白鳥省吾物語 第二部 会報二十四号

(平成十三年十月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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   (八)、民衆詩運動第二期と『種蒔く人』 大正十年〜十一年 

 省吾は*1『現代詩の研究』「第三編・民衆詩の起源と発達」に「十一、民衆詩運動第二期」と題して書いている。

<民衆詩は自覚的に社会主義的傾向を持つやうになった。大正十一年一月、賀川豊彦、加藤一夫、福田正夫、百田宗治、白鳥省吾合著の『日本社会詩人詩集』が出た。詩の持つ詠嘆の境地に更に熾烈なる破壊の気分が加はって来た。破壊と共に具体的な建設の標的をも前方に想見する。/中略/人生の藝術化、生活と藝術の問題が、一層、緊張と切実さを加へて来た。詩壇はこの中を通過しなければならない。/中略/詩が普及されて来て、詩を作る人が驚くばかり多くなって来た。そこで民衆詩は在来の民衆詩人の外に労働者出身の詩と労働者自身の詩とを持つやうになった。所謂プロレタリアの詩にはその経歴の外形上からは三種類ある筈である。この三者の関係は相反目するものであるか、同一のものであるかこの事に就いて論じてみたい。>*1『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*写真は『現代詩の研究』

 つづいて、「十二、プロレタリアの詩」を書いているが、これは後に振れたい。

この文より、省吾は大正十一年前後をもって、「民衆詩運動第二期」としているものと思われる。それでは何を根拠に省吾が「民衆詩運動第二期」と呼称したのであろうか、興味の持たれる所である。大正十年の初期まで遡って、この時期の省吾の身辺より類推してみたい。

 福田正夫の始めた『民衆』は井上康文の頑張りも空しく、大正十年一月に十六号をもって終刊となったことは、先に「二、(一)雑誌民衆」の頁で紹介した、*2「民衆創刊前後」に井上康文がその顛末を書き残していた。(『福田正夫・追想と資料』)

 そして大正十年二月十五日秋田県土崎港にて、第一次『種蒔く人』が印刷されている。*3「一八ページのリーフレット型小冊子」で、同人はフランスから帰った小牧近江を中心に、金子洋文、今野賢三、山川亮、畠山松治郎、近江谷友治の六名。(これに安田養蔵を加えて七名ともいわれている。)これは二月号、三月号、四月号の三冊で終わっている。*3『日本近代文学事典第六巻・新聞雑誌』「種蒔く人」(阿部正路担当)より抜粋して紹介する。

<フランスでアンリ=バルビュスのクラルテ運動に加わり、創設期の第三インターナショナルの活動にも触れて帰ってきた小牧は詩を発表したり、マルセル=マルチネの反戦詩を翻訳したり、また評論『恩知らずの乞食』などを執筆し、反戦平和、ロシア革命の擁護、すべての被抑圧階級の解放を訴え、公然とコミンテルンの紹介をおこなって注目をひいた。第一次の三冊は山川を除く同人たちの郷里だった秋田県土崎港で印刷されたところから「土崎版」とも呼ばれる。発行部数二〇〇部。この第一次の小冊子をいったん三号までで打ち切ったあと、/後略/>*3『日本近代文学事典第六巻・新聞雑誌』・日本近代文学館、小田切進編(昭和五十二年十二月八日第二刷・株式会社講談社発行)

 この第一次本は東京青山の小牧近江の「種蒔き社」より発行されたことになっているが、印刷は秋田県土崎港であった。これは印刷費が東京よりも秋田の方が安いこともあって、今野賢三等が奔走して実現したのであった。それで「土崎版」と呼ばれることになったようである。この中の金子洋文は『白樺』の武者小路実篤に心酔し、その自宅で書生のようなことをしていたこともあつたらしい。また今野賢三は同じく『白樺』の有島武郎に心服していたらしい。

 同年十月、小牧近江は畠山松治郎、近江谷友治を除いた四名に村松正俊、佐々木高丸、柳瀬正夢、松本弘仁を同人に加え、東京で『種蒔く人』を再刊したのであった。しかしこれは発行後ただちに発売禁止となった。後れて平林初之輔、青野季吉、前田河広一郎他が加わっている。

