ヨーロッパの陶磁器物語
西洋が東洋の磁器にあこがれ
宝物のように珍重した
やがて西洋諸国はその憧れにてをのばし
模倣し、創造し
自らの手で
その宝を作り出そうと
情熱をたぎらせた。
ヨーロッパ磁器はそこから始まった・・・・。
模倣から創造へヨーロッパ陶磁の歴史
ヨーロッパが、東洋の白く、強く、
美しい磁器に目覚めたのは17世紀。
王侯貴族のコレクション・アイテムの時代を経て
18世紀には、今に伝わる名窯がいっせいに花開いた。
ヨーロッパを魅了した陶磁の歴史を紐解きます。
富と権力の象徴だった東洋の白い磁器
レストランで、紅茶やコーヒーの専門店、あるいは通りがかったデパートで何気なく見かかる美しい器。
結婚のお祝いなどには欠かせないほど、いまや洋食器は私たちの暮らしに身近なものになっています。
お気に入りのカップ&ソーサーで飲むお茶の時間を大切にしている方も多いことでしょう。
 私たちの目にふれる洋食器の多くは、ヨーロッパの名窯で作られたものです。
18世紀初頭、当用磁器への憧憬から生まれた西洋磁器は、さまざまな変遷を経て、独自の美しさを持つテーブルウエアーに完成されたのであります。
 磁器とは、素地が白くて硬く焼き締まっているもののこと。
吸水性はなく一般に透明釉が掛かっていてつややかで、陽にかざすと光が透けて見え、叩くと美しい音がする・・・。
最初に作られた白い磁器は中国、宋から元の時代(12〜14世紀とされます。透き通るように白く、妖しいまでの魅力をたたえた東洋の磁器が、ヨーロッパにデビューしたのは意外に早く、12世紀アラビアの商人によるといわれています。
中国磁器の白さ、薄さ、硬さは、ヨーロッパでは画期的なものだった。何しろこの時代、ヨーロッパにはくすんだ灰色や赤茶色の陶器しかなかったようです。それが明らかになったのは13世紀末。マルコポーロが中国から磁器を持ち帰って、「東方見聞録」とともによにしらしめたのだったそうです。
 それからさらに数世紀、17世紀には入ってオランダ東洋インド会社が設立されると、中国と日本との貿易を独占し、お茶や絹織物などとともに磁器をヨーロッパに運ぶようになったのです。
異国趣味と喫茶の習慣、そしてはるか彼方の東洋への憧れからシノワズリがヨーロッパ各国の国王や貴族、富裕な商人たちに熱狂的に迎えられたのだそうです。

 
17世紀以降、大航海時代に突入したヨーロッパには、中国や日本から膨大な量の磁器が流入した。
オランダの記録によれば、1659年に初めて日本に大量注文してから100年あまりの間に、日本から輸出された陶器は300万点にものぼっています。
 東洋から運ばれてきた硬質磁器は「白い黄金」と呼ばれ、金銀宝石と等しいか、それ以上の価値を持つものとして王侯貴族の宮殿や大邸宅に飾られました。
中でも有名なのがバロック建築の傑作、ツヴインガー宮殿「磁器の間」で、実に数万の東洋磁器で埋め尽くされています。
ザクセン選帝侯、”強王”と呼ばれるフリードリッヒ・アウグスト2世であります。
 どれだけの数がヨーロッパにはこばれても、依然として東洋のの磁器は貴重で高価なものであったようです。やがて野心的な君主や事業家は、本物の磁器が焼成できれば、東洋に流れる莫大な富を手に入れると考えるようになります。ヨーロッパ全土で磁器生産への熱意が高まる中、国家の最優先事業として実現されたのが、アウグスト強王だったのであります。
 強王は19世紀の錬金術師、ヨハン・フリードリヒ・ベトガーを罪人同様に幽閉し、硬質磁器の研究を強要します。当時の錬金術師は分析化学の基礎を知っていたともいわれますが、研究は困難を極めました。それまで、ヨーロッパで作られていた軟質陶器や硬質磁器が決定的に異なったのは原料となるカオリンと焼成温度であります。ベトガーは9年間にわたる試行錯誤の末、近くの山中からカオリン鋼を発見して、ようやくヨーロッパ初の硬質磁器焼成に成功。1709年のことで、その後ベトガーは37歳の若さで波乱に満ちた生涯を閉じました。
 ベトガーの成果を元に1710年、マイセンの町に「王立ザクセン磁器工場」が設立されます。現在のマイセン磁器製作所の全身ででこうしてヨーロッパ磁器の歴史が始まりました。
 マイセン磁器の原料や焼成は必中の秘とされたが、陶工たちの逃亡、買収などでたちまち全ドイツに広がり、やがてヨーロッパで硬質磁器を焼成する窯が次々と誕生することになったのです。

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