白鳥省吾物語 第二部 会報二十二号

(平成十三年八月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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    (六)、新作詩集『楽園の途上』 大正十年

 この年の二月、雑誌『新潮』は口絵に白鳥省吾の家庭を載せ、略歴を紹介していることが*1「白鳥省吾年譜」に記されている。そして同年二月二十八日、省吾の言う第三詩集にあたる、*2新作詩集『楽園の途上』が「叢文閣」より発行されている。その「はしがき」には以下のように記されている。

<△一九一九年より一九二〇年に至る満二ヶ年間の詩八十一篇を輯めて、『楽園の途上』を編む。凡て既刊の詩集『世界の一人』『大地の愛』『幻の日に』以後の再近の作を網羅す。

△詩の排列は年代順に依らず、主として内容によって五部門に分類し、詩篇の順を追ふて感動を系統的に表はさうとした。讀者のおのづから知らるゝ如く、即ち『揺籃の郷土』には郷土を歌へるもの、『日々の花々』には都市生活を歌へるもの、『永遠の男女』には両性を歌へるもの、『太平洋の岸にて』は海を歌へるもの、『現代の風』には炭坑を歌へるものを、各々十数篇づつ収めた。これらは畢竟、一本の草から五つの花のやうなもので強ひて分類する要なきものとも思はれるが、私と云うものをいくらか明らかに印象する助けともならば幸ひである。

△ 詩に実生活の印象を自由に平明に表現しようとするのが私の行き方である。この詩集の中には、特に一地方の風物を歌ったものも多いが、私は其処に却って確たる根底と深い喜びを感じている、何となれば私は特殊の中に普遍を見、実生活の一片は全存在を髣髴すると思ふからである。私は実感を伴わない漠然たる詩的空想を排する、現実こそ永遠への窓である。

△ 私はまた自然と社会の一人としての『祈り』と『闘ひ』とが、詩を貫く二大動脈であると信ずることは、八年前に出版した処女詩集『世界の一人』の自序に示した心境と今も変わりがない。たゞ幾分の相違は、徐々とではあるが、新社会建設の翹望が意識的に燃えてきたことである。詩はその楽園への途上の頌歌、禮讃でありたい。静かにして底力ある破壊の叫びでありたい。詩は現代から来るべき時代への一つの鎖でありたい。然しそはたゞ願ひである、そして斯うした主張は作品その物によって示されざる限り、千萬言を費すとも、此の場合には無益である、もとより、これらの詩篇は、共に地上に生くる多くの人々にとって、余りに微小な捧げ物であることを私はよく知っている。        東京雑司ヶ谷にて 一九二一年一月 白鳥省吾>*2『新作詩集・楽園の途上』白鳥省吾著(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)

 詩の数は全部で八十一篇、「揺籃の郷土」二十篇、「日々の花々」二十四篇、「永遠の男女」十二篇、「太平洋の岸にて」十三篇、「現代の風」十二篇である。「はしがき」に紹介されているように、この詩集は*3『幻の日に』に続く四冊目の詩集であるが、省吾は*4『現代詩の研究』の中にて、第三詩集として扱っている。もっとも、*5『天葉詩集』を含めると五冊目の詩集になるのであるが、「民衆的」となるとやはり第三詩集になるものと思われる。この中の『揺籃の郷土』に収められた「戦争の追懐」には、省吾の反戦詩の代表詩「耕地を失ふ日」以下三篇が収録されている。これは「白鳥省吾物語T」「二、中学時代の背景」においても紹介したが、省吾が中学時代に体験したことを元に、大正十年前後の小作人達の窮状とだぶらせてうたったものである。

   V 耕地を失う日

  

