秋田越え U 「羽後岐街道を尋ねて」  (栗駒町史談会会員・西村元吾氏)taki12.jpg (13324 バイト)

 

今回、平成11年3月発行の『史談会会誌・第四集』(栗駒町史談会編発行)に「羽後岐街道を尋ねて」を掲載した、西村元吾氏にお会いすることができ、当ホームページにてその内容を紹介させていただくことになりました。字数が多いので、一部割愛させていただきます。ホームページの都合上、体裁を変えております。(上写真は1995年5月末・t−takiko撮影)

 

 平成九年六月羽後岐街道を尋ねて世界谷地から花山村の温湯温泉までの道を歩いた。一行は五人で中略藩政時代の街道には奥羽街道の幹線に対して数々の支線があり、これを脇街道または脇往還と云った。栗駒町を通る街道は真坂から一関に通ずる上街道、秋田県雄勝郡から栗駒・岩ヶ崎を経て沢辺に至る羽後岐街道があり、更に石巻までの街道が続いていた。中略また沼倉村木鉢番所千葉孫左衛門の安政五年の『書上げ』には「沼倉村と松倉村の境より平六坂まで 三十丁二十九間、平六沢より国見下まで 一里、国見下より今坊平まで 一里、この間に木立と申す所あり 同所にて文字村よりの街道に出会う、今坊平より並坂まで 一里、この間に鳥居嶽、馬草森と申す両山あり 鳥居嶽の下に駒形根神社の鳥居あり、並坂より二階倉まで 一里、この間に大路沢と申す大沢あり、二階倉より田代御境まで 一里、この間に九万沢と申す大沢あり、合里数五里三十丁二十九間」とある。

 この街道は出羽国仙北郡と陸奥国栗原郡を結ぶ大変重要な道であったらしくいろいろな名称で呼ばれていた。『沼倉木鉢文書』には「往古は、仙北海道といわれていたが、秋田越え街道が寒湯・文字・沼倉方面と枝分かれするようになり、羽後岐街道と呼ばれるようになったと言い伝えられ、また、それぞれに湯浜街道・文字街道・岩ヶ崎街道と呼ばれています」、また『菅江真澄誌』に、「小安の山路に<上ば道>・<下ば道>というあり、<上ば道>は大湯の山道より田代ながねを経て、みちのくの文字が沢、岩ヶ崎なんどへ出ぬ。<下ば道>おなじ様に行けども別れて、みちのくぬる湯の沢、河口なんどという所に到る。みちに沼あり、そこを国境というなり」とある。菅江真澄は文化頃の三河国の出身の紀行家で、北日本を転々ととして最後は秋田領内に住んだ。その間の紀行文は七十二種にも及ぶ、墓は角館にある。そのほか『茂木文書』には「小安海道」、「稲庭海道」と『領中大小道程帳』には「増田街道」とも呼んでいる。

 小安から岩ヶ崎までの経路を書いた紀行文があるので紹介する。

 

 『陸奥紀行』  作者 秋田川連漆器屋 佐賀恵屋恒蔵    

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(写真は国道398沿いの三本杉神社鳥居・羽後岐街道を今に伝える標柱。この奥に石碑・三本杉と山神様の祠がある)

 

 

 慶応三年二月九日 

 小安口湯本 四つ時(午前十時)出発・・・不動滝・・・小安番所・・・桂沢・・・鍵金カナへぐり<川に沿った断崖・えぐるの意>(難所)川端まで岩がせまり、足場をはずすと川に落ちてながされる、距離三十〜四十間。すこし上りになる・・・山神の祠・山を下って行くと・・・風穴へぐり・・・牛ころばし・越えてゆくと・・・附子水のさわ<ぶし水=毒水>この沢の水は飲まないこと・・・小へぐり・足元の危ないところ・・・大湯=小湯(小安より一里)・大きな沢あり、川端に湯の出るところが数箇所ある。右側の山道を行くと・・・長根・・・小湯ノ沢・これより登り・・・壱の坂(難所)・・・(陣場の原)・・・壱の坂・・・山の峯渡り・十二〜三(1.3km)・・・まく打ち長根(眺望よし)・道は下り・・・こわし(昼食は歩きながら食べた)・もっと下って行くと・・・附子<堅木流しのための堤場>(小安より二里)・・・女者様アネコサマの祠を右に見て・・・いたい沢・難所・・・ガッカラの山神様の祠を過ぎると下り、少し下ると・・・田代原・夏、山桑が山や沢にたくさん生えている。十丁ばかり行くと・・・「三本杉」の山神様を拝み・・・田代沼のほとりを通り・・・田代お助け小tasiro11.jpg (20130 バイト)屋(泊まり)tasiro22.jpg (17191 バイト)tasiro10.jpg (18686 バイト)tasiro12.jpg (18356 バイト)

