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#12 「I
need peace&smile.」
久々のコラム、今回は僕が物心つく前からの友人である或る一人の男の話。長くなりますがどうか最後までお付き合いください。 ある日彼と2001年9月以降の一連の悲劇について話していたとき、ふいに彼が言った言葉、「人は、自分が他人にされた仕打ちは執念深く覚えていたりするのに、自分が他人にした仕打ちはすぐ忘れてしまったり、思い出そうとしたりしないね。」 彼の父親が亡くなったのはちょうど11年前。彼の父親は家族にとても優しく家族からも愛され、子供たちからも尊敬されている人だった。彼ともとても仲がよく僕はとてもうらやましかった。彼の父親は彼の姉が高校に合格したとき、覚えたてのワープロでお祝いの垂れ幕を作ったそうだ。照れながらも少し自慢げだった顔が今でも忘れられない、と彼は僕に語った。(僕も作ってほしかった、とも) 彼が小5の春休みにその父親は職場で脳卒中で倒れ病院に運ばれ、一命は取り留めたものの半身不随になり言語障害などの後遺症を残していた。父親が2回目の転院をした夏、彼は急性の病気で父親と同じ病院に入院した。数日後、家族や親戚に連れられて初めて彼の病室を訪れた彼の父親は彼の姿(胃の中の炎症によるかさぶたを取り出すため鼻から管を通していた。)を見て驚きのあまり失禁したそうだ。(僕自身彼の姿を見たときはとても驚いたのだから無理もないことだ。) 寝る間も惜しんで家族や父親の友人、親戚は捜索を続けた。彼も退院後休みの日には必ず捜索活動に参加していた。聞き込みをして回ったり、町の広報などで呼びかけをしてみたり、しまいには占い師などの力も借りた。四方八方手を尽くしても見つからず、彼は「僕が病気にさえならなかったら」ととても悔やみ、自分自身を恨んでいた。”僕なんか死んだほうがいいんだ””僕が死ねばお父さんが見つかるんじゃないか”そう考えるほど彼自身も追い詰められていた。しかし学校では辛いそぶりを少しも見せずいつも気丈な態度を取っていた。彼も辛いだろうに、と僕はとても見ていてつらかった。 失踪から2ヶ月ほど経った秋、彼の誕生日前夜。彼の父親は病院の敷地内で遺体で見つかった。「まるでドラマみたいだろ。」「多分、僕への最後の誕生日プレゼントだったんだよ。」と後に彼は僕に当時のことを語ってくれた。とても寂しげな笑顔で。 父親の死後、父親のない子ということによる世間からのレッテルに打ち克つ為に急に大人にならなければならなかった彼は僕からはとても無理をしているように見えた。彼は母子家庭ということで同情という名の仮面を被った様々な世間の好奇の目にさらされたり、陰口を叩かれたりしていた。実質的な誹謗中傷の嵐は彼を人間不信に陥らせた。 中学3年になったころの彼は学級会長を任されたり、僕らや後輩たちと放課後サッカーをしたり、楽器を始めたりととても活き活きとした日々を送っていた。高校入学後も人より比較的学校を休みがちではあったが、僕ら友人たちと馬鹿話をしたり昼休みに音楽室でギターを弾いたり(彼はギターを弾くとき、それまで笑顔だったのが急に真剣な顔に変わる。何度指摘しても変わらない。)ととても楽しそうに日々を過ごしていた。相変わらず人間不信と電話恐怖症とその他にもいくつかのトラウマを抱えてはいたけれど。 そんな平穏な日々も彼が高校2年のとき、彼がとても好きだった親類のおじさん(彼はおじさんからいつも良くしてもらっていたためかそのおじさんをとても信頼し尊敬さえしていた。)が急に脳梗塞で亡くなった時に打ち破られた。落ち込みも激しく、彼の精神状態はまた悪化し始めた。それから約4ヶ月ほど経った冬の日、今度は彼と同居していた彼の祖父(彼の祖父は何人もいる孫の中で彼を一番可愛がり、彼自身も祖父が大好きだった。)が数週間の入院闘病生活の後に亡くなった。当時の彼の落込みぶりはとても言葉では言い表せない。完全な魂の抜け殻という感じだった。とてもじゃないが声をかけられるような状態ではなかった。 精神的なものによる過呼吸や嘔吐を繰り返しながらも彼はなんとか2年の修了時までは学校に通い続けた。しかし3年時は最初の数日登校することが彼のその時点での限界だった。何度か学校や遊びに誘っては見たものの、1学期のあたりは完全にふさぎ込んだままだった。(彼自身大学進学という夢を持っていたため、進学への新たな道を色々と模索してはいたようだが。) と、ここで時間は最初の彼との会話のときに戻る。このときの会話で非常に印象的だった彼の言葉を書き記してこのコラムを終えたいと思う。最後まで読んでくださった方、本当にありがとうございました。あなたの周りが平和になりますように。LOVE&PEACE&SMILE 「しっかしそれにしても、、一人一人産まれてくるまでに様々な苦労や困難があってさ、無事産まれてきても育っていくのにまた様々な壁があるじゃないか、ねえ。もうそれだけでも十分大変なのに、何でお互いの価値や個性を認めあえずに憎しみあったり殺しあったりするんだろうね。人を憎むより愛するほうがよっぽど楽しいのにね。」 「世界中の母親は、自分の御腹を痛めて産んだ子供が、たとえどんな命題があるにせよね、人殺しをすることも、殺されることも決して望んではいないだろうに、なんでその想いは人々へ伝わっていかないんだろうね。そういう想いがここ最近ずっと頭の中をぐるぐる回って消えないんだよ。僕は母親にはずいぶん心配や苦労をかけてきたから、そう強く想うのかもしれないけどね。」 「自分に起きた悲しいことは憶えていたくはないんだけど、現実には忘れようとしてもどうしても忘れられないんだよね。どうすれば忘れられるんだろう、、、。」 「僕は他の人よりほんの少し悲劇に遭遇する機会が多かったけど、やっぱりね、悲劇よりも喜劇の方が好きだよ。僕はもう悲しい事は、、、自分が出会うのも他の人たちが出会うのも、たとえそれが僕が一度も会ったことのない人でもね、嫌なんだよ。悲しい事はもう十分だから、、、。だから僕は “I need peace&smile.” なんだ。」 |
2002.5.3 Toyo/Iemasa Noda@管理人
平和と笑顔を愛する僕の友人に、そして彼を愛した人たちにささげる。多謝。