   明治三十五年の飢饉に引き続いて

   三十七八年の日露戦争が来た

   御国のために命を惜しむなと

   一家の働き手の壮丁がみんな召集された。

   いとゞさへ貧しい家々は

   或る金持ちから少しばかりの金を借りた

   満州の野で若者等は家を思ひながら死んだ

   貧しい家に一片の戦死の報が届いた

   国を挙げて戦っている時、小農の嘆く時

   地主のふところは益々肥とるばかり

   返へせない少しばかりの金が

   驚くべき金高となって小農の耕地を奪った

   磁石が鉄粉を吸ひ寄せるやうに

   實に見事に一人の人間に多くの土地が集まった

   何ケ町村の見渡す限りの廣土が彼の所有となった

   おゝ驚くべき吸血兒が

   平気で白亜の塀のかげに隠れている

   最先に弾雨を浴びた人に

   國家よ

   眞に酬ゆるは小さい勲章でも褒状でもないことを知れ

   いま青田をわたる風にも戦の寂しい歓呼を聴く

   社会の不合理の恨みを聴くことが出来る。

   牢獄は法律の下にのみない

   晴れやかな青空のもとに

   無限の沃野の上にもある

   小作人となり下がった彼等には

   耕地そのものが既に厳めしい監獄ではないか。

掲載詩は*2『新作詩集・楽園の途上』白鳥省吾著(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)より

* 写真は省吾の『新作詩集・楽園の途上』

 「二、中学時代の背景」でも紹介したが、省吾は、この詩の解説文とも思える一文を後に*6『詩心旅情記』に書いているので、再掲してみたい。

<東北飢饉は明治三十五年と三十八年がひどかった。私は少年時代に二回飢饉に遭ったわけだ。三十八年には同級生百余名二組なのが三十五名に減じて一組となった。山麓地方になるに従って凶作の度がひどく、こんなものを食べているといふ見本として蕨の根や松皮餅が瓶に入れられて郡役所に届けられた。/中略/

 実際、凶作の時は私達も「青カテ飯」(大根の青葉を刻んで飯に入れたもの)「干葉ネッカイ」(大根の干した葉を煮て米粉をかきまぜたもの)「芋カテ飯」(馬鈴薯を刻んで飯に入れたもの)などを食べた。大根カテ飯や麦飯は上乗の方であった。三十八年の凶作はちゃうど日露戦争と一緒だったので、働き手の壮丁は徴兵になって居り、従軍のために子遣いを持たしてやるため、二重の無理をして金を作った農家が多かった。二十円前後の借金のために一反の田を抵当とせねばならなかった。しかも生還或いは期しがたしとの悲壮な覚悟からその親たちは出来るだけの金を数十円位はその壮丁等に持たしてやったさうである。少しばかりの借金が利に利を生んで、自作農は小作農に成り下がり、何とも方法の尽かない者は北海道に移住した。隣村の地主はこの機会に膨大した。そして三万俵の小作米が所得される大地主となった。>*3『詩心旅情記』白鳥省吾著(昭和十年七月七日・東宛書房発行)

 この詩は種々の雑誌に採りあげられている。松永伍一は*7『日本農民詩誌・上巻』「第四編民衆詩派の功罪」「白鳥省吾の位置」に於いて採りあげ、

<なかでも「耕地を失ふ日」は若き働き手の農夫の出征、戦死から、わずかの土地が地主のために奪いとられたことを怒りをこめてうたいあげたものであった。一見リアリステツクなかれの手法は、画面に泥絵具を塗りこめるように緻密な感覚の計量をもってイメージを鮮明に浮き出させるというものではなかったように思えるが、それでも自然主義的なある種の粘りと集中性とはあったと私はみる。その部分がまた一つの限界としてあり・・・後略>*7『日本農民詩誌・上巻』「第四編民衆詩派の功罪」「白鳥省吾の位置」松永伍一著(和四十二年十月・法政大学出版局発行)

と書いている。この文中の「それでも自然主義的なある種の粘りと集中性とはあったと私はみる。」という、言は幾分歯にものが挟まった言い方に聞こえるが、当時としてはそれでも精一杯の賞讃であったものと解したい。伊藤信吉はもっとはっきり賞讃していると思われる。

