石太郎炭焼年表
石太郎さん本人による炭焼の年譜です。
*一部、最後の方は光夫が書き加えました。

-昭和3年頃
小学2、3年生の頃、先輩が白石川の河原に造る炭窯を真似て造るもうまくできず。                                                 

昭和三年(小学2年生)
秋、母とアリヤ山の上黒森に山ぶどう採りに行く。途中、井戸(地名)の所に、長井さんという人が、家族ぐるみで居小屋に泊り、炭焼きしていた。この時、炭窯見たのが初めて。居小屋の周りに南瓜成っていて、帰りにご馳走になる。

昭和4年  
アリヤ山に友達と遊びに行き、小原村の人が炭焼きしていて、炭出しと木立てするのを初めて見る。珍しく、炭ほぎりまで見ていた。

昭和6年 
母と大梁川のガバヤジ(地名)に栗拾いに行く。菊地八治さんが炭焼きしていた。窯の周りに栗がいっぱい落ちているが、八治さんは拾わない。鉢(炭窯の天井部)の上にも落ちているが、鉢が落ちそうで、怖くて鉢の上に登れない。 八治さんが大丈夫だと登って見せてくれたので、鉢の上のも拾ったが、おっかなびっくり。 子供心にも鉢は丈夫なものだと感心する。

昭和6年 
冬、父に連れられて、木戸屋の沢に炭焼き見に行く。父の作ってくれたちいさな草履はいて、片道1時間半くらい歩いて炭窯に着く。途中炭窯がいっぱいあり、煙いというのか、辛煙(炭化が盛んにすすんでいる時の煙り)でむせながら歩いていった事、何も手伝いできず、口焚きの火を燃やしていた事と、帰りに弁当コスコ(木の繊維などで編んだリリュックのような入れ物)に炬燵用の炭入れて背負ってきた事くらいしか覚えていない。 当時は、8貫目俵(30キロ)で、皆は1俵ずつ背負っていた。

昭和10年 
春、関尋常高等小学校・高等科二年卒業。もう社会人だ。5月頃、同級生の若木弘一さんと、皿森山の中腹より炭背負いする。 小原村の人が焼いたのを、若木さんは1俵ずつ、筆者は2俵ずつ背負って、午前1回午後1回、急な山道を往復した。小原村の人が、炭焼き止めるから(その場での炭焼きを止めるということ:当時は山を買ってその場で炭焼きしたので、木がなくなれば止めることになる)、少し残った炭木と小屋ガラを焼かないかと言うので、焼くことにする。小屋をほぐし、炭木の長さに切って、見よう見真似で、なんとか窯の中に木を立てる。窯に8分くらいしかなかったが、口焚きし、翌々日炭出し。それでも5俵半くらい出た。小原の人が、道具を家に持ち帰ったので、立て又は股木の細いので作り、金エボリの代わりに生木で、小エボリのような物を作り、長い柄を付ける。これを2丁作り、代わる代わる使って炭出ししたが、炭出し終わる頃は、ほとんど燃えて小さくなっていた。生まれて初めて炭焼きしたが、面白いより怖さが大きかった。

昭和10年 
冬は父と共に、大梁川のカラツ沢で鍛冶工炭(かじこずみ)焼き。1年先輩の斎藤春夫さんも、父の権三郎さんと共に、傍で鍛冶工炭焼きしていた。大人はヤセ馬(背負い子)で3俵、春夫さんと筆者は2俵ずつ背負って、片道1時間半くらいの道を帰っていった。

昭和11年 
弟の石二郎と、白石川の河原で鍛冶工炭焼いて、小遣い銭にする。2俵で1円50銭くらいだったかなあ。50銭ずつ分けて、残りはお菓子買って、妹たちと分けて食べた。旨かったなあー。普通では買えない生菓子食べたのだから当然でしょう。

