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 一. 生い立ち

 

 白鳥省吾は明治二十三年二月二十七日に現在の宮城県栗原郡築館町町屋敷四十七番地に生まれている。本名である。正式にはシロトリセイゴ、筆名シロトリセイゴ、シラトリショウゴと読む。父の名を林作、母の名はきねよ(甲子代)、兄の名を廉蔵と言う。二人兄弟であった。兄廉蔵は省吾より五歳年長であった。白鳥家は田圃が一ヘクタール前後、畑が六十アール程度の所謂自作農であった。父林作は小学校の教師の傍ら、近隣の青年達に漢籍を教えていたが、自分では俳句を作っていた。号を松華と言った。後には省吾の影響を受けて詩作もしていたようである。

 林作の父米蔵は養子であった。米蔵の最初の妻おやえは林作、甚内、しのぶの三人の子供を残して三十九歳で亡くなっている。後妻としてきくえが嫁いでいる。きくえには子供がなかった。省吾の著書に祖母として登場しているのがこのきくえである。白鳥と言う姓は築館町近辺には割と多い姓である。その祖先は奥州平泉の藤原氏の家臣に当たると言う。『栗原郡史』(大正七年七月・栗原郡教育会編纂発行)は築館町の沿革を次のように伝えている。

<安永の頃の書に「大場宮内省補様赤舘と申す古舘をお築き遊ばされ候に付き、築館町と申し伝え候の処、何年の頃の城主と申す儀は相知れ申さず候事」とありて詳かならず、徳川氏治世の頃は伊達氏の所領に属し、金田荘築舘邑と称し明治維新後(中略)明治二十九年六月町制を布き以て今日に至れり、昔は奥州街道の一宿駅として戸数僅か二百に足らざる微々たる小駅に過ぎざりしも、明治十一年栗原郡役所を置かれて郡の中心地となり(以下略)

* 引用図書・『栗原郡史』(大正七年七月・栗原郡教育会編纂発行)


 昭和五十二年十二月某日、私はこれをまとめるために、白鳥省吾の甥に当たられる白鳥敬一先生のお宅を訪れた。敬一先生は私の申し出を快諾して下されて、以下のようなお話をして下さいました。なお、このお話は後年「白鳥省吾生誕百周年記念祭」の時に、敬一先生がご講演された原稿の素案になったものと思われます。

<当時奥州一帯に勢力を持った安部貞任の一族に白鳥八郎泰家と言うものがおりまして、衣川の上流にその居を構えていたそうです。安部貞任一族は源義家に滅ぼされるのですが、白鳥一族も散り散りになってしまいます。その結果、弓や刀を鍬に替えて土着したのが、築館近辺の白鳥姓の始まりと言われております。従って明治の初め頃は築館村五百戸ばかりの戸数に、五十戸ほども白鳥姓があったそうです。

 省吾の父林作は文久二年生まれで、小学校を出ると間もなく授業生(準訓導)となり、築館小学校で教師をしていました。その当時、築館町に滞在していた国学者、久米幹文氏(後の学習院大学教授)の指導を受け、東京遊学のすすめを受けたとのことですが、しかし長男なのでこれを断ったとのことです。このときに、

      炭焼きの炭に焼かれて深山木の/都に出る春は来にけり

と言う茶掛けを頂いたそうです。漢学の造詣が深く中央から書籍を取り寄せていたようです。当時はお金を払って勉強する余裕のある人は少なく、そういう人たちに夜学で漢学を教えていたそうです。省吾もそういう父の影響を受けて幼年時代を過ごしたものと思われます。省吾の母きねよの実家は現在の築館町字高森の部落にあり、築館町の町名となった赤舘を築いた大場宮内省輔の後裔と言うことでございます。

 省吾の母は働き者で、言葉数は少なかったと聞いております。高森の家は小高い丘の上にあって、省吾は子供心にさながら城郭のように感じたようです。きねよの兄は丁髷を結い、その当時としては珍しい火縄銃を持ち、欅に群れてきた小鳥を撃ち落としてはご馳走してくれたそうです。省吾の詩集『大地の愛』(大正八年六月・抒情詩社発行)にはこうした父母、祖父母を唱った詩が載っております。また省吾は自分が生まれたときの逸話を同詩集においてうたっています。省吾の兄廉蔵は、私の父に当たる分けですが、祖父林作と同様に教員検定試験を合格して教師になっております。>

     

