省吾の足跡を訪ねて 


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 写真は平成12年10月21日午前11時半頃のお釜の表情です。午後から幾分晴れ上がってきましたが、風は相変わらず強かった。

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 写真左、中央にぽつぽつと見えるのが、人間である。刈田岳より熊野岳方面を望む。

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 刈田岳より熊野岳方面を望む。帰りは、青根温泉廻りでかえろうと、峨々温泉に降りたら、あいにく通行止めだった。しょうがないので、ここの小さな露天風呂に浸かってきました。残念ながら湯量豊富な風呂には入れなかった。秘湯の湯でもあるそうだが・・・。

 記念写真

 

「峨々温泉で見た画帳」

蔵王 h12.10.21

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  白鳥省吾は『人生茶談』(昭和三十一年四月二十日・採光社発行)に「峨々温泉で見た画帳」と題して書いている。抜粋して紹介する。

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 日暮れて道遠しという焦燥は五十歳を越した人は誰しも感ずるであろうが、短命でなお不朽の名を残した幾多の芸術のあることも考えられる。

 先年、土井晩翠翁が文化勲章を受けた時、私は仙台に招かれて一場の話をしたのであるが、有名な詩「荒城の月」は翁が二十八歳の時の作であり、作曲者の滝廉太郎は二十二歳であったということだ。滝氏は二十五歳で死んだが、翁は八十三歳で長逝された。

 また人間の寿命について連想されるのは、よく旅先で雅帖に一筆と頼まれるが、その中には既に亡き知人友人の筆跡を見ることである。このめぐりあいは寂しくもあり、なつかしくもある。

 「ほほう、内ヶ崎作三郎先生も来たんだね。○○さんも、これではまるで過去帳だね」などと、先年宮城県の青根温泉の宿舎で笑ったことがある。 笑いはしたがなかなか厳粛な事実でもある。青根から四キロ余の山道を徒歩して峨々温泉で、やはり知人の筆跡を見てなつかしく書き写した。ここはもう蔵王山の三合目位になるだろう。

 雪の肌に抱かれてあり

   峨々の温泉ゆの

      春の夕を淋しくぞねる   

               大正十三年三月十四日   吉田初三郎

 その頃はまだランプだったそうでランプの絵が添えてある。吉田画伯は、人も知る観光鳥瞰図の創始者で、内地はもとより満鮮まで足跡普ねく、名所及び都市の鳥瞰図を数限りなく残している。

 十数年前のある秋に日本ラインのほとりの画伯の別荘に、吉井勇氏等と共に招かれて松茸狩りに興じたことがなつかしい思い出だ。中略。

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 感尽きて雪うつ滝や峨々の霧

               一九二二、四、二五   佐藤惣之助

 佐藤君が峨々を訪ねたというのは三十歳代で、私達が詩話会から「日本詩人」を出していた頃だ。山中の温泉が余程気に入ったらしく、「何しろ山桜が咲いている、根本に雪があるんだからなア」といったり、陽気な気質なので帰途大河原町の中略・

 太平洋戦争中には「拝啓御無沙汰しましたが・・・・・」などの歌謡で、一躍レコード界の寵児となり、「今日は宴会が二つもあるので」などといそがしがっていたが、義兄の萩原朔太郎君の葬式に忙殺され、過労のためもあってかそれから旬日もたたぬ間にぽっくりと脳溢血で亡くなった。

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 その次にあるのは、

 明治丙午天長佳節不忘山中峨々温泉に在りて

    菊の日の菊に忘れずの湯となりぬ   碧梧桐

 であった。丙午は明治三十九年である。河東碧梧桐が芭蕉の「奥の細道」を模して東北の旅に出たその足跡で、峨々温泉は別名不忘の湯ともいう。湯の量が素晴らしく豊富で、湯ぶねが木造なので親しみがあった。この句は碧梧桐の紀行文集「三千里」にも載っている。

 碧梧桐氏とは画家水木伸一君の護国寺裏大塚に於ける家で、一夕の宴を共にしたことがあり、間もなく目白の自宅でチフスのため亡くなられたのであった。

 峨々温泉は竹内家一軒の経営であるが、数棟に二、三百名を容れる設備があり、私の行ったのは十一月二十三日であったが、既に数回の雪があったという。後略。  

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最終更新日: 2004/10/16