「白鳥省吾のペンネームについて」その後の調

                                   白鳥省吾翻訳『シルレル物語』と『ゲエテー物語』について
 

 

白鳥省吾研究会編

 ○ 白鳥省吾のペンネームについて (本名・しろとりせいご。筆名・しろとりせいご・しらとりしょうご)

 

 本名は白鳥省吾「しろとりせいご」という。郷里の「築館町図書館」、「白鳥省吾記念館」、近親者の方々の読みは本名で統一している。

 新潮社版の書籍では、「しらとりしょうご」と紹介しているものもある。ちなみに*1『新潮日本文学小辞典』(S43)自著*2『旅情カバン』(S29)には「しらとりしょうご」とふりがながふってある。また*3『明治・大正詩集』(S44)*4『現代名詩選』(S44)*5『大正の文学∧近代文学史2∨』(S47)*6『現代詩読本5・高村光太郎』(S53)、なども「しらとりしょうご」「shiratori shogo」とふりがながふってある。近年出版された新潮社版の*7『新潮日本人名辞典』(H7)は「しろとりせいご」「しらとりしょうご」と両方のふりがなをふっている。この他、*8『民謡歴史散歩 北海道・東北篇』(S36)*9『別冊太陽近代詩人百人』(S53)*10『宮城県百科事典』(S57)などは「しらとりせいご」とふりがながふってある。

 では、省吾自身はどうしていたかというと・・・、『東北新生園入園者自治会40年史』に「土井晩翠と白鳥省吾の愛情によってつづられた新生園々歌」と題して佐々木三玉氏が、「三月十一日に突然来園され」(昭和二十八年)てとして、以下のように記している。

∧この度の来園は新生園々歌作成の為とみられる。まず園長よりの紹介があって後、氏は大要次のように話された。

「私の名は本当はシロトリセイゴなのですけれど、みなシラトリショウゴと呼びますので、これをペンネームに用いています。」/後略/∨*11『忘れられた地の群像・東北新生園入園者自治会40年史』(H9)

 

 この他、中学時代の学友会雑誌には「白羽鳥」のペンネームが見える。省吾の著書には、投書雑誌『文章世界』その他に「白鳥野石」のペンネームを使っていたと記されている。自家版未発表の*12『Illusionの棲家』にも「白鳥野石」と署名されている。『文章世界』大正八年十月号には「白鳥省吾氏より」と題して

∧(前略)文章世界九月号を拝読いたし居る中に、詩の投書に小生の十一年前同誌に入選したものと同一なるもの入賞し居るを発見いたし驚き入り候。即ち入賞第三位の『鳶の歌』(緋夏左千夫)は小生が蒲原有明氏選当時白鳥野石の雅号にて明治四十二年夏頃?(記者註、第四巻第五号)詩欄に掲載されたるもの、当人の今後のためを思うて一報致し候。∨*13『文章世界』第十四巻十号

 と記されている。明治四十一年二月一日付けの*14『文庫』の「文庫欄」には「五日間」と題して随筆を「白鳥銀河」の筆名で書いている。(前掲)これは早稲田大学入学前後に用いていたペンネームである。白鳥省吾著、詩集『天葉詩集』には「白鳥天葉」のペンネームを使用している。このほか、昭和初期の『文芸春秋』の民謡欄を担当していたときに用いていた「烏水生」「江南生」などがある。

* 写真は白鳥野石の直筆名がある、自家版詩集『Illusionの棲家』題字(未発表)

 