 省吾は後に、伊藤信吉との対談において『種蒔く人』との関係について問われ、*4「秋田というところは農民運動のメッカみたいなところですよ。」と答えている。

<伊藤 /『種蒔く人』に民衆詩人がだいぶ参加していることです。『種蒔く人』との関係はどんなだったのでしょう。

白鳥 『種蒔く人』はやはり向こうで呼びかけたんですね。小牧近江君なんかがぜひ参加してくれというわけで長文の手紙を熱心によこしたのです。それはけっこうだというわけで、こっちも、全面的に共鳴したわけですね。それで私の炭坑の詩が載っております。

伊藤 『種蒔く人』は我が国の社会主義文学運動の起点のようになっているけれども、そこに参加するとき、べつにためらいも感じなかったわけですか。

白鳥 そうですね、秋田というところは、農民運動のメッカみたいなところですよ。たいへんなところですよ。だから日本の農民運動の発祥の地というか、/中略/それこそ一つの文学的機運としても頼もしいものだと思って参加したわけですね。/後略/>*4「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「芸術形象性から見た民衆詩人」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 同誌の「民衆詩派の思想的背景」に於いて、伊藤信吉の質問に答えて省吾は以下のように話していた。

<白鳥 たとえば東北に小作争議があると、その指導を頼まれていた。それで諸君行かないかというわけで、大正十年ころでしょうね、私もいっしょに出かけたことがあるんです。/中略/>*5「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「民衆詩派の思想的背景」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 当時省吾は『露西亜評論』の編集委員をしていて、ロシア革命を目の当たりにしていた。そして大正十年十月に創刊された第二次『種蒔く人』に、福田正夫と共に詩を寄せていることが諸誌に紹介されている。*6「白鳥省吾年譜」によると、大正十一年十一月に加藤一夫、福田正夫と共に青森県の弘前高等学校で「ポーとホイットマン」を講演し、秋田県の土崎港にても講演したことが記されている。このとき一泊した大鰐温泉での様子は*7『人生茶談』に「忘れもの」と題して、匿名を使って記されている。

<詩人の太田と小島が大鰐温泉に行った時のことである。無産運動の盛んな時代で、弘前での講演会が小作争議などのリーダ格なので、当局が眼を光らして尾行がつくという始末であった。/後略/>*7『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)

 第二次『種蒔く人』は木曽隆一著*8「2プロレタリア文学運動の成立ー『種蒔く人』の創刊ー」には以下のように紹介されている。

<再刊『種蒔く人』は、「行動と批判」の文字を表紙題字下にかかげ、菊判五六ぺーじ建て、三千部でもう一度「創刊号」の名で発行された。/中略/つづいて題言『思想家に訴ふ』でロシア飢饉の救援を呼びかけながら革命の擁護を大胆に訴えた。

 とうとう黙って居られぬ時が来た。/それは資本主義や帝国主義に呪はれたロシアの民衆が更に自然の敵し難い災禍に魅せられ、草や木とともに涸死しょうとしている。/中略/思想家よ、汝の行動と汝の叫びによって、瀕死せんとする同胞に、パンと医薬を与へしめよ。/後略/

 右の創刊宣言(二号以下にもつづけて掲載)と題言に明らかなように、『種蒔く人』は文学中心の雑誌であったが、直接にはプロレタリア文学運動を目的として発刊されたというより、クラルテ運動の日本での展開を目ざして、ロシア革命の擁護とプロレタリア・インターナショナリズムの主張を積極的にかかげ、文化的・思想的啓蒙雑誌として出発したのだった。宣言のまわりくどい抽象的な表現は検閲への苦慮によるものだが、また当時の社会的・社会主義的傾向に立つ文学者の殆どを網羅した広範な執筆家への配慮とも受けとれる。そうした苦心をはらいながら、「革命の心理」の擁護と、無産階級による「世界革命」を訴えながら『種蒔く人』は登場したのであった。/後略/>*8「2プロレタリア文学運動の成立ー『種蒔く人』の創刊ー」木曽隆一著・小田切秀雄編(『講座日本近代文学史・4・プロレタリア文学と芸術派の文学・昭和上』「第一五章プロレタリア学運動の成立」昭和三十二年二月十五日・大月書店発行)

