白鳥省吾物語 第二部 会報十九号

(平成十三年五月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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  (三)、第二詩集『大地の愛』 大正八年六月

 

 *1詩集『大地の愛』については自著*2『現代詩の研究』中の「民衆詩の起源と発達」において、「白鳥省吾の詩」と言う一項目を設けて、以下のように書いている。

<白鳥省吾の第二詩集「大地の愛」(大正八年六月発行)は大正三年から大正七年に至る詩百二十八篇を収めているが、それも純正な抒情と象徴の境地を持して、民主的要素の目覚めと見るべきは、大正五年の部の「田園の祖父」「花屋のマダム」等に始めて見るべきであらう。大正六年の「開墾の日」「明日は種蒔き」「光の放埒」等共に田園的な題材が多い。/中略/大正七年作のうち「殺戮の殿堂」「土煙」は反軍国主義の感情を歌ったものである。「誇」「日の炬火」には現社会の職業者の悲哀を歌ひ、「土地の哀愁」は奪はれたる土地の怒りを歌って、この年は民主的色彩が濃厚に自覚的に出ている。>*2『現代詩の研究』(昭和十三年九月三日・新潮社発行)

 

 これを『大地の愛』の目次より見ると、「日の言葉・一九一四年作」十一篇、「輝く裸體・一九一五年作」二十一篇、「自然の聲・一九一六年作」三十一篇、「力の嘆美・一九一七年作」四十三篇、「宇宙の法燈・一九一八年作」二十二篇である。この詩集には、前書きもあとがきもなく詩だけが載せられている。この詩集について後年省吾は*3『文学』誌上の伊藤信吉との対談「民衆詩派をめぐって」において、伊藤信吉の「白鳥さんは最初は象徴派に近い系統の詩人だったと思います。それが、どんな動機でデモクラシーの思想のほうへ引かれていったか・・・・・」という質問に対して、以下のように話している。

<白鳥 それについては、私の第二詩集の『大地の愛』が示しております。これは一九一四年から一九一七年までの作品を、ほとんどセレクトしないで全部ぶちこんだというぐらいの篇数が入っておりまして、これを見ても、一九一六年だから大正五年になりますか、大正五年の終わりあたりまでは、伊藤さんのいうような象徴的なものを、象徴的というよりも、抒情詩ですね、一種の抒情的な詩を中心として、社会性というものをあまり考えなかったんですが、そのなかにも「花屋のマダム」というのがありましたり、それから大正六年ごろになると、「開墾の日」とか、「みすぼらしい葬式」とか、そういった社会性にタッチしていったわけですね。そしてどういうふうにしてそういうふうに目ざめてきたかというと、吉野作造さんのデモクラシーというのは、まったく影響をこうむらなかったですね。それから『白樺』の人道主義というのもとくに影響はないんですね。ただ富田君なんかカーペンターが非常に好きで、むしろ山川均系の社会主義の思想に共鳴していたですよ。私もホイットマンというのは、たいへん共鳴する詩人だったわけで、明治時代早稲田の在学中から愛読したわけですね。私の第一詩集の終わりのほうに、ホイットマンの評伝を出すつもりで予告してあるんですよ。それほど熱愛していたわけですね。

伊藤 ホイットマンやカーペンターなんかの海外詩人の影響を受けて、当時の吉野作造あたりのデモクラシー論の影響は受けなかった、ということですね。

白鳥 ほとんど影響を受けなかったですね。当時はばかに派手に『中央公論』などに書いていましたがね。>*3伊藤信吉著・対談「民衆詩派をめぐって」「民衆詩派に対する評価のゆがみ」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)

 

 この中で「これは一九一四年から一九一七年までの作品を」と書いているが、「一九一八年まで」の誤植と思われる。前掲文は民衆派に加わってからのものである。「吉野作造の影響を受けなかった」というこの言より、省吾が何を言いたかったのかを推測してみると・・・、この言葉の裏には、自分たちが押し進めていた詩文学が時代のリードをしていた、という自負があったものと思われる。石川啄木、賀川豊彦、加藤一夫、富田砕花等が提唱していた民主主義思想、或いはこれら日本の虐げられた農民像に対する憤りが、それら民衆に対する啓蒙を第一と考えた省吾が展開してきた民主主義的詩の運動は、吉野作造の「民本主義」を透してのものではなく、直接欧米の著作や詩作品から得たものであると・・・。