 これは自身の詩集『北斗の花環』の白鳥省吾「年譜」昭和十四年の項に、

∧五月、文芸春秋が昭和十一年に新民謡欄を創設以来、歌謡に関する評論を烏水生、或は江南生の匿名で此の月まで四年に亘って書いた。∨*15詩集『北斗の花環』「年譜」

 と記されている。

 手元にある『文藝春秋』昭和十一年九月号の「六号記事」「新民謡」(二〇〇頁)欄には以下のように記されている。

∧オリンピックの唄、防空演習の唄。新民謡の触角も時代の波動と共に忙しい。/そしていづれもが、例の「国民歌謡」ていふレッテルの下に、ラヂオを通じて、念入りに何度も国民の心へ耳へ吹き込もうとする。/そして、その国民歌謡として選ばれたものの作者は、末広厳太郎であり、某新聞の当選歌であるのだから、一体、日本の詩人といふものは何処にどんな仕事をしているのだらうかといふことにもなる。/正当な詩人をこれほどまでに引込ませて、御門違ひの者が飛び出して活躍しているのは決して結構なことではない。/中略/

 もっともこの程度の技量といふものは、軍歌、唱歌、歌謡の普及している今日では、ちょと小才のきく誰でもが持ち合わせているとも言へる。/さて明朗日本を目ざして、だいぶ健全な唄がきかれるやうになった。そして流行歌「忘れちゃいやン」の鼻歌の唄レコードが発売禁止され、同巧の他のものも同じ厄に遇ったことから、内務省の音頭取りで常置的な懇談会が「街の唄」の統制機関として設けられるといふ説さへある。/新民謡の世界もこれでなかなか面白くなってくるといふものだ。/軍歌や国防や運動に関する歌はもとより勇敢と健全であらうが、人間はそれだけでは満足出来ずに、半面に空虚と虚勢を感ずることも偽らぬ本身だらう。それらは国體の歌だからだ。/独りで感情に溺れる楽しみと弱さをねらった廃頽と感傷の唄が、今までの流行歌なのだ。/だが、それらの感傷の外に、健全の外に、清純な情緒の新の唄が有り得ることをも自覚せよ。(烏水生)∨*16『文藝春秋』菊池寛編輯

 

 以上より、省吾自身は「しろとりせいご」「しらとりしょうご」をペンネームとして使用していた、と述べていたことが分かった。もう一つのペンネーム「しらとりせいご」であるが、これを省吾が自ら使用したとしている文献は見つからなかった。手持ちの資料の中で、このふりがなをふってある書籍で最も古いものは、昭和八年に発行された*17新潮文庫『大正詩選』である。これらを発行年別に整理すると以下のようになった。

 

 ● 「しろとりせいご」

   *18『河北新報』夕刊「校歌をたずねて」(S31)河北新報社発行

   *7『新潮日本人名辞典』(H7)新潮社発行

   *11『忘れられた地の群像・東北新生園入園者自治会40年史』(H9)東北新生園入園者自治会発行

 

 ● 「しらとりしょうご」「shiratori shogo」

   *2『旅情カバン』(S29)新潮社発行/*19『國文學』「大正詩壇のの思出」(S35)學燈社発行

   *1『新潮日本文学小辞典』(S43)新潮社発行/*3『明治・大正詩集』(S44)新潮社発行

   *4『現代名詩選』(S44)新潮社発行/*5『大正の文学∧近代文学史2∨』(S47)有斐閣発行

   *6『現代詩読本5・高村光太郎』(S53)思潮社発行/*7『新潮日本人名辞典』(H7)新潮社発行

   *11『忘れられた地の群像・東北新生園入園者自治会40年史』(H9)東北新生園入園者自治会発行

 

 ● 「しらとりせいご」

   *17 新潮文庫『大正詩選』(S8)新潮社発行/*20『現代日本文学者辞典』(S25)武蔵野書院発行

   *8『民謡歴史散歩北海道・東北篇』(S36)河出書房新社発行/*21『日本文学小辞典』(S44)明治書院発行   *9『別冊太陽近代詩人百人』(S53)平凡社発行/*10『宮城県百科事典』(S57)河北新報社発行

   *22『児童文学事典』(S63)東京書籍株式会社発行/*23『現代詩人群像』(H3)笠間書院発行

   *24『日本現代文学大事典 人名・事項篇』(H6)株式会社明治書院発行

 