 この第二次『種蒔く人』に民衆派詩人、福田正夫、百田宗治、富田砕花、白鳥省吾が参加していることが記されている。その他、秋田雨雀、有島武郎、加藤一夫、石川三四郎、江口渙、川路柳虹、小川未明、神近市子、長谷川如是閑、林倭衛、馬場孤蝶、平林初之輔、藤井真澄、藤森成吉、宮地嘉六、宮島資夫、山川菊栄、吉江喬松、アナトール・フランス、アンリ・バルビュス、エドワード・カーペンタ、クリスチャン・コルネリセン、ポール・ジル、ポール・ルクリュ、ワシリイ・エロシェンコ等総勢二十九名の名が連ねられている。そして、

<第三号からは武者小路実篤、大山郁夫、小泉鉄が加わった。これらすべての人が、小牧によれば「執筆家」になることを承諾したということであり、/後略/>8「2プロレタリア文学運動の成立ー『種蒔く人』の創刊ー」木曽隆一著・小田切秀雄編(『講座日本近代文学史・4・プロレタリア文学と芸術派の文学・昭和上』「第一五章プロレタリア学運動の成立」昭和三十二年二月十五日・大月書店発行)

 というものであった。このあと「2、プロレタリア文学運動の成立ー『種蒔く人』の創刊ー」には、「インテリゲンチャの思想上の共同戦線が結ばれたのだ。」と記している。又次のようにも記している。「はじめ反戦平和のために思想運動のいわば機関誌として出発した『種蒔く人』は、右のような活動を積極的に展開しながら、同時にプロレタリア文学運動の理論的指導誌としての大きな役割をも演じた。」

 省吾はこの時点で、まぎれもない社会主義運動の一翼を詩人の立場から担っていたのであった。後に糾弾されるプロレタリア詩人達のお先棒を担いでいたことになるのであった。伊藤信吉は*9「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・下」において、省吾の『現代詩の研究』を採りあげ、「民衆詩運動第二期」について以下のように書いている。

<民衆詩派の具体的成果を、省吾は『日本社会詩人詩集』をそれとして例示し、この辺りから後を「民衆詩運動第二期」とした。/中略/おおざっぱな言い方になるけれども福田正夫、白鳥省吾の思想的性格について、敢えて分類するれば前者はアナキズムの流れに近く、後者はマルキシズムに近い。/中略/「民衆詩運動第二期」論は、やがて全面的に興隆したプロレタリア文学・詩の実際にそのまま当てはまるものであった。

 これをややくわしく言うと、第二次『種蒔く人』(一九二一・一〇創刊)、『新興文学』(一九二二・一一創刊)、『赤と黒』(一九二三・一創刊)その他の諸雑誌の刊行から、アナキズム系、マルキシズム系の別なく、いっさいの社会主義作家、評論家、詩人をひっくるめて一九二五年一二月結成の「日本プロレタリア文芸聯盟」にいたるまで、そのプロレタリア文学運動形成の過程は、作品と運動の実際において、ほとんどそのまま「民衆詩運動第二期」論の言うがごとくであった。このぎりぎりの論旨において、既にはやく、省吾は一人のプロレタリア詩人であった。近代から現代詩への詩的展開において、そのような一点に立つ詩人であった。/後略/>*9「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・下」伊藤信吉著(『文学』1986・VOL54・昭和六十一年六月十日・岩波書店発行)

 民衆詩派が当時の社会主義運動に参加していったことは、昭和三十三年三月号*10『文学』誌上の「日本の文芸雑誌」、山田清三郎著「黒煙」「労働文学」、稲垣達郎著「種蒔く人・中」にも記されている。『黒煙』は「小川未明のもとに集まった文学グループ」で、既に大正八年三月の創刊(大正九年二月号で廃刊)で民衆芸術を標榜し、『労働文学』も同年同月創刊(同年六月四号で廃刊)、同人として加藤一夫、福田正夫、百田宗治等民衆詩人の名をあげている。そして稲垣達郎は前掲の『種蒔く人』を詳しく紹介している。また*11『「種蒔く人」の潮流・世界主義・平和の文学』にも記されている。松永伍一も*12『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」の中でふれている。

