#12 「I need peace&smile.」

久々のコラム、今回は僕が物心つく前からの友人である或る一人の男の話。長くなりますがどうか最後までお付き合いください。
彼とはいわゆる腐れ縁で、小・中・高・大学とこれまでずっと同じ道を歩んできている。社交性には欠けるが意外と芯はしっかりしてる男。
彼は11才のときに父親を亡くしている。そして彼の半生は僕から見ると喜劇よりも悲劇の多い日々だった。傍目で見ていてどう声をかけていいのかわからないような日々をも過ごしていた。

ある日彼と2001年9月以降の一連の悲劇について話していたとき、ふいに彼が言った言葉、「人は、自分が他人にされた仕打ちは執念深く覚えていたりするのに、自分が他人にした仕打ちはすぐ忘れてしまったり、思い出そうとしたりしないね。」
僕らは共に、現在の日本では全てがまるで解決したかのような報道やアメリカのおかげでアフガニスタンが平和になったかのような報道がされていることに疑問と憤りを感じている。
彼:「最近の報道を真に受けている人もいるんだろうね。」
僕:「それどころかもう何があったか忘れてしまった人もいるんじゃないの?」
彼:「悲劇を憶えていることは決して楽しいことじゃあないからなあ。」
僕:「それはそうだけど。でもさ、まだ実際に苦しんでいる人がたくさんいるじゃないか。日本でも、難民の人たちが日本を信じて助けを求めに来たっていうのに強制収容されてるなんておかしなことが起きてるし。」
彼:「うん、だから僕らは一人一人忘れずに記憶し続けていくことが必要なんじゃないかな。二度と悲しいことが起きないようにしていくためにも。」
彼:「現在起きている悲劇を忘れないこと、それはオリンピックで金メダルを取るよりも簡単で、同時に人生で最も有意義なことの一つとなるんじゃないのかな。そりゃあ悲劇は僕らを楽しい気分にさせてくれるものじゃあないよ。でもね、決してマイナスな事ばかりじゃないと思うよ。自分の生き方に必ず何かをもたらしてくれる、僕はそう感じているよ。」
彼曰く“他の人たちよりほんの少しだけ多くの悲劇に遭遇してきた”彼の言葉はリアルで説得力があった。

彼の父親が亡くなったのはちょうど11年前。彼の父親は家族にとても優しく家族からも愛され、子供たちからも尊敬されている人だった。彼ともとても仲がよく僕はとてもうらやましかった。彼の父親は彼の姉が高校に合格したとき、覚えたてのワープロでお祝いの垂れ幕を作ったそうだ。照れながらも少し自慢げだった顔が今でも忘れられない、と彼は僕に語った。(僕も作ってほしかった、とも)
彼の妙なとこにこだわる癖と歌を歌うことが大好きなところは父親譲りのものだと僕は思う。

彼が小5の春休みにその父親は職場で脳卒中で倒れ病院に運ばれ、一命は取り留めたものの半身不随になり言語障害などの後遺症を残していた。父親が2回目の転院をした夏、彼は急性の病気で父親と同じ病院に入院した。数日後、家族や親戚に連れられて初めて彼の病室を訪れた彼の父親は彼の姿(胃の中の炎症によるかさぶたを取り出すため鼻から管を通していた。)を見て驚きのあまり失禁したそうだ。(僕自身彼の姿を見たときはとても驚いたのだから無理もないことだ。)
その数日後、彼の父親は病院から行方不明になってしまった。周りの人が言うには彼の病室へ行こうとしたんじゃないか、ということだった。

寝る間も惜しんで家族や父親の友人、親戚は捜索を続けた。彼も退院後休みの日には必ず捜索活動に参加していた。聞き込みをして回ったり、町の広報などで呼びかけをしてみたり、しまいには占い師などの力も借りた。四方八方手を尽くしても見つからず、彼は「僕が病気にさえならなかったら」ととても悔やみ、自分自身を恨んでいた。”僕なんか死んだほうがいいんだ””僕が死ねばお父さんが見つかるんじゃないか”そう考えるほど彼自身も追い詰められていた。しかし学校では辛いそぶりを少しも見せずいつも気丈な態度を取っていた。彼も辛いだろうに、と僕はとても見ていてつらかった。

失踪から2ヶ月ほど経った秋、彼の誕生日前夜。彼の父親は病院の敷地内で遺体で見つかった。「まるでドラマみたいだろ。」「多分、僕への最後の誕生日プレゼントだったんだよ。」と後に彼は僕に当時のことを語ってくれた。とても寂しげな笑顔で。
彼の父親が発見された翌朝(彼の誕生日)、いつもどおり気丈な態度で学校に登校してきた彼は自分の席に座ったとたん突如涙を流し始めた。「泣くつもりなんてなかったのに無意識のうちに涙が流れてきてたんだよ。」「好きだった子が慰めてくれたのはすごくうれしかったけどね。でもそれが返って泣けてきちゃってさ。」と彼はあの時のことを振り返って僕に言った。

