、それらに立ち優って最も鮮明に各方面の民衆の心そのものからの聲を示している。換言すればブルジョアの文學にあらずしてプロレタリアの所有である処に生命がある。然るに白秋氏のごとく現下の社会思潮に没交渉である藝術至上主義的の詩人に眞の民衆の心が解りやうがないのである。民衆の中から生まれたものを民謡の第一位とすべきものであって、少なくとも眞の民衆の心を背景とせざる民謡は、世界いずれの國でもあり得ない。ブルジョアの気分から歌はれたる享楽的な内容には民謡の心は毫も表はれていない、小手先の器用さのみ先ず感ぜられる。民衆の生活を口先きで御上品な詩材や趣味としてのみ取り扱はれては堪らない。

 第二に白秋氏の民謡はこの『民謡百章』を見ても解る通り、信越、相模、関西等の各地方を歌ひ、その山河の名を手際よく歌ひ込んでいるが、郷土といふものが表はれていない。多彩ではあるが軽薄な多彩である。/中略/第三に民謡の特質であるところの時代の心といふものが白秋氏のこれらの民謡に毫も表はれていない。/中略/総じて白秋氏の最近の詩は、民謡に限らず、安価なる自然嘆美に堕し、幼稚を枯淡らしく見せ、無内容を縹渺らしく見せ、浅薄な思はせぶりを神秘らしく見せている。/中略/>*1「新しき民謡について」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十月号・詩話會編・大正十一年十月一日・新潮社発行)

* 写真は「森林帯」にうたわれた鞍掛沼

 これは一見白秋の「藝術の円光」に対する反駁文のようにも見えるが、「藝術の円光」を知る以前に発表されたもののようである。*2『日本詩人』十一月号に発表された、「詩の内容と形式」(「藝術の円光」に対する反駁文)の書き出し「一、詩と散文」に省吾が、

<十月八日に寄贈された東京日々マガジンに載っている「賑やかな詩壇」といふのを見て、私の詩に就いて白秋氏が「詩と音楽」誌上で何か言っていることを初めて知った。即ち

 まづ氏の槍玉にあがったのは「詩であるか」の題下に選ばれた/白鳥省吾氏の「森林帯」(太陽九月号)である。白秋氏はそれ/を散文の形におきかへて、これが散文でない、詩であると言/へようか、と言ふのである。「森林帯」は本紙の第三一号で私/も批評を加へた詩であるから多くは言はないが、それが/『詩でない』とは言へないであらう。わざわざ散文の形に書き/かへたのは、余りにも大人げないことである・・・・・・・・・(松原至大)

とある。数日を経て『詩と音楽』を手にするを得て、一見すると、なるほど私の長い詩が御丁寧に散文に書き下ろされて、二ヶ所に圏点を附し、反語的に冷笑した巧妙な評語が加えられている。/後略/>*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

と書いているからである。当時『日本詩人』の原稿締め切りが毎月十日であったことが、大正十一年十月号の『日本詩人』の「編輯余録」後尾に省吾が記している。『日本詩人』の発行は毎月一日と決まっていたから、十月号の原稿締め切りは、前月の九月十日であると予測される。そうすると、仕掛けたのは省吾の方が先だったのかとも疑われるが、それ以前に白秋が書いていたらしい。先に紹介した省吾の「新しき民謡について」には以下のように記されている。

<そうかと思ふと白秋氏などが『所謂、人道派民衆派ー私は素材派と呼ぶーの横暴時代はさう永続すべきでない』(「赤い瓦の家より」)と思ひ出したやうに言っているのは、いかに彼が詩の新しい思潮の確信に理解ないかを暴露しているものであって、今の詩壇は形式の上で若干の散文化が見られるとしても、それは情熱の横溢の結果であり、白秋氏の詩などよりは遙かに時代の民心の糧となり、遙かに力ある藝術であり、詩は今後、永遠にこの人道的社会的の傾向を推し進めてゆくであらう。雅語の定型律に執して試作しているのは古き少数の詩人のみであって、新時代の詩人の大多数は自由なる詩にその表現を求めている。詩の定義は在来のものより広く且つ一変されたのを気付かないか。社会的な背景をもった自由詩の勝利は、未来を俟つまでもなく現在が示している。生活の遠くに詩をさがす思想感情の枯渇した古い詩人にとって自由詩は不要である。しかし、生活そのものが詩である新時代の詩人にとって自由詩は当然すぎる表現である/後略/>*1「新しき民謡について」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十月号・詩話會編・大正十一年十月一日・新潮社発行)