 この詩集の評価について、乙骨明夫は*4「白鳥省吾論・民衆派のころ」「二、民主的詩へ」において、先に挙げた『現代詩の研究』のをとりあげて、

<詩の数は全部で一二八篇である。ほとんどはすでに雑誌に発表されたものである。八篇の文語詩を除く一二〇篇は、口語の自由詩である。詩集全体の作風をもし言うならば、それには「大地の愛」という題名がもっともふさわしい。大地の愛に感謝する心が、詩集の根底を流れている。>*4乙骨明夫著「白鳥省吾論・民衆派のころ」「二、民主的詩へ」(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

と書き、前掲の「殺戮の殿堂」以下、その時代の作品の検討に入っていき、川路柳虹の「新興詩壇近事」(現代詩歌一九一九・九)、西川勉の「詩壇の近著『大地の愛』を読む」(早稲田文学一九一九・九)を紹介している。それらを乙骨明夫の「白鳥省吾論・民衆派のころ」「二、民主的詩へ」より紹介する。

<世間では白鳥君を民主主義の詩人だとかホイットマンの後継者だとかいふ風に取り扱っている。白鳥君の思想がホイットマンやカアペンタの影響は勿論うけていやうからさういふ事が穴がち誤諺とも思はぬがこの「大地の愛」一巻によってえた自分の印象に残る白鳥君は民主主義の宣伝者だとかホイットマンの後継者だとか云はれる種類の性格とは私にはよほどかけ離れていると思はれる。「大地の愛」の批評は方方の雑誌にも見かけたがみな一様にこの「民主主義云々」を氏の詩の批評に冠せている。しかしそれはさういふ概念もしくは先入見をもって白鳥君の詩に対するのではあるまいか。恰も待ってましたと云はんばかりにその持ち合せの「民主主義云々」でこの詩集を蓋って終ふのではないか。所謂新刊紹介の多くが誠に当にならぬものであることは重々承知だが自分はさういふ批評を知っていてこの詩集をよみ今更乍らいい加減な評語の多いのに驚いたわけである。/

 自分の見るところをもってすれば白鳥君は決してホイットマンの子ではなくむしろトローの親類である。ただ素野な自然と人間との交感ーーさういふところに一番この詩集の重大なテーマがあるやうに思ふ。或は四季の歌のトムスンや湖畔詩人の作さへ思はすやうな粗朴な牧歌的詩篇さへある。その表現も温かく静かでホイットマンの雄弁とは著しく異る。/(川路柳虹の「新興詩壇近事」・現代詩歌一九一九・九)>

 つづいて

</白鳥氏は其後の詩は暫くかうした強い自己肯定の思想と初期の詩の特色となっている柔かい抒情的気稟との交錯を示しているものもあり、更に強く異教的に肉の肯定を歌ったものもある。此処に、白鳥氏が民衆派の詩人の中にいて、特色ある地位を保っている所以がある。何故といふに、民衆派の詩人の或る者は、農民や労働者や都会の工業に対して、単に外側からのセンチメントを投げているにも拘らず、白鳥氏は、最もホイットマンに近似して、吾吾の肉体の神聖なる肯定を歌っている。この思想感情から、あらゆる近代文明の様式を加へた複雑多数な我が国民的生活の中に、新しい太陽の昇るのを暁望する広く強い肯定の域に達しているのである。(中略)氏にもっと調整されたリヅムを求めることは愚かなことであらう。氏はホイットマンが米国の詩壇で試みたやうに、あらゆる詩の約束を破棄して、新しい詩壇を創造しようとしているのである。/(西川勉の「詩壇の近著『大地の愛』を読む」)

 柳虹と勉とがともに述べているように、省吾がホイットマンに影響されていることは明らかである。省吾とホイットマンとの関連については章を改めて述べることにするが、一九一八年と一九一九年との二年間に省吾がホイットマンについて書いた多くの論文を見ると、ホイットマンに対する省吾の情がどれほど深かったかを知ることができる。ホイットマンとのふれあいの中から、省吾独自の民主的詩が生まれてきたのであろう。>*4乙骨明夫著「白鳥省吾論・民衆派のころ」「二、民主的詩へ」(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

 現在、詩集『大地の愛』を語るとき、必然的に指摘されるのは反戦詩であると思われる。しかし前掲の批評文ではふれられていない。伊藤信吉も*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」において、「社会主義詩人児玉花外と、浪漫的社会主義情操詩人石川啄木」を挙げ、白鳥省吾の「殺戮の殿堂」を「第二の先駆的作品」と評価している。

