中国で仙薬とて始まったお茶

 紅茶をはじめ、緑茶や烏龍茶などすべての茶の原料になる茶の木は、元は中国雲南省ビルマ(ミャンマー)の山岳部などにしか自生していなかった植物。それを中国人が採取・加工して飲むようになったのが茶の始まりです。現在のように世界各地で茶の木が栽培されるようになったのは、19世紀に入りインドでアッサム種が発見されてから。それまではダージリンやアッサムなどという産地茶はなく、中国が唯一茶の産地だったです。
 茶の利用の歴史は中国の神農伝説のよると紀元前2737年にまでさかのぼるといい、古来は茶の葉を煮たり、蒸したりの不発酵の緑茶で不老長寿の仙薬として飲まれていた。6世紀以降、薬用から一般的な飲み物として中国全土に普及するにしたがい、茶葉を発酵させた烏龍茶などさまざまな種類がつくられるように。16〜17世紀には、紅茶の原型ともいいえる発酵茶の登場しました。


陸路のチャイロードと海路のティーロードで世界へ

 また、このころになると少しづつ近隣のアジアの諸国につたえられ、まず、陸続きのチベットやモンゴル、朝鮮半島、そして日本へ。14世紀には東西の交易ルートであるシルクロードを経て、中央アジア諸国やイスラム諸国、トルコ、ロシアへと伝播していったこのシルクロード経由でそのまま陸伝いにヨーロッパまで伝わるのが自然の流れですがなぜか、ヨーロッパ諸国までは達しなかった。ヨーロッパ人が初めてお茶の存在を知るのは16世紀の大航海時代。ヨーロッパから回路はるばる船に乗り、香辛料の獲得とキリスト教布教のために東洋に来航してからです。そしてヨーロッパにお茶が初めて輸入されたのは1610年。オランダ東インド会社の商人たちが、九州の平戸や中国広東省マカオ(ポルトガル領)で買い付けたお茶を本国のアムステルダムに向けて送ったもの。お茶は、たちまちオランダの貴族・上流階級の間で一大ブームとなり、当時は茶を煮出して砂糖を加え、茶碗から受け皿に移して音を立ててすするという飲み方が流行しました。           オランダはポルトガル、ドイツ、フランス、そしてイギリスなどに積極的にお茶を売り込み、しだいにヨーロッパ諸国にお茶が伝わっていったのであります。ところで、今日、世界各国のお茶の呼び名はcha(チャ)te(テー)大きく分かれている。いずれも中国語がなまってもので、chaは広東語系、teは広東の隣の福建語系。広東語系のchaと呼ぶのは陸路で茶が伝わった国々に多く、一方、海路で茶が伝わったヨーロッパの多くの国々では福建語系のteが使われています。


1720年ころの中産階級の家庭のお茶を楽しむシーン。テーブルには銀のティーセットが描かれています。ちょっと見づらいのですがティーボールの持ち方が三者三様なのもユニーク。
緑茶からやがて紅茶へ

 オランダからイギリスにお茶が入ってきたのは1630年頃。イギリスにお目見えしたお茶は、ほぼ同時期にアラビアから伝わったコーヒーやアメリカ大陸から入ってきたチョコレート(ココア)と競合しながら、少しづつ普及していきます。1650年代にはロンドンに「コーヒーハウス」という新しい喫茶店がオープンし、お茶もメニューに登場。コーヒーハウスは貴族や上流階級の人々の社交と情報交換の場として大繁盛した。1669年には、イギリス東インド会社が初めて自力で中国からお茶を輸入。以来、イギリスは強力な海運力にものをいわせて、ポルトガルやオランダに代わって東洋貿易の主導権を握り、19世紀前半に至るまで百年以上に渡って茶貿易を独占するのであります。この頃イギリスが中国から輸入していたお茶はほとんどが緑茶。しかし、中国ではすでにさまざまな種類のお茶が誕生していて、福建省ではウーロン茶をより進化(発酵)させた紅茶の原型といえる武夷岩茶(ウーイーイエンチヤ)工夫茶(ゴンフーチャ)などもつくられており、これらのお茶も緑茶とともに輸入された。茶葉の色が黒っぽい武夷岩茶(ウーイーイエンチヤ)工夫茶(ゴンフーチャ)はブラックティーと呼ばれ、緑色の緑茶、グリーンティーと区別するように。もちろんランクはブラックよりグリーンが上。18世紀のはじめには、紅茶(ブラックティー)はイギリスのお茶の輸入量の六分の一足らずだった。だが、茶貿易は東インド会社の独占だったために、緑茶の密輸入も急増。緑茶に茶以外のものを混ぜたものや、また、肉食中心のイギリス人の食生活においては、淡白な緑茶より重厚な味の紅茶のほうが好みにあったということもあり、ブラックティー、紅茶の需要が急ピッチで高まったのである。18世紀の半ばには、紅茶はイギリスのお茶の7割を占め、ついに緑茶を逆転。19世紀にはほとんどが紅茶に切り替えられてしまったのです。


18世紀半ばまで、ティーカップは中国茶碗を手本にした取っ手のないデザインで、ティーボールと呼ばれました。左はインドアッサム産の紅茶が誕生した頃の保存缶です。
紅茶から始まった二つの戦争

 紅茶は世界の歴史を変える大事件の呼び水ともなった。
一つは、1773年「ボストン茶会事件」当時、アメリカ植民地では、本国イギリスからお茶には高い関税がかけられ超高価だったために、オランダから密輸した安価な紅茶が出回っていました。イギリスは東インド会社所有の過剰な茶の在庫を売りつけようと、アメリカ植民地では無税で処分してよいという「茶条例」を公布。こんな本国の弾圧的な態度に移民たちの怒りが爆発。ボストン沖に停泊中のイギリス船を襲い、積荷の紅茶を海に投げ捨てる騒動となった。この事件をきっかけに、イギリスへの反発はアメリカ各地に広がり、「独立戦争へと発展」。3年後、アメリカは独立したのであります。              


もう一つの大事件

 もう一つの大事件は中国が舞台。中国からの茶の輸入量が増加したイギリスは、その代金として中国に払っていた「銀」が不足し、銀のかわりにインド産のアヘンを中国に押し付けたのだ。中国ではアヘン中毒者が増加し、1840年にイギリスと中国・清朝との間に「アヘン戦争」を起こす引き金になったのです。

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