 これを読んでみると、白秋が先に仕掛けたようにも感じられるが・・・。白鳥省吾と福田正夫に対する挑戦状は今日、*3『白秋全集18・詩文評論4』『芸術の円光』「考察の秋その一」「詩であるか」の中に、五頁から六十八頁に亘って掲載されている。これは*4『日本近代文学大系59・近代詩歌論集』(「考察の秋・処女の如く立つ」にも解説入りで紹介されている。前者より抜粋してみる。

<詩であるか/自由詩の例証 その一

 民衆派詩人中の随一と称される白鳥省吾君の「森林帯」は太陽九月号に載ったものである。私は試みにこの詩の行列を廃し、句点を保存し、その儘世上の散文と称するもののやうに組み変へて見る。これは原作者に対しては非常に気の毒ではあるけれども、詩の道の為と思って許していただきたい。/読者はまた、之をただ読み下して読んでいただきたい。さうしてこれがどうしても散文でない、詩である、自由詩である、と思はれるかどうか。詩としてのやむにやまれぬリズムのおのづからな流れがあるか、どうか。それを感覚的に当たっていただきたい。/中略/

 また、リズムばかりでなく、その鑑賞の密度、鋭鈍、詩境の高下、深浅、表現上の効果等につき、この詩が果たして真の自由詩であるか否か。自由詩としてまた如何なる種類の散文か。また詩ではなくとも散文としては全く優れているものか否か。否ならばどの程度のものか。/子細に当たって、その上で、静かに批判してほしいのである。/後略/>*3「考察の秋その一」「詩であるか」北原白秋著(『白秋全集18・詩文評論4』『芸術の円光』・昭和六十年十二月五日岩波書店発行)

 このあと「森林帯」を白秋好みの行分け散文に書き直して紹介している。省吾は『日本詩人』大正十一年十一月号「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」「一、詩と散文」に於いてこの詩を元に戻して、白秋に反論している。前掲文につづいて、抜粋して紹介する。

<最近の詩壇の散文化といふ聲は、今、白秋氏から初めて聞くことでなく、西條八十氏も言っていた(文章倶楽部八月号「詩と散文」参照)ことであるし、各々の立場からいかにも言ひそうなことと思はれる。それは単に形式だけの問題でなく、もっと根本の深い詩の世界の出発点の相違でもある。てうどいい機会であるから詩の内容と形式に就いて私の主張を述べやう。

 白秋氏が散文に書き下ろした「森林帯」は、私の詩のうちでも比較的長い叙述風な従って韻律も緩慢に見える詩である。私としても上乗な会心な作ではないが、断片的な気分、感覚本位の白秋氏の最近の詩と比較して、また別種の詩の世界を展開していることを私は確認している。「詩でない」とは思っていない。いまその詩の原形を示して見やう。/中略/>*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

 以下に掲載された、「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」「一、詩と散文」より、「森林帯」を紹介する。

     森林帯

   萱や蕨の繁り合っている

   山を越え山を越え

   一だんと高い山から望めば、

   遠い麓の広土は

   青たたみ数枚のやうに小さい、

   哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。

   萱野を出れば沼がある。

   真夏の昼はしんしんとして微風もなく

   めぐりの森林もそよとも動かず

   ふかく相映じている鞍掛沼。

   この沼は昔、山を越えて来た

   源義家が黄金の鞍を沈めたところと云ひ伝えられている。

   そして毎年、七月七日には黄金の鞍が幻のやうに水面に浮かぶ

    さうだが

   それを見た人は三年とたたぬうちに死んで了ふさうだ。

   そのほとりの草いきれ水の匂ひを

   毒気のやうに感じながらひっそりと通れば、

   原始から斧鉞を知らなかった大森林も

   今は巨木も伐られて横はるもの無慮数千となく

   痛ほしく路々から指呼することが出来る、

   それはいかにも自然の律を何とも思はぬ人間の無知の乱舞で

    ある。

   それでもこの大森林は傷手をさほどに感ぜぬらしく昼なほ暗

    いほど繁って

   緑葉は露を滴らし古い苔むせる幹がいつも濡れている。

   路の落葉の深さは数尺もあらうと思はれるほどで、

   踏む草鞋にぶくぶくといふ弾力を感じさせる、

   郭公がほんとうの隠者の様に奥ぶかく啼いている。

   其処を過ぐれば焼野といふ平地に出る。

   炭屋長四郎が十余年前まで住んだ屋敷跡とて

   桂などの角材が人間の骸骨のやうに寂しく地上に横はってい

    る、

   彼は炭を焼いたり牛を飼ったりしていたさうだが

   酷寒のためか寂しさに堪へられなかったのか

   どういふわけで此処を見棄てたか

   まるで物語にあるやうな懐かしさを湧かせる。

   彼の植えたらしい若い杉林にはかなかなが啼いて

   小さい池には蓴菜が生えていて

   深山のなかにここだけが不思議に人里らしい。

 *詩は「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」「一、詩と散文」(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)より