<私は啄木の作品群で「はてしなき議論の後」「激論」「墓碑銘」の三篇をすぐれた社会主義的詩篇と言った。そのように省吾作品においても前記七篇中から、すぐさま「殺戮の殿堂」「耕地を失ふ日」二篇と「出征」一篇を、すぐれた非戦詩、反戦、軍国主義忌避作品ーーすくなくとも注目すべき作品として数えることが出来る。省吾は近代詩における反戦、反軍作品の第一人者であった。と私はおもう。/中略/

 その汎庸平俗を指摘して、日夏耿之介が『明治大正詩史』巻の下で「省吾の数へた民衆詩の特色は理論としては片隅的存在を允されるが、作品そのものを以て説明しうるものでなかった。即ち一篇のその主旨に全く該当する佳品さへなかった。」(「明治大正混沌詩壇」)と評し、貶した。だが汎庸肯定の私も、佳篇一篇も無しには反対である。日夏耿之介が存命ならば「僻見々々、そんなことありませんよ」である。/後略/>*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

 このあと、「非戦、反戦、厭戦、反軍(以下、非戦と略称する)作品はどれほどあったろうか。」と書き、日露戦争における与謝野晶子の「君死にたもふことなかれ」をとりあげている。そして省吾の非戦詩について書いている。

<白鳥省吾の詩集に非戦詩が見えはじめたのは、一九一九年六月創刊の『大地の愛』からである。/中略/多少の斜視的批判を混じえた厭軍的言辞があって、それがしだいに非戦思想を醸成していった。

 著者は『大地の愛』について、「象徴的な詩から民衆詩への歩みを明確にした詩集である。」と解説している。この詩的推移、というよりも思想的転換の経緯をくわしく辿り返す暇はないが、『詩歌』寄稿の作品や論考に限っても、この詩人が短歌、象徴詩をくぐって漸次に民主的、民衆的方向へ座を移したことが分かる。それはわが国の近代詩が、古典的詩風や象徴的詩風に次いで口語自由詩の新世界をひらき、詩的概念や詩的思考をを急激にひろげた途筋に併行するものであった。亡き詩人(一九七三・七没。満八四歳)追悼の意をこめて、往時の作品をほんの少し紹介すると、その短歌は、

   あかき日の入りぬるあとのhaschischの幻のなかひぐらしの啼く

 /中略/後に省吾は民衆詩の立場から、いわゆる芸術的立場の北原白秋と長々と論争し、それが近代詩の年代の最大論争となったが、『詩歌』一九一二年一〇月号、一二月号掲載のこの五首は、北原白秋『桐の花』界隈の抒情に通うところがあるようだ。/中略/

 上述の詩風変転は省吾自身の内的推移に他ならないけれども、そのときわが国の時代思潮、文芸思潮は、国際的に高揚したデモクラシーの思想を受け入れ、それによってあたらしい時代をひらきつつあった。大逆事件以来の閉ざされた社会が、とにもかくにも、時代のあたらしい窓をひらきつつあった。現実詩風としての民衆派の登場は、いわば時代の推移による必然の成り行きでもあった。

 ようやく質的飛躍が生じた。即ち省吾の詩の業績をあざやかに彩る「殺戮の殿堂」が、近代詩においてもっとも注目すべき非戦詩の一篇が登場したのである。/後略/>*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

 この後、「殺戮の殿堂」の解説入って行き、「この詩を雑誌発表したときどんな反響があったか。それを知りたいとおもったが、現在までのところ未入手である。『詩歌』に次いで一九一九年一月号の『民衆』に再発表されたが、この雑誌にも反響的文章は見当たらない」と書いている。つづいて先に紹介した『民衆』の「白鳥省吾詩集」をとりあげて、以下のように書いている。

<ついでに言うと『民衆』のこの号は「一九一八年作・白鳥省吾詩集」として特集され、作品二十七篇に短い自註を付して掲載された。そして「殺戮の殿堂」の自註は「東京に住むこと十余年にして、九段の遊就館に此年始めて友と共に入る、中に羅列されたるもの凡て人間の悲哀を語る、誰か其の感慨をコンベンショナルとなすべきぞ、一見通俗に見えて然も其の根底に絶対新にして永遠新なる物を発見せざるものに偉大なる詩歌なし」(二月十二日作)というものであった。/中略/いずれにせよこの作品を掲載した『民衆』派自身が格別の関心をしめさなかったところに、非戦詩が、詩人たちのあいだに「決定的」重要性をもっていなかったことがうかがわれるのではないか。

