白鳥省吾物語 第二部 会報二十号

(平成十三年六月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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    (四)、結婚前後 大正九年

 

 大正九年(1920年)省吾満三十歳の一月、雑誌『新青年』が「博文館」より創刊されている。この雑誌は現在の推理小説の草分け的存在で当時は探偵小説と呼ばれ、江戸川乱歩、甲賀三郎等を輩出し、昭和二十五年七月まで出版社をかえて発行されている。これに省吾の詩が度々掲載されている。手許にある資料よりみると、大正十一年一月号に「暁の鐘」、六月号に「仲間」、九月号に「原始に浴して」。大正十二年一月号に「日に匂ふ頬」、四月号に「雲雀」、その他が掲載されている。詳しいことはつかめない。同月、森戸事件がおきている。これを先に紹介した「詩話会前夜」、*1『文人今昔』の「福田正夫」の頁より関連部分を再掲してみる。

<福田君の第一詩集「農民の言葉」(大正五年一月版)は装幀校正ともすべて私がやった。装幀は愛読したピーター・クロポトキンの「相互扶助」の普及版がたいへんいいと思ってそれを模した。数年後の大正九年一月に帝大教授の森戸辰男氏がこのアナーキストを紹介して、大学を追放されたのは人の知るところである。>*1『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 省吾が大正四年頃、富田砕花の寄寓していた「シオンの家」で森戸辰男を知ったことは当ホームページ「一、対立する新進詩人たち・(一、出会い」にて紹介した。この「森戸事件」を要約すると、大正八年四月一日、東京帝大に経済学部が新設され、同年十二月に機関誌「経済学研究」が発行された。この創刊号に森戸辰男助教授の論文「クロポトキンの社会思想の研究」が掲載された。これが右翼、官憲の反感を買い、「危険思想の宣伝」と煽られ、内務省は「経済学研究」を発禁処分にした。そして翌九年一月十四日、新聞紙法の「朝憲紊乱罪」(ちょうけんぶんらんざい・政府の転覆計画、国家の制度を侵害するもの)で起訴され、森戸辰男は禁固三ヶ月、罰金三十圓、雑誌の編輯をした大内兵衛経済学部助教授も禁固一ヶ月、執行猶予つき、罰金二十圓という判決が下り、森戸辰男は入獄した・・・というものであった。その背景には時の政府の植民地政策に反撥する分子を取り除こうとする意図があった。政府の学問、思想に対する弾圧が益々厳しくなってきたことの証でもあった。そして所謂「大逆事件」の首謀者として明治四十三年一月に死刑に処された幸徳秋水が、クロポトキンの『パンの略取』を翻訳しているところから、官憲はこの無政府主義思想を、國を滅ぼす怖ろしい思想として見ていたのであった。(*2『グラフィクカラー昭和史1・大正から昭和へ』、*3『日本の歴史・23大正デモクラシー』他)

 このピーター・クロポトキンを松永伍一は*4『日本農民詩誌・上巻』「第2編社会思想の先例」の註において以下のように紹介している。

<一八四二年生まれ。ロシアの革命的無政府主義者。一八七四年拘禁、七六年脱走、国外亡命。国際的無政府主義運動の有力な理論的指導者である。八二年から八六年までフランスで投獄され、釈放後ロンドンに住む。ロシア革命後モスクワに帰る。彼の理論は政府を否定し、平等な立場の「志願者」によって万事を解決するという理想主義的なものである。主著に『相互扶助論』『フランス大革命』『一革命家の思いで』などがある。一九二一年死亡。>*4『日本農民詩誌・上巻』「第2編社会思想の先例」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 二月、*5『民衆藝術選』が出版されている。これは富田砕花、加藤一夫、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾の合著である。これを伊藤信吉は「民衆派の第一アンソロジー」(*6「白鳥省吾の世界(中)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」)と評している。*7『日本近代文学事典第六巻・索引』には以下のように紹介されている。

<序には「この機会に一時文壇争論の中心たるの感があった所謂民衆藝術論に就いての、吾々の所信を述ぶるべきであるが、それは他日に譲り、茲ではたゞ個々の作品自身をして語らしめることにした。」「たゞ一言云って置きたいことは吾々個々の藝術上の立場傾向が必ずしも各人一つでないことである、読者がそれらのものに固執する事なく、各個々の作品に就いて、自由な鑑賞をされることを吾々は望んでいる」とある。詩、評論、小説など多面にわたって展開されている。>*7日本近代文学事典第六巻・索引・日本近代文学館、小田切進編(昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行)

 省吾は『民衆藝術選』中に、評論「新詩壇の覚醒と民主的運動」を寄せている。この前後より省吾は雑誌*8『露西亜評論』の編集委員を勤めている。松永伍一の『日本農民詩史・上巻』より紹介する。

<「自由詩人を破壊せよ」と叫びつつ民衆派攻撃の火の手をあげた一人である壷井を、早稲田の後輩という関係もあって、詩壇の公器といわれた当時の『日本詩人』に紹介し作品を発表させたのである。この武士の情ともいうべき態度をとったのも、白鳥の善意によるものだった。ともかく、白鳥は包容力のあるスケールの大きな詩人で、そのことが世俗的にも多くの弟子を大事にしていくことにもなり、大地舎の詩活動をあのように可能にしたのもその秘密に由来していたというべきであろう。このことはデモクラシー思想にかなり深く触れ、大正九年(一九二〇)から十年まで雑誌『露西亜評論』の編集委員でありながら、かれ自身がマルクス主義者にならなかったというのは、民衆の階級的実態や権力の構造に切り込む科学的な態度をとるより「人間的善意」によって、被害者としての民衆に外から愛を注ぐほうを体質的に選んでしまったからであった。/後略/>*4『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

 また、省吾は『文人今昔』の「小川未明」の頁に、以下のように書き残している。

<私が早稲田を卒業したころは、未明氏は目白の日本女子大の近くに住んでいたので、時折訪問する機会があり、私の第一詩集「世界の一人」も、「新潮」誌上に賞讃してくれたので有難かった。/未明氏はいつも感激的にものをいい、純情なヒューマニストであった。ロシア革命直後にチェホフの翻訳者の秋庭俊彦と共に私は「露西亜評論」という雑誌の編集委員の一員であったので、その雑誌を未明氏に寄贈すると、葉書をよこして /「露西亜評論」有がたう存じます。あなたが斯の社においでのことをはじめて知りました。何卒、御自愛遊ばされんことを祈ります。/後略/>*1『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 伊藤信吉は*32「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「民衆詩派の思想的背景」に於いて触れている。ここでは伊藤信吉の質問に答えているが、加藤一夫の件に触れ、その中で『露西亜評論』のことを以下のように話している。

<白鳥 たとえば東北に小作争議があると、その指導を頼まれていた。それで諸君行かないかというわけで、大正十年ころでしょうね、私もいっしょに出かけたことがあるんです。/中略/