*写真は鞍掛沼の周辺に広がる原生林

 省吾はこの後、この詩の解説をし、以下のように書いている。

<これで先ず第一に感ぜられることは詩の聯の上から見て、詩味を感ずる重心の差異である。白秋は比喩そのものを重く見ているが、私は次に来る感じの個性的な匂ひ、感じかたに重きを置く。/中略/白秋氏のやうに断片的な感覚の苦心は、私にとって寧ろ詩の邪道だと思っている。

   ○金の星かと思うた、枯草負うた山がつを/○いっさんに駈ければ馬も火となる/「詩と音楽」一〇五頁/

といふ風なものを白秋氏がノートに書きつけて喜んでいるが、一つの詩はそれぞれ独立した思想、気分、感覚の渾融であるべきであって、これ等は、そのうちの感覚だけしか表はれていない。この断片的な印象は生活の全体からどれだけの深さから湧いて来たものか、どれだけ芸術的に豊富を示しているのか。/中略/「森林帯」を散文に書き下ろして、「詩でない」といふ如きは児戯にも甚だしい。/後略/>*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

 このあと省吾は、『詩と音楽』十月号に掲載された白秋の詩、「夜の二時」採りあげて批評し、つづいて白秋の童謡観を批評し、「私が在来の過去の限定された詩の世界からの詩の解放を望み、詩の社会性や思想の深さを求め、奔放な自由詩を主張するのは、詩の純一な表現を否定するのでなくして、断片的であったそれらの詩感を包括した偉大さを詩に求めるからである。/その意味で、私の「森林帯」に対する白秋氏の評語は当たらない。」と書き、『詩と音楽』十月号に掲載された白秋の詩「庭の一部」を白秋が省吾にしたように「詩の行列を廃し句点を保存し、世上の散文と称する」ものに組み替えている。そして

<庭の一部/さあ、朝飯だ。真紅な、ちらちらするコスモスの花が三つと、穂の出たばかりの小さい唐黍、なんと、この庭の一部の幽かな、新鮮な秋、あ、郵便だ。/

 これが、詩壇の巨匠と称せらるる白秋氏の詩の全部である。それで私はこの詩に就ては、白秋氏が『詩と音楽』で私の詩に加へた言葉を付帯せしめて、そっくり返上したいと思ふ。即ち、/後略/>*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

と書き、前掲した白秋の『芸術の円光』「考察の秋その一」「詩であるか」を、そっくりそのまま書き添えている。このあと「二、驚異と無内容」において、白秋の「短詩」を例に挙げ批評し、「白秋氏が自作に対して価値以上の増上慢を持っているかが知られやう。」と書き、また白秋の「真珠抄」と犀星の『抒情小曲集』の近似点を採りあげ、犀星の詩に余りにも似ていることを説き、「これは白秋氏自身、胸に手をあてて考ふべきである。/中略/『邪宗門』が『海潮音』の影響によって生まれたことは争はれぬ事実であって、それは毫も非難すべきでないが、しかも徒に表面的に濃厚絢爛な詩風は、果たして象徴詩として正当な理解の下に本質的な成長を示したものかどうか。」とも書いている。そして「三、自由詩への道」では

<詩壇の散文化を攻撃する詩人は或は言ふであらう。『私は自由詩は攻撃しない、然し、あまり散文的な自由詩は攻撃する』それは誠に至言である。私も賛成である。然し白秋氏等の言ふ真の自由詩は何を言うのであるか。果たして真の自由詩を喜んでいるか。/中略/転々として文語、口語、自由詩、古典詩の使ひ分けをやっている白秋氏に自由詩が解っているとも思へない。

 口語の自由詩の詩人の作品で、白秋氏のやうな見地で、散文に書き下ろされたら、散文に書き下ろせない作品はあるまい。/中略/私が現在のやうに、詩に社会的要素の必要を力説し、奔放なる自由詩の形式を重んずるのは、不用意に流行を逐ふものでない。/中略/詩壇が過去十年間に歩める路で、特筆すべきは、形式からは自由詩の確立と、内容からは社会的要素の発生である。/中略/私が徹底的な自由詩を主張するのは、言葉の節約とか、韻律の呼吸とかいふものに対して百も承知の上でのことである。

 私は現在、自分の詩は内容の上からも形式の上からも、邪道に踏み入っているとも思はない。飽くまでも自由詩を信ずるものである。寧ろ、白秋氏等のやうな傾向にある詩人からの非難は予期するところのものである。私は今より六年以前に於いて既にこう主張している。>*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」白鳥省吾著(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