 何故「しらとりせいご」が多く使われるようになったのか。考えられるのは、辞典類に「しらとりせいご」のふりがなをふってあるものが多いところからと思われる。しかし、合著を除いた省吾の自著の中で「しらとりせいご」とふりがながふってあるものは見つからなかった。よって当研究会では、現時点では新潮社版人名辞典の「しろとりせいご」「しらとりしょうご」を支持することにした。

 この他、「白羽鳥」「白鳥野石」「白鳥銀河」「白鳥天葉」「烏水生」「江南生」などが使われていたことは前述した。

 

* 参考引用資料 資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『新潮日本文学小辞典』伊藤整・川端康成・瀬沼茂樹・中村光夫・久松潜一・平野謙・山本健吉・吉田精一編(昭和四十三年  一月二十日初版・五十一年七月十日6刷・新潮社発行)

*2『旅情カバン』白鳥省吾著(昭和二十九年六月二十日・新潮社発行)

*3『明治・大正詩集』(昭和四十四年三月二十五日・新潮社発行)

*4『現代名詩選』(昭和四十四年八月二十五日・新潮社発行)

*5『大正の文学近代文学史2』(昭和四十七年九月十五日・有斐閣発行)

*6『現代詩読本5・高村光太郎』(昭和五十三年十二月二十日・思潮社発行)

*7『新潮日本人名辞典』新潮社辞典編集部編(一九九五年五月三十日・新潮社発行)

*8『民謡歴史散歩 北海道・東北篇』池田弥三郎・宮尾しげを編(昭和三十六年十二月二十日・河出書房新社発行)

*9『別冊太陽近代詩人百人』(昭和五十三年九月二十五日・平凡社発行)

*10『宮城県百科事典』河北新報社編(昭和五十七年四月二十三日・河北新報社発行)

*11『忘れられた地の群像・東北新生園入園者自治会40年史』(平成九年九月七日・東北新生園入園者自治会発行)

*12 自家版詩集『ILLUSIONの棲家』(未発表)

*13『文章世界』第十四巻十号(大正八年十月一日・博文館発行)

*14『文庫』第三十六巻第三号(明治四十一年二月一日・内外出版協会発行)

*15 詩集『北斗の花環』「年譜」白鳥省吾著(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*16『文藝春秋』菊池寛編輯(昭和十一年九月一日・文芸春秋社発行)

*17 新潮文庫『大正詩選』白鳥省吾、川路柳虹、福田正夫編(昭和八年八月二十五日・新潮社発行)

*18『河北新報』夕刊(昭和三十一年七月二十二日〜八月二十九日)

*19『國文學』「大正詩壇のの思出」白鳥省吾著(昭和三十五年五月二十日學燈社発行)

*20『現代日本文学者辞典』(昭和二十五年五月三十日・武蔵野書院発行)

*21『日本文学小辞典』(昭和四十四年十一月十五日・株式会社明治書院発行)

*22『児童文学事典』日本児童文学学会編(一九八八年四月八日・東京書籍株式会社発行)

*23『現代詩人群像』乙骨明夫著(平成三年五月二十五日・笠間書院発行)

*24『日本現代文学大事典 人名・事項篇』(平成六年六月二十日・株式会社明治書院発行)

* 『詩歌人名辞典』(一九九三年四月二十一日・日外アソシエーツ株式会社発行)

 


 

   白鳥省吾翻訳『シルレル物語』と『ゲェテー物語』について

 

 大正三年(一九一四年)省吾は*1『シルレル物語』の稿料を元手にして、念願の*2第一詩集『世界の一人』を「象徴詩社」と名付けた自宅から自費出版している。

 先日、インターネットの古本屋で二種類の『シルレル物語』が手に入った。一つは、大正三年七月二十三日初版の「実業之日本社」版で、大正四年一月十五日発行の第五版、もう一つは大正三年九月二十八日初版の*3「河野書店」版である。これは大正九年五月二十五日発行の第六版である。白鳥省吾記念館に所蔵されているものは「河野書店」版の第十版である。

 この両者は中身が全く同じで、表紙絵と、中扉の絵、出版社が違うだけである。(写真参照)