父親の死後、父親のない子ということによる世間からのレッテルに打ち克つ為に急に大人にならなければならなかった彼は僕からはとても無理をしているように見えた。彼は母子家庭ということで同情という名の仮面を被った様々な世間の好奇の目にさらされたり、陰口を叩かれたりしていた。実質的な誹謗中傷の嵐は彼を人間不信に陥らせた。
人間不信ゆえ中学では学校を休みがちになり、それが原因で周りからいじめられたり、頻繁に教師から掛かってくる「学校へ来ないか」という電話のために電話恐怖症になったり、やらなきゃならない自分とそれをやりたくない自分との狭間に悩み、人ができること(例:学校へ毎日通う)ができない自分への焦り、周りからの煽り・無理強いなどにより、彼の精神状態はかなりボロボロの状態だった。“自分が死ねばいいんだ”“僕なんかこの世にいないほうがいいんだ”“僕が死んでも喜ぶ人はいても悲しむ人はいない”“どうすれば楽に死ねるのかな”と本気で自殺をも考えていた毎日だったそうだ。(本人は「自殺するほどの勇気もなかったんだけどね。」と笑って話してくれたが。)
そんな日々の中、偶然廊下で出会った校長先生の「この世に君は一人しかいないんだから周りの言うことは気にせずに、君は君でいいんだよ。自分を大事にしなさい。」という言葉にとても救われたそうだ。(当時他の教師は彼に、学校へはちゃんと来たほうが高校入試のとき有利だよ、というようなことしか言わなかったそうだが。)

中学3年になったころの彼は学級会長を任されたり、僕らや後輩たちと放課後サッカーをしたり、楽器を始めたりととても活き活きとした日々を送っていた。高校入学後も人より比較的学校を休みがちではあったが、僕ら友人たちと馬鹿話をしたり昼休みに音楽室でギターを弾いたり(彼はギターを弾くとき、それまで笑顔だったのが急に真剣な顔に変わる。何度指摘しても変わらない。)ととても楽しそうに日々を過ごしていた。相変わらず人間不信と電話恐怖症とその他にもいくつかのトラウマを抱えてはいたけれど。

そんな平穏な日々も彼が高校2年のとき、彼がとても好きだった親類のおじさん(彼はおじさんからいつも良くしてもらっていたためかそのおじさんをとても信頼し尊敬さえしていた。)が急に脳梗塞で亡くなった時に打ち破られた。落ち込みも激しく、彼の精神状態はまた悪化し始めた。それから約4ヶ月ほど経った冬の日、今度は彼と同居していた彼の祖父(彼の祖父は何人もいる孫の中で彼を一番可愛がり、彼自身も祖父が大好きだった。)が数週間の入院闘病生活の後に亡くなった。当時の彼の落込みぶりはとても言葉では言い表せない。完全な魂の抜け殻という感じだった。とてもじゃないが声をかけられるような状態ではなかった。
祖父の死はそれまで何とか表面上はまとまっていた彼の親戚内(祖父の子供たち)の亀裂をはっきりとさせた。詳しい話は彼から聞かされていないが、亀裂と衝突と憎しみあいの日々に、彼は人と人が争いあうことの虚しさと人間の醜さを改めて思い知らされたということだ。この事で彼の人間不信はさらに複雑化したものになっていた。

精神的なものによる過呼吸や嘔吐を繰り返しながらも彼はなんとか2年の修了時までは学校に通い続けた。しかし3年時は最初の数日登校することが彼のその時点での限界だった。何度か学校や遊びに誘っては見たものの、1学期のあたりは完全にふさぎ込んだままだった。(彼自身大学進学という夢を持っていたため、進学への新たな道を色々と模索してはいたようだが。)
夏、久々の東京への一人旅(映画の舞台挨拶を見に行ったとの事)での人との出会いで何かを得て、夏以降の彼は吹っ切れたような印象さえ感じた。2年生のときも担任だった先生が彼のことを真剣に考え、心配してくれたおかげで以前より多少は人間不信も改善されたとのことだった。「いい先生に恵まれてよかったよ、ほんと。どんなに感謝してもしきれないね。」
その後彼は定時制の高校に転入し、そこでもいい先生たちに恵まれ無事卒業、現在僕と同じ大学に通っている。

と、ここで時間は最初の彼との会話のときに戻る。このときの会話で非常に印象的だった彼の言葉を書き記してこのコラムを終えたいと思う。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。あなたの周りが平和になりますように。LOVE&PEACE&SMILE

「しっかしそれにしても、、一人一人産まれてくるまでに様々な苦労や困難があってさ、無事産まれてきても育っていくのにまた様々な壁があるじゃないか、ねえ。もうそれだけでも十分大変なのに、何でお互いの価値や個性を認めあえずに憎しみあったり殺しあったりするんだろうね。人を憎むより愛するほうがよっぽど楽しいのにね。」

「世界中の母親は、自分の御腹を痛めて産んだ子供が、たとえどんな命題があるにせよね、人殺しをすることも、殺されることも決して望んではいないだろうに、なんでその想いは人々へ伝わっていかないんだろうね。そういう想いがここ最近ずっと頭の中をぐるぐる回って消えないんだよ。僕は母親にはずいぶん心配や苦労をかけてきたから、そう強く想うのかもしれないけどね。」

「自分に起きた悲しいことは憶えていたくはないんだけど、現実には忘れようとしてもどうしても忘れられないんだよね。どうすれば忘れられるんだろう、、、。」

「僕は他の人よりほんの少し悲劇に遭遇する機会が多かったけど、やっぱりね、悲劇よりも喜劇の方が好きだよ。僕はもう悲しい事は、、、自分が出会うのも他の人たちが出会うのも、たとえそれが僕が一度も会ったことのない人でもね、嫌なんだよ。悲しい事はもう十分だから、、、。だから僕は “I need peace&smile.” なんだ。」


2002.5.3 Toyo/Iemasa Noda@管理人
平和と笑顔を愛する僕の友人に、そして彼を愛した人たちにささげる。多謝。