として*5『詩に徹する道』に所収した「新しい表現」を載せ、「混乱せる詩壇といひ、詩の散文化と言ふ者、凡て自己の小さい殻に執しての言ひ草であって、詩のゆくべき路は既に決定されている。/詩の自由なる表現へ!詩壇は茲に十余年間を費して歩いて来た。今更、自由詩の徹底的自由、新しい詩の世界の凱歌に対して、世迷い言を言ふ古き詩人よ、立ち去れ、過去の詩の世界を包括せる生命の真の自覚としての社会性ある自由詩へ、私は来るべき新人と共に進もう。」と結んでいる。(紹介文中の省吾が例に挙げた詩、批評は割愛させて頂きました。)

 これに対して白秋は『読売新聞』十一月号に「散文が詩といへるか」を発表した。抜粋して紹介したい。詳しくは、『白秋全集18・詩文評論4』を参照願いたい。

<予は手套を投じた。詩の根本気を理解する能はずして、しかも無知の厚顔、軽薄と偏狭、独断と功名的排他、同党の横暴、故意ある伐異、妥協的相互賞讃と打算的時代迎合、生活のための売名、売名のための批評執筆、これらによる非自由詩の無反省提供と、非詩人の白日跳梁と自庇的虚吼とに対し、立つべく立って戦ふ。/後略/>*3「考察の秋その一」「詩であるか」北原白秋著(『白秋全集18・詩文評論4』『芸術の円光』・昭和六十年十二月五日・岩波書店発行)

 省吾に言わせれば「これが、詩壇の巨匠と称せらるる白秋氏が言うことか」と言う思いがあったものと感じられる。福田正夫も白鳥省吾も「詩壇の巨匠」北原白秋には一目も二目も置いていた。その白秋が上記のように、「民衆派末派」を相手に対等に論争を仕掛けてきたのである。もしかしたら、正夫と省吾はしめたと思ったかも知れない・・・。これで白秋と対等に立てるかも知れないと・・・。このお話の裏には、当時の世相を考慮する必要があるものと思われる。なんといっても、詩壇は「民衆詩派」が時代をリードしていた。白秋は過去の詩人であった。「民衆詩派」の詩人たちは当時の詩壇の公器と言われた『日本詩人』の委員であった。仲間には萩原朔太郎、室生犀星、川路柳虹、福士幸次郎、百田宗治、佐藤惣之助、と言う、詩壇の大御所が控えていた。

 白秋の言い分に尾崎喜八が異論を唱えた。これに対して白秋は「尾崎君は未だ若いからこの論争にまじわらなくてもよい」というようなことを書いている。この後白秋は矛先を福田正夫一本に絞ったような書き方をしている。贔屓目に見ると、白秋は省吾の頑強さに舌を巻いたのかも知れない・・・。

 この論争は、諸氏がその立場から論じられているので紹介してみたい。松永伍一は*6『日本農民詩誌・上巻』「第四節・民衆詩派の功罪」「第二章・文学論争と批判」に採りあげている。以下に抜粋してみたい。

<折から白秋は、山田耕筰と『詩と音楽』を九月に創刊し、油ののりきった時期でもあった。その創刊号に発表した「芸術の円光ー主として詩について」で/中略/実は自由詩の粗暴さへの怒りめく不満を表明するのが目的であった。/後略/>*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」「第二章 文学論争と批判」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 松永伍一は「第四節・民衆詩派の功罪」の後尾に「(別)北原白秋と白鳥省吾の民謡論争の要点」を紹介している。

 この論争は*7『日本詩集』1923版にも収録されている。この号には「大正十一年に於ける詩論の抜粋」と題して、「萩原朔太郎の断片」室生犀星著、「新詩歌評論」福士幸次郎著、「童謡論」川路柳虹著、「日本詩壇発達の経路」河井酔茗著、「詩壇時言」萩原朔太郎著、「現代日本詩の本領」福田正夫著、「詩の内容と形式」白鳥省吾著、「散文が詩と言へるか?此理由を以て書換へた」北原白秋著、「詩の過渡時代」川路柳虹著、「私が触れたクロオデル」増田篤夫著が掲載されている。これらの「詩論」を拝読すると、暗に明に省吾と白秋の論争をその根底に配して、その時代の詩の行く末を案じているように伺える。