 

 

 

 

 

 

(写真は三本杉の山神様・田代沼・田代お助け小屋跡を示す石碑は、本文と異なって3本杉の左脇にあった・根元は一つの三本杉と山神様の祠・平成12年6月24日撮影)

 二月十日

 田代お助け小屋 出発

 小屋の後ろに冬越えという峠があった。下って行くと・・・赤沢(赤川沢)という沢・辺りを鍋越台地と申していた・・・ぬかまつ原・下って行くと・・・九万沢(熊沢)・(小安より四里)・・・孫小屋という峠を登った=一番高いところ・・・三本ぶなという原・・・腰抜沢という下りあり・・・大日沢という下りあり・・・向かいの方に大日森という高い山の麓をとおり・・・から堀沢・・・八っ頭という下りの原あり(おお小立)・・・馬草にお助小屋・少し行くと・・・マコニ坂という坂、その陰が・・・前坂に大きな小屋あり。前坂のお助け小屋(泊まり)

 二月十一日

 前坂のお助け小屋 出発

 前坂・少し下ると・・・万坊平・という木立がある・・・半道ぐらい下ると・・・木立キダチお助け小屋 二軒・・・湯道・そこから登りになる・・・日影という峠があった・・・なめり坂を下って・・・国見という長根があり・・・大の木平を下ると・・・美女滝となるそこを下ると・・・木鉢御番所改所である(昼食)

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(写真は栗駒玉山付近より望む冬の栗駒山・平成12年1月撮影)

 

 

 と羽後岐街道を詳しく書いてあり、所々に道標として山神があることが分かる。また現在の地名等と大分違うようで、実際に歩いた記憶をもとに、明治・大正の地図・現在の地図の地名やいろいろな文献を参考にして考察してみたい。

 岩ヶ崎を出発して松倉、沼倉を通り、最初の遺跡が一般に関所と云われている木鉢の御番所で、駒形根神社から少し登ったところにある。関所は藩内の治安を維持するためと藩内の物資が他領にヤミで出ていくのを防ぐ目的で置かれた。御番所には御境目守(関所守)を置いて管理させ、御番所を通過する者の関所手形(切手)の提示を求め荷の検査をした。関所手形は通行目的等を記し、身元引請人(主人・大家等)、旦那寺の住職などの署名捺印したもので、有効期間は二ヶ月位と云われている。木鉢の御番所の御境目守は代々千葉家が当たっていた。また文字の柿の木・花山の温湯にも御番所がある。

 関所を過ぎて、「大峰森」へ上るとかなりきつい坂道で、この坂の途中に「美女滝」があったと推察する。今は車の通る道路になっているが、昔はもっと北側を通って大峰森の頂上に達していたと云う、昔栗駒山は女人禁制で女子は此処までしか上れないことになっていたので、此処でお駒山を拝んで帰ったことで、ここを拝峯森と云ったのが後に大峰森となったと云われている。ここから栗駒山系が一望できる。五十年くらい前の中学二年のとkaido05.jpg (15582 バイト)き、初めて栗駒山に登った。栗駒山は四つの峰からなっており、向かって右から大日神を祀ってある大日岳、馬の背と云われる尾根をはさんで須川岳、南東に切り立つ断崖がありその下の洞窟(お室と云う)に駒形根神社が祀ってある駒ヶ岳、少し離れて虚空蔵山と聞かされた。また最高峰は昔は須川岳と云われていたが今は大日岳が最高峰になったと聞いた。明治二十四年の二十万分の一の地図では須川嶽とその左側に駒ヶ岳となっており、大正二年作成の五万分の一の地図からは栗駒山(須川岳)のみ記載されている。また仙台藩の『封内風土記』には「駒形山、中略秋田越えTに関連記事有り」(安永六年八月書上)とある。

 全国に駒ヶ岳という名の山が十八あり、それも東日本のみにあり、これらの山の共通することは、火山であること、ほとんどが外輪山の一峰で主峰ではない、多くは駒形神を祀っている。また、他と区別するため秋田にあるのは秋田駒・会津にあるのは会津駒・長野と山梨にあるのはそれぞれ木曽駒・甲斐駒と呼ばれているところから、栗原にある駒形岳と云うことで栗駒山となったものと思われる。