伊藤 加藤一夫が小作争議の指導や援助などの実際面に出ていったということ、私は初耳ですね。

白鳥 ぶったたかれてほとんど殺されそうになったんですよ。あれはほんとうに大杉栄の二の次ぐらいのものですよ。私も、ロシア革命直後に、『ロシア評論』という雑誌の記者をしていたんです。これが私なんかには非常に勉強になりました。この雑誌の記者の最中に、新潮社と連絡してホイットマンの詩集『草の葉』の翻訳を出版したわけです。この『ロシア評論』をたよって、ロシアからたくさんの人間が流れてきました。モスクワの大学生だの、あるいは女とか・・・。それでも僕は非常に常識的な人間だから、ロシア革命の詩もありますが、ロシア革命というものと日本の革命というものは、ぜんぜん天地のちがいと考えていました。しかし大杉栄でもあるいは加藤一夫君でも、もしなし得れば、日本だって革命は成就するのだということを、信念としてもっていたんじゃないですか。/後略/>*32「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」(『文學』1964・7・VOL.32)昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 省吾が『露西亜評論』の記者をしていた時期を、松永伍一は大正九年からとしていたが、上掲のように新潮社から『ホイットマン詩集』を出版したのが大正八年五月であるから、この時点で省吾は既に『露西亜評論』の記者をしていたことになると思われる。『露西亜評論』の初版が「進文館」から発行されたのは、大正七年三月一日(一九一八)である。この『露西亜評論』にはロシア文学者、中村白葉の「浦潮雑信」が三回にわたって(第一巻第十号、第二巻第一号、第二巻第二号)掲載されているらしい。第一巻第四号六月号によると、執筆している人々は、「ネステロフ、今井政吉、木村荘太、ノゴリヨーフ、エドワード・ロッス」他、「編集人、発行人、印刷人、橘三千三」とある。詳しいことは手元の資料からは分からない。しかし省吾が『ロシア評論』の編集委員をしていた頃にうたった詩と思われるものが書き残されている。*9詩集『共生の旗』「生の序楽」の中に収録されている「漂泊」、「手」の二篇は、当時のロシアから亡命してきた人々をうたっている。*10詩集『野茨の道』中の「月光を踏む」の中にも、「放浪」と題したロシアの難民をうたった詩がある。この詩の冒頭に

     放浪

   無花果の熟する秋の

   空は曇り薄寒い風が

   砂塵をあげて東京を吹きまくる日

   退屈な物淋しい編輯室の午後に

   私達がとりとめのない雑談に耽っている時、

   玄関の方で囀るやうな若い女性の聲がした、

   それは聞き馴れた露西亜語である。

   ・・・・・後略。

* 写真は『露西亜評論 第一巻第四号六月号』(大正七年六月一日・進文館発行)

という書き出しで、ロシアの詩人が持ってきた本を三十圓の日本紙幣に替える様子を描写している。どうして省吾が『露西亜評論』の編集委員を務めるようになったのか、興味深いところである。手元の資料から推測してみたい。

 先に紹介した「白鳥省吾物語第一部」(二)、「『詩歌』と『劇と詩』」の章より再掲してみると、『文人今昔』の「秋田雨雀」の頁を紹介している。

<大正元年の九月号に「あやめ」で開催された「劇と詩の会の人々」として裏表紙に載っているが、福田夕咲、土岐哀果、相馬御風、秋庭俊彦、上山草人、片上伸、本間久雄、人見東明、吉江孤雁の先輩に早稲田の学生で詩、小説、劇方面の人が私の他五人ほど写っている。文芸家協会の芝居の予告や自由劇場、土曜劇場のことなどが編集余録に出ている。雨雀氏は何かの都合で出席していないが、こうした先輩が後進と隔意なく語る機会を時折催したことを追憶すると、実に有難く思う次第である。>*1『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 *31『劇と詩』大正元年九月号の裏表紙によると、写っている人々は後列右から順番に「福田夕咲、國枝史郎、宮崎省吾、小澤久雄、土岐哀果、相馬御風、秋庭俊彦、上山草人、片上伸、本間久雄、人見東明、佐藤楚白、鎌野白夜、萩原庫吉、西宮藤朝、小杉寛、吉江孤雁、白鳥省吾」の十八人である。

 省吾と同じ『露西亜評論』の編集委員でもあり、この中にも登場している秋庭俊彦は、早稲田の英文科の先輩であり『チェーホフ全集』、『ツルゲーネフ全集』等の翻訳者として知られているロシア文学者でもあった。また学生時代の恩師である片上伸は、大正四年から七年にかけてロシアに留学し、大正八年には『思想の勝利』、『ロシヤの現実』を出版している。そして翌九年に早稲田大学が新設した「ロシア文学科」の主任教授となり、後には文学部長も務めている。そして大正十三年から十四年にかけてもロシアに留学している。(*11『新潮日本文学小辞典』) 

 こうした先輩達が、ピーター・クロポトキンを愛読し、民衆詩を書いていた省吾を誘ったものと推測される。それは早稲田の先輩達によって育まれた、同窓の連帯意識にあると思われる。「この当時、東京大学の出身者は学者か官吏、早稲田の卒業生が新聞記者で、慶応出身者が財界というのが、社会通念になっていた。」(*12文芸文庫『日本文壇史十七・転換点に立つ』伊藤整著・再掲)

 この時期、貧富の差の是正、自由を求める民衆の「普通選挙運動」が最高潮に達している。「一月末に労働団体・普選団体など四十一団体で全国普選連合会がつくられ、ついで二月五日には、労働団体十五団体だけで普選期成治警法撤廃全関東労働連盟が結成された。中略・二月十一日、上野公園両大師前で、立憲労働党主催の参政権獲得民衆大会が、竹の台では普選期成同盟会の演説会が開かれた。行進となると主催者の壮士たちの先頭争いがおこり、警察がとめにはいる始末だったが、あわせて三万の民衆が日比谷へのデモに移った。/後略/」(*3『日本の歴史・23大正デモクラシー』)

 省吾は後に詩集『野茨の道』「月光を踏む」の中で、この時の模様を「普通選挙」と題してうたっている。

 

      普通選挙

     数萬の民衆の練りゆく長い長い行列、

     一様にかざしゆく無数の赤い小旗

     濁聲にうたふは普選の歌

     下駄の音、靴の音、自働車の音、人間の匂ひ、

      楽隊の音、當てもない怒號、笑ひ聲。

     それらは渾沌として塵埃にまみれ空に反響し、

     両側に聳え立つ銀行會社の間の堅い舗道を、

     奇怪なる灰色に脈打ちながらぞろゝゝとゆく、

         ・・・後略

 

 三月、省吾の*13小曲集・散文詩集『幻の日に』が出版されている。「小曲」の方は「若き日の夢」、明治四十三年より大正二年まで(1910年〜1913年)の五十八作品、「現し世」、大正二年より大正七年まで(1913年〜1918年)の二十七作品が収められている。「散文詩」の「傷つける果実」、大正元年より大正二年まで(1912年〜1913年)の十作品、同じく「散文詩」の「いのちの宮」には、大正五年より大正八年まで(1916年〜1919年)の二十八作品が収められている。