昭和12年 
支那事変で父応召。1人では炭焼きできなく、材木(杉や松の丸太)出し、佐藤材木店の材木を出したのだが、重かった。先輩は馴れたもので、ひょいと担いでいた。 皿森山の中腹から、家で焚く薪切りもした。母の実家の兄、運吉おじさんから、よく切って運んだと褒められる。 遠くて、大人も切り出しできない所から切って運んだのだが、一度まくって(斜面の上から木を下へころがして寄せること)背負い出し、またまくって岩小前(いわごまい)の沢の入口に、高さ5尺、長さ7間(42尺)程積み上げた。 薪の長さは2尺8寸くらい、太いのは割って積むのである。棚木(積み上げた薪の単位)の計算は、高さ5尺横幅6尺が、五六棚といって、1棚の標準とされていた。 一冬に普通6棚から7棚、多く焚く家は8棚くらい焚いていた。

昭和13年 
父復員してくるも、石窯での炭焼き(白炭)より楽な鍛冶工炭焼く。 復員者というので、特別に払い下げてもらった栗の大木の枯木を、木戸屋の沢や、繁倉の沢の入口で焼いた。 

昭和14年 
炭屋の沢の奥で父と鍛冶工炭焼き。嶺近くに窯を造り、木寄せは楽だが、山の登り下りが大変。途中の十三尺の滝は、コクワ(さるなし)のつるを頼りに登り下りするので怖かった。現在茸採りに行ってみると、よく此所を登り下りしたなあーと思い、当時を想い出す。

昭和15年(19才) 
父と共に、木戸屋のニレヤジの沢で炭焼き(白炭)。居小屋泊りや、ブナの大木を焼く等、貴重な体験をする。

昭和16年(20才) 
徴兵検査。黄疸で弱っていて、第1乙種合格。冬、木戸屋のニレヤジの奥で炭焼き。 この年から、国有林も一部皆伐となるも、ケヤキ、ホウノキ、センノキは切らずに残す。

昭和17年(21才) 
8月応召。長野県松本市東部50部隊入隊。11月、朝鮮半島経由で満州国東安省虎林県虎林市郊外の満州4620部隊へ転属。補給所警備。

昭和18年(22才) 
部隊内の酒保で、炭窯造りの経験を生かし、某(名前忘れた)と二人で、レンガでまんじゅう蒸す窯造り。 故郷の七ケ宿村でも若者が続々と応召。木炭を増産するために、官行炭の名で、近くの国有林も払い下げする。

昭和19年(23才) 
チチハルに部隊全員移動。南方戦線に移動して行って空家となった兵舎や鉄橋の警備。

昭和20年(24才) 
8月15日終戦。昴々渓(こうこうけい)の兵舎に戻る。9月半ばチチハル移動。 11月、満洲里(まんちゅり)経由、貨車にて入ソ。シベルアのカクイで伐採作業。炭焼き等、山仕事の経験を生かし、あまり苦労せず。寒さと食料不足には参った。

昭和21年(25才) 
カクイの造船所内で、雑役とビル建設の基礎の穴掘り。天然の砂利や砂積み込み等。大きなトラックで積み込むのに大変。夏から冬にかけてマカベの山奥で伐採作業。赤松の300年くらいの木が枝もなく伸びていた。キノコとフレープという木の実いっぱいあり、現地人も木の実採りに来ていた。 冬、チタの収容所で3ケ月、共産教育というのか、仕事せずに遊んで暮らす。 故郷では、復員者と弟妹が大きくなって、どこの家でも10人くらいの大家族となっている。

昭和22年(26才) 
トリノスカヤ奥で、天幕生活で伐採作業や農場の手伝い等。8月6日に山を下りる時、霜が降りていた。ナホトカに2ケ月近くいて、10月半ばに出港。復員。舞鶴上陸。 6年ぶりで見る日本の風景は箱庭のようだった。 10月末帰郷。何か夢のようで、村の人達の顔も見忘れていた。冬、父と弟(定夫)と長瀬で炭焼きしたが、体が弱っていて思うように動けず、4貫目の炭1俵背負って、フラフラしながら1時間足らずの山道を歩いていた。