「白鳥省吾年譜」ではこの年の出来事を以下のように記している。

∧前田夕暮の「詩歌」のほか若山牧水の「創作」に執筆すること多し。実業日本社より森鴎外、島村抱月の監修による泰西名著物語の第二篇「シルレル物語」を出版。第一篇「ホーマー物語」は松山思水氏、第三篇「ゲーテ物語」は谷崎精二氏、第四篇は広津和郎氏、その稿料を基本として詩集「世界の一人」を自費出版。小川未明氏(新潮)、吉田絃二郎氏(六合雑誌)に推奨さる。このころ富田砕花を知る。十一月二舎書房創刊の「新少年」の編輯主任となる。∨「白鳥省吾年譜」*4詩集『北斗の花環』

* 写真は白鳥省吾翻訳・世界名著物語第貳編『シルレル物語』「実業之日本  社」発行

 

 ここで言っている泰西名著物語・第二篇『シルレル物語』とは世界名著物語・第二編『シルレル物語』である。「実業之日本社」版は「森鴎外・島村抱月監修/廣川松五郎装幀/世界名著物語第貳編/シルレル物語/白鳥省吾著」となっている。「河野書店」版は「世界名著物語/第U編シルレル物語/白鳥省吾著/成光館発行」となっている。 そのはじめに「出版部同人」として、

∧世界名著物語刊行に就て/本叢書は普く古今東西に亘りて、名著中の名著より最も傑出せる雄編大作十有餘を選び原作者に代って之を讀み易き一編の物語に短縮創作せしもの也。/執筆者は現文壇新進気鋭の名作家を網羅し、各人をして年来愛讀措かざりし文豪の代表作二三を選ばしむ。各編悉(ことごとく)く作者が心血の流露にして、緊張せる文字の裏には、作者が無限の感興を裹(つつむ)む。

 これを指導し監督し終に其業を完うせしめたるものは現文壇の恩人、鴎外、抱月の二先生なり。以てその眞價を推すべし。/各書名には原作者名を取れるもの多し、これ該原作者の代表作二三篇を収めてその全體を偲ぶに便たらしめたればなり。/本叢書発刊の主旨固より國民の世界的常識の涵養にあり、國民各自が知識の寶蔵たらしめ、趣味の源泉たらしめ、清き娯楽の好伴侶たらしめんとするにあり。/出版部同人∨*1世界名著物語・第貳編『シルレル物語』「実業之日本社」発行

 と記されている。「世界名著物語」は全部で十五巻出版されている。「実業之日本社」版の巻末広告欄には以下のように記されている。

  *写真は白鳥省吾翻訳・世界名著物語第U編『シルレル物語』「河野書店」発行

∧世界的不朽の名著、讀み易き活物語に縮寫さる。

□新形美本廣川松五郎装幀價各四十銭郵税各六銭□

△本書は普く世界万古に亘りて雄編大作十有餘を選び、これを讀み易き物語に縮寫創作せしもの、原著の筋と色と香とは溌剌たる新進諸名家の労作に甦り、茲に豊饒なる藝術の天地を開く。かくて吾等は世界の名著を容易に我一生の所有となすを得たり。

△監修者は森鴎外博士と島村抱月先生。△執筆者は大正文壇新進気鋭の名家を網羅す。∨*1世界名著物語第貳編『シルレル物語』「実業之日本社」発行

 「白鳥省吾年譜」では「第四篇は広津和郎氏」とあるが、誤植である。これは以下の十五編である。

 第一編松山思水著『ホーマー物語』、第二編白鳥省吾著『シルレル物語』、第三編谷崎精二著『ゲエテ物語』、第四編内山舜著『アーサー物語』、第五篇中木貞一著『ハーデイ物語』、第六編後藤末雄著『モリエール物語』、第七編廣津和郎著『ユーゴー物語』、第八編今井白楊著『失楽園物語』、第九編矢口達著『十日物語』、第十編鈴木悦著『水滸傳物語』、第十一編丘草太郎編『ゾラ物語』、第十二編窪田空穂著『源氏物語』、第十三編相馬泰三著『沙翁物語』、第十四編高月藹之助著『神曲物語』、第十五編服部喜香著『ドンキホーテ物語』(*1世界名著物語第貳編『シルレル物語』「実業之日本社」発行。*5『日本近代文学事典第六巻・索引』)