    誕生日

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    気軽なお婆さんはいう

    おまえの生まれた時は

    握り拳ほどの黒固固とした顔から

    ムクロジのぱっちりした眼をひらいて

    己の家はどれほどの廣さかと言ひたげに

    四邊を見回したものだ

 * 写真は省吾の父林作の手になる俳句の綴り、松華の号がみられる。

 * 引用図書・ 『大地の愛』(大正八年六月・抒情詩社発行)


 白鳥省吾は明治二十九年築館小学校に入学している。築館小学校は『築館町史』(昭和五十一年発行)によると、明治六年に築館、堀口、萩沢、成田の四ヶ村を連合し、古倉を借りて校舎とし、生徒数六十二名で開講している。そして明治四十一年現在の地に移転したと伝えているから、省吾は古倉の小学校で「尋常小学校四年間、高等小学校高等科二年間」(『栗原郡史』)を勉強し卒業していることになる。

 この当時のエピソードを敬一先生は以下のように話しておられた。

<省吾が四歳の年に日清戦争があり、日本が勝利をおさめ、世の中は富国強兵の時代でした。省吾は兄や近くの子供達と兵隊ごっこをして遊んでいたようです。斜め向かいの紀州屋郵便局には省吾より一歳年上の、後に築館町長になった盛さんやその兄の清次さんがおり、前の家にはコンツァンがおりました。いつも紀州屋の広い庭や、お薬師様の境内が遊び場所でした。紀州屋は明治九年と十四年の二回、明治天皇東北御巡幸の際に御在所にあてられた家柄でした。

 ある日いつものように兵隊ごっこをしようとしたら、省吾は突然家に帰ってしまったそうです。兵隊ごっこではそれぞれが紙で作った肩章を付けて、東西に分かれて戦うわけですが、年少の省吾には肩章を付けてもらえなかったそうです。負けん気の強い省吾はそれが不服で、向かえに来ても肩章を付けてくれるまでは家から出なかったそうです。

 また四人はよく川で釣りをしたり、蟹取りをしたそうです。ある時省吾が淵で溺れかけたことがありました。そのときに清次さんに助けていただいたそうです。幼い頃の省吾は泣くときは大きな声でワァと泣き、後は忘れたようにカラッとしていたそうです。兄廉蔵は延々と泣き、こぼれる涙で板の間に字を書いていたと省吾の祖母が話しておったそうです。

 築館小学校が現在の地に移ったのは明治四十一年であり、それ以前は西横丁にありました。現在の小学校の辺りは昔は白鳥一族の墓地でした。明治四十年頃小学校を移転するために墓地を改装したところ、赤ん坊の頭ぐらいの石がゴロゴロ出てきたそうです。その石には一文字づつ経文が書いてあったそうです。それが荷馬車で二台ばかり出てきたそうです。これは徳川時代末期に亡くなった念仏尼を弔うために信者が寄進したものであろうとのことでした。また省吾は子供の頃の事を、詩集『楽園の途上』(大正十年二月・叢文閣発行)の中でうたっています。>

   

   郷土

 

   私は生まれた、丘の麓の古い家にkazoku.jpg (13810 バイト)

   二月の明け方に

   雪の上を照らす黄金の太陽の下に

   無心に大気を吸い光に触れ

   母の乳を貪り吸った。

   あ々その誕生に祝福あれ

   私は野や丘を兔のやうに駆けり

   火を枯れ草に放って歓呼し

   山に木莓をとり谷に百合の花を折った

   私はおもふ過ぎし日の自然児の友達を。mati01.jpg (17331 バイト)

   わが友等と半日を土蜂と戦ひ

   土中のその巣を掘り返した

   田植えする我が家の人々に苗を撒き

   野天の荒筵の上に共に昼飯を食った。

   (以下略)

 

 * 写真は祖父米蔵の葬儀に帰郷したときのもの(昭和7年4月)

 * 写真は省吾の生家跡地前より望む、お薬師さん(平成11年8月)

 * 引用図書・詩集『楽園の途上』(大正十年二月・叢文閣発行)

 * 引用図書・『築館町史』(昭和五十一年発行)


 