 この詩集は「世界の一人」以後の作品で「小曲八十五篇、散文詩三十八篇」を集めたものである。この散文詩について、「まえがき」には前年の八月に発表した「散文詩の要素」(『短歌雑誌』)を意識して創作したと断り書きがされている。

<散文詩の本質が如何なるものであるかは、ポー、ボードレール、ツルゲエネフの代表的作品を見れば、よく理解できやう。即ち、これらは感動に一つの焦点を有し、従って余り長からず、その上、詩の韻律の行き亘っているといふ三要素を具へている。我が国に於いても、自覚せる眞の散文詩の生まれることを望んで止まない。 一九二〇年二月 著者>*13『幻の日に』「まえがき」(大正九年三月二十二日・新潮社発行)

 しかし省吾は*14少年少女詩集『天葉詩集』を除いて、三番目に発行されたこの詩集を*15『現代詩の研究』の中にて、第三詩集とは認めていない。*16第三詩集は『楽園の途上』としている。そして第四詩集は*9『共生の旗』であり、この間に発行された*17『憧憬の丘』詩集もナンバー詩集として認めていない。第五詩集は*18『若き郷愁』である。これは『現代詩の研究』が発行された、大正十三年時点までの、民衆詩的傾向にある詩集をナンバー詩集として数えていることになると思われる。

 面白いのは白鳥省吾小曲集『憧憬の丘』詩集の最後尾に、「此の集はかくて感傷的な抒情小曲集『幻の日に』へ続くのである。(一九二一年七月二四日記)」と記されていることである。これは抒情小曲集『幻の日に』詩集(1910年〜1919年の作品を集めている)の方が、『憧憬の丘』詩集(1907年〜1910年の作品を集めている)よりも早く刊行されているにもかかわらず、過去の作品に遡るという手法である。

* 写真は小曲集・散文詩集『幻の日に』

 『露西亜評論』の編集委員となり、詩集『幻の日に』を出版したこの時期は、省吾が最も社会主義に近づいた時期でもあると思われる。やっと生計のめどが立ち、生活も幾分安定し始めた大正九年四月、省吾は宮城県遠田郡涌谷町、長谷孝治郎の三女秀子と結婚している。そしてその民衆派詩想は、翌十年に出版する新作詩集『楽園の途上』によって、いよいよ絶頂期を迎えることになる。

 ここで、暫く省吾の新婚生活から、妻秀子を亡くして悲哀に暮れる生活を送っていた昭和十一年頃までを、時空を超えてみてみたい。

 高橋たか子著*21『白鳥省吾先生覚書』によると、妻秀子の実家があった涌谷町は、「伊達騒動」で知られる伊達安藝の城下町で、長谷家はそこの家老を勤めていたらしい。*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」には「白鳥秀子夫人小傳」が載せられている。それによると

<明治三十年五月十五日。宮城縣遠田郡涌谷町に藩主亘理家(伊達安藝の正系)の一門たる長谷家に長谷孝次郎の三女として生まれる。/大正五年三月仙臺市東華女学校(後の縣立第二高等女学校)を卒業(第十回生)/大正九年四月二十四日、伊藤祐成、砂金隊、両夫妻の媒酌により白鳥省吾と結婚、上京す。大正十年三月十九日、長男省一生る。大正十五年十月二十七日長女たか子生る。昭和四年九月十三日次女園枝生る。/後略/>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

とある。今で言う見合い結婚であった。

 省吾は昭和十年十月、「東宛書房」の顧問となり、「学芸随筆」全八巻その他を刊行している。そして自らの著書も数冊発行している。その中に*19『随筆・世間への觸角』、*20『長編叙事詩・結婚の歌』他がある。これらには結婚した当時の様子が書き残されているので、抜粋して紹介してみたい。

 *19『随筆・世間への觸角』「田舎の花見と踊り子」には秀子と結婚して、その実家で数日過ごしたことが書き残されている。

<私の郷里である東北地方は櫻の咲くのは四月末で、しかも、梅も桃も梨も一時に開くのであるが、田舎のこととて空気がいいので凡て清楚な感じがする。東京に来てからただ一度、珍らしく春に帰省して田舎の花見といふものをしたことがある。/涌谷のお城山の櫻といふと宮城県での櫻の名所であるが、それは大正九年の春数日前に結婚したばかりの私達夫婦がS夫人や、義姉と連れ立ってお城山の花見に出かけたのであった。妻の実家の門を出て土手にのぼると、江合川は遠い水源の山脈の雪どけ水のために薄濁って豊に流れて、お城山の満山の櫻は山に影を映すほど近く向岸に眺められた。/中略/

 

 この『出世瓦』といふのは近く改築される涌谷神社の屋根瓦のことであって、その瓦を寄付した人は出世するといふ意味である。涌谷神社は先代萩で有名な此の町の城主伊達安藝を祀ったものである。義兄は私達四人分の瓦を寄付して、櫻の造花をピンでとめたのを四つ貰ったので、みんながそれを襟にさした。/中略//義兄は一軒の掛茶屋に私達を案内した。ゆで卵、蟹の缶詰、正宗といふ御馳走である。前に来かかった踊り子を呼び込んだ。/後略/>*19『随筆・世間への觸角』(昭和十一年六月五日・東宛書房発行)

 *20『長編叙事詩・結婚の歌』は妻秀子との結婚生活を詩に託してうたいあげた、妻と家族に捧げた詩集でもあると察せられる。内容は妻秀子との新婚生活を、主人公小島天雨と新妻俊子に託してつづった「結婚の歌」、五歳になる長女たかこを亡くした哀しみを、青山夫妻にたくしてつづった「星と語る」の二篇からなる百六十六頁の叙事詩である。まずは前者より抜粋して紹介する。/は詩中の連の区切りである。

<結ばれたる二つの魂/それは媒酌結婚ではあったが/小島天雨と俊子の二人。/いまは眼と眼と交わすところ/いつも微笑みの溢れる青春の夢も豊・・・・・。/天雨のネクタイを結んでやる俊子の織やかな指には/若さに輝くエンゲージ・リング。/二人が櫻咲く城下町で結婚式を挙げて/連れだって上京した途中が/新婚旅行でもあった。/勿来の関跡に義家の風流をしのび/磯づたいひに太平洋の波に戯れ/那須、塩原の温泉に/幸福に躍る肌を温めた。/そしてこの東京の郊外に/ままごとのやうな二人の生活が始まったのであるが、/やがて、二人だけで迎える楽しい新年。/

 俊子は故郷の田舎の豪家の新年を憶うた。/小作人達が三十人も来て/食べて酔うて踊る狂態があった。/中略//俊子はもう妊娠八ヶ月。/しかも新しい年を迎える準備に/二人で障子をはり始めた、/後略/>*20『長編叙事詩・結婚の歌』(昭和十一年二月十五日・東宛書房発行)   