 一九一八年は第一次世界大戦の砲火が熄み、世界をおおっていた戦雲がひとまず拭い取られた時期である。そして前述のようにデモクラシーの時代思潮が国際的規模でひろがったときである。長い戦乱とその犠牲の世界的体験にもかかわらず、それが詩的主題として重視されなかったのは不思議である。この空白現象からすれば、与謝野晶子の「君死にたまふことなかれ」以後の非戦詩「欠落」の歴史を承けて、白鳥省吾がようやく非戦詩の途を再会したことになる。/後略/>*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

 伊藤信吉はこの後「そこでこの詩人における非戦詩制作とその発表に、どれほどの持続性があったかを一瞥すると、およそ次のとおりである。」として省吾の反戦詩を列記している。それを紹介する。

</殺戮の殿堂 詩歌 大七・三/土煙 詩歌 大七・三/飢 大地の愛 大八・六/輝く泥濘 大地の愛 大八・六/太陽は凡てを聴く 大地の愛 大八・六/総題「戦争の追懐」連作四篇、鈴虫 楽園の途上 大一〇・二 、出征 楽園の途上 大一〇・二、耕地を失ふ日 楽園の途上 大一〇・二、浴泉の恋 楽園の途上 大一〇・二/軍港の一部 憧憬の丘 大一〇・九/国境の上に 日本社会詩人詩集 大一一・一/野の午前 共生の旗 大一一・六/海上の憂鬱 明治大正文学全集三六巻 昭六・一二/軍馬は嘶く 明治大正文学全集三六巻 昭六・一二/晴天 若草 昭九・一/

(註)列記した十五編のうち、発表年月の確実なのは最初と最後の三篇だけで、その他は自著詩集、アンソロジー収録年月である。殊に「飢」「輝く」「太陽」の三篇は、「殺戮の殿堂」「土煙」よりも早い発表の筈だが、その年月分からないので、やむなくこういう配列にした。/この十五篇が、私が知り得た範囲での省吾の非戦詩である。このほかにも断片的詩句かずあるし、私の未見作品があるわけだ。>*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

 ここで伊藤信吉が列記したものをふまえて、手元の資料から補いつつ発表年月順に紹介してみたい。ただし伊藤信吉の紹介とは発表年月日に違いがあることを断っておく。

 省吾の戦争を素材にした詩のはじまりは、*6『憧憬の丘』中の「軍港の一部」が最も早いものと思われる。これは『憧憬の丘』年表によると、早稲田大学二年生の冬、明治四十三年十二月末(1910年)に、横須賀軍港に叔父を訪ねて越年した時の作品である。

 つづいて『大地の愛』(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)「日の言葉」中の「飢」が大正三年(1914年)の作品、「輝く裸體」中の「輝く泥濘」「太陽は凡てを聴く」が大正四年(1915年)、「宇宙の法燈」中の「殺戮の殿堂」「土煙」が大正七年(1918年・初出は『詩歌』第八巻第三号・「詩三篇」大正七年三月一日)の作品である。(『大地の愛』・『現代詩の研究』・*7『前期詩歌総目次』より)

*8『楽園の途上』詩集(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)「揺籃の郷土」中の「戦争の追懐」の四連作、「鈴虫」、「出征」、「耕地を失ふ日」、「浴泉の戀」 は大正八年(1919年)の作品である。(『現代詩の研究』「八,白鳥省吾の詩」より)

 *9『共生の旗』(大正十一年六月十日・新潮社発行)「都市哀果」中の「秋夜の幻覚」、「生の序楽」中の「野の午前」、「地の叫び」中の「國境の上に」、「散文詩」中の「朝と夜」は大正十年(1921年)の作品である。(『共生の旗』・『現代詩の研究』より))

 *10『若き郷愁』(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)「世紀の囁き」中の「黒い風」は大正十一年(1922年)の作品で、「社会運動が歌はれ、時代の映射といふものが濃く感ぜられる。」(『現代詩の研究』より)と省吾が解説しているが、その一節に「サーベルを鳴らし鋼鐵をつけた靴の裏で 吾等の顔を蹴らうとしている。」と言う連がある。