昭和23年(27才) 
お正月(旧暦)過ぎたら、体も元通りになり、炭3俵背負えるようになっていた。3月31日、原部落大火。筆者の家も半焼の状態となる。 秋、すい子と結婚。小原村塩蔵より、2里の道を、馬車に揺られて、ユラユラと。冬、岩小前奥で炭焼き。鉢上げ(炭窯の天井部を築くこと)した夕方、火を焚きすぎて、翌朝行ったら、鉢がペシャンコ。(いろいろな木を組合せて鉢の型を造り、その上に石や粘土で築くため、乾いてないうちに型の木組が焼け落ちれば、鉢は落ちるということになる) 浅野留吉さん、斎藤運治さんに手伝ってもらい、夕方まで鉢上げ直す。いやはや大変な仕事だった。炭焼き60年の中で、一番の失敗だったような気がする。 この窯は大きな窯で12、3俵が普通で、16俵でたこともある。

昭和24年(28才) 
前年焼いた山が大きく、同じ窯で期間を半年延期して、この冬も焼く。

昭和25年(29才) 
繁倉の沢の入口で炭焼き。この年から択伐(全て伐らずに、用材になりそうなものを残したり、皆伐ではげ山になるのを避けるために何割か残して伐ること)でなく皆伐となり、伐採跡には松、杉等植林。炭窯も他の人の手を借りず、父や妻相手に造るようになる。伯父(母の兄)佐藤左馬吉さんに石の使い方(石の組み合わせ)上手だと褒められる。 

昭和26年(30才) 
繁倉の沢の中頃で炭焼き。 隣りの浅野直さんが夕方遅くなって炭ホギリ放しで(消火のためスバイという消し粉の中に炭が埋っているのを、消し粉と炭に選り分ける作業を炭ホギリという:ほぎった後でも炭はまだ熱い)帰った後、炭がおきて出火。筆者の小屋も焼けて、惜しみの一番ノコギリが焼けて、豆からになってしまった。がっかりしたなあー。

昭和27年(31才) 
繁倉の奥で炭焼き。大きな岩の下に、なんとか炭窯造り、スバイ庭(窯から出した炭をひっぱってきて消火、ホギリ、炭詰め等の作業をする場所:窯口の前の、横が窯の幅で縦が7歩半の長さの大きさ)は橋架けて造る。下が物置になって便利だし、窯の下を通って出てくる水が暖かく、冬、手や顔を洗うのによかった。水のでる所に造った窯にしてはやける窯で良い炭が出て、普通14、5俵、時には17俵出ることもあった。 山は3面(みつら:3人分)買ったので、一冬で焼ききれず、再払い下げしてもらって、また一冬焼く。 二冬で、1500俵以上焼いた。沢をはさんで隣りの浅野嘉さんの鉢に穴が開き、浅野さんの小屋は丸焼け。筆者の小屋は沢があったので類焼を免れた。

昭和28年(32才) 
前年に引き続き同じ窯で焼く。 皆んなが、窯造りで苦労している時、その心配なし、大変助かった。山が大きく(炭の原木が多く)、秋までに焼ききれず、残木がでる。

昭和29年(33才) 
小見ケ沢(こみかさわ)の枝沢・横沢(よこつさ)で炭焼き。 古い窯をほぐし(解体)たら、鉢は大きな平ぺったい石で組合せたノゾキ鉢だった。奥の方半分はそのままに、前の方を築き直して焼いたが、最初焼けなかったが、後で焼けるようになる。西向きの嶺近くで雪道を通うのが大変だったが(冬は北西の風が強く、西側は雪が積もりやすい)、水の無い所だったので、雪を利用して助かった。20年生くらいのナラと雑木の混じった山で、西向きで風が強くあまり伸びていなかった。この冬以降、細木焼きといって、15年生から30年生くらいの木を炭に焼く。他の人はほとんど国有林(太い木が多かった)を焼いていた。

※焼ける窯、焼けない窯 ここでいう「焼ける」「焼けない」というのは、炭がたくさん出る出ない、あるいは良質の炭が出る出ないということをさす。炭が全く焼けないということではない。