 河井酔茗はその論「日本詩壇発達の経路」の中で、

<凡ての子供が童謡を作るやうになり、凡ての人間が詩を作るやうになり、詩の視野が世界と同じになる時が来て、詩の存在も確実になる。或いは人間に詩の心持ちが共通したら詩などを作る必要がなくなるかもしれない。遠いさきの理想は然うだ。/翻って現在の詩壇を一考してみると、詩が人間の生活に伴ふ当然の所有であることが分かってきたやうだ。素人黒人の論などもそこから出るのだらうが、社会運動思想なども交って、何処まで壊されてゆくものか分からない。/詩を読む人の多くなったことゝ、詩を作る人の多くなったことは、三四年来の著しい現象だが、社会は平等になりかけても、人間はまだまだ平等にならないから、多くなったのは勢ひが付いただけで、勝れた人の出ることは予期される。/中略/この間に『詩話會』の人たちが、可なり永い間詩に奉仕する心持ちを一致させて来たことは、賛同すべき有意義な仕事だった。/後略/>*7「日本詩壇発達の経路」河井酔茗著(『日本詩集』1923版・大正十二年五月十八日・新潮社発行)

*写真は『日本詩集』1923版

と書き残している。萩原朔太郎は「詩壇時言」に於いて白鳥省吾論とも思われる「明るさと暗さ」を書いている。これは後に紹介したい。

 三好達治は*8『日本現代詩大系・第六巻』の「解説」に於いて、大正期の詩人たちを評した後、この論争を採りあげているが、これは全く日夏耿之介の民衆詩派観、白秋の言い分に従ったもののようである。これは諸誌に採りあげられて、今日の「民衆詩派観」の底本のようになっているものと思われるので後に触れたい。久保忠夫は*9『近代詩物語』「7・ふるさとは遠きにありて・民衆詩運動の展開」「58・詩か散文かー民衆詩論争」に於いて、この論争をとりあげ、白秋の方に軍配をあげている。この中で「大正十二年九月、白秋は山田孝作と『詩と音楽』を創刊した。」と記しているが、大正十一年の誤植である。近年では*10和田博文編『近現代詩を学ぶ人のために』に於いて、信時哲郎が「第8章・民衆詩派とその周辺」のなかでこの論争を採りあげて同様の批評をしている。

 当方の手持ちの資料の中では、白秋に軍配を揚げて書いている菊地康雄の著、*11『青い階段をのぼる詩人たち』が最も詳しく紹介しているようである。原子朗は*12『鑑賞日本現代文学・31・現代詩』「大正詩の特質」においてこの論争を「口語詩の問題」として以下のように批評している。

<たとえば民衆詩派(白鳥省吾・福田正夫・百田宗治・富田砕花らを中心とする)の詩にしても、之も、まさに大正期ならではの詩風の出現であり一大勢力でもあったが、彼等の問題点を多くはらんだ詩史上の功罪も、すべて徹底した口語表現に帰せられるのである。白秋と省吾・正夫による論争いらい、その点については以外にもこれまであまり論ぜられた形跡はなく、デモクラチックな思想性や社会性がどうの、といったことばかりが抽象的に論ぜられているようである。大正デモクラシーの思潮にささえられた限界芸術的(マージナル)なアマチュアリズムの主張と実作が、題材を庶民的で卑近な日常性の中にまでおしひろげ、文字どおり詩的領域を拡大した(これが詩史的な功にあたる)ことも、口語なればこそ可能だったのである。それも拓次や朔太郎のシンボリックな詩的言語とはまったく次元を異にする平談俗語の口語であった。じぶつを指事する散文的な機能としての口語であった。そこに詩的凝縮や完成度の困難や不足(罪にあたる)は約束されていたも同然であろう。こうした彼等の用いた口語表現の実態を究明することなしに、思想性や社会性を問題にするだけでは、民衆詩を、ひいては詩史をも理解することにはなるまい。/中略/

 その点民衆詩派の前記詩人たちの認識は徹底していた。彼等の主張が日常口語によってはじめて可能であっただけに、いきおい認識の上でも口語自由詩は形式だけにとどまるわけにはいかなかった。むろんそれは内容そのものだった。>*12「大正詩の特質」原子朗著(『鑑賞日本現代文学・31・現代詩』小海永二編・昭和五十七年五月三十一日・角川書店発行)

 原子朗はこのあと省吾の詩論を採りあげ「しかし詩の日常への無条件の拡散であっただけにこんどは集中への契機を見失ってしまった。民衆派に近い人道派の詩人たちの作品にしても事情はおなじであった。」と書き、千家元麿の詩「三人の親子」を紹介して以下のように書いている。