 *11『野茨の道』(大正十五年五月十五日・大地舎発行)「月光を踏む」中の「歪んだ市民」は日露婦人の交歓会場に撃ち込まれたピストルの弾丸におののく人々を捉えている。「表現の夏」中の「明け方」は水兵をうたっているもので「私は田舎での無数の水兵を想像して 何となく寂しくなった」という終連である。「雪に燃ゆる」中の「幻の谷間」の一節「戦争はどんな人にも怖ろしいに違ひない。」、「灰燼の中から」中の「比喩」では「思想を暴力で絶滅しやうとするのは 刀を揮って風と戦ふやうなものだ、」と叫んでいる。これらは大正十二年(1926年)の作品である。

 その他*12『明治大正文学全集三六巻』に収録された「海上の憂鬱」「軍馬は嘶く」等の作品がある。また、終戦後には*13『灼熱の氷河』に「敗戦の日本」「猿」、*14『平和の序曲』に広島の原爆を忌避してうたった「平和の序曲」がある。*15『北斗の花環』に収録された「ボロボロの神」は東京の空襲跡に残ったボロボロの教会から、長崎の原爆を広島の原爆を連想してうたった詩である。この他にも戦争を素材にした詩は数多くあるものと思われる。

 『大地の愛』(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)より、「日の言葉」中の「飢」を紹介する。

 

     飢

   

   夜となりゆく野を、兵士が歩いてくる、

   鈍く快い無数の靴の音が流れ轟いてくる。

   遠い街の灯は何といふ戀しい美しさだ、

   草むらに蟲がしみじみと啼いて、

   空にはたくさんの星が瞬いている。

   彼方に何か甘い懶い世界が煙っているが

   その背嚢の重さは如何だらう!

   疲れきった兵士らはたまらなく植えて歩む、

   みんな揃って飢えて勢いよく歩む。

   一心に汗くさい匂ひにつつまれて

   無数の靴の音が流れ轟いてゆく。

 

 この他にも*16『天葉詩集』の中に数編あるが、これは少年を対象にしたもので、戦争をうたっているものもあるが、省吾自身がナンバー詩集からはぶいているので含めない方が適切と考えられる。

 大正八年七月、「大地の愛の会」が開かれている。発起人は加藤一夫、富田砕花、室生犀星、福士幸次郎、秋庭俊彦。出席者は小川未明、西條八十、加能作次郎、瀧井孝作の諸氏(「白鳥省吾年譜」より)。*17『文人今昔』の「小川未明」の頁には「詩人の眼中には階級なしと私の第二詩集『大地の愛』(大正八年出版)の出版記念会に来て、寄せ書きに墨痕琳凛としたためた小川未明氏である。」と書いている。また「西条八十」の頁にはこの会のことを懐古して、以下のように書いている。

<西条君は、「この間、君の『大地の愛』を本棚から見つけたよ」といった。/ほう、それは有難いですね。あの会の時の雅帳の寄せ書きに、あんたは小曲「海にて」を書いている。/と私がいったが、西条君は記憶になさそうな顔をしたが、当然な昔話でもある。/帰って雅帳を見ると、大正八年七月六日、「大地の愛の会」とあり、当夜の出席者は小川未明、富田砕花、加藤一夫、中西赤日庵(悟堂)、福田正夫、福士太陽子(幸次郎)、瀧井折柴、正富汪洋、百田宗治、井上康文、加能作次郎、室生犀星、川路柳虹、西条八十などで記念撮影もしている。/後略/>*17『文人今昔』(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 この「大地の愛の会」の記念写真が『文人今昔』に「第2詩集『大地の愛』出版記念会」として掲載されている。それによると参加者は「写真右より、加藤一夫、萩原朝彦、三石勝五郎、著者、富田砕花、加能作次郎、西条八十、正富汪洋、他に川路柳虹、小川未明、福士幸治郎、内藤ユ策、百田宗治、室生犀星氏らも出席」というものである。

 同月、省吾の*18『民主的文芸の先駆』が「新潮社」から発行されている。これはホイットマン、カアペンタア、トラウベルの評伝と、他に「民主的文芸の本質と使命」という論文がある(『現代詩の研究』にも記事あり)。乙骨明夫は先に紹介した「白鳥省吾論・民衆派のころ」、「四、民主詩人の紹介」に於いて以下のように書いている。

<「民主的文芸の先駆」には「ワルト・ホイットマン」「エドワード・カアペンタ」「ホーレス・トラウベル」の三詩人が紹介されているが、冒頭には「民主的文芸の本質と使命」という一章がある。この一章の中の「三 民主的精神の高調」では、省吾の従来からの考えをくりかえし述べ、貴族主義の作品よりも民主主義の詩人の作品に好感を持つことを表明している。>*4「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