 第一次世界大戦の戦後恐慌のさなか、大正九年十二月に「社会主義同盟」が創立されていた。これに加藤一夫、小川未明、藤森成吉等が参加していた。そして十年から十一年にかけて『種蒔く人』からの誘いがあった。「インテリゲンチャの思想上の共同戦線」に省吾等「民衆詩派」の詩人たちが積極的に参加していった様子が伺える。これが、省吾の言う「民衆詩運動第二期」であったと思われる。

 しかし、小牧近江がバルビュスの小説「クラルテ」から学んで、その最終目標としたものは、人類の永遠の平和を目指した「反戦運動」であったものと思われる。その過程に『種蒔く人』があったものと思われる。省吾が小牧近江の呼びかけに賛同したのは、この「反戦運動」に共鳴したからではないかと思われる。

 大正十一年(1922年)は省吾にとって厄多い年であったようである。新年早々の発禁、暮れの北原白秋との論争と・・・。この時期省吾は雑誌『鐵道世界』、『逓信時報』の詩の選者を勤めていたらしい。第二次世界大戦後、*13『詩學』の「勤労詩論」に「勤労詩の詩的展望」と題して遠地輝武が当時を振り返って、省吾を以下のように評している。

<詩集「どん底で歌ふ」に促されて、ようやく新しい労働者詩人のうた聲は各所におこりはじめた。雑誌「鐵道世界」「逓信時報」などに現れた投稿詩がそれである。これらはもともとその雑誌の選者白鳥省吾の民衆派的な影響もあってとりわけ弱々しく暗いが、その素朴な感奮と幼い技術をもつて搾取者たちの強制する労働強化に不満と抗議をむけているのは、やはり労働詩人でなければうたえない本能的な実感の表現であろう。>*13「勤労詩の詩的展望」遠地輝武著(『詩學』昭和二十六年五月三十日・詩學社発行)

 しかし、どう批評しようと批評されようと、省吾は必要とされて詩の選者をしていたのであり、動かすことの出来ない当時の社会世情と受け止めたい。省吾はこれら投稿詩人の作品を後に、自著*14『新しい詩の國へ』、『現代詩の研究』に紹介している。

 一月七日、賀川豊彦、加藤一夫、百田宗治、富田砕花、福田正夫・白鳥省吾共編の*15『日本社会詩人詩集』が「日本評論社出版部」より出版されている。これには加川豊彦二十篇、加藤一夫十六編、福田正夫十三編、百田宗治八篇、富田砕花十一篇、白鳥省吾二十篇の詩を収めている。「白鳥省吾年譜」、*16『日本近代文学大事典第六巻・索引』には、白鳥省吾の「殺戮の殿堂」、百田宗治の「騒擾の上に」「五月祭りの朝」、加藤一夫の「破壊」「幸福」が、全部伏せ字、その筋の注意により削除され、官憲により発売中止となったことが記されている。これは三日後、一月十日に出版された*17『泰西社会詩人詩集』と姉妹編になっているらしい。『日本近代文学大事典第六巻・索引』には以下のように紹介されている。

<自覚的に社会主義的傾向を持つようになった民衆詩運動第二期時代の賀川豊彦、白鳥省吾、百田宗治、、加藤一夫、富田砕花、福田正夫の共著。/中略/鈴木茂三郎の「社会文庫」本には「右は都合により削除せり御了察を乞ふ」というガリ刷り一枚が本の冒頭に挿入されている。同時に出た『泰西社会詩人詩集』と姉妹編。>*16『日本近代文学大事典第六巻・索引』日本近代文学館、小田切進編(昭和五十三年三月十五日第一刷・株式会社講談社発行)