 伊藤信吉は*8『現代名詩選・上』、*9『鑑賞現代詩U・大正』に於いて採りあげている。後者より紹介する。

<一面で白鳥省吾は「農民詩人」といってよいほど多くの農村詩を作っており、戦争が貧しい農民達に何をもたらしたかを、するどく感じとる「土の感覚」をもっていた。/この詩の主題は戦時における富農の土地収奪の問題で、小農貧農の働き手の出征、戦死、富農からの借金とその利子、抵当としての土地収奪ーと、条件があまりにも揃いすぎている感じだが、しかし日露戦争当時の農村には事実としてそういう事態がおこっていた。/後略/>*9『鑑賞現代詩U・大正』伊藤信吉著(昭和四十一年十月二十日・新版第一刷・新潮社発行)

 また、*10「白鳥省吾の世界(中)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」において、詳しくこの詩を解説している。抜粋して紹介する。

<非戦詩の代表作「殺戮の殿堂」「耕地を失ふ日」二篇は内容、標題ともにけわしい。そして「耕地を失ふ日」は農村荒廃と非戦思想の同時表現において、同時代にほとんど他に類をみないタイプの作品であった。/中略/「耕地を失ふ日」の前半部分である。印象が重ったるい。それも道理、一読して私はこの詩が一編の戦時農村論を成し、農村の階層形成批判であることをおもった。/中略/「耕地を失ふ日」後半。戦争を機縁とする土地収奪は、省吾が見聞した地域ばかりでなく、もっとひろく各地に惹起しただろう。そればかりでなく農村の窮乏化には商品経済の浸入が大きく作用したという。/中略/

 記憶の底に収めてあった昔の見聞が作品として形を成したのは、彼がリアリストとしての認識を確実にしたその時からである。/中略/彼は大正期詩壇における、民衆詩派における、もっとも着実なリアリズムの詩人であった。自然主義の詩的実践は彼によって全的に推しすすめられたと言ってよく、そこに詩的自然主義というべき視点と方法が生じた。/中略/つまりリアリズムの視点の獲得によって農的感覚が新しくよみがえり、再生し、往年の詩人としての生命をもたらしたのである。/中略/>*10「白鳥省吾の世界(中)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL.53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

 つづいて前掲した新作詩集『楽園の途上』の「はしがき」の二連を引用し、以下のように書いている。

<詩的リアリズムの宣言である。これと同義共通の意見や主張を、彼は各種の評論、感想で何度か繰返した。その数多い言辞中からこの序文を抽き出したのは集中の「耕地を失ふ日」が「一地方の風物」、即ち東北地方の生活現実を普遍的意味をもって訴え、「自然と社会の一人」、即ち農村と社会との同一感覚をもってする一人の現実的性質の詩人ーリアリズムの意識と方法の詩人を典型的に見るからである。/後略/>*10「白鳥省吾の世界(中)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL.53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

 そしてこのあと、省吾の「農民詩」の解説に入って行く。この詩は*11『日本反戦詩集』にも採録されている。ここでも伊藤信吉は書いている。

<もう一つ、私のひきつけられるのは「耕地を失ふ日」である。これは日清・日露戦争を通じて、その過程で、大地主による小農からの土地収奪がどのように行われたかを語る作品である。戦争と土地、戦争と農民との関係を、これだけ実感的に描いた作品を私は他に知らない。わが国農業の資本主義化の過程が、一つの典型としてこの一編に集約された。戦争で失われた生命と土地。国家が下賜する代償の勲章。これらの作品において、白鳥省吾は「国民感情」の魔力から離脱したのである。>*11『日本反戦詩集』秋山清、伊藤信吉、岡本潤編(昭和四十四六月二十五日・大平出版社発行)

 この他、*12『土とふるさとの文学全集14』「野の歴史」にも、「づるり節」と一緒に採録されている。

 大正十年三月十九日、長男省一が生まれている。そして、四月「人生の基調としての文芸」を「自由文壇」に、「農村と文芸」を「時事新報」に書いている。これらは*13『詩に徹する道』「民衆芸術論」の中に収録されている。この中の「農村と文芸」には「耕地を失ふ日」の詩の背景になったと思われる、当時の農村の惨状を書いている。