-昭和30年以降(34才〜) 
昭和30年より37年頃までの8年間、主に村山(民有林)で細木焼き。 長瀬の禁伐林(部落有)、アリヤの館の下、木戸屋の沢(ノボトの登り口)、小見ケ沢、横沢入口、皿森山の中腹、大梁川の沢、ヒラ場、国有林は、小見ケ沢のズナハギ場、大松沢入口、大トツの沢等で、1年の内に3ケ所くらい炭窯造って焼いたこともある。それでも足りなくて、ワラビ平と小山のかげの自分の山に炭窯造り炭焼きした。1年間に7、8百俵焼くので、1ケ所2、3百俵では、何ケ所にも窯造るようになり、お蔭で、炭窯も簡単に造れるようになった。

昭和38年(41才) 
繁倉の沢の入口で、古川清弘さんとオスで(共同で)窯ぶず(造る)。古川さんが先に焼く。その間、沢の中頃に窯を造り焼いていて、春先古川さんが焼き終わってから、秋まで300俵余焼く。国有林だが、20年程前に択伐して残っている木を皆伐し、松や杉等植林する。この頃より、炭スゴ(炭俵)がビニール袋となる。初めは袋代が大変だと、炭スゴ使っていた人も、輪っか作ったり、底柴等入れる手間が省けるようになるので、だんだんビニール袋となる。背負うのにツルツルして背負いづらかったが、慣れてくると良くなった。

昭和39年(42才) 
大トツの沢で炭焼き。国有林の二次林(一度伐採された後に再生された林)で皆伐。一番入口の窯で、古い窯を直して鉢上げ。あまり焼けなかったが12、3俵出る。 家から40分足らずで行けるので、子ども達も遊びに行く。春、アイコ等山菜が窯の周りに出るし、清水が湧き出るので、夏西瓜等冷やして食べながらの炭焼き。楽しかった。妻も手伝いに来る。組合員の皆は、1面300俵くらいの山だったので、冬の間にほとんど焼き終えたが、3面(3人分)集めたので、翌40年の秋まで炭焼きする。他の人達が来なくなったので少し淋しいが、静かで良かった。百姓の合間、夏も炭焼きする。何よりも家から近いので助かった。この年あたりより、炭の売行きが思わしくなくなり、炭焼きやめて転業する人も増えてきた。この年払い下げした原木の20%近くがパルプ材として搬出された。定夫(弟)が架線して、パルプ材を1000メートルくらい離れた白石川の河原まで搬出していた。伐採跡に杉と松、落葉松(カラマツ)植える。松と落葉松はよく育っているが、杉は雑木に負けて駄目。モダ山になっている。

昭和40年(43才) 
秋まで大トツの沢で炭焼き。東沢に吉田実さんとオス(共同)で炭窯造る。初めに吉田さんが焼き、翌春から秋まで筆者が焼く。国有林の二次林で、50年生くらい。皆伐で、切り跡に松植林する。 炭木が太くなく、伐るにも割るにも苦労しなかったが、用材になる木が少なく、組合費を充たすのにも足りなく、植林の事業費から幾分充当する。 この年の冬、大トツの沢の中頃で、当年払い下げの原木で炭焼きする。

昭和41年(44才) 
春から秋まで、前年吉田実さんとオスで造った窯で炭焼き。吉田さんは8、9俵出していた窯から、筆者は10、11俵とる。吉田さんに「石太郎さん、炭焼き上手だな」と褒められたが「なーに、焼き込んだ窯だから余計でるんだろう」とごまかしていたが、内心では、炭木の長さと木の立て方が違うんだろうと思っていた。自慢話になるが、他の人が焼いた炭窯で、その人より2俵くらいずつは多く炭をとっていた。炭木を少しでも長く切ることと、立てる時、隙間無く立てるのがコツのようだ。それからもう一つ、炭出しの日は必ず辛煙が残っているように窯かげんすることだ。アサギ煙になり、窯の中が赤く見えるようでは1俵くらい少なくなっている。 この年が組合員が揃って炭焼きした最後で、翌年は、出稼ぎ等で炭焼く人半数以下となる。

