白 鳥 省 吾 物 語 第 二 部

会報 21号(平成13年7月号)・<詩人 白鳥省吾を研究する会>    siyogob2.jpg (12989 バイト)

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  三、 民衆詩派全盛の頃  大正10年hibari04.jpg (14163 バイト)

  (五)、「詩話会」分裂 

 大正十年(1921)省吾満三十一歳、この年は二月に新作詩集『楽園の途上』(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)、七月に童謡集『雲雀の巣』(大正十年七月二十五日・「精華書院」発行)、九月に詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)、そして十二月に最初の評論集『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)が相次いで発行されている。今で言う所謂、売れっ子作家の仲間入りをしたと言うことになろう。その証拠に、小説に手を染めている。省吾は随筆を数多く書いているが、その中の幾つかは種々の雑誌に短編小説として採録されている。『随筆・世間への觸角』(昭和十一年六月五日・東宛書房発行)に収録された「梨の花と貸間札」は、平成八年六月二十日発行の『幻想文学』に「特集怪談ニッポン」「完全復刻当世百物語」(初出は大正十二年『中央公論』五月号・平成八年六月二十日・季刊・アトリエOCTA発行)として採録されている。

* 写真は省吾の最初の童謡集『雲雀の巣』


 一月、結婚して生活の安定を求めた省吾は『小説倶楽部』に「炭坑の人々」を書いている。これは省吾の始めて発表された小説であると思われる。大正八年九月『時事新報』に「小説偏重の幣」を書いていた省吾も、結婚して、背に腹は替えられない立場に立っていたものと推察される。大正十四年二月二十日発行の『土の藝術を語る』のなかでも「私が玄米をやめたのはやはり家庭を持ってからである。」と、以下のように書いている。

<私は大正二年に早稲田を卒業したが大正五年頃は詩作ばかりしていて就職しなかったのでひどく窮乏した。米も一升買いをして汁の実にも不自由する状態だったが、栄養不良にもならず詩作を捨てなかったのは玄米のおかげだと思っている。中略・しかしその夫人から抗議が出るらしく、殊に妊娠の場合などでは消化不良で困るやうである。玄米が家庭に破綻を起こすと言って笑ひ話となったことも度々ある。私が玄米をやめたのはやはり家庭を持ってからである。>(感想集『土の藝術を語る』「不死鳥の聲・玄米に関連して」・大正十四年二月二十日・聚英閣発行)

 そして同月「社会改造家としてのウイリアム・モリス」を『早稲田文学』に発表している。これは、この年の十二月に発行された『詩に徹する道』『詩に徹する道』・大正十年十二月十二日・新潮社発行)に「附録」として収録されている。省吾の主宰した雑誌『地上楽園』の題名になった、ウイリアム・モリスの詩集のことを、創刊号の51頁「詩壇雑記」に書いている。同項の「地上楽園の方針」より紹介する。

<「地上楽園」とは人も知るごとくウイリヤム・モリスの伝説叙事詩集の名であって、私がホイットマン、カアペンタアに引き続いて芸術的社会主義者のモリスの思想と芸術に傾倒していることは久しいもので、その熱愛は今日と雖も変わらない、モリスに対する長論文を「早稲田文學」に発表したのは、大正十年で、モリスはその当時は今のやうに普及していなかったのである。私が「地上楽園」の名を地下のモリスから無断借用するのは甚だ済まなくも思ふが、極東の一青年の紀年でもあると思って恕してもらひたい。>(『地上楽園』大正十五年六月一日・大地舎発行)

 二月十七日「詩話会」主催で「島崎藤村誕辰五十周年祝賀会」が開かれている。これに先立って、『現代詩人選集』(「詩話会」編・大正十年二月・新潮社発行)が発行されている。この時の模様を省吾は後に種々の自著に書き残している。『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)には「藤村詩集と私」と題して書いている。また『文人今昔』島崎藤村の頁では以下のように書きはじめている。

<「・・・・・今度かねて詩に小説に生涯を捧げられて、此の二月十七日で第五十回の誕生を迎へられる、島崎藤村氏の祝賀のためわが詩話会が口切りとなって会をやらうと考えつきました・・・・・」と言う趣意の葉書で、数人相寄り、上野静養軒で盛大な祝賀の催されたのは大正十年である。・・・後略>(『文人今昔』・昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 これを「河野成光館」発行の『現代詩の研究』、「詩話會の思ひ出」に省吾は以下のように書いている。