写真は『長編叙事詩・結婚の歌

 この後、女学校を出たばかりの少女のような新妻が、長男誕生のために実家の涌谷で分娩する様子。それを決意するまでの義理人情の経緯。妻秀子の産後の療養を気遣って、友人の別荘を借りて伊豆の土肥温泉に静養したこと。そのつかの間に盗賊に入られて、新婚家庭の財産一切を盗まれたことなど、どこにでもみられる幸福そうな新婚家庭を描き出している。この中に描かれている内容は事実のことで、その時の様子が*22『白鳥秀子追悼号』に、詩人であり、元大地舎同人でもある高橋たか子(詩誌「地上楽園」「ごろっちょ」「女性誌」「肖像」、文芸誌「東北作家」「塞外」「仙台文学」「稜線」同人・詩人菅原克己の姉)が「奥様へ」と題して寄せている。

 <奥様の新婚当時の或夏のお話で御座います。/其頃新詩人として旭日昇天の勢いでお売り出しになった先生と、お生まれになって間もない省一さんとのお三人ばかりの楽しい海辺の生活、たしか南の海辺だったと覚えてます。その朝夕のユーモアに富んだ、若い夫婦らしい生活が、婦人雑誌に先生の筆で載っていた事が御座いました。あの時の挿絵には丸髷姿も初々しい奥様の女房振りが書いて御座いました。あとで奥様にその話をしますと、「えゝとても楽しかったのですけれど、留守宅が泥棒のお見舞いを受けて、着物をすっかり取られて悲観してしまひましたわ」と、お笑ひになっていらっしゃいましたわね。/後略/>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

 妻秀子は、省吾の主宰した『地上楽園』を内から外から支えている。高橋たか子が*23『白鳥省吾の詩とその生涯』に寄せた「白鳥省吾先生追悼」より紹介する。

<幼稚園に行っている長男の省一ちゃんが、エプロン姿でちょこちょこ出ていらっしゃたのを、秀子夫人が優しくなだめられながら手を引いて次の部屋に連れて行かれた。いかにも幸福そうな家庭の雰囲気であった。此の静かな生活の中から、詩壇に新しい民主主義の鐘がうち鳴らされたのだ、先生のエネルギーの源泉がこゝにあるのだと、私は感慨深く思ったのであった。/中略//秀子夫人が私の幼い時住んでいた涌谷町の出身の方であることから、夫人もしばらく座に加わり、早大時代のことや、卒業論文にエドガー・アランポーを書かれたことなどをお聞きして、私が驚き感嘆したことなど、なつかしい思い出である。

 大正十五年七月白鳥先生は大地舎を創設され、詩誌「地上楽園」を創刊された。私もその同人の末席に列することになった。/中略/同人は詩人白鳥省吾を畏敬し、その詩論に共鳴する真面目で、誠実な人たちで地方生活に根を下ろした青年が多かった。女性詩人は少なく私のほかに、小暮妙子さん、鮫島よしえさん等がいた。少したってから、秀子夫人が大崎安芸子のペンネームで加わられた。/月一回同人や、舎友が集まり(先生のお宅が会場であった)自作詩を朗読しあったが、/後略/>*23『白鳥省吾の詩とその生涯』(昭和六十一年二月十五日・築館町発行)

 この中で、大地舎創設が「大正十五年七月」とあるのは誤植である。省吾が『地上楽園』を発行するようになった経緯は*24『地上楽園』「創刊号」六月号に詳しく書かれているので後述する。

 高橋たか子が『地上楽園』に寄稿したのは第一巻第二号七月号からで、省吾夫人、白鳥秀子、筆名大崎安藝子は同巻第三号八月号からであった。省吾は女子の同人が少ないところから、妻をも参加させたようである。当時の様子を高橋たか子は*21『白鳥省吾先生覚書』に書き残している。「大地舎の詩人たち」より抜粋して紹介する。

<雑司ヶ谷の墓地傍の家から、高田亀原の家に、白鳥先生御一家が引越されたのは、昭和三年頃だったろうか、今度は二階だったので、書斎として独占できる部屋があると嬉ばれていた。墨、黒々と書かれた大地舎の看板のかかげてある門を、私たちはいつも、いそいそとくぐった。/奥様は秀子というお名前で、色の白ほっそりとした方だった。/中略/その伊達家の家老、長谷氏が夫人の御実家で、長い白壁の塀に囲まれた家を私は見知っていた。秀子夫人は慎ましく家庭を守って、先生の支えとなっていられた。同人会の際の暖かいもてなし、ことにも皆んなが最大の楽しみとしていた忘年会の酒宴には、心を込めて沢山の御馳走をつくられ、一同を嬉ばして下さるなど、優しく愛情にみちた方なので、私たちは先生と同じように秀子夫人を慕っていた/後略/>*21『白鳥省吾先生覚書』高橋たか子著(昭和六十二年一月二十日・「仙台文学の会」発行)

* 写真は最初の妻秀子の詩集『孔雀』の中に掲載されている肖像・大正十五年十月撮影

 省吾の最初の妻秀子との間には一男二女があったが、長女たか子は幼くして亡くなっている。「星と語る」はこの長女たか子に捧げた哀歌でもあると思われる。*25『白鳥省吾のふるさと逍遙』にも一部再録されている。長い詩なので抜粋して紹介されている。

 </十一時、十二時、お産はかなりの長い時間を要した。/産婆さんは助手二人と汗みどろになっていた。/一時五分、元気のいい産声が上げられた。/「あゝ赤ちゃんだ。」/と嬉しい叫びをあげたのは、もう寝てもいい筈のたあちゃんだった。/それまで緊張し切って起きていたのだ。/たあちゃんに妹が生まれた。/お父様に抱かれてたあちゃんははにこにこして赤ちゃんを見た。赤ちゃんの名は園枝。/たあちゃんはそれからおねえちゃんと呼ばれることを喜んだ。/中略/子を思う親心は子を失うた人がよく知る、青山夫婦は打ちのめされたやうに喪心して暮らした。青山は夜の暗い道を帰るときは/「たあちゃんは死んだのか/たあちゃんはほんとうに死んだのか」と/きまって独り言を言いながら歩く癖がついた。/知らぬ人が見たら/気がふれたとも見よう。/泣いても泣いても慰められぬ空虚な心、/天に瞬く多くの星もその時は/この悲しい親心と一緒に泣いてくれるだらう!>*25『白鳥省吾のふるさと逍遙』(平成十二年一月十日・白鳥ナヲエ発行)

 

 たあちゃんが疫痢で亡くなったのは、妹園枝が生まれて三月後の昭和四年十一月十二日であった。妻秀子もその時の哀しみの様子を*26自分の詩集『孔雀』に書き残している。その内容は「明るい哀傷」十二篇、「病床詩篇」八篇、「四季の心」二十篇である。詩集「孔雀」を出版する以前にも、秀子は「花ひらく」の詩集を発行したい旨を月原橙一郎に打ちあけていたらしい。月原はその広告紙を作って、雑誌に発表したらしい。しかし、これは省吾の意に反することだったらしく、沙汰止みになったようである。それから後の『孔雀』であった。(*26詩集『孔雀』大崎安藝子著)