<これにくらべれば、例の白鳥省吾の「森林帯」のほうが、まだ修辞的にははるかに詩的なくらいである。/中略/このほうが、書きくだしてもまだしも詩的であろう。少なくともレトリックのうえではー。いずれにせよ、こうした表現に「詩としての韻律」や「香気」がない(白秋)といってみても、はじまらないことであるかもしれない。なぜなら彼らは(民衆詩派にかぎらず、いわゆる人道派の千家元麿をふくめて)「詩の真実」というとき、いうところの韻律や香気といったものは頭から捨てていたも同然だったのだから。/中略/

 そしてこうした立場に徹底すればするほど、通俗すれすれのところまで下降していき、ついにはみずからが拡散を余儀なくされよう。そうなれば、もはや詩の解体は約束されたようなものである。/中略/だからといって、民衆詩派の詩を批判することは自由だとしても、彼ら詩人の力倆のなさを責めるのは見当ちがいも甚だしいといわねばならない。彼らの平明きわまる口語表現は、およそ口語詩の極北を示すものであり、大正期の詩にとってばかりでなく、新体詩いらいの近代詩史上の大きな実験的試みであったといわなければならない。その意味では現代詩の貴重な反面教師でもあったことを忘れてはならないのである。/後略/>*12「大正詩の特質」原子朗著(『鑑賞日本現代文学・31・現代詩』小海永二編・昭和五十七年五月三十一日・角川書店発行)

 瀬沼茂樹は*13『文學・1957・2・VOL.25』の「書評」欄にて、平野・小田切・山本編『現代日本文学論争・上巻』、臼井吉見著『近代文学論争・上巻』を採りあげ、それらを批評した後に

<ところで、論争史が、少なくとも論争が、民衆芸術論争に一顧をも払っていないのは解しがたいことではあるまいか。/民衆芸術論が大正デモクラシイと結びついて起こった論争で、それは初歩的に民主主義芸術論であるとともに、国民芸術論であったはずである。/中略/民衆芸術論が民衆詩派の業績と直接にむすびついたことは隠れもない事実だが、それは一面の収穫にとどまったはずである。逆にいえば、大正期のもろもろのプロレタリア藝術のうちに吸収されていったものも見出されるはずである。/後略/>*13瀬沼茂樹著「書評」(『文學』1957・2・VOL.25・昭和三十二年二月十日・岩波書店発行)

と書いている。これらの中に出てきた民衆詩派論については、諸氏の論争を含めて、項を改めて紹介したい。

 この論争は伊藤信吉の言うように一年半にも及び、結局決着が付かなかったようである。省吾の言い分、白秋の言い分を見る時、これは永遠に歩み寄ることのない長い二本の線路のようにも感じられる。*14「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「自然主義と民衆詩派」より抜粋してみたい。

<伊藤 『現代詩の研究』以前に、労働者自身が自分の生活を題材にしたああいう作品をまとめて見せた著作は、たぶん他にないでしょう。民衆詩派運動には詩の普及という付帯的な役割があって、それが生産場面の人たちの詩を引き出したという、そういうこともあったと思います。ここで詩の性格について具体的に入ってゆくことにしますが、私は詩の性格という面からみると、民衆詩派の作品は、詩における自然主義だという見方をしています。反対の意見がおありかもしれませんけれど。

白鳥 それは全面的に賛成ですよ。なぜかというと、たとえば白秋は詩というものは歌うべきものだと思っている。/中略/ところが民衆詩派の、少なくも私ら民衆詩派と称するものは、そこに描写しなければいけないんですよ。/中略/

伊藤 そこで詩における現実性や社会性の問題ですが、白鳥さんは福田正夫さんといっしょに、北原白秋と約一年間半(大正十一、二年)にわたって大論争をやりましたね。あれは新体詩はじまって以来の大論争だったといえますが、あの論争には詩の本質にかかわるいろいろな問題があった。あれを私は、白鳥省吾・福田正夫対北原白秋というところから延長してして、民衆詩派対藝術詩派の論争、自然主義的詩派(生活派)対美学的詩派(藝術至上主義)との論争、つまり生活派と芸術派との「思想」的対立だったと思います。大正期の詩における二つの流れの対立が、ああいう論争の形で最終的にあらわれたと思うのです。/中略/

白鳥 現実を描写すべきもの・・・・。中略/

伊藤 詩に意味を見る立場と、歌的な(韻文的な)立場との対立ー、一方は思想的、現実的立場であり、一方は音楽的立場に立った。だから極端なことをいえば、私はこれは理論的にどれだけ論じても、必ずしも結論の出る問題ではないと思っています。/後略/>*14「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「自然主義と民衆詩派」「芸術性から見た民衆詩人」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 後に「詩話會」編で出版された*15『明治大正詩選全』の附録「明治大正・詩壇年表」よりこの論争に触れている部分を抜粋して紹介してみたい。