 

 どうして、省吾がこの物語を翻訳するようになったのかは、省吾の著書『現代詩の観方と鑑賞の仕方』「大正初期詩壇漫談 二」に記されている。

∧私自身の環境から、大正初年の詩壇のことを漫談、もしくは追憶談というようなものとして試してみようと思う。過去を悔いるにもあらず、もとより誇るにもあらず、平凡なる経路の漫談に過ぎない、人々これを読むも大した得もなかるべく、また損もないであろう。

 私は大正二年の夏に早稲田の英文科を出たが、同じ卒業生には谷崎精二・広津和郎・矢口達・原田実の諸君がある。同期に卒業はしなかったが、或る期間を同じ課業を受けたのに、今井白楊・西宮藤朝の諸君がある、谷崎君は卒業までには島村抱月先生の推薦で短編小説を「早稲田文学」に発表してその天分を出しかけていたが、広津君はほとんど発表して居らず、「文芸倶楽部」に通俗的な小説を一編発表したのを見かけた位で、柳浪氏の令息としては、寧ろ物足りなさを感ぜしめた位である。/中略/

 私はその頃は西大久保百〇四番地の家を二人の友人と共同で借りて自炊生活をしたのである。戸山ヶ原に近いところだった。二階は六畳、四畳半二間で廻り縁で、私は二階に納まり、下は八畳、六畳、四畳半ぐらいで、庭もあり十二円の前屋賃であった。今なら六十円程度の家だが、その頃として特に安いわけでもなかったのである。この家構えを見て、私を相当の資産家の息子と思った人も多かったらしいが、某氏の如きは素人下宿を始めたなどと推測し噂した。/中略/

 私は当時の詩壇に大きい空虚を感じていた。「明星」・「スバル」・「吾等」と系統をひいてきたロマンチックな享楽的な詩も、三木露風氏などの修辞的な象徴詩も、更にまた自分といくらか傾向を同じうする自由詩風の詩も、魂の奥底から揺るがす何物もなかった。新しい目ぼしい詩人も台頭していなかった。「詩歌」や「創作」には室生犀星・萩原朔太郎の名が見えたし、「仮面」には日夏耿之介・西條八十の名があったが、あまり認められてはいなかった。詩壇は白秋・露風・柳虹の時代であった。/中略/

 だが詩集出版ということは、書肆からの出版は無論望めないことである。自費出版の経費も、学校卒業後、学資さえ郷里から取りにくくなって生活に困りかけている自分には、空想に近いことであった。/中略/

 詩集を出したいという希望は、どうやら実現出来そうであった。同期に早稲田を出た加藤美侖君が、実業之日本社の出版部にはいって、泰西の名著物語と言って、泰西の名著の梗概を一編二百枚ぐらいの原稿にして、新進の文士十二名の手によって十二篇つくる予定で、私に「シルレル物語」を依頼して来た。谷崎・広津の諸君も書いた。監修は島村抱月・森鴎外の二氏であった。二百枚の原稿料八十円で、一枚四十銭に相当したが、その頃としてはひどく安いものでもなかった。そう金がはいるときまると、一丁と隔たっていなかった前田夕暮氏から出版費のことなどをきいて見ると、いくらか足すと出そうなので、詩集出版を決心した。/後略/∨*6『現代詩の観方と鑑賞の仕方』「大正初期詩壇漫談二」

 

 加藤美侖氏について、省吾は昭和三十一年七月二十五日の*6『河北新報』夕刊に「校歌を訪ねて」を執筆しているが、その中に郷里の隣町「高清水小学校」校歌作詞依頼を受けて、高清水町を訪れた際に偶然に、早稲田の同期生、加藤美侖氏の墓を見つけたと記している。