<田舎に二週間ほど帰っていての見聞は、農村が予想外に悲惨な状態にあることを知った。もともと田舎育ちである私は、これまでも幾つもの悲惨な実例に接してきたが、今度の帰郷は、農民が殆ど人間らしい生活を営むことが出来ずに、憔悴しつつ運命に盲従していることを、一層深く感じた。/中略/民衆藝術を提唱する側からは、今日の文芸はブルジョワの文芸であることを、これまでも屡々非難されて来た。そしてそれらは一面に於いて都会の藝術であり文学青年の藝術であった。同時に微かながら台頭し来れる労働文学なるものも、多くは職工、坑夫の問題であって農村のそれは甚だ少なかった。

 また農村の文芸があっても、それは長塚節氏の『土』のごとき現実主義的傾向のものであった。小川未明氏の小説、秋田雨雀氏の戯曲、福田正夫氏の初期の詩篇に於いて農村の面影を見るけれども力と広さの徹底は寧ろ今後に俟たねばならぬ。而して所謂労働文学もやはりまだ都会藝術の範疇を脱していない。その点で眞に民衆藝術の名を冠すべき田園文芸はまだ出ていないと言っても過言ではあるまい。/中略/>*13『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 この後農民の年収の少なさを説き「一日三十銭にしかならぬのである」と憤り、

<小作人より成る村は、かくて精神上は勿論のこと、経済上に於いても致命的の悲惨な境遇にある。村の青年はかくて幸福を夢想して都会に赴くのである、村の乙女は貧窮の犠牲として、娼婦、女工或は女中として流れゆくのである。残れる者は貧窮のどん底に蒼ざめて永久に虐げられるのである。/中略/私は農民が運命に対しての忍従力の偉大なるに殆ど驚嘆する。彼等は自己の周囲はどうにもならぬものと早呑込みにあきらめているのである。

 そして其の一豪農は如何にしてかく驚くべき土地を集め得たか。彼は日露戦争前後に於ける此の地方の農村の疲弊に乗じて、若干の貸金に利子を殖やして現在の時価七八百円もする一反の田を、当時十五円乃至八円の元金から併合することが出来たのである。『凡て戦といふものは腹が空いては出来ぬもの』と何かの科白にあるが、愛国心に富んだ人には当てはまらぬものと見え、農村の壮丁は一家の荒廃を顧みる暇なく、笑って従軍しまた戦死したのである。そして善良寧ろ魯鈍なる農民は、一種の英雄崇拝の心理を以てこの一豪農を尊敬しているのである。現代に於いて軽蔑さるべきものの尊崇されている反対の現象の如何に多いことであらう。/斯くて田園は荒廃と沈滞そのものである。その古沼の水を新しくする何等はけ口を見出すことが出来ない。/中略/>*13『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

と嘆き、「地方官にして農村其他の知識階級の思想を圧迫し、強制的に自家の政略を首肯させようとするものも多い。」と批判し、これからの知識階級者の、詩人の文学者の使命を説いている。つづいて紹介する。

 <文学者は農奴解放以前のロシア農民の悲惨に面を背けるであらう、しかも現在の日本の農民に於いてもこれに劣らぬ状態の多きを説く人の少ないのは何故か、この奴隷的痕態に重圧されつつある農村に活路を指示するものは、新しい思想家、文芸家の使命ではないか。/芸術至上主義者やブルジョアの文学者は、これら農民の運命と、私達の運命が違ふものとして済ましていられるか。それらの悲惨は何の痛痒に値しないのか。/中略/

 民衆藝術の提唱を以て、現代の思潮に対する付和雷同と思ふのは大いなる誤謬である。現代の硬化せる本質は寧ろ資本主義的でありブルジョアの生活の讃歌が澎湃としているのである。さればこそ其の不合理に反抗しての民衆藝術を翹望するのである。故にブルジョアの文藝こそ時代に流される雷同の産物である。時代は常に反抗する者よりも妥協するものに住みいいのである。そして其の住みいい幸福を説くのは藝術至上主義の自己陶酔の藝術なのである。/中略/民衆藝術は反抗の藝術である。/後略/>*13『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 省吾は「民衆文藝」の在り方をもこの中で説いている。そして「また文藝の可なり大きな分野であるところの農村から、文学者が何物の感激も得ていないことに私は不思議と荒涼を感ずる。」と結んでいる。