昭和41年冬(44才) 
秋、東沢の枝沢・金掘沢(かねほんざ)の一番奥に炭窯造る。 組合員四十名近くが1つの沢に入ったので、入口から奥まで1キロ500メートル余15分程余計に歩くようになるも、山が大きく(炭木が多く)、入口近くの人は250俵から300俵なのに、800俵近く出る。 山分けの時、窯場は良くないし木寄せも悪いからと、山をよく見もせず、どんぶり勘定で分けたのに、3人分くらいの大きさになったのだ。皆んなが嫌うので「よし俺が焼く」と引き受け、いくらかお金も貰って炭窯造る。工夫次第で炭窯も案外楽に造れ、木寄せも案外楽で、炭も良いのが出て、宝の山だった。ただ、妻のすい子には、同じ炭背負い仲間の女の人達より往復20分以上も余計に歩かせたので、苦労をかけたと思っている。

昭和42年(45才)
前年焼いた窯で炭焼き。炭木がなくなり、隣りの窯の浅野直さんの山を分けて貰い、焼き続ける。山代3000円也。 炭木を運ぶのに、シベリアでの体験を生かし土そり(どそり)で妻にも手伝ってもらい運んだが、なかなか滑らず苦労する。現在の運搬機があればもっと楽して運べたし、奥の方に残した300俵くらいの木も全部焼けたろうに。 春、百姓が始まるまでで、木運ぶのひどくて止める。 秋から翌春まで別の枝沢で炭焼き。

昭和43年(46才)
春までで炭焼き止める。もうこの時点で、炭焼きしていたのは、浅野嘉・けさ子さん夫妻、小室孝治・孝一さん親子だけ。翌44年には小室さん炭焼き止めて、浅野さん夫妻だけとなる。

昭和45年(48才)
浅野さん夫妻も炭焼き止める。部落の若者?はほとんど出稼ぎに出る。筆者も農閑期は集材機の仕事が主となる。この年11月4日、寝耳に水のダムの話が持ち上がる。

昭和53年(56才)
古川浅吉さんが、ベンケイ石(地名)の畑の土手に炭窯造り炭焼き始める。84才の古川さんが、窯造りに若い人達に手伝ってもらったが、後はほとんど自分で木を切り、背負って運び、炭焼きするのだから驚いた。6、7俵の窯だが良い炭が出て、周りの人達に売ってくれたので、皆んなが喜んでいた。1俵1500円くらいだったと記憶する。炭焼きは翌54年まで少しずつ焼いていた。

昭和60年春(63才)
若林山囲、大梁川林道脇に炭窯造る。『沈んだ村の物語・第二集』書くために、実際に炭窯造ってみようと考える。筆者1人で土掘り2日。石集めを佐藤清さんと1日、4トントラックで3台(2台半くらい)。縁張り(窯底の暗渠)1日。窯造り当日は、昔の炭焼き仲間に手伝ってもらい、30人程で1日で仕上げる。五六(ごろく)の標準の窯造る。(五六とは、窯の幅の一番ある所が5尺、窯内部の奥行きが6尺)NHKテレビも3日間取材に来、全国放映される。

平成6年(73才)
3月、炭焼きに関心のある方に来てもらい、実際に木切りから、運搬、焼くまでを体験してもらいながら、炭焼きする。炭焼きの会発足。5月、炭焼きの会の皆さんに手伝ってもらい、佐藤光夫さんの炭窯造る。この年の暮れから光夫さん炭焼きする。10月〜11月、白石第一小学校の子供達とミニ窯造る。

平成7年(74才)
中新田町の尾形さん、伊藤さんらに頼まれ、中新田町のりんご園の中に炭窯造りに行き、10人くらいで3日で完成。1窯炭出して帰る。材料の石が丸い川石が多く、できあがった窯みると、なにか不思議な、ぶかっこうな気がする。

平成9年(76才)
2月、自宅前の畑の中に、やや小さめの、白黒両用の窯(白炭、黒炭の両方が焼ける)造る。7月、花山少年自然の家からの依頼で、自然の家のキャンプ場脇にミニ窯造りに行く。夏の子供達のキャンプに講師として招かれ、炭焼きして見せる。11月、福島県梁川町の「校舎のない学校」の方達の依頼で、梁川町にミニ窯造りに行く。

-*この後も、石太郎さんは、白石の自宅脇の山林を購入し、その一角に炭窯を作り、炭焼きを始めました。