○大正十一年十月、北原白秋『詩と音楽』に「考察の秋」にて、省吾の「森林帯」及び正夫の「高原の処女」の一部を散文に書き換えて、詩壇に波動を起こす。

 十月、白鳥省吾『日本詩人』に「新しき民謡に就いて」を書いて、白秋の民謡論(四月、白秋は『大観』に「民謡私論」を発表していた。『文學』誌上の「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」において、省吾は「『中央公論』に書いた白秋の民謡論」に対しての反論と言っている。)を「白秋氏の民謡は本質的ならざるを論ず」と反論している。

○十一月、福田正夫は『日本詩人』に「現代日本詩の本領を論じて時代錯誤の詩論を排す」を書いて白秋に反論する。

○十一月、省吾は『日本詩人』に「詩の内容と形式」を書いて白秋に反論する。

○十一月、白秋は『詩と音楽』に「相手を選ばぬ理由」を書いて、省吾、正夫に反論する。

○十二月、省吾は『日本詩人』に「民謡の批判と主張」を書いて白秋に反論する。

○十二月、正夫は『新潮』に「日本現代と自由表現」、『日本詩人』に「書斎の一隅から」を書いて白秋に反論。

○十二月、尾崎喜八『讀賣』に「悪い先例」を書いて白秋に反論する。(『青い階段をのぼる詩人たち』P265には、大正十一年十一月九日、讀賣新聞、とある。)

○大正十二年一月、正夫『日本詩人』に「考察の冬を駁す」を書いて白秋に反論。

 このあと、散文詩論になったようで、二月、矢野峰人『詩と音楽』に「散文詩の領域」、同月正夫『日本詩人』に「社会詩の主張」、四月、省吾『朝日』に「散文詩の意義」とそれぞれ列記している。

 これらの発表月はそのまま信用することは出来ないようである。なぜなら菊地康雄著『青い階段をのぼる詩人たち』、『白秋全集18・詩文評論4』『芸術の円光』「考察の秋その一」「詩であるか」、*16『討議近代詩史』「近代詩史年表」とは発表月が合っていないからである。この中に紹介されていないが、『青い階段をのぼる詩人たち』『白秋全集18・詩文評論4』によると以下のようである。

○大正十一年十一月九日、尾崎喜八は『讀賣』に「悪い先例であるー詩を散文に書き換へるとはー北原白秋、白鳥省吾、福田正夫の論争」を書いて論評する。

○十一月、白秋はこれに応えて「讀賣新聞」紙上、十五日から十八日にかけて「散文が詩と言えるか?ーこの理由を以て書き換えた」を発表する。

○十一月、白秋は『詩と音楽』に「民謡についてー白鳥省吾君の批難に対して」を書いて、省吾の「新しき民謡に就いて」に反論している。これに対して省吾は『日本詩人』十二月号に「民謡の批判と主張」を書いて白秋に反論している。

○十二月、白秋は『詩と音楽』に「詩の下道を排す」を書いて正夫の「現代日本詩の本領を論じて時代錯誤の詩論を排す」に反論する。(『白秋全集18・詩文評論4』によると「詩の下道を排す」、「追記」は同年十一月と載っている。十二月のものとして、正夫が『報知新聞』に発表した「真の詩を求むるために」に対する論評「よいもの拾うた」を載せている。)

○十二月、白秋は正夫の「現代日本詩の本領を論じて時代錯誤の詩論を排す」に対して、『詩と音楽』に「再び民謡についてー福田君の迷妄を糺す」で反論している。

○十二年一月、白秋は省吾の「民謡の批判と主張」に対して、『詩と音楽』に「時代相と民謡ー白鳥省吾君の非難に対して」で反論している。

 以上が手許の資料の全てである。

 朔太郎同様、詩史に於いて白秋と省吾は最後まで犬猿の仲であったかのように論じられているが、そうではなかったものと思われる。と言うのは以下のように北原白秋を省吾が*17『文人今昔』書き残しているからである。

<この間、岩波書店の「文学」のプランで、「民衆詩派を語る」の対談を伊藤信吉氏とした。「白秋との論争は一年半に亘っていますね。あんなに長期間の論争は文学史で類がないでしょう」/と言われて、初めてその論争の回顧に苦笑した。事の始まりは、白秋氏が私の「太陽」に発表した「森林帯」と言う叙述風の詩を、散文に書き直して「これでも詩か」と大上段に批評したに対し、応酬したに始まる。/中略/