 『孔雀』の「序文」は福田正夫、「跋文」は「大地舎」同人月原橙一郎、楜澤達吉、國井淳一、遠藤奈加志が書いている。書き残されたこれらの「詩」推奨文より、若い詩人たちに囲まれて生活していた、白鳥省吾一家の様子をかいま見ることが出来るので紹介したい。愛児たか子を亡くした頃の詩「明るい哀傷」中より、「子供」「子守歌」を紹介する。

<子供/死んでしまへば、亡くなった子の側へゆかれると、/いろいろの理屈をぬきにして考へ込む女。//何もかも神のやうな美しい面影と生活を残し、/サヨナラと逝ってしまった子への燃える執着。//涙の眼を開けば、自分の乳房に、/やうやく二枚の白い歯の出初めた嬰児が笑っている。/後略/>*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

     子守歌

               生後三十日の園枝に

  ねむれ わが子よ、

      

   可愛い可愛い黒いひとみに、

         母のえがほをうつし、

            うつしつかれて、

              母のうでにゆられ。

   ねむれ わが子よ、

      小さい口をつぼみにとぢて、

        甘い乳の泉に、

           ゆめをばたゝへ、

              母のうたにねむれ。

* 写真は大崎安藝子著・詩集『孔雀』

 「病床詩篇」より「食卓」を紹介する。

</母の座らない食卓に、/幼い二人の兒は、/お父さんの手料理を/よろこんで食べる/哀しくも楽しい夕食。//優しい父親の心づくしの夕餉に、/永い母の病気を、/いぢらしくも忘れた一時、/七ツの兒は楽しく元気に物語り、/三ツの兒は片言でまね、お父様も無心に笑う。/後略/>*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

 福田正夫の「序文」には、「僕はよき妻であり、あたたかい心の友である夫人を持つ、親友省吾をうらやましく思ふ。」と、羨んでいる様子が書かれている。また、月原橙一郎は「跋文」に「孔雀の誕生」と題して書いている。

<著者は東北の大崎耕土の一邑を故郷とし、伊達安藝守を一門とする名家に生まれたるによって大崎安芸子の筆名を用ひる由を聞いている。實は著者が白鳥省吾夫人である事は全く知る人しか知らないと思ふ。/僕らですら最初は雑誌で見て、誰だらうと白鳥さんに聞いたものである。國井などと「大崎安藝子」は美人だろうかなどとおきまりの冗談などを云った事もある。女流の少ない地上楽園で高橋たか子、大崎安藝子はわずかに目次で子の字の色彩を見せていたものである。/中略/

 ターちゃんを亡くしてからガッカリしていられている頃全く気の毒な様であったが、この頃は園枝ちゃんも可愛らしくなって/中略/随分苦境の時もあった事は僕らも承知しているだけに、今この詩集が出来上がるのを一倍の感激なしには見られない気がする。/中略/以前、園枝ちゃんの生まれる日だった。/國井と僕だったか或いは泉だったか二人で、朝早く大地舎に飛び込んで風呂を沸かして欲しいと威勢よく門を開けたところ、何だか家内がそはそはしている。変だなとそっと聞いてみると赤ん坊が生まれるんだと云ふ。二人は頭をかいて奥様如何ですお見舞いに来ましたと冷や汗をかいた事がある。/中略/「孔雀」は美しい尾を広げた。/後略/>*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

 楜澤達吉の跋文には以下のように書かれている。早稲田卒業の省吾のもとに集った学生達に、どうしたわけか立教大生の名が数名見受けられる。

<大崎安藝子夫人は大地舎同人の詩の母、今、その待ちに待った母の第一詩集が出る。詩の子の私達は喜びに堪へない。/大正十三年、私が初めて雑司ヶ谷の、お宅へお訪ねした頃は、先生と奥様と省一坊ちゃんと、お三人の静かな御家庭であった。当時、先生に親しく師事して居たのは、中村恭二郎、國井淳一の二兄であったと記憶する。中村兄と共に私は立教大学に在り、未だ詩作に志したばかりで、中村兄の案内によって先生を訪問したのであった。玄米飯のような味の先生に感じ動かされ、こゝに私は師事して詩の道への精進を覚悟した。それから暇さへあれば立教の寄宿舎から鬼子母神の境内を出抜けて雑司谷の高台へ通っては、随分、先生、奥様の御厄介になった。ああ、それも既に九年、一昔前のことである。

 先生が地方へ講演旅行されて、私が留守番にお宅へ上がった時、先生の第二詩集「大地の愛」を読んでいると奥さんは、「私、結婚前にその詩集を読みましたわ」と、にこやかに云われた。私はその言葉でやがて奥さんにも詩集を編まれる日のあることを予期して居た。/中略/大正十五年春、大地舎が創設され、吾等の「地上楽園」が創刊された。/中略/奥さんは雑誌の校正に発送に忙しかった。/中略/その縁の下の力持ちに、奥さんは自ら任じられて居られたのだ。飽くまで内助の人である。そして「地上楽園叢書」その他の刊行があり、数多くの年少詩集が大地舎版として小鳥のやうに次々と巣立って行った。それを母鳥の心で見送って居たのが奥さんである。/後略/>*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

 遠藤奈加志は池袋の寓居から、当時の文学青年の様を伝えている。

<根津山の雑木の木陰に恋をさゝやく若者達の、おびえた物語や、雑司ヶ谷の墓地を、考え深そうにうつむきさまよふ青白い文学青年の、はかない夢に興味を失ったらしい調子で、たゞ一路、亀原の大地舎へ飛びこんだ六月の某日、それは「地上楽園」のことでの訪問であった。先生は朝鮮への旅行中で、家に奥さんと、省坊と園枝ちゃんと、ねえやが居た。/中略/奥さんは、今まで書いて来た詩を集めた原稿を示されて、「主人は出してもよい」と、たった一言申したのですが、主人のを出していたゞきたいと思って居る妾は、「どうしようかしら?」と思案の様子であった。僕は、「まとめた以上、だす方がいゝです。」と、極力すゝめて、漸く出版する運びとなったわけである。/後略/>*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

 この後、遠藤奈加志は『地上楽園』には四人の女性がみえるとして「高橋『夕空を飛翔する』あり、中島八重子さん著あり、さちこ・やまかわ『白きゝゝ髑髏』あり、今、後ればせながら、大崎『孔雀』出でて地上楽園の女性がその地歩を益々固めゆきつつあることは、実に喜ぶべきことである。」と結んでいる。

 そして苦楽を共にした妻秀子が亡くなったのは、昭和九年六月十九日であった。『地上楽園』を陰で支え、大崎安芸子のペンネームで詩作し、詩集『孔雀』の著を出版している秀子は、白鳥園枝女史の御母堂でもある。当時の様子は*22『地上楽園』昭和九年十一月号(第九巻)に詳しく書き残されている。この号は白鳥秀子追悼号(通巻七十七号)と銘打って発行されている。表紙絵は福田親山が「白菊」を描いている。省吾は「感謝の辞」に於いて妻の病状を書いている。当時、長男省一は早稲田中学の二年生、白鳥園枝女史は幼稚園に通っていた。以下抜粋して紹介する。

