栗駒の昔話 鞍掛沼の伝説
鞍掛沼の伝説
宮城県と岩手県の県境、栗駒山のすそ野に鞍掛沼がある。近年まで宮城県に属していたが、現在は岩手県に属する。昭和の 30年代までは栗駒山への登山道の一つでもあった。また地元の人々のキノコ採りのコースでもあった。 萱野を登りきったところに位置するこの沼には、古よりの物語が伝えられている。
白鳥省吾はこの鞍掛沼を題材にした詩、随筆を書き残している。『太陽』大正11年9月号に発表した散文詩「森林帯」は鞍掛沼をうたったものである。この詩を北原白秋が『詩と音楽』大正11年10月号に「考察の秋」と題して、散文風に書き直し、「これでも詩か」と評した問題の詩である。この散文詩と芸術的詩の論争は一年半にも及び、未だに決着が付いていないと言われる。
鞍掛沼の伝説は数種あるようだが、省吾の詩とともに抜粋して紹介する。
写真は夏の鞍掛沼とぶなの原生林。今は岩手県より林道がつけられ、沼辺まで車で入れる。昔岸辺に溢れんばかりにいた沼エビの姿は見えなかった。平成12年8月5日撮影
森林帯
萱や蕨の繁り合っている、山を越え、一だんと高い山から望めば、遠い麓の広土は、青たたみ数枚のやうに小さい、哀傷を誘ふほどにも何と云ふ可愛らしい世界であらう。
萱野を出れば沼がある。真夏の昼はしんしんとして微風もなく、めぐりの森林もそよとも動かず、ふかく相映じている鞍掛沼、この沼は昔、山を越えてきた、源義家が黄金の鞍を沈めたところと云ひ伝えられている、そして毎年、七月七日には黄金の鞍が幻のやうに、水面に浮かぶさうだが、それを見た人は三年とたたぬうちに死んでしまうさふだ。
そのほとりの草いきれ水の匂ひを、毒気のやうに感じながらひっそりと通れば、原始から斧鉞(ふえつ)を知らなかった大森林も、今は巨木も伐られて横はるもの無慮数千となく、痛ほしく路々から指呼することが出来る、それはいかにも自然の律(しらべ)を何とも思はぬ人間の無知の乱舞である。
それでもこの大森林は傷手をさほどに感ぜぬらしく昼なほ暗いほど繁って、緑葉は露を滴らし古い苔むせる幹がいつも濡れている。路の落葉の深さは数尺もあらうと思われるほどで、踏む草鞋にぶくぶくといふ弾力を感じさせる、郭公がほんとうの隠者の様に奥ぶかく啼いている。
其処を過ぐれば焼野といふ平地に出る、炭屋長四郎が十余年前まで住んだ屋敷跡とて、桂などの角材が人間の骸骨のやうに寂しく地上に横はっている、彼は炭を焼いたり牛を飼ったりしていたさうだが、酷寒のためか寂しさに堪へられなかったのか、どういふわけで此処を見棄てたか、まるで物語にあるやうな懐かしさを湧かせる、彼の植えたらしい若い杉林にはかなかなが啼いて、小さい池には蓴菜(じゅんさい)が生えていて、深山のなかにここだけが不思議に人里らしい。『日本近代文学大系59・近代詩歌論集』(「考察の秋・処女の如く立つ」昭和四十八年三月二十五日・角川書店発行)より
その1:見聞録
その昔、沼倉一帯を治めていた殿様が、源頼朝(義家との説もある)に追われて逃げる途中に、この辺の湿地帯に愛馬もろともはまって動けなくなってしまった。仕方なく愛馬と金の鞍を捨てて、栗駒山懐に逃げ去った。その時、此の地一帯が沼と化し、追っ手は諦めざるを得なかった。愛馬は金の鞍と共に湖底に沈んでしまった。一説には追っていた頼朝(義家との説もある)の愛馬が沈んでしまった。
旧暦の7月7日にはこの金の鞍が浮かんでくると言う。これを見た者は3年後に死んでしまうと、伝えられている。
その2:『栗駒の話』(千葉光男著・昭和43年6月25日・日曜随筆社発行)より
玉山の三角森は沼ヶ森とも呼ばれております。標高六百六十メートル、稜線が美しく、麓は、なだらかな高原で、牛馬が放牧されておりました。(近年まで沼ヶ森スキー場があった)中略。その沼ヶ森の頂上近くに、紺青の水を湛えている周囲約五キロメートルの、鞍掛沼と呼ばれている沼があります。この沼があるところから、沼ヶ森といわれ、対岸の原始林の、うっそうとたる影を湖面にうつして、千古の神秘を伝えております。