 伊藤信吉は*18『日本の詩歌13』の後尾に「詩人の肖像」を書いているが、その中の百田宗治の紹介の頁「プロレタリア詩の先駆的役割」に於いて、以下のように記している。

<白鳥省吾、福田正夫、富田砕花、百田宗治らによって形成された民衆詩派のアンソロジー『日本社会詩人詩集』(大正十一年十一月刊)が刊行されたとき、この「五月祭りの朝」は、題名だけが印刷され、本文は「、、、、、、、、」と伏せ字になっていた。題名だけがあって本文の無い詩。『日本社会詩人詩集』のそのページは見る目に無惨である。しかもこのアンソロジーは発売禁止になった。/後略/>*18「詩人の肖像」「プロレタリア詩の先駆的役割」伊藤信吉著(『日本の詩歌13』昭和五九年五月十五日再版・中央公論社発行)

 前掲のように、同月十日、同じ出版社より『泰西社会詩人詩集』が発刊されている。これは「民衆詩運動第二期」に入った時代の福田正夫、白鳥省吾、百田宗治、富田砕花の共訳である。これには福田正夫訳の「エマーソン詩抄」八篇、省吾訳の「ホイットマン詩抄」十六篇、百田宗治訳の「ベルファラン詩抄」九篇、福田正夫、富田砕花訳の「カーペンタ詩抄」十一篇、福田正夫訳の「トラウベル詩抄」五篇が寄せられている。

 また伊藤信吉は*19「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」に於いて、

<このアンソロジーの発禁は、民衆詩人から社会的詩人に(変貌)した詩人たちが、その途端に、権力の法網をかぶせられたということである。ひるがえって言えば発禁の災厄は、民衆派詩人が社会主義的、無政府主義的詩人に似た政治的体験をしたということに他ならない。/中略/

 この詩人における次の災厄体験は、同年三月十五日の「種蒔き社第一回文藝講演会」禁止事件で、それが「警官はサーベルを鳴らし」付記の「「種蒔き社講演中止」だった。そしてそれが詩「黒い風」(サブタイトル「その夜の人々」)になって『早稲田文学』四月号に発表された。>*19「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

と書き、「種蒔き社第一回文藝講演会」禁止事件を紹介している。この中で採りあげている詩「黒い風」は、同年八月に出版された省吾の第五詩集*20『若き郷愁』「世紀の囁き」の中に収録されているもので、「社会運動が歌はれ、時代の映射といふものが濃く感ぜられる。」と省吾が後に『現代詩の研究』の中で解説している。これは*21『明治大正詩選全』にも採録されている。

     黒い風   ー その夜の人々に ー

   春ながら黒いさむい夜風のなかに

   古い暗紅色のゴシックの會堂が

   重々しくその扉を閉ぢている、

   桎梏を嵌められたやうに

   永遠の唖のやうに寂しく・・・・・。

   ああその内にこそ明るい灯がともり

   千の聴衆と温かく

   吾等の新しい時代の結合を語るべく

   豊かな言葉が花さくべきである。

   しかも吾等と共に貧しく不幸なる

   『安寧秩序を保つための労働者』は

   その扉の前に両手をひろげ

   あらゆる威嚇の暴言を吐き

   サーベルを鳴らし鋼鐵をつけた靴の裏で

   吾等の顔を蹴らうとして居る。

     

   アナクロニズムの手先に操られる彼等を

   憤ふるには餘りに哀れに

   笑ふには餘に痛ましい。

   正しき眞理のために戦ふ

   おお東方の若き選手は

   彼等を尻目にかけ

   鷲のごとく更に更に果敢である。

   花のやうな若い女性も

   手に餘まる『飛びゆく種子』の

   宣傳ビラを持って大道に微笑みながら

   往き来る人にそれを手渡している。

   私は其処に『時代』を見る

   吾等の生活の永遠を感ずる。

   春ながら黒いさむい夜風は

   私の帽子をも外套をも心身の健康をも

   一切の所有をも奪はうとするやうに吹く、

   しかも見よ、空いっぱいを飾る星

   いつもより澤山のかがやく星

   おお私はそれらと固く地上の楽園を約束する。

* 引用詩は『若き郷愁』白鳥省吾著(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)より

* 写真は『泰西社会詩人詩集』(大正十一年一月十日・日本評論社出版部発行)資料提供・白鳥省吾記念館

 伊藤信吉はこの全六連中(七連)の第二、第三、四連を紹介し、このあと、『種蒔く人』の講演会予定にふれ、「講演会予告は三月三日午後六時、神田青年会館となっていたが、何かの都合で実際は三月十五日だった。」と書いているが、「白鳥省吾年譜」には、二月十五日の事として紹介されている。