<大正十年二月十七日、島崎藤村氏誕生五十年祝賀會を上野精養軒に開催した。これより先、文壇では島崎藤村、徳田秋聲の両氏の誕生50年祝賀會を築地静養軒で開催したが、島崎氏に対しては詩壇でも祝賀すべきものとして催したのである。詩話会同人が発起人であるが、その名に北原白秋、福士幸次郎、百田宗治、川路柳虹、西條八十、佐藤惣之助、白鳥省吾、山宮允、富田砕花、室生犀星、柳澤健、日夏耿之介、福田正夫、正富汪洋、生田春月の十五氏が数へられている。>(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

 また「大正詩壇の思い出−詩話会の成立から解散まで−」(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)にはもう少し詳しくに紹介している。

<大正十年二月十七日に島崎藤村誕辰五十年祝賀会が詩話会主催で上野精養軒に開催された。これよりさき詩話会詩人三十三氏の詩を集めて現代詩人選集を組み、新潮社より出版、その印税を藤村氏に贈った。

 私は当日、西條八十と共に自動車に同乗して、飯倉片町の藤村氏を迎えに行った。座に読売の文芸欄の加藤謙氏が居たが直ぐ帰った。玄関脇の四畳半位の質素な室である。机二つ、四角な火鉢、机の前に複製版らしい画があった。/自動車の中で、藤村氏に私が「先生の詩を読んで、詩というものに驚き詩を書き出した」と言ったら、「いや、あれが、あんなにまで読まれ、今も広く読まれているということは不思議な位ですよ」と謙遜された。中略・静養軒に着くと、会場にはかなりの人である。もう五時だろう。中略・ 演説は有馬生馬、大町桂月、河井酔茗、吉江孤雁、長谷川如是閑、伊藤長七、それから坂本紅蓮洞という文壇名物男の脱線演説。/詩話会からは竹友藻風と福士幸次郎。

 有島の話は小諸に先生を慕って訪ねて行ったところ、食卓の副食物としては柿半分あるだけであった。その質素ぶりは生涯忘れられないと言った。・・・中略>(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 この文中の「有馬生馬」は「有島生馬」の誤植であるであると思われる。そして、この記念会をきっかけに「詩話会」が分裂したことを書いている。つづいて紹介する。

<この記念会をきっかけに、北原白秋、西条八十、日夏耿之介、山宮允、竹友藻風等が詩話会を脱退して新詩会を作った。/この連中はもともと詩は象牙の塔にありとする孤高の人々で、詩話会の会合にもあまり出席せず、出席してもあまり打ち解けて談合することもなかった。/新詩会は「現代詩集」一冊出したきり、団体として何等活動せず、各自分散し、翌二月には西条八十は退会し、白秋のみは出版書肆「アルス」を背景として出版書肆を持った。・・・中略>

 その経緯を二十六日のこととして、以下のように書いている。

<詩話会に対しては既に大正十年二月二十六日の時事新報に、つまり島崎藤村誕辰五十年祝賀会の直後に「詩話会の紛擾」という記事が出、幹部が横暴だというので、一方、竹友藻風は日夏耿之介等と図り脱退し、青年組の井上康文等は藤森秀夫と結び「百方檄を飛ばして新興詩人会なるものを組織する」とあり、その十月、同会より「新詩人」が発刊されたが長続きがしなかった・・・後略。>(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

 同様のことを省吾は先に紹介した『現代詩の研究』、「詩話會の思ひ出」(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)には以下のように書いている。

<この記念会は盛大で極めてよき會合であったが、この會をきっかけとして北原、西條、日夏、柳澤、堀口大學の諸君は詩話會を脱退して新たに新詩會を興した。某の策動に依るものと伝へられるが、別に原因とすべき根拠は無いものであった。/「日本詩集」への新人推薦の系統などが會に熱心不熱心の度合いから、いくぶん不公平らしく見えた点があったらしい。その人達は十月に「現代詩集」を出して、自分らの周囲の若い人々の作品も集め、詩話會の「日本詩集」に対抗したが、僅かに一巻を出すに止まった。従って、同年の「日本詩集」からは、この人達は加って居らない。>(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