頃は天正十八年のこと。白岩城(沼倉城)を逃れた、沼倉飛騨守は、奥羽山脈を越え、羽後の仙北に向かう途中、沼ヶ森にさしかかりました。往時、この辺一帯は湿原でした。飛騨守の馬は、ぬかるみに深くは入りこみ、両足は自由を失い、腹まで沈んでしまいました。飛騨守は、迫り来る追っ手に、いまはこれまで、と意を決し、愛馬を斬り、黄金の鞍を、桂の木に掛け逃げ出しました。ところが、馬がはまりこんでしまったところから、こんこんと清水が湧き出し、たちまち沼となり、飛騨守の足跡を隠してしまいました。馬のかばね(体)も、黄金の鞍も、沼の底に深く沈んでしまいました。追っ手はついに沼を渡ることができず、追跡をやめて、引っ返して行きました。
それは旧暦の七月七日の暁のことでした。それからは三年に一度、七月七日の暁に、馬の首と黄金の鞍が、沼の面に浮かぶといわれてきました。これを見た人は、三年のうちに死ぬといわれております。・・・以下略。
その3:『栗駒町史』(栗駒町史編纂委員会・昭和38年8月10日・栗駒町役場発行)より
鞍掛沼は三迫の上流沼ヶ森にあって、周囲は八粁余りもある栗駒唯一の大沼であるが、峡の奥山にふさわしい。素朴な哀れぶかい伝説が、古老の口から語りつがれて来た。起源は古く天正十八年に遡るが、当時の三迫沼倉邑主であった沼倉飛騨守家重が蒲生勢と戦い、一敗地にまみれ、しまいにはとうとう市野々村に戦死するのであるが、その追われて、栗駒山ふかく退くとき湿地帯であった沼ヶ森付近にさしかかり、いつか彼の馬は見る見るうちに深みにささり、近づく敵を後ろに進退きわまった飛騨守は、愛馬をそのまま泥濘に置き去るに忍びず哀悼の情にかられながら止めをさし、後ろ髪を引かるる思いに冥福をを祈りつつ姿を隠した。
それ以来馬の血を吸うたこの湿地帯は今の大沼と変わり、中略。旧五月五日の節句には黄金作りの鞍が浮かぶという、それを見た者は三年と生きないと言い伝えられてきた。・・・以下略。
その4:『白鳥省吾のふるさと逍遙』(白鳥省吾のふるさと逍遙編集委員会・平成12年1月10日・白鳥ナヲエ発行)より(初出は 『随筆・世間への觸角』(昭和11年6月5日・東宛書房発行)
駒ノ湯に行ったのは、中学三年の時で(明治)三十七年八月であった。やはり兄と共に馬に乗って行き、築館から沢辺まで二里、(この途中に伊勢物語で名高い姉歯の松がある)沢辺から岩ヶ崎まで一里半、そこからまた一里沼倉村の父の勤め先の家に泊まった。翌日、荷物を背負うために小学校の小使い爺さんと婆さんが来てくれた。この沼倉から駒ノ湯に行くには二つの道がある。一つは玉山道で他は焼野道で老翁老嫗に案内させて父と私と兄の一行は焼野道を行くことにした。全くの山路で、むろん馬も通じない。・中略・数え切れぬほどそれらの山を登りつくすと平坦な萱野に出る。中略・
そこを抜けると鞍掛沼というのがある。そこからは栗駒山の森林地帯なので、老樹が沼の周囲に繁って、風も吹かず波も起こらず、ただ静かな樹影が湖面に映っている。この沼は源義家が金の鞍を投げ入れた所ということで、毎年七月七日にはほんのりと金の鞍が水に浮かぶが、これを見た者は三年も経ずに死ぬという伝説がある。・中略・また山を越えて下ると前面の窪地に思いがけなくも二、三の茅屋が見える。それが駒ノ湯だ。沼倉から三里以上もあろう。・・・以下略。
昭和30年代まで、駒ノ湯への道は 桑畑−玉山−茅野−鞍掛沼−稀大ケ原−駒ノ湯(白鳥省吾は父と兄と一緒にこのルートで駒ノ湯に至っている。日露戦争の開戦の年でもあった。) の他に 桑畑−玉山−行者滝−ハラミ坂−欽明水−駒ノ湯のルートがあった。
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