    省吾は当時の様子を『天葉詩集』(大正五年三月一日「新少年社」出版)「生い立ちの記」に自ら書いている。

 <奥羽街道の一駅としての築館村は個数五百戸ほどのさびれた部落であった。南に丘があって半ば丘の上に作られた村である。南の方の小高い丘にはこんもりとした老杉が茂って薬師堂がある。その丘つづきは見晴らしのいいところで、かなたに小さい平原や迫川をへだてて、栗駒の峻峰が奥羽山脈のうちに巨大な姿を横たへている。ここから見た一望の気分は最もよく築館村の気分を語っている。静かな穏やかな古駅の土地、ここに生まれるものは山の揺籃に育つものである。雪が溶け、遠い山が青く輝き、米をつく物置小屋の傍らに梅が咲き鶯が鳴き、お堂の中に喉を鳴らして居た鳩が暖かい日を浴びて飛び立ち、人家ちかい庭に下りる。春の山にひねもす柴を切る農夫は馬にそれを積んで夕方の村をかへってゆく、どこか眠たそうに機織る音のする茅ぶきの家には桃の花が咲いている。

 夏は? 秋は? 冬は? どっと吹き入る凩にも、一夜に積もる四五寸の雪にもそれを彩る何等特異な年中行事のない土地である。只ここに生まれるものは山の揺籃に眠るものである。藍色に美しく煙る遠い山脈に護られている山の子である。> 「山の揺籃」より抜粋

<しんしんと一夜に積もる雪の朝。寒さきびしい雪の夜の楽しみ。それは北の国に生まれたものならでは知らぬ幸福である。冬の夜にはよく夜学というものがあった。その頃学問といえば未だ漢文が盛んであったので、近在での漢学者であった私の父には、よく酒樽や何かを下げては自分の息子に明日から日本外史を教えてくれ等というのがあった。そして夜になると十二畳ほどの座敷には沢山の古ぼけた机が並べられて、小学校の上級生や卒業して家事の手伝いをしている若者や三四人の女も混じって凡そ二十人ほども行儀よく並んだ。学問の程度によって傍らから一人か二人ずつ、一冊の本を習って居た。そのとき外の人達はさきに習った所を復習しているのである。日本外史や日本政記、四書或いは易経、孝経等言うものもあった。中には十五六歳で一里以上の山路を往復するのもあった。今より思うと殆ど奇蹟と思われるほど学問熱があったのだ。> 「雪の夜がたり」より抜粋

<始めて小学校に入学したときの喜びは譬えようもなかった。私は新しい鞄をさげて、其の鞄の中には讀本や習字のいろいろのものを、新しい草履を持って家の前に待って居た。するとやはり今年入学の従兄弟の賢吾さんが上町の方から坂を駆けてくるのであった。其の頃、六七歳までは頭の両側と真中を剃って髪を長くして居たので、その髪が房々と風に揺られて駆けてくるのであった。

  矢張りその年、櫻が満開の時分に薬師山で運動会があって、始めて旗取り競争をやった、夢中になって駆けたが後から二三番であった。ゆたかにめぐらされた幔幕が春のそよ風に揺られて櫻がヒラヒラと散る、その下で尋常三四年の女生徒が、

     忠肝義胆のわが軍はieten.jpg (14883 バイト)

     日出づる国の・・・・・・

と歌い乍ら、丁度舞踏のような手振りをして居た、文句は朧ろに忘れても妙にあの歌の調子は今でも口の端に上るのである。そしてあの時の人達を輝く春の中の一幅の絵のように思い浮かべる。

 然し少年時代の幸福を追憶させるのは学校ではない。学校以外の遊びの時である。

 私の兄の無二の親友の誠次さんは九州屋の息子である。九州屋は私の家の筋向かいの村一番の素封家である。先帝陛下御巡幸の時の行在所もあって、よく其室を拝んだものだ。村の少年の大部分は凡ての遊びを此の金のある、背景のある、そして鷹揚な誠次さんの下に行った。奥ぶかい宏壮な家の後ろは、何千坪とも知れぬ丘の上をイグネ林がめぐっている。平地には倉あり物置あり厩あって其の間を池や畑が点綴している。

 「今日は兵隊ごっこをやるんだ」

 すると忽ち三十人ほどの少年が集まった。>「幸福の森」より抜粋

 

 * 「新少年社」は『天葉詩集』詩集によると「二舎書房」内にあった。白鳥省吾は一時そこの編集主任をしていた。そこから白鳥天葉の名で、新少年文庫『槍の王様』を発行し、第一詩集『世界の一人』を再発行している。

 * 「九州屋」は「紀州屋郵便局」、「誠次さん」は「清次さん」

 * 引用図書・写真・『天葉詩集』(大正五年三月一日「新少年社」出版)の復刻版 

つづく

以上・駿馬    


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最終更新日: 2002/06/10