<二月十五日種蒔き社、主催の文芸と劇の会が神田青年会館にあり、白鳥は「現代の詩と社会」の題で出席したが、ダントン劇がいけないと講演も共に開場禁止さる。関係者は藤森成吉、秋田雨雀、佐々木孝丸の諸氏>*6「白鳥省吾年譜」詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

 二月十五日は「白鳥省吾年譜」の誤植と思われる。伊藤信吉はもう少し詳しく書いている。先の「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」よりつづいて紹介する。

<サブタイトル「その夜の人々に」の秋田雨雀、吉江孤雁、藤森成吉、神近市子、前田河広一郎らの講演、白鳥省吾の詩朗読、佐々木孝丸ら「種蒔き社」同人によるロマン・ロラン作・民衆劇『ダントン』第三幕の朗読がある筈だった。それが当日の開会間際に開催禁止となった。/中略/つまり開会すら有無を言わせず禁圧されたのである。>*19「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

 伊藤信吉はこの後、小牧近江が『種蒔く人』五月号に書いていることを紹介している。

<『早稲田文学』四月号にに寄せた「時代の映写」中の「黒い風」を評し、「僕はその世の人々の一人として白鳥氏が、あれによって一種の寂しさを味はった僕たちに生活の永遠を強く感ぜしめてくれたことを感謝する・・・後略。

という共感が述べられた。小牧近江は講演会の主催者だから、省吾の秩序だった憤懣言辞に共感するのは当然だけれども、それにかさねて社会主義文学の見地から、詩作品による憤懣、抗議をやはり大事なことにおもったのである。/中略/藤森成吉氏と連れ立った省吾の姿が暗闇に消えてゆくのを見送っていると「風が少し激しくなりかけて『種蒔き社第一回文藝講演会禁止さる』のビラがバラバラと音を立てて将にはげようとしていた」とむすんだ。/後略/>*19「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

 省吾が「種蒔き社」の人々と関係したのは「民衆詩派」詩人として当然のことであったと思われる。この時の裏話を省吾の息女白鳥園枝女史は、『白鳥省吾のふるさと逍遙』編集委員会の時に、「この時父は初めて検挙され、一晩拘束されたと聞いております」とお話しなされておられた。

 同年二月二十六日早稲田大学英文学会主催で、「ホイットマン没後三十年祭」の記念講演があり、有島武郎、吉田絃二郎、日夏耿之介、白鳥省吾が講演している。そして三月十日「詩話会」主催で、「日本詩人講演会」を神田明治会館にて、十八日には横浜メソジスト教会で開催している。講師は佐藤惣之助、百田宗治、川路柳虹、福士幸次郎、白鳥省吾達であったことが「白鳥省吾年譜」に紹介されている。

 それから後の「種蒔き社第一回文芸講演会」禁止事件であったものと思われる。

 「ホイットマン没後三十年祭」の記念講演について省吾は*22『文人今昔』の「有島武郎」の頁に以下のように記している。

<有島武郎氏が軽井沢で死ぬ前年の二月二十六日、早稲田大学英文学科の主催で「「ホイットマン没後三十年記念講演会」が催された。講師は有島武郎、吉田絃二郎、日夏耿之介の諸氏と私の四人であった。/有島氏は会の始まるときに「草の葉」のなかの「ブルックリンの渡船場を渡りて」の一個所を指して「この適訳はどう訳すのでしょうか」と私にきいた。「それは一種の造語らしいので、直訳するほかないと思っています」と答えた。潮流の波の形容であった。日夏君は「僕はホイットマンのことはカーペンターの「ホイットマン訪問記」を読んだだけだが・・・」といっていた。