 田中清光は『八木重吉全集・第一巻』「詩集 秋の鐘・詩稿T」、「『秋の鐘』に対する同時代評」に、井上康文の「新詩人」のことを書いている。

<井上康文は大正十年に詩話会に対抗して若い詩人たちで詩人会を結成、『新詩人』を創刊し、勝承夫もそれに加わり、十五年十月には詩話会解散の発端となった「詩話会委員に宛てる公開状」を勝、金子光晴、尾崎喜八、中西悟堂、陶山篤太郎とともに公開するなど、詩話会を批判する行動も行っているが、民衆詩派の詩人である。勝承夫は『大正八年日本詩集』に登場し、井上と行動を共にすることが多かったが、民衆詩派とはいえず、岡本潤と交わるという一面ももっていた。>(『八木重吉全集・第一巻』・八木重吉著・草野心平、田中清光、吉野登美子編集・昭和五十七年九月二十日・筑摩書房発行・「詩集秋の鐘・詩稿T」より)

 「詩話会」の分裂について、日夏耿之介は『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』「第四編大正混沌詩壇」「第二章群小詩壇」「第二項現実派と新浪漫派との対立」に於いて、「詩話会」の誕生から分裂までの様子を書いている。前掲した「詩話會誕生」と重複する部分もあるが、抜粋してみたい。

<大正六年十一月詩話会が生まれて、最初の会合に茅野蕭々、灰野庄平、山宮允、川路柳虹、福士幸次郎、多田不二、日夏耿之介等集まって、大正八年に第一輯「日本詩集」を公刊し、大正十年、島崎藤村誕生五十年祝賀會を詩話會の手によって催し、記念詞華集「現代詩人選集」を上梓したが、これを最後に北原白秋、三木露風、茅野蕭々、竹友藻風、山宮允、西條八十、柳澤健、日夏耿之介は詩話會を退いて新詩會を設立して、その詞華集「現代詩集」第一輯を公刊し、舊詩話會は別に又「日本詩人」を発刊し、川路柳虹、福田正夫、白鳥省吾、富田砕花、佐藤惣之助、福士幸次郎等がこれによった。

 すなわち、最初の目的は、詩壇が衰へて、他の歌壇、俳壇にも小説界劇界にも著しく劣った傾向に在ったので、詩団的勢力の下に詩壇の意義を闡明し、詩を普遍せしめようとて、呉越互ひに同舟して復興をはかったのである。即ち同人を定めて年刊詩集を発刊し、各個人の責任に於いて優秀なる新作家を推薦しようと申し合わせてその実行着手した・・・後略。>(『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著・昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

 両者の書き残したものを読んでみると、「詩話會」誕生の頃は、共に新詩壇を築こうと意気込んでいた様子が伺える。日夏耿之介は分裂の原因を以下のように書いている、つづいて紹介する。

<けれども、斯くの如く各異派作家の大同団結をはかり普遍をはかることが、他面に於いては著しい弊害をもたらした事は当然である。すなはち、詩話會同人が推薦する新進作家なるものは、年をふるにつれて、漸く詩歌の東西をもわきまへず、黒白も辨じ得ない全くの黄口の兒輩となり、そのやうな年少未熟の徒をも自ら責任を負ふと稱して各同人が次第にきそって集合にも出席せしめ、年刊詞華集にも投寄せしめたのは、一には自己の生活に親近である私的感情が殉情的に公的厳正を蔽うてしまったのではあるが、尚その外に、己が詩壇の各派に於ける一種の勢力を擴張せんがための俗陋陲棄すべき世間欲に基づいている事は、当時、月を追うて増す出席者が愈よその人の幼稚を加へ年を加へて投寄する年刊詩集中の作品がますますその詩の稚拙を増し、且つ少なからず詩風が一方に偏向しずぎた事実によって確実に明瞭である・・・後略>(『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著・昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

 この後、前掲文の「新詩會」結成、「現代詩集」発刊に触れ、「新詩會」を「その會はその後何らの活動をも試みず、・・・云々」と書き、「これは一面、民衆派に反してかれらが個性に執する性癖に強いためで、集団の詩林に於ける意義を考へると、これら傾向の是非は両派の価値判断に於いて軽々には判断を下しがたい。」と結んでいる。