 ∧墓地を歩いているうちに、新しい墓標が偶然にも早稲田の同窓の加藤美侖君のであった。婦人はよほど前に亡くなったと見え、その墓石が並んで立っていた。加藤君は世故にたけ、学生時代に既に妻帯し素人下宿を始め、私は同郷の関係で半年くらいそこに下宿しお世話になったことがある。卒業後、彼は実業之日本社に入社し、その関係で同社から私は「シルレル物語」を出した。/後略/∨*7『河北新報』昭和三十一年七月二十五日夕刊

 

 『シルレル物語』とは「シルレルの書いた物語」と言う意味である。シルレルはシラーとも呼ばれているが、その内容は「湖畔の勇姿」「皇子と花嫁」の二篇である。これは戯曲「ウイリアム・テル」と「メッシナの花嫁」の翻訳である。ウイリアム・テルはスイスの伝説的英雄で、今日、子供の頭の上に置いたリンゴを洋弓で射止めたことで知られている。余談になるが、太宰治の『走れメロス』のモチーフはシラーの詩『人質』と言われている。

 ヨハン・クリストフ・フリードリヒ・シラー*(Johann Christoph Friedrich Schiller・1759ー1805)はドイツの詩人・劇作家・歴史家として高名である。ベートーベンの『交響曲第九』の「合唱曲」はシラーの詩「歓喜に寄す」を元に作られているという。また、当時ゲーテと親交があり、共にドイツの古典主義文学を代表する人物といわれ、ワイマールには二人の銅像が同一台座に乗って建立されている。

 シラーとゲーテ二人の関係からか、省吾は昭和十七年には『シルレル物語』同様、島村抱月の解説付きで*8世界名著叢書『ゲェテー物語』も翻訳している。これも先日、インターネットの古書店で見つけたものである。

 『ゲエテー物語』は「ゲーテの書いた物語」と言う意味である。その内容は「フアスト」「若きウエルテルの悩み」「ヘルマンとドラテア」の三篇である。

* 写真はワイマールに建立されている銅像(出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』インターネット情報)

 

 これは、省吾のどの著書目録にも載っていないもので、新発見と思われる。省吾のご息女、白鳥園枝女史に問い合わせてみたが、ご存じないとのことであった。また、「東京都近代文学館」(東京都近代文学博物館は平成十四年三月で閉館となっている。現在は旧前田邸洋館として、土・日・祝日のみ見学が出来る。)が「白鳥省吾記念館」に寄贈した図書目録にも記載されていないものである。

* 写真は白鳥省吾翻訳・世界名著叢書『ゲエテー物語』「聖文社書店」発行

 

 

 

 

* 参考引用資料

*1 世界名著物語第貳編『シルレル物語』白鳥省吾翻訳(初版・大正三年七月二十三日、

  五版・大正四年一月十五日・実業之日本社発行)

*2 第一詩集『世界の一人』白鳥省吾著(大正三年六月二十二日・象徴詩社発行)

*3 世界名著物語第U編『シルレル物語』白鳥省吾著(初版・大正三年九月二十八日六版・  大正九年五月二十五日・河野書店発行)

*4 詩集『北斗の花環』白鳥省吾著(昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*5『日本近代文学事典第六巻・索引』(昭和五十三年三月十五日・株式会社講談社発行)

*6『現代詩の観方と鑑賞の仕方』白鳥省吾著(昭和十年九月十日・東宛書房発行)

*7『河北新報』(昭和三十一年七月二十五日夕刊)

*8 世界名著叢書『ゲエテー物語』白鳥省吾著(昭和十六年八月十五日初版、昭和十七年一月十日再販・聖文社書店発行)

* 世界文学大系38『シラー』訳者代表 新関良三(昭和三十四年十一月十日一刷・四十四年六月三十日二十刷・筑摩書房発行)

* 『ブリタニカ国際大百科事典 10』(昭和四十九年十一月一日・ティビーエス・ブリタニカ発行)


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