 さて話はもとに戻るとして、大峰森の開拓地となっているところが「大の木原」と思われる。大峰森を越え峰沿いの道は風光明美なところで、ここが「国見という長根」に当たると思う。ここからは下りの方に文字、鶯沢、更に尾松が見え遠くに加護坊山や箆岳山が望める。更に日影森に行く中間辺りからの急な坂が紀行文で云う「なめり坂」「日影森」を過ぎ少し下ったところが「湯道」、少し上ると文字からの街道と合う。更に進み少し平になったところが「木立のお助け小屋」今の木立陣屋跡に着く。

 この陣屋は慶応四年の戊辰の役の際、お助け小屋を転用したものと推察される。秋田征伐の兵の休憩・宿泊に使用され、また兵糧の集結場所でもあり、案内人や運搬に沼倉・文字等近在の農民が使役にかり出された。私の曾祖父も岩ヶ崎中村家七騎のうちの一騎として従軍したが、本陣付けのため戦らしい戦いは無く、角館付近で夜襲を受けたぐらいとと聞いている。仙台藩は涌谷から一関までの近辺の兵を岩出山に集め、岩ヶ崎中村宗三郎を総大将として約千人が集結し、鳴子・新庄を経由して秋田領に入り、一関の小隊が羽後岐街道を通り小安に入った。稲川で初戦となり、横手城・大曲を破り、本陣は六郷町高梨に陣をとり、前線は角館と対陣していたが、九月十五日仙台藩が降伏したため九月十八日総退却する。下風江口より引き上げた一関兵を除いた仙台兵(農兵を入れて約三千人)は、湯沢で民兵蜂起があったため、急遽羽後岐街道を通り、九月二十一日昼頃木立陣屋に着いたという。<注1>

 (写真は文字番所からの道と木鉢番所からの道の合流地点を示す標柱、ここから少し行くと冷やしの木立お助け小屋。)

 

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平成12年5月29日・深山牧場より撮影

揚石山と大地森の間に世界谷地がある

 

 

 

 

 話はもとに戻るとして木立お助け小屋を過ぎ、「万坊平」の木立が続くところは今の耕英開拓の冷やし地区で、冷やし沢の南側の道である。四十五年程前に行者滝の下の落合から左の道に入り、日影森に出てこの道を通り大地の鳥居前から御沢に出て登山したことがある。<注2>そのとき揚石山あぐろすやまにも登り、中腹に文字から来る道あり、そこに山神さまがあったのを覚えている。また駒ノ湯から御沢に出る登山道の御沢の下り口にも山神さまがある。「「前坂のお助け小屋」は大正の地図では揚石山あぐろすやまの北東の山裾の野原に記録されてあり、栗駒町の文化財に指定されている「冷やしのお助け小屋」と同じものと思う。お助け小屋は炭焼き小屋の少し大きめな建物で、旅人・商人・背負子などが一夜の宿とした。そこには番人がいて宿泊客の世話をした。中略

 前坂の「お助け小屋」から揚石山あぐろすやまの北裾を通り、世界谷地の南東の端から世界谷地の山裾を上る、ここが「マコニ坂」と思う。今では世界谷地に板道が架かり、板道を渡って馬草森の中腹へ原生林の中を進み、中腹で「マコニ坂」からの道に合う。この付近からを「八ツ頭」と想定するし、この辺に「馬草のお助け小屋」があったと思う。なお古くは世界谷地を「八つ頭原」と云ったらしい。更に進んでゆるやかな上りの坂道が続く、湯浜の登山道までの間の原生林の要所要所に人が植えたと思われる杉の木が立っている。百年以上にもなる目通りで幹廻り一メートルくらいある杉の木であり、目印に植えたものであろうか。八ツ頭のだらだら坂を上っていくと四差路(正式には五差路)がある。ここが大地の鳥居跡である。

 まっすぐ登れば大地森を通る登山道、ちょと分かり難い右に折れれば御沢、左に戻るように下る道は世界谷地の西側を通り川原小屋沢沿いに下り温湯に行く道である。川原小屋沢沿いの道は、営林署が木を運び出すため設けた道である。左に進む道が羽後岐街道である。四十五年前に通ったときはまだ鳥居があり、羽後岐街道と登山道の角に山神(錫杖を持った山の神)があったが、いまは双方ともない。山神の方は湯浜の上の登山道の鳥居のあったところに運び、祀ってあると云われている。