 この一文から、日夏耿之介が口語詩派に対する、反勢力をまとめようと意図した動きを感じられるのであるが、私共の考えすぎであろうか・・・。又この頁の欄外には「萩原は郷里にあって白秋に入会を慫慂せられたが事情が判らず元の所属にそのまま居た。」と書き記している。しかし、萩原朔太郎は、たとえ師北原白秋の誘いであっても、親友室生犀星を見捨てることは出来なかった、己が創ったという自負ともども脱会するわけにはいかなかったものと思われる。(当ホームページ「対立する新進詩人達」参照)

 前掲した「対立する新進詩人達」、雑誌『民衆』の項に於いて、萩原朔太郎が『日本詩人』に寄せた「詩壇の思ひ出」(第五巻第四号・大正十四年四月号)を紹介したが、「詩話會」分裂についても書いているので、重複する部分もあるが、「詩話會」分裂の真相に迫っていると思われるので抜粋してみたい。

<丁度この頃、思潮界に於いてデモクラシイの声があげられ、政治活動と相俟って、文壇における民主主義が新興し、盛大の勢いで創作壇を風靡した。吾が詩壇に於て、まっさきに此の潮流に乗じ、民衆詩派の先頭に立ったのは、小田原に於ける福田正夫君であった。福田君の雑誌を「民衆」といひ、ずいぶん元気の好いものであった。彼等の敵手に立てたものは、詩壇の高踏的貴族主義者の一派であって、その黒表(ぶらっくりすと)には、多分僕などが楽書されていた。そしてこの民衆派の運動は、当時既に大家であった白鳥省吾君によって、統括的に指揮されていた。大阪の百田宗治君が、同時にこの運動の先鋒に立った。別に一方で、加藤一夫君等の社会主義者が之れと連接していた。中略・

 即ち「象徴詩派」「自由詩派」及び僕等の「感情詩派」の他に、別に「民衆詩派」の一派が加はり、中略・今日の詩壇の現象たる無詩派時代を現すべき、時代の流動が前兆されてきた。始め僕等の予想した如く、詩話會創立以来、個人間の私怨的感情が一掃され、同時に党派的偏見や政略が絶滅し、詩壇の空気は、非常に自由で明るいものとなってきた。尤も詩話會の創立当初は、多少前時代の遺風が残っていて、種種の政略的なる陰謀術作が行はれ、盛んに一部の人々の暗中活劇が行われたやうに噂されている。しかし僕は、この頃既に田舎に帰郷してしまっていて、爾後の消息に通ずることができない。僕が詩話會に出席したのは、当初の一・二回に過ぎなかった。爾後の事務は主として川路君と室生君が継続していた。

 それからよほどたって、詩話會が分裂したといふ話を聞いた。即ち舊未来詩社に属していた大部分の人、及び北原白秋、日夏耿之介の諸君が、この集会から去ったといふ話が、遠く田舎に居る僕に伝達してきた。その頃一部の人々は、書面を送って僕にも脱會をすすめ、また直接来訪して熱心に脱会を誘惑した。しかしこの頃、僕は既に詩話會なるものの存在にまで、何の興味も有していなかった。中略・ずっと後になってから、會の内容がよほど変化してきた。即ち詩話會は、単なる詩人倶楽部でなく、一つの堂々たる機関誌を有し、大出版社を後援とする所の、一大勢力、及びその集団運動を意味するやうになってきた。(と私は想像する。)中略・

 されば始めから脱會も入會もないわけで、単に作品発表の好機関として幹部に連座しているにすぎない。しかしてそれは僕の自由意志である故に、脱會に関する一切の勧誘を拒絶したのである。ともあれ僕は會の近情をさらに知らないから、會に対して別に悪意をもつ理由もなく、またそれに熱心である理由もない。僕の記憶している限りでは、會の主なる幹事は、川路君、白鳥君、福田君であり、時に百田君、福士君であったやうだ。此等の諸君が、會の煩瑣の事務を熱心にやってくれることは、感謝を以て報いねばならない。中略・

 詩話會分裂の原因、及び會に対する一部新進作家の不平は、果たしてどこにあるか、僕はよく推察し得ない。しかしこの原因が、もし「年刊日本詩集」及び「日本詩人」の編輯方針にあるとすれば、僕はむしろその不平者を冷笑したいと思ふ。何となれば−−僕の考では−−詩話會はしかく重大権威を有する結社でない。詩話會の目的は、一派一党派の勢力を扶植するのでなく、むしろ種々雑多なる詩派及び詩人の寄り合ひであり、それらの無方針な交友倶楽部である。中略・

