秋田越えT

写真は栗原市栗駒文字地区に残る秋田越街道の標識

 

 藩政時代から明治時代の半ば頃までは四季を通じてこの栗駒山を越えて、秋田県南地方との交易が続いていた。それをささえていたのが秋田県の皆瀬村、宮城県の旧文字村、旧沼倉村の背負子(ショイコ)達であった。栗駒からは上道(文字柿木番所−木立−大地森−田代沼−板井沢−ブシ−小湯ノ沢−大湯−皆瀬村湯本)(『仙台との交易を語る』)と呼ばれ、手倉越え(東成瀬村)仙人越え(山内村)雫石越え(生保内村)などより物量ともしのいでいたといわれる。

okoma01.jpg (15061 バイト)  これは仙北街道又の名を羽後岐街道・沼倉木鉢番所−平六坂(大峰森)−国見下(日影)−木立(文字よりの道と合する)−坊平(地元ではマンボウと言っていた)−(この間に鳥居嶽、秣森「マグサモリ」有り。鳥居嶽の下に駒形根の鳥居有り。今の大「路」地)大地 森−並坂−二階倉−九万沢−田代長根境『栗駒物語』)とも呼ばれ、沼倉桑畑−玉山−行者滝−拍傍越−日影『栗駒山紀行とその解題』−木立−坊平−大地森−並坂−二階倉−九万沢−田代長根境のルートもあった。

 (写真は駒形根神社前に建てられた羽後岐街道を示す標柱。と、沼倉の祭り「ご巡幸」の由来を表す看板・平成12年1月撮影)

 羽後岐街道は「栗駒物語」に沼倉の古老・郷土史家、千葉光男氏が「沼倉村木鉢番所」として記している。「栗駒山紀行とその解題」は文久二年に一迫大川口の邑主、上遠野秀宣によって書かれた「栗駒山紀行」を柴崎徹氏が紹介しているものである。それによると上遠野秀宣は幼少の頃の病気平癒のお礼に、大川口から馬で岩ヶ崎の黄金寺にご先祖の霊を拝み、ここで馬を置き、草鞋履きで沼倉の桑畑まで行き、そこで一泊。

 玉山より拍傍越付近より(途中に岐道が有ったようである。)、羽後岐街道に到って、途中より御沢に降りて御駒嶽−大日嶽の日本第一日宮駒形根大明神のむな札を見・大日と彫られた石宮に手をあわせている。このあと新湯に一泊し、拍傍越附近より羽後岐道に入り、文字村を抜けて、細倉鉱山−川口−清水目の明昌院に一泊し大川口に帰っている。時は戊辰戦争直前であった。

 上遠野(伊豆)秀宣は、岩出山支藩第八代邑主伊達弾正宗秩(むねつね)の次男として生まれ、やがて上遠野家の養子となり大川口の館に移り住む。時経て、栗駒山に祈願した後、仙台藩砲隊大番組隊長として戊辰戦争に出陣、秋田境の雄勝峠で官軍に寝返った秋田勢を破り、続いて湯沢、横手と進撃し、角館に攻め上ったが、相馬口勢が破れ、仙台藩が降伏する。時経て一迫村長崎小学校大川口分教場校長心得、その後西南戦争に志願、九州各地を転戦、岩出山に帰還、練武道を開き、岩出山八幡神社の祀官勤めている。(『栗駒山紀行とその解題』)okoma03.jpg (16849 バイト)

 皆瀬村文化財保護協会編の「仙台との交易を語る」に、この秋田越えの詳しい様子が書かれている。それによると、宮城県側の大地森、木立、秋田県側の田代にはお助け小屋があり、当時は四季を通じてこれらの道を背負子達が活躍していたようである。この背負子達の案内で、旅人、商人が常時往来していたようである。またこのお助け小屋には、番人が居て宿泊客の世話もしていたようである。どぶろくや飴を売っていたところもあった。宿賃は一人二十文、二十人くらいは宿泊可能だったと書いている。(写真は沼倉、木鉢番所附近に残る貫門・平成12年1月撮影)

 さらに背負子の一人歩きはしなかった、必ず四・五人で連れ歩き、多いときは十人・二十人と揃って荷を越したようである。江戸時代は、狼、熊等の危険があった。荷物の運賃は当時天保銭で三十五枚であった。この通商路は秋田の漆器が宮城県側に運ばれるルートでもあった。宮城県側からは主に三陸沿岸の海産物が運ばれたようである。秋田の商人は皆瀬、稲庭、川連、増田、湯沢の人々であった。この人々が小安温泉の各旅籠に陣をとって取り引きしていた。

 遭難

 明治十五・六年頃に、下道(花山村温湯−湯浜−田代沼−大湯−皆瀬村湯本)が開削され、旅程は八キロ余り短縮され、その後はこちらの道を利用する者が多くなったと書いてる。特に冬の栗駒山越えは遭難の危険が、常につきまとっていた。雪の多いときは背負子の他に雪かき人が付いたので迷うこともなかった。と書いているから、マタギがその役を務めていたのかも知れない。特に冬場の交易は成功すると利益が多かったのて゛危険を承知でいどんだと書いている。 

 kazan07.jpg (15798 バイト)明治二十三年十二月の栗駒山越えは難儀を極めた。十二月二十八日はまれにみる大雪で、花山の温湯を発って栗駒山越えの道についた背負子達は、天候が変わらなければ一日で、秋田県の湯本に着く予定で出発した。ところが山中に入ると猛吹雪にあって、立ち往生してしまった。来る日も来る日も、雪又雪、吹雪の止む間をぬって少しずつ移動したが、食料が無くなり、仕入れてきた鰹節かじって飢えをしのいだ。夜は雪の中に仰向けに座って、片時も眠らないで両足を動かしていた。朝になると体の上に六十センチ位も雪が積もっていた。雪をかきのけて顔を出し励ましあったという。死地を脱して家に着いたのが、旧の小正月であったという。

(写真は下道の入り口付近・花山村寒湯番所跡・平成12年1月撮影)

 これらの道も現在は使われなくなって、その全てを知る人が居なくなっている。現在くりこま荘のご主人、菅原次男さんが古道の発掘に取り組んで居られる。

 参考資料 

 『仙台との交易を語る』(皆瀬村文化財保護協会編)・『栗駒物語』(栗駒町史談会)・『栗駒山紀行とその解題』(『山岳】129号より・柴崎徹著)。写真は駒形根神社前に建てられた羽後岐街道を示す標柱と、沼倉の祭り「ご巡幸」の由来を表す看板。木鉢番所附近に残る貫門。下道の入り口付近・花山村寒湯番所跡。

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