昌歓寺タイトル
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大本山本寺末寺関係系統図

 昌歓寺は奥州市水沢区の大梅拈華山円通正法寺だいばいねんげさんえんつうしょうぼうじの末寺であり、開山は正法寺正住三世の虎渓良乳こけいりょうにゅう禅師である。当寺は現在まで三度の火災に遭っているため最も古い記録としては、十七世徹堂寛洪てつどうかんこう和尚の代宝暦十三年(1762年)編纂の法音山亀記ききという当寺の沿革について書かれた本がある。
 それによると良乳禅師の弟弟子の当寺の二世に当たる舌叟妙弁ぜつそうみょうべん和尚が、現在の花巻市笹間栃内の上人塚しょうにんづかの東方二、三百メートルの地に庵を結んで、専ら布教につとめていた。時の豪族根子大和守ねこやまとのかみの帰依するところとなり、仏殿、禅堂、庫裡、山門の寄進を受けたのがその始まりであるといわれている。その後九世通山光鷲つうざんこうじゅ和尚の代文禄元年(1591年)岩崎の乱に遭い、諸堂灰燼かいじんに帰し光鷲和尚伊達の棚木たなぎに難を逃れ病死した。しばらくしてその徒十世渓岩光浦和尚栃内の地に帰り、寺を復興しようとして、時の郡代岩間将監しょうげんに相談した。岩間氏は領主南部公に旧緒を告げたところ、それでは開基の根子大和守の館跡をやろうということになり、方四百間を寄進されたという。
本堂 大正十年七月撮影 本堂  大正十年七月撮影
山門 明治44年撮影 山門  明治四十四年撮影

 このようにして十世が現在地に昌歓寺を移転再建した。時は文禄四年(1594年)のことである。その後十八世即門大心そくもんだいしん和尚の代に諸堂を焼失し、その年本堂、庫裡、衆寮、土蔵等を再建した。それは明和四年(1766年)のことである。二十世宗玄探中そうげんたんちゅう和尚の代文政三年(1819年)重層楼山門を建立する。そして二十五世実林俊峰じつりんしゅんぽう和尚の代、文久三年(1863年)十六羅漢を山門へ入仏した。二十九世徹岳惟安てつがくいあん和尚の代山門、千体仏堂、山神堂、薬師堂を残し、本堂、庫裡、衆寮、経蔵、土蔵等を焼失、庫裡はその年に新築。大正二年(1913年)のことである。本堂は大正十二年(1923年)の竣工である。幸いにして本尊釈迦牟尼仏、文殊、普賢並びに虎渓良乳禅師の四体の諸像は火災の難を逃れ現存している。制作年月並びに作者は不明である。
 前住職三十一世大顕貞正だいけんていしょう和尚の代になり、住宅新築、庫裡改修、本堂、開山堂、山門屋根銅板改修等を行っている。その他境内地には十一面観世音立像を安置せる観音堂、水子地蔵尊立像などがある。