 それ故に、他の同人雑誌の結社とは、全然その意味を異にしている。詩話會には、それ自身の主張がない如く、またその個人的な党派もない。中略・過去の詩壇の如く、諸君を迫害する先輩はどこにも居ない。・・・後略>(『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行より・初出は『日本詩人』第五巻第四号・「詩壇の思ひ出」大正十四年四月号)

 現在、省吾と朔太郎は犬猿の仲であったように宣伝されているが、事実はそうではなかった。朔太郎にも省吾にも、そして日夏耿之介にも新しい詩を目指そうとする姿勢が感じられると思うのである。しかし、前掲の萩原朔太郎の文よりも、川路柳虹が書き残した「詩話会は民衆詩派の牙城だという噂もとんだ。」という一文が、以下のように一人歩きをしていると思われるのであるが・・・。安西均の「大正詩史」「詩話会の発足」より抜粋して紹介する。

<内部対立とは、ここでも民衆詩派とそうでない一般詩人との対立から、北原白秋らが脱退した事件であり、そのあとの詩話会は民衆詩派だけの会となってしまった。・・・中略。/

 年刊アンソロジーは新潮社が発行をひきうけた。一九二一年版は分裂騒ぎで主要メンバーが脱退したため、編集代表者には中立派と目された福士幸次郎、川路柳虹がなっている。/分裂騒ぎとは、こうである。−無差別・公平な大同団結がたてまえの会であったが、福田正夫らがこの平等をいささか乱用して、やたらに友だちを入会させる。一人前の詩人どころか投書家程度のものまでも入れる。これが北原白秋や日夏耿之介の怒りを買った。福田らの「軽率」さの結果、詩話会は民衆詩派の牙城だという噂もとんだ。−と川路が書いているが、日夏も似たことを述べている。脱退者は北原・日夏・西條・柳澤・山宮。茅野・それに三木露風・竹友藻風であった。・・・中略。>(『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』、安西均著「大正詩史」・昭和四十四年十月三十日・角川書店発行より)

 この後、新「詩話會」を以下のように書いている。

<かくて、詩話会によって統一されたかに見えた大正詩壇は、詩人たちのエネルギー結晶体にも詩運動の母体にもなりえず、再び小派分立の混沌状態にもどった。大正十年三月のこの分裂騒ぎ以後、詩話会は民衆詩派が主導権をにぎることになる。それも、無力化していく民衆詩派によってである。>(『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』、安西均著「大正詩史」・昭和四十四年十月三十日・角川書店発行)

 これに対応するものとして、萩原朔太郎の「編輯に就いて」(『日本詩人』大正十四年十一月号「河井酔茗氏五十年誕辰記念号』の末尾)をここに挙げたい。萩原朔太郎はその内部事情を以下のように書いている。

<●私と佐藤惣之助君とで、今月から日本詩人の編輯を受け持つことになった。尤も事務のいっさいは、たいてい佐藤君がやるので私は相談役といふ格にすぎない。/●従来、日本詩人を編集していたのは、主として川路、白鳥、福田、百田の四君であった。この中川路氏を除く外、他の三氏が悉く皆民衆派の代表者であった為、或る一部では、何等か日本詩人が民衆詩派の機関誌である如き認見を生じた。しかしこれは偶然の事情にすぎない。即ち詩話會幹部中、偶然にも上述の諸氏だけが東京に居て、他は皆地方、もしくは遠隔の地に居たのと、も一つのには、偶然にも上記の諸氏が、この種の雑誌編集人として適材であったからだ。・・・中略。これによって一部の世間的誤解−民衆派と詩話會の誤った憶測−は弁明されたことと信ずる。・・・後略。>(『日本詩人』大正十四年十一月号「河井酔茗氏五十年誕辰記念号』の末尾「編輯に就いて」・大正十四年十一月一日新潮社発行)