<今年は天候不順であるが、殊に妻の死んだ六月十九日頃は鬱陶しい蒸し暑い日との続きであった。幸ひ告別式の当日は晴天に恵まれて有難かった。/妻の死後の今年の夏は何やかやの疲労と子供らの子守に暮らしてしまった。鎌倉や逗子の海に泳ぎに行ったり横須賀の伯父の家を久しぶりに訪れ、長男の省一は十日間ほど其処に泊まって海水浴をした。八月下旬は子を二人つれて塩原から仙台、松島と旅をした。仙台では二十六日に講習会で講演し、二十八日にラヂオの放送もした。/中略/

 妻の病気も昨年の八月初旬からであったから約十ヶ月も病床にあり、その間友人知己大地舎の人々からの御見舞、御厚意は大変なものであった。/中略//私は妻の病気はなほるものと信じた。しかし、病魔とはよく言ったもので、いかなる良薬も滋養も水をザルに汲むやうなものであった。次第に悪化して三月中旬には医者も匙を投げて近親に知らせたがよいといふことで親戚に打電し、大地舎の人々も今夜が臨終かと思ふやうな心持ちで徹夜してくれた。それが一端持ちなほして四月下旬には「どこか明るい家へ」と子女の通学の便の家といふ宿望を達して、今のところに引越すまでになった。/中略/

 ともかく、三十八歳で生活の幕を閉じることは、女性としてあまりに寂しく気の毒でもある。/中略/

 妻の病中から引きつづいて告別式前後の友人知己の私へつくしてくれた好意は感謝しても感謝しつくせぬ。何度叩頭しても足りない位である。/中略/妻が家事のひまに書いた詩と小説とが幾冊かのノートの中にある。本号の小説ラヂオは遺稿の一つである。いづれも稚拙なものであるが、幸ひ詩は生前「孔雀」として刊行された。/中略/管々しいこれらの言葉も、親しい人へ手紙がはりの私の感謝と近況の報告ともならば幸ひである。(十月三日記)>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

 この「追悼号」を高橋たか子が自著*21『白鳥省吾先生覚書』に詳しく紹介している。「まえがき」には、この書の後尾に添えられた『地上楽園」通巻八十六号の目次抜粋を担当したのが、詩人長谷川七郎であることが感謝の言葉でつづられている。また「あとがき」も長谷川七郎が書いている。

 余談になるが、「あとがき」によると、長谷川七郎は詩人菅原克己の友人で、たか子克己兄弟の縁から「大地舎」同人の中村恭二郎、菊池重三郎、日下実、月原橙一郎とも知己であったらしい。その長谷川七郎のまとめた「地上楽園・主要目次」より「昭和九年十一月号・白鳥秀子追悼号」を紹介する。

<白鳥秀子追悼号。同人舎友の追悼録、並びに故人の短編小説『ラヂオ』を載せる。/白鳥省吾「月」「朝顔」(長歌)「妻の墓」「感謝の辞」/福田正夫「哀惜する」/林信一「追憶二つ」/古賀残星「湯気の感情」/廣瀬充「秀子夫人のこと」/大澤重夫「白鳩のように」/五城康雄「鑑にて」/遠藤奈加志「故夫人と私」/泉漾太郎「涙のトテ馬車」/大桑文蔵「秀子夫人の他界を悼む」/高橋たか子「奥様へ」/柿木春吉「思ひ出すこと」/中村漁波林「白鳥夫人を悼む」/嫩葉俊夫「追憶」/木村信吉「白鳥秀子夫人を悼む」/網島嘉之助「奥さんのこと」/早川嘉一「悼む」/太田明「おしよれ提燈に寄せて」/泉芳朗「うるはしき詩人葬(告別式概況)」/哀悼詞華集(泉漾太郎、畠山千代子、小暮妙子、石田義弘、古賀良雄、水木伸一、兒玉花外、泉芳太朗)/哀悼書簡集(吉澤独陽、藤本浩一、市原三郎、高橋一二三、牧野吾助)/遺稿・白鳥秀子「ラヂオ(小説)」/多磨墓地に於ける大地舎同人・白鳥秀子夫人の面影(写真)・小傳/>*21『白鳥省吾先生覚書』「地上楽園・主要目次」高橋たか子著(昭和六十二年一月二十日・「仙台文学の会」発行)

* 写真は『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」

 

 この中に漏れているものとして、松本帆平「大地の聖母詩人」、朝木良之助「奥さんのこと」がある。古賀残星は「大地舎」同人ではなかったようであるが、(白鳥園枝女史は同人と言っていた)「湯気の感情」と題して弔意を以下のように書いている。

<雑司ヶ谷の下宿に私は一年半学校を卒業するまでがん張った。その下宿から、大地舎までは五分とかゝらなかったのである。/中略/何でも福田正夫氏が白鳥氏とともに旅行するので、大地舎に行くから君もその時来たら、と云ふやうなことでお訪ねした。私が処女詩集を出した頃だ。/中略//冬の日であった。私がひょっこり大地舎を訪ねたら十人ばかりの同人が集まっている。何だらうと思っていると、白鳥氏が出て来られて今夜は大地舎同人の忘年会をやっているから、君もあがれとのこと、私は同人ばかりの中に割り込むのは悪い気がしたので辞したけれども、是非にとすゝめられて上がった。/中略//月原や國井たちと語っていたら奥さんが湯気の立つ鍋を持って来られた。中には御馳走が一ぱいだった。あの濛々たる湯気は、大地舎の和気藹々たるものを私に感ぜしめた。奥さんは皿を配ったり、箸を出したりしていられたが、あの時の印象が一番深いやうである。>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

 廣瀬充は「秀子夫人のことなど」と題して、省吾夫妻を以下のように労っている。

</酉年生まれの三十八歳でしたから私とは同い年でありまして、然も同じ東北人でもありますので気質なども非常に似通った点があったやうに思っています。/中略/元来私はお酒は大いにいける方でありますので、大地舎にお邪魔の折りなど、時たまお酒の振る舞ひに興ると云ふ有卦に入ることもありましたが、斯うした時、嬉々として夫人も四五杯は傾けられるのが普通でありました。そして煙草も少々いけましたし、婦人としては比較的話せる方だと云はれませう。つまり私とは気質としても相似点が多く、嗜好などもかなり似通っていましたので、嫌ひな遠慮をする厄介もなくお邪魔の都度先生と三人で開けっぱなしに大ばなしをやったものです。こんなことを次々と追憶して来ますとありし日の事共が必々となつかしまれます。/後略/>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

 省吾は先に紹介した『随筆・世間への觸角』に「男やもめの記」と題して、妻を亡くした頃のことを書き残している。

<丁度今の新居に引っ越してきたのは昨年四月のはじめ、櫻の花も末の頃で、隣家の一萬坪あると言はれる富豪の数株の櫻が、燎乱と咲いて、近隣の家の屋根に雪のやうに降りかかるのであった。/病妻を看護してはや半年、暖かくなったらと、どんなに春を待ち遠しく思ったであらう。そうして病妻が健康な時分に見付けて置いたこの貸家に、庭と樹立はあったが暗かった亀原の家を引越して、それも妻は寝台車で引越して、ホットしたところであった。