 私は有島氏の謙遜の心構えに感心した。/中略/有島氏の講演はホイットマンと一英夫人アン・ギリクリストの「愛の書簡」に就いてであった。私はこの本が丸善に行ったとき二冊来ているのを見て、一冊買ったので、それでは一冊は有島氏が買ったのだなと思った。/中略/ホイットマンの近くに二年間も住んでいた清純なプラトニックな愛情の記録である。/中略/この講演の心持ちは恋愛の悩みを抱いていたので、そうした心境に向いていたとも、後から察せられた。>*22『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

 講演会が終わって、英文科の横山有策教授、講師、学生等と共に晩餐会があった。会後、省吾はうすら寒い小雨のぱらつく中を「外套も着ず、羽織を二枚重ねて、雪駄をはいて・・・」帰っていく有島武郎に「さようなら」と言って別れた。

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*2「民衆創刊前後」井上康文著(『福田正夫・追想と資料』・昭和四十七年三月二十六日・小田原市立図書館編・発行)

*3『日本近代文学事典第六巻・新聞雑誌』(日本近代文学館、小田切進編・昭和五十二年十二月八日第二刷・株式会社講談社発行)

*4「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「芸術形象性から見た民衆詩人」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*5「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「民衆詩派の思想的背景」((『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*6「白鳥省吾年譜」(白鳥省吾著・詩集『北斗の花環』・昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*7『人生茶談』白鳥省吾著(昭和三十一年四月二十日採光社発行)

*8「2プロレタリア文学運動の成立ー『種蒔く人』の創刊ー」木曽隆一著(小田切秀雄編『講座日本近代文学史・4・プロレタリア文学と芸術派の文学・昭和上』・「第一五章プロレタリア学運動の成立」・昭和三十二年二月十五日・大月書店発行)

*9「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・下」伊藤信吉著(『文学』1986・VOL54・昭和六十一年六月十日・岩波書店発行)

*10<「日本の文芸雑誌」「『黒煙』『労働文学』」山田清三郎著、「種蒔く人・中」稲垣達郎著>(『文学』1958・3・VOL.26・昭和三十三年三月十日・岩波書店発行)

*11『「種蒔く人」の潮流・世界主義・平和の文学』分銅淳作序文(平成十一年五月二十二日・文治堂書店発行) 

*12『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月・法政大学出版局発行)

*13「勤労詩の詩的展望」遠地輝武著(『詩學』・昭和二十六年五月三十日・詩學社発行)

*14『新しい詩の國へ』白鳥省吾著(大正十五年十二月二十日・一誠社発行)

*15『日本社会詩人詩集』賀川豊彦、加藤一夫、百田宗治、富田砕花、福田正夫・白鳥省吾共編(大正十一年一月七日・日本評論社出版部発行)

*16『日本近代文学大事典第六巻・索引』(日本近代文学館、小田切進編・昭和五十三年三月十五日第一刷・株式会社講談社発行)

*17『泰西社会詩人詩集』福田正夫、白鳥省吾、百田宗治、富田砕花共訳(大正十一年一月十日・日本評論社出版部発行)

*18「詩人の肖像」「プロレタリア詩の先駆的役割」伊藤信吉著(『日本の詩歌13』・昭和五九年五月十五日再版・中央公論社発行)

*19「白鳥省吾論・民衆派のプロレタリア詩的先駆性・中」伊藤信吉著(『文学』1985・VOL53・昭和六十年六月十日・岩波書店発行)

*20『若き郷愁』白鳥省吾著(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)

*21『明治大正詩選全』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編集(「詩話會」編大正十四年二月十三日・新潮社発行)

*22『文人今昔』白鳥省吾著(昭和五十三年九月三十日・新樹社発行)

* 参考資料

* 『日本の歴史・23大正デモクラシー』(昭和四十六年十月十日・中央公論社発行)

* 『新潮日本文学小辞典』(昭和四十三年一月二十日・新潮社発行) 

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年五月改訂版発行

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最終更新日: 2002/07/24