*『明治大正詩選全』「明治大正詩壇年表」にはこの時期のことを以下のように記している。

<三月、北原白秋、日夏耿之介、西條八十、山宮允、竹友藻風等詩話會を脱し、別に新詩會を起こす。/五月、井上康文、花岡謙二、尾崎喜八、萩原恭二郎、林信一、恩地孝四郎、鮫島俊吉、竹村俊郎、多田不二、大藤次郎、藤森秀夫、相川俊孝、霜田史光、澤ゆき子、齋藤重夫等によって「詩人會」起こされ雑誌「新詩人」発刊せられる。>(『明治大正詩選全』・「詩話會」編大正十四年二月十三日・新潮社発行)

 「詩話會」分裂で、三月に脱会した詩人を見てみると、北原白秋、三木露風、茅野蕭々、竹友藻風、山宮允、西條八十、柳澤健、日夏耿之介、堀口大學等であるが、五月に「新詩人会」を組織した、「青年組の井上康文等」は脱会はしていなかったようである。この後も『日本詩集』に詩を発表している。また、この分裂は後の「詩話會」解散の火種を宿したものであったようである。諸誌は上述の三木露風をこの時の脱会組みに数えているが、元々露風は入会すらしていなかったようである。*『地上楽園』昭和二年二月号に「恐縮ながら一私事を」と題して、服部嘉香が書いている。

<白鳥様。毎々「地上楽園」を有りがとう存じます。新年号に御掲載の「詩話會解散の経緯」は将来に対する文献として極めて貴重な御聚集でした。感謝いたします。その中に詩話會委員除名決議を含む全委員の聲明書に、會員としてわたくしの名があります。その印刷物を陶山篤太郎氏宅の假事務所から郵送を受けました時は、早速陶山氏と、詩話會委員九氏(室生犀星氏を加へて)とに取消を申し込んでおきましたが、「地上楽園」の読者諸氏の誤解もあらうかと思ひますので、改めてこの一文の御厄介を願ふ次第であります。

 あなたにも申し上げました通り、わたくしは一日すら、一時間すら詩話會會員であったことはありません。北原白秋氏外数氏のやうに途中から脱会したのでもなく、三木露風氏と同然、最初から相談にもあづからず、通知にも接せず、詩話會成立当初から全然何らの関係もなかったのであります。それを、今になって、かういふ場合に陶山氏に利用されることを、甚だ迷惑に感じました。・・・後略>(『地上楽園』昭和二年二月号・昭和二年二月一日・大地舎発行)

 この中に紹介されている「詩話會解散の経緯」は後の「詩話會解散」のページで紹介したい。「詩話会」が内紛していたこの年の二月二十五日、新興文藝勢力が活動し始めていた。即ち、第一次『種蒔く人』が創刊されている。これについては項を改めて紹介したい。

* この頁の参考・引用図書及び資料

 

* 『随筆・世間への觸角』(昭和十一年六月五日・東宛書房発行)

* 『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

* 感想集『土の藝術を語る』「不死鳥の聲・玄米に関連して」(大正十四年二月二十日・聚英閣発行)

* 「大正詩壇の思い出・詩話会の成立から解散まで」・白鳥省吾著(『國文學』六月号・昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

* 『地上楽園』創刊号(大正十五年六月一日・大地舎発行)

* 『詩の創作と鑑賞』(大正十五年十月十五日・金星堂発行)

* 『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 「詩話會の思ひ出」・白鳥省吾著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・「河野成光館」発行)

* 『改訂増補 明治大正詩史 巻ノ下』・日夏耿之介著(昭和四十六年十月十五日・東京創元社発行)

* 「『秋の鐘』に対する同時代評」・田中清光著(『八木重吉全集・第一巻』「詩集・秋の鐘・詩稿T」草野心平、田中清光、吉野登美子編集・昭和五十七年九月二十日・筑摩書房発行)

* 「詩壇の思ひ出」(『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行より・初出は『日本詩人』第五巻第四号・「詩   壇の思ひ出」大正十四年四月号)

* 『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』、安西均著「大正詩史」(昭和四十四年十月三十日・角川書店発行)

* 『日本詩人』大正十四年十一月号「河井酔茗氏五十年誕辰記念号』の末尾「編輯に就いて」(大正十四年十一月一日新潮社発行)

* 『明治大正詩選全』(「詩話會」編大正十四年二月十三日・新潮社発行)

* 『地上楽園』昭和二年二月号(昭和二年二月一日・大地舎発行)

 

 つづく

以上・駿馬 


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最終更新日: 2002/06/10