 この文中から「耕地を失ふ日」の詩が、省吾が中学時代に体験したことと、前年の大正九年に結婚のために帰郷していた時に見聞した農村の現状と、だぶらせて描いていることが分かるものと思う。

 六月、分裂した「詩話會」から*14『日本詩集』1921年版が発行されている。これは福士幸次郎、川路柳虹が編輯に当たっている。

 七月、『中央公論』「都会と田園」号に省吾の詩が川路柳虹、佐藤惣之介、西条八十、日夏耿之介等と共に掲載されていることが「白鳥省吾年譜」に記載されている。これには同月のこととして、『早稲田文学』に「詩と民主主義の徹底」が発表されていることも記載されている。これは『詩に徹する道』中の「民衆芸術論」の中に収録されている。「詩と民主主義の徹底」「三、社会の藝術化」より抜粋して紹介する。

<いい文藝がない上に社会制度の不完全の為めに大多数の人間は教育を受けることが出来ずに居る。世の青年子女に高等教育を受けさせ得る家は、町村でも中流以上の家庭でなければならず、数えるほどしかない。その上、父兄が余程、物が解っていなければ学資を出してくれない。貧困な者の子女は義務教育がせいぜいである。かかる状態に置かれた人々に、藝術の力を浸透せしむるには並大抵の方法では出来そうもない。/中略/いい内容の書籍の不足、民衆の窮乏等が相錯綜して社会の藝術化を根本的に遮っている。

 しかも一般の民衆は藝術に縁なき人々ではない。人は労働者や農民の粗野、無教養を非難する前に、それ等の性格が社会制度の不完全が生んだ産物であることを知るべきである。/中略/

 ウイリアム・モリスは人生の目的は、各自が自由なる創造をすることであるとして、労働が苦痛の如く思はれているのは、人間が商業や資本制度の奴隷であるからであって、それから解放されたならば、労働は却って自然の慰安であり、舞踏のごとく愉快であることを説いている。/要するに社会の藝術化がといふ主張には間違ひはない。/後略/>*12『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 民衆派詩人として、社会の藝術化を「殊に藝術そのものはいかなる社会制度の下に於いても、人生の日々の糧となりゆくものとせば、その範囲の広狭にかかはらず第一歩より次第に広めゆく外はない。藝術の社会化は何よりも必要である。」と結んでいる。省吾は虐げられた民衆に対して、啓蒙精神が必要と考え、詩を通してそれを行おうと決心したのであった。そして同月、『中央新聞』に「民謡と農村」を(『詩に徹する道』中の「詩と諸問題」に収録。)を、『時事新報』に「童謡について」(『詩に徹する道』中の「詩と諸問題」に収録。)をそれぞれ発表していることが「白鳥省吾年譜」に記載されている。

 このほか、「白鳥省吾年譜」には七月十二日に「新潮社」より*15『日本詩集』1919年版・第5版が、七月二十五日「精華書院」より、省吾の最初の童謡集*16『雲雀の巣』が発行されていることが記載されている。

 そして八月八日より三十一日まで、会津東山温泉小野屋に滞在し、「途上の礼拝」「桃売る娘」等の詩を書いている。また、民謡会津磐梯山の見聞録を書いている。この時の詩二篇は翌大正十一年六月に発行された*17『共生の旗』詩集に収められている。この時の模様は随筆*18『詩の農村を語る』「村落の詩想」の中に、その詩と共に「桃売る娘」と題して紹介されている。何故か旅館の名前が「白鳥省吾年譜」と違っている。