 この論争にかかわらず白秋氏とは、詩話會解散後にともに日本詩会を結成したり童謡詩人会の幹部になったり二回も年刊童謡詩集を編んだり、、幾度となく会合し酒席をともにした。そして、つねにその寛大と微笑に敬服した。大正十四年の冬のこと、二次会も富士見町で十二時近くになった時、白秋氏は上衣の外ポケットから手品使いのように百円札を一枚取り出して、/「さあ、これから横浜へ繰り込もうじゃないか、おい白鳥、一緒にどうだ」と言った。/中略/

 白秋氏の危急を知るや、童謡詩人会を代表して都築益世氏と私が、黄菊白菊の二鉢を持って自宅に見舞いに行った。一切面会謝絶だったが玄関に出た大木淳夫氏の伝言によると、白秋氏は深くうなずき好意を謝し、その花を撫で、「諸君によろしく」とのことだった。その翌日に亡くなられた。>*17『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 もう一編省吾の回顧録、*18『人生茶談』より「白秋逝きて十年」を紹介する。

<北原白秋の病気危篤の時、私は詩人協会を代表して、大曲の植木屋で黄菊と白菊の二鉢を求めて見舞いに行った。誰にも面会謝絶であったし、眼も盲目に近かったが、花を撫でて喜んだと大木淳夫君が伝えてくれた。その翌日かに亡くなられた。/白秋著「芸術の円光」に見えるように、大正十二三年頃、民主主義者としての内容と無技巧と平明を主張する私と階調と修辞と芸術至上主義者の北原氏と激しい論争をしたのであるが、氏は他の長所は長所と認める寛大さがあった、教示さるるところがあった。/これは人によっては野郎自大、自分の曲がったものさしに当てはまらぬ者は凡てボロクソにこき下ろして自ら快とする者もあるが、それとは天地の相違であった。/後略/>*18『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)

 この後、先の『日本詩人』大正十一年十月号、「新しき民謡について」に於いて酷評した、白秋の「落葉松」について、「しかし、其の後相当の名詩として人口に膾炙しているようである。口ずさんで何となく心に残る詩であるから、かなり名詩なのかも知れない。」と記している。省吾は「童謡詩人会」と「詩人協会」の両者の代表でもあったものか、どうやら、大正デモクラシーの時流に乗って民衆詩を書いた詩人たちは、おのれの書く詩が一番と、それぞれ自負していたようである。評価は時代を経てうけるものである。そんなことはお構いなしに、詩の革新を目指していたように感じられる・・・。

 今日、民衆詩派にふれている諸誌を読んでみると、白秋との論争によって、白鳥省吾等民衆詩派の詩人達が詩壇から追放され、完全無視されたような感じを与えてるが、省吾と正夫等の経済的羽振りが良くなるのはこの後であった。絶頂期の後に来るものは転落であるが、民衆詩派は徐々に凋落していったように感じられる。

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『日本詩人』大正十一年十月号(詩話會編・大正十一年十月一日・新潮社発行)

*2「詩の内容と形式ー北原白秋氏にー」(『日本詩人』大正十一年十一月号・詩話會編・大正十一年十一月一日・新潮社発行)

*3「考察の秋その一」「詩であるか」北原白秋著(『白秋全集18・詩文評論4』『芸術の円光』昭和六十年十二月五日・岩波書店発行)

*4『日本近代文学大系59・近代詩歌論集』(「考察の秋・処女の如く立つ」昭和四十八年三月二十五日・角川書店発行)

*5『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*6『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*7『日本詩集』1923版(詩話會編・大正十二年五月十八日・新潮社発行)

*8『日本現代詩大系・第六巻』「解説」三好達治著(昭和五十年二月二十八日・河出書房発行)

*9「58・詩か散文かー民衆詩論争ー」久保忠夫著(『近代詩物語』・分銅淳作、吉田熈生編・昭和五十三年十月二十日・有斐閣発行)

*10「第8章民衆詩派とその周辺」信時哲郎著(和田博文編『近現代詩を学ぶ人のために』・平成八年四月三十日・世界思想社発行)

*11『青い階段をのぼる詩人たち』菊地康雄著(昭和四十年十二月十五日・青銅社発行)

*12「大正詩の特質」原子朗著(『鑑賞日本現代文学 31 現代詩』小海永二編・昭和五十七年五月三十一日・角川書店発行)

*13瀬沼茂樹著「書評」(『文學』1957・2・VOL.25・昭和三十二年二月十日・岩波書店発行)

*14「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「自然主義と民衆詩派」「芸術性から見た民衆詩人」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*15『明治大正詩選全』(「詩話會」編大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*16『討議近代詩史』(一九七六年八月一日・思潮社発行)

*17『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*18『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年七月二十二日改訂

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 つづく 


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最終更新日: 2002/07/24