 『ほんとうに明るい家、嬉しい。』

 妻は病床で再起を願った。/永い間、母親に寝ていられる娘は、看護の寸暇を得た私と二階の縁に出て、遠くまで展望し得る東京の屋根や煙突を見て喜んでいる。/晴れた日は、晴れた日で。雨の日は雨の日で・・・・・。

 そして時たま、私も気分が向くと、/「さあ、園枝ちゃん、童謡を一緒に作らうよ。」/「うん。」/そう答へて、ちょつと考へるやうにして、歌ふやうに節をつけて口で言った雨の日と晴れた日の二つの童謡なのだ。/中略/

 今年七つになる園枝には母親のこの世から姿を全く消してしまった時、幼児の寂しさは譬へやうもないものらしい。/何かすがりつくもの、たよるものが欲しいのだ。隙をねらっては父親の私に抱っこをしやうとする。一緒にねていて夢現の間に絶えず母の乳房を探らうと私の胸を撫で廻す。夏は夏で布団を蹴ってははいでしまふので、その注意のためにも碌々寝ていられないのである。/中略/中学二年の長男は母親が亡くなってからは、駄々子らしいところが無くなって、めっきり大人びて来た。/中学生には無論「死」といふことはわかっているが、これを七つになる幼児にはっきり説明することは、余りにも痛々しい。

 告別式の日の、一友の弔辞に、

「白鳥君は御通夜の時に、幼い園枝ちゃんを抱かれて、(お母さんは夕焼けの遠い國に行ったよ。)と言ふと、園枝ちゃんは(そしていつ帰るの?)ときいていた。私はそれをきいてたまらない気持ちになったのです。良き妻を失ひ、優しい母親を永久に失った人達の痛手は・・・・・。」/中略/詩友が、妻の詩集「孔雀」のなかから数編の詩を選んで棺のまへで読んでくれたが、園枝は場内の寂しい空気に堪へられないでか泣き出してしまった。/あとできくと、

「あのおじさんは、もうお母さんは帰って来ないツてお話してたから厭になったわよ。」

「そんなことはないだらう。」

「でも夕焼けの國へゆくと帰って来れないツてよ。」

「お父さんにはそう思へないがね。」

「お父さんはインチキなんだよ。」

 幼稚園でいつの間にかこんな言葉を覚えて来て私を苦笑させるのだ。/中略/妻の新墓が出来て、皆で多磨墓地に行った時、その時は大勢で賑やかであったから、別に説明する必要もなかったが、二度目から家族だけで御詣りする時には、「これはお母さんのお墓」と説明せねばならなかった。/中略/

 二月二日、信州から来た友人のKが「奥さんのお墓におまいりしたい」と言ふことで、翌日を約したが、その日は牡丹雪ともいふべき大雪だった。/中略//雪はますます降り募り、風さへまじっている。/園枝は二階の縁でうたっている。

「雪は降る降る/多磨墓地に/あの母さんの墓のうへ/うつくしく。」

 そして、「これ兒玉さんのまねよ。」と言った。/兒玉さんとは兒玉花外さんのことで、いつか私の宅に来て、酒をのみ上機嫌にになって、「一つ即興詩をうたはう」と歌ったのが、/「鐘が鳴る鳴る/護国寺の・・・・・」/といふ十行ほどの詩で、/中略/花外さんは今はアルコール中毒で、全身の大半がきかなくなり、全くの孤独の身を友人の情により大学病院の一室に横へている。/中略/

 朝、幼稚園に通ふ女児 にも、母なき子と言ふて、そう穢い風體もしてやれないと思ふから、田舎出の女中に手伝って、出先にその髪をくしけづってやるのを毎朝の私の日課とするのである。/柔らかくもつれた後ろ髪のあたりは、注意しないと、よく櫛の歯にひ引ぱられるのである。

「お父さん痛いよう。」と悲鳴が出る。」

「や、失敬、失敬、非常時の娘はこれ位のことに我慢しなくっちゃ。」>*19『随筆・世間への觸角』(昭和十一年六月五日・東宛書房発行)

 『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」の目次裏には「大地舎」同人、友人と共に墓参した時の記念写真が載せられ、氏名が記されている。それによると「後列、廣瀬充、中村恭次郎、林信一、古賀残星(和服)、福田親山(最後列)、網島嘉之助、福田正夫(和服)、柿木青蛙、千石喜文、前列、朝木良之助、月原橙一郎、小暮妙子、白鳥省一、白鳥省吾、白鳥園枝、白鳥敬一、石川佐久太郎、嫩葉俊夫」の諸氏、丸枠で白鳥秀子肖像写真が載せられている。後尾には「妻の墓」と題して省吾が以下のように記している。

<妻の埋骨は郷里に於いて営むつもりで、新墓地も畧々決定してあったのであるが、東京の方が子女の墓参のためにもよかろうといふ説もあり、多磨墓地にきめようかといふことになって、林信一氏の案内で七月十二日に検分に出かけた。児玉花外氏も令弟の墓参を兼ねて一緒に行ってくれた。/中略/松林の近くに適当なところがあったので、そこにきめて工事を依頼して来た。乙種第十一区八側拾九番。/後略/>*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

 また、次女園枝を妻の実家の涌谷にあずけて、吉川英治、倉田百三と一緒に釜石方面に講演に出かけていることが*27『人生茶談』「秋風の峠」に書かれている。昭和十年八月のことであった。

<吉川氏は既に大衆作家として押しも押されもせぬ地位にいたが、青年の社会教育を志して雑誌「青年太陽」を創刊した。其処に私は他の大衆作家と異なる気魄を見た。その巻頭にいつも私が詩を書いていた関係で、頼まれて倉田百三氏と三人で三陸海岸の宮古、釜石方面に一週間の予定で同行したことがある。/中略/吉川氏は「宮本武蔵」を、これから朝日新聞に書くのだと意気込んでいたが、いったいそんな講談物をどんなに書くのかと思って、フンフンと私達はきいていた。

 吉川氏は宮古に泊まって三日目当たりに、東京で入院中の夫人から電話が来て、取る物も取り敢えず、(支線で汽車の回数も少ない処なので)真夜中に自動車を飛ばして盛岡に駈けつけて上京した。/中略/吉川氏の宮本武蔵は極めて好評であったが、きくところによると、悪妻に悩まされて、その心境を突破しようとした純粋な精神からこの大作が生まれたとの説もある。/中略/なかなか世の中のことは万事都合よくゆかぬもので、私も前年に妻を亡くして其の時僅か六歳の娘がいたので、女中と二人留守居させることも心もとなく、上野から夜行で仙台まで伴うて妻の実家に委託して講演に参加したというわけであった。/後略/>*27『人生茶談』昭和三十一年四月二十日・採光社発行)

 吉川英治が「日本青年文化協会」を組織し、『青年太陽』を創刊したのは昭和十年一月のことであった。この年八月に次女園枝をあずけた、省吾の最初の妻秀子の実家は現在離散してしまっている。しかし菩提寺に残る墓石からは往時の繁栄ぶりが伺える。