 八月、「散文詩の要素」(『短歌雑誌』)、九月「小説偏重の幣」(『時事新報』)が発表されている。これらは*19『詩に徹する道』(大正十年十二月十二日・新潮社発行)に収録されている。この中で「散文詩の要素」として省吾は「一、詩のリズムを有すること 二、一つの焦点を有すること 三、余り長からぬこと 以上の三つの要素の孰れかを欠いたものは、散文詩といふ分類の中に這入らないと思ふ。」と書き残している。「小説偏重の幣」は『詩に徹する道』には翌九年九月発表と記されているが、*20『明治大正詩選全』「詩壇年表」には九年十二月と、「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』)、*21『白鳥省吾先生覚書』には八年九月とある。どちらが正しいかは手元の資料からは分からない。

 十月、詩「生活の礼拝」が『文章世界』に発表されている。乙骨明夫は「白鳥省吾論」「民衆派のころ」において、

<生活の礼拝全編の中で「選炭の乙女」がもっとも民衆派的である>*4乙骨明夫著「白鳥省吾論・民衆派のころ」「二、民主的詩へ」(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

と書き残している。

 省吾はこの時期、雑司ヶ谷墓地の「菊水」という花屋の離れに自炊していた。『文人今昔』「中西悟堂」の頁より紹介する。

<日本野鳥会長の中西悟堂氏が、紫綬褒章を受賞したので、三十七年一月、日本詩人クラブの会員達で銀座裏のさる料亭で祝賀会を開いた。芸術院会員となった西条八十、堀口大学の二氏の祝賀も一緒だった。/中略/大正七、八年頃、雑司ヶ谷墓地南の菊水という花屋の離れに私が自炊生活していた時、北側の中西氏は墓地を散歩するらしく、ときどき垣根から朝早く「白鳥さアん」と呼び出されたものである。窓をあけて見ると、かれは白い衣のようなものを首にまいてつったっていた。「おはようアハハー」と呵々大笑して、この格好は全裸に腰巻を首にまいているんで、何もはいておらず、これ以上涼しいことはないんだとの託宣である。/後略/>*17『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

敬称は省略させていただきました。

つづく 以上文責駿馬


* この頁の参考・引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1詩集『大地の愛』白鳥省吾著(大正八年六月二十日・抒情詩社発行)

*2『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*3対談「民衆詩派をめぐって」「民衆詩派に対する評価のゆがみ」伊藤信吉著(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日岩波書店発行)

*4「白鳥省吾論・民衆派のころ」乙骨明夫著(『國語と國文學』四十五年八月・至文堂発行)

*5「白鳥省吾の世界(上)・民衆派のプロレタリア詩的先駆性」伊藤信吉著(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

*6詩集『憧憬の丘』「憧憬の丘年表」(大正十年九月十日・金星堂発行)

*7『前期詩歌総目次』小野勝美編著(昭和四十八年六月二十日・印美書房発行)

*8新作詩集『楽園の途上』白鳥省吾著(大正十年二月二十八日・叢文閣発行)

*9詩集『共生の旗』白鳥省吾著(大正十一年六月十日・新潮社発行)

*10詩集『若き郷愁』白鳥省吾著(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)

*11詩集『野茨の道』白鳥省吾著(大正十五年五月十五日・大地舎発行)

*12『明治大正文学全集三十六巻』(昭和六年十二月・春陽堂発行)

*13『灼熱の氷河』白鳥省吾著(昭和二十四年八月一日・詩精神社発行)

*14『平和の序曲』白鳥省吾著(昭和二十七年三月二十日・詩とリズム社発行)

*15『北斗の花環』白鳥省吾著(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*16『天葉詩集』白鳥省吾著(大正五年三月一日「新少年社」出版・大空社よりの復刻版)

*17『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

*18『民主的文芸の先駆』白鳥省吾著(大正八年七月五日・新潮社発行)

*19『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*20『明治大正詩選全』(詩話會編・大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*21『白鳥省吾先生覚書』(高橋たか子著・昭和六十二年一月二十日・仙台文学の会発行)

*参考資料

*『明治・大正詩集・日本詩人全集32』(森鴎外他著・清岡卓行編・昭和五十年七月十日五刷・新潮社発行)

*「海上の憂鬱」白鳥省吾作(『日本反戦詩集』・秋山清、伊藤信吉、岡本潤編・昭和四十四六月二十五日・大平出版社発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十三年三月一日発行、平成十四年六月二十四日改訂版発行

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 つづく


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最終更新日: 2002/07/03