 鳥居跡の左の道を進むと、平坦な大地森の麓を山なりに曲がりくねった長い道が続き、沢に近づくと急な下り坂になり沢に出る。大地沢である。紀行文では大日沢とあり、大地森を大樹森と云われたこともあることから、大樹沢とも云われた。「大樹のお助け小屋」は鳥居からこの沢までの中間よりも沢の方に進んだ広い平地のところと思われるが場所は特定できない。大地沢から急な上りがあり、その途中に苔に包まれた山神が祀られている。十メートルくらい上るとまた道は平坦になり、沢の近くで下り、小檜沢を渡り、また急な上りが少しあり、また道は平坦になる。同じように次の沢の腰抜け沢を渡り、八つ沢という台地に出る。この台地に八つの沢があるのでこの名が付いたという。この台地の八つ目の沢に「渡し小屋」(綿小屋とも云う)があったそうで、沼倉・文字の背負子と秋田の背負子とが荷を交換して戻ったという。中略

 この渡し小屋のあたりに「三本ぶな」(三方ぶなとも云う)という木があり、今歩いてきた道から分かれて右の方に上がる道が羽後軌道と云われている。「三本ぶな」を見つけることは出来なかったが、右に行く道はあっちこっちと探した。百年も人が通らないため今は荒れ果てていて、なかなか探し出せなかったが、何とか道らしきものを発見した。この道は「御国境の塚」を通り秋田領の田代沼へと続く。

 「御国境の塚とは、秋田県雄勝郡に属する所にあり、形大きくないが往古塚中に大きな川石四個を埋めて永くその証跡を保った」と『栗原郡史』に書いてあり、また、木鉢番所千葉孫左衛門の『安政書き上げ』に「御境塚は正保二年御築立 その後享保十四年四月御築立」とあり、小安村佐藤湯左衛門の日記に「秋田領御塚高さ三尺五寸余 敷四方壱間余 御塚の中に印として川平石を下段に三つ 中断に二つを入れた、仙台御塚、秋田御塚の間三間ほど」とある。y1272202.jpg (15571 バイト)

 我々は道をまっすぐ進み、相の沢を渡ると上り道になり、上りきったところが平になっており、湯浜から山頂に行く道に出会う。ここにお堂があり山神が祀ってある。かなりの信者があるようで、赤い布や白い布に経文と住所名前を書いたものがたくさん置いてあった。ここにも昔は鳥居があったという。三叉路を右に行くと山頂、左の道を進むと下り坂になり、白檜沢しらびさわを越えると道は急な下り坂となり、細い尾根の尻をぐるっと百八十度廻ると、下の方に大きな滝があり、更に下ると湯浜温泉があった。一気に百メートルくらいも下りたと思う。湯浜温泉のある国道に迎えの自動車が来ており、帰途についた。

 羽後岐街道を歩いたときは、まだ『陸奥紀行』を見る前であったから、歩いたときを思い出しながら、古い地図と『陸奥紀行』により地名等を推測し、いろいろな書の一部を参考に記した。栗駒山の紀行文は『陸奥紀行』の外に菅江真澄の『駒形日記』(文化十一年)・上遠野秀宣の『栗駒山紀行』(文久二年)があるという、これらを手に入れて、山神の道標など探しながら、もう一度歩いてみたいと思っている。以下略

写真は平成12年7月22日・第2世界谷地にて撮影・正面が大地森・奥が栗駒山

参考・引用文献

「羽後岐街道について」(栗原郷土研究第十三号・当史談会前会長千葉光男)、「戊辰秋田の役・佐沼隊の引き揚げ」(佐沼郷土史研究会菅原正熈)、『仙台との交易をかたる』(皆瀬村文化財保護協会)、『陸奥国駒形神』(北上市立博物館)、『栗駒町誌』、『栗原郡史』

 

* 注1 慶応四年八月、仙台藩では秋田に進攻するために羽後岐街道の道路の修理を約半月程前から行っている・「戊辰の役百三十年記念行事」千葉光男翁掲載。平成11年3月発行の「史談会会誌・第四集」(栗駒町史談会編発行)より。

* 注2 上遠野秀宣「栗駒山紀行」の経路と思われる。「栗駒山紀行とその解題」・柴崎徹著を参照。

* 文中の添え字、()内の文字、写真は当研究会で挿入したものであります。

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