 もどって、大正九年五月に井上康文編の『日本現代名詩集』が「春陽堂」から出版されている。*28『明治大正詩選全』には、「福士幸次郎、福田正夫、日夏耿之介、萩原朔太郎、堀口大学、生田春月、井上康文、北原白秋、川路柳虹、加藤介春、北村初雄、三木露風、室生犀星、百田宗治、正富汪洋、前田春聲、白鳥省吾、西条八十、佐藤惣之助、千家元麿、富田砕花、高村光太郎、多田不二、竹村俊郎、山村暮鳥、柳澤健」の選集で附録として「泰西名詩選」が添えられていることが記されている。そして七月に『日本詩集・一九二〇年版』が出版されている。

 省吾はこの年、六月「民衆詩と民謡」を『新潮』に、七月「藝術は反抗と法悦」を『讀賣新聞』に発表している。そして八月一日に創刊された、文芸綜合雑誌「自由文壇」に「新しい民謡」を寄せている。この雑誌は、「長詩・川路柳虹選、小品・室生犀星選、書翰文・黒田朋山選、短歌・窪田空穂選、俳句・臼田亜浪選、民謡・白鳥省吾選。全国の投書家が投稿した市販誌」と、*29『詩謡春秋』の「白鳥省吾追悼号」に「白鳥先生と五十年の関係」と題して三井良尚が書いている。

<いまから五十四年前大正九年八月一日に創刊された、二百頁ほどの文芸綜合雑誌「自由文壇」というのが、私の手許にある。全国の投書家が投稿した市販誌で、わたしも手あたり次第に投稿した。長詩川路柳虹選「真昼」小品室生犀星選「黄昏」書翰文黒田朋山選「友へ」短歌窪田空穂、俳句・臼田亜浪選で、いづれも小さく掲っていたが、そのなかに民謡があって、選者は白鳥省吾氏だった。多くの投稿の中から、選ばれたのは僅か五篇で、わたしの「名なし草」が加わっていた。新民謡の漸く提唱された頃で、先生は創刊号に「新しい民謡」の一文を寄せている。/後略/>*29『詩謡春秋第二十一号』(昭和四十九年四月一日・日本詩人連盟発行)

 省吾は十月「実際運動と藝術表現」を『時事新報』に、十一月「文芸の社会的要素」を『中央文学』に、同月「福士幸治郎氏の展望を読む」を『早稲田文学』にそれぞれ書いている。(*30「白鳥省吾年譜」・詩集『北斗の花環』)

写真は*29『詩謡春秋』「白鳥省吾追悼号」

 この年の五月二日、東京上野公園で第一回のメーデーが行われている。三月に始まった戦後不況は、工場労働者から、農村にも波及し小作争議が頻発し、零落する農民が増えていった。省吾はこうした小作人達の姿を、幼き日に体験した事とダブらせて、翌大正十年に出版された『楽園の途上』に描写している。

 

* 本文中の敬称は省略させて頂きました。 

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*2『グラフィクカラー昭和史1・大正から昭和へ』(研秀出版株式会社発行)

*3『日本の歴史・23大正デモクラシー』(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)

*4『日本農民詩誌・上巻』「第2編社会思想の先例」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*5『民衆藝術選』富田砕花、加藤一夫、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾の合著(大正九年二月五日・聚英閣発行)

*6「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

*7『日本近代文学事典第六巻・索引』日本近代文学館、小田切進編(昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行)

*8『露西亜評論 第一巻第四号六月号』(大正七年六月一日・進文館発行)

*9詩集『共生の旗』白鳥省吾著(大正十一年六月十日・新潮社発行)

*10詩集『野茨の道』白鳥省吾著(大正十五年五月十五日・大地舎発行)

*11『新潮日本文学小辞典』・昭和四十三年一月二十日・新潮社発行)

*12文芸文庫『日本文壇史十七・転換点に立つ』伊藤整著(平成九年八月十日・講談社発行)

*13小曲集・散文詩集『幻の日に』白鳥省吾著(大正九年三月二十二日・新潮社発行)

*14少年少女詩集『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日・新少年社出版)

*15『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*16新作詩集『楽園の途上』白鳥省吾著(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)

*17詩集『憧憬の丘』白鳥省吾著(大正十年九月十日・金星堂発行)

*18詩集『若き郷愁』白鳥省吾著(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)

*19『随筆・世間への觸角』白鳥省吾著(昭和十一年六月五日・東宛書房発行)

*20『長編叙事詩・結婚の歌』白鳥省吾著(昭和十一年二月十五日・東宛書房発行)

*21『白鳥省吾先生覚書』高橋たか子著(昭和六十二年一月二十日・「仙台文学の会」発行)

*22『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」白鳥省吾編(昭和九年十一月一日・大地舎発行)

*23『白鳥省吾の詩とその生涯』(昭和六十一年二月十五日・築館町発行)

*24『地上楽園』「創刊号」白鳥省吾編(大正十五年六月一日・大地舎発行)

*25『白鳥省吾のふるさと逍遙』編集委員会編(平成十二年一月十日・白鳥ナヲエ発行)

*26詩集『孔雀』大崎安藝子著(昭和七年十二月五日・大地舎発行)

*27『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行))

*28『明治大正詩選全』(「詩話會」編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*29『詩謡春秋第二十一号』(昭和四十九年四月一日・日本詩人連盟発行)

*30「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*31『劇と詩』九月号(大正九年九月一日・劇と詩の會発行)

*32「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」(『文學』1964・7・VOL.32)昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 「通信欄」

○このページを作成するために、省吾の御息女白鳥園枝様より『詩謡春秋第二十一号 白鳥省吾追悼号』(昭和四十九年四月一日・日本詩人連盟発行)、『地上楽園』「白鳥秀子追悼号」(昭和九年十一月一日・大地舎発行)を貸与していただきました。添えられた御手紙には「一冊しか残っていない私の宝物で、今までどなたにも貸し出したことがないものです。」と記されてありました。大変貴重な資料をお貸し下さいました白鳥園枝様に感謝し、厚く御礼申し上げます。

 また、白鳥ナヲエ様より、白鳥秀子様(大崎安藝子)の詩集『孔雀』(昭和七年十二月五日・大地舎発行)、『長編叙事詩・結婚の歌』(昭和十一年二月十五日・東宛書房発行)を貸与していただきました。白鳥園枝様には、母君、秀子様の詩集『孔雀』の中に掲載されている肖像写真の掲載をご承諾していただきました。ありがとうございました。

 この場を借りて厚く御礼申し上げます。

○平成十四年二月に以下の資料が見つかりましたので補追しました。

『劇と詩』九月号(大正九年九月一日・劇と詩の會発行)、『露西亜評論 第一巻第四号六月号』(大正七年六月一日・進文館発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十三年六月一日発行、平成十四年二月二十四日補追版発行

ホームページ http://ww5.et.tiki.ne.jp/~y-sato/index.html

Eメール   y-sato@mx5.et.tiki.ne.jp

 つづく

以上・駿馬 


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最終更新日: 2002/07/03