<大正十年の夏八月、私は新婚の翌年であって、妻と、生後百日目の長男を伴なふて、會津若松に近い東山温泉に暮らしたことがある。/東山温泉の入り口の、松本屋といふ雑貨店の二階を二十五圓で借りて、自炊生活をやったのであるが、其処は伏見瀧に近く、眺望は誠によく、若くて元気溢れていた妻は、よくせっせと働いて炊事をし、湯は、近くの温泉旅館へ、一ヶ月いくらといふ約束で、自由にはいりにゆくことにし、ありふれた旅館生活よりどんなに楽しかったかわからない。/この詩「桃売る娘」の素材は、東山に着いて間もなく、若松城趾を見物しての帰途に得たものを直ぐ書いたもので/後略/>*18『詩の農村を語る』白鳥省吾著(昭和十二年三月五日・佐藤新興生活館発行)

 九月十日「金星堂」より、*19詩集『憧憬の丘』を発行している。これは*20『明治大正詩選全』「明治大正詩書一覧」には大正九年九月、「白鳥省吾年譜」には大正十年八月の事となっているが、大正十年九月の誤植である。この詩集のことは「白鳥省吾物語、第一部」にても紹介したが、詩の数は全部で百篇、「憂鬱の田園」「青春苦」「幻像の都」「愛の芽生」の四部、附録として「憧憬の丘・年表」がある。それによると明治四十年十八歳から四十二年二十歳までの作品を集めている。

 十月、第二次『種蒔く人』が東京で再出発している。省吾はこれに参加しているが、項を改めて紹介したい。

 随筆『詩の農村を語る』「村落の詩想」の中には、この年の冬の作品として「河のほとり」を紹介している。この詩も『共生の旗』詩集に収められている。以下に「村落の詩想」より、妻秀子の実家付近の様子を伝えている「河のほとり」の詩想を紹介する。

<大正十年の冬の作品で、この詩を得た土地は、宮城県遠田郡涌谷町を貫流する江合川を歌ったもので、東京から、妻の実家のこの静かな田舎町に来たばかりといふ境遇が背景となっている。/この川は、上流は奥羽山脈を水源とし、仙台平野の中心である大崎廣土を流れて、終に北上川に注ぐ川で、涌谷町あたりでは幅が一町足らずである。/後略/>*18『詩の農村を語る』白鳥省吾著(昭和十二年三月五日・佐藤新興生活館発行)

 「民衆詩派」詩人としての大正十年という年は、省吾にとって忙しいものであった。しかし幾分か生活の安定が見えてきたこの歳の暮れは、親子三人で妻の実家に過ごしたものと思われる。

* 写真は*18『詩の農村を語る』白鳥省吾著(昭和十二年三月五日・佐藤新興生活館発行)

 

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』・白鳥省吾著・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*2『新作詩集・楽園の途上』白鳥省吾著(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)

*3『幻の日に』白鳥省吾著(大正九年三月二十二日・新潮社発行)

*4『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*5『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日「新少年社」出版・大空社よりの復刻版)

*6『詩心旅情記』白鳥省吾著(昭和十年七月七日・東宛書房発行)

*7『日本農民詩誌・上巻』「第2編社会思想の先例」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*8新潮文庫『現代名詩選・上』伊藤信吉著(昭和四十四年八月二十五日・新潮社発行)

*9『鑑賞現代詩U・大正』伊藤信吉著(昭和四十一年十月二十日・新版第一刷・新潮社発行)

*10「白鳥省吾の世界(中)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』1985VOL.53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

*11『日本反戦詩集』秋山清、伊藤信吉、岡本潤編(昭和四十四六月二十五日・大平出版社発行)

*12「野の歴史」(『土とふるさとの文学全集14』・昭和五十二年二月二十日・社団法人家の光教会発行)

*13『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*14『日本詩集』1921年版(詩話会編・大正十年六月七日・新潮社発行)

*15『日本詩集』1919年版(詩話会編・大正八年四月初版・大正十年七月十二日五版・新潮社発行)

*16『雲雀の巣』白鳥省吾著(大正十年七月二十五日・精華書院発行)、

*17詩集『共生の旗』白鳥省吾著(大正十一年六月十日・新潮社発行)

*18『詩の農村を語る』白鳥省吾著(昭和十二年三月五日・佐藤新興生活館発行)

*19詩集『憧憬の丘』(大正十年九月十日・金星堂発行)

*20『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集(詩話会編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

 

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年七月十五日改訂

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最終更新日: 2002/07/24