| 三丁目四番地のサンプルとなります。3〜9頁辺りまでです。 「おはよう、アツシ」 店舗裏の従業員専用の扉を開けると先に出社しているはずの同僚に声を掛けた。 奥の厨房からバニラエッセンスの放つ甘ったるい香りと、カチャカチャとした器具の音が聞こえてくる。 作業に没頭しているのか返事はさっぱりだったけれども、いつもの事だと気にせずに氷室はロッカールームへと向かう。 自分のロッカーに手荷物を突っ込み代わりにエプロンを引っ張り出す。ワイシャツとスラックスはいちいちここで着替えるのが面倒くさくていつも自宅から着てきていた。エプロンを腰に巻きつつ壁掛けの名前札に目をやっ た。 同僚でパティシエの紫原、隣に自分の物、更にその隣にオーナーの荒木の札が下がっている。出社したらひっくり返す決まりなのだが荒木の物は二人のとは別の色の札が下がっていた。 荒木用の札は数枚有りどれも色が違っている。緑は外回り、青は休日、黄は仕入れやその他だ。 「緑…だから今日は外回りか」 荒木が出社しない場合は雇われ店長も務めている氷室が店の一切を仕切っていた。伝言や指示がある時はホワイトボードに書き込まれている。最初はどうかと思ったが、案外気楽なもので好きにやらせてもらっていた。 ネクタイを締め、最後に鏡で身だしなみをチェックしてから扉を閉めた。 ホワイトボードには「いつも通りで構わない。連絡事項は特になし。ただし通り雨には注意」と書かれている。ここ最近は天気が不安定で午後になると急な雷雨に見舞われる日が多かった。それに伴う店先に出してある看板の撤去や、来客時の対応等備えておく必要があるだろう。 「タオルと予備の傘をいつでも渡せるよう準備しておくか」 名前札をひっくり返し、ロッカールームを後にした。 厨房から聞こえてくる音と香りに目元を細めながら、開店準備を始める。 カーテンを開けて閉めっぱなしになっていた窓を開け放ち籠もった空気を入れ替え、来客口の扉の鍵を外し、スットパーで押さえた。用具室から箒とちりとりを出してきて掃除を始める。 外は穏やかな秋空が広がっていた。急な雨なんて降らなければ良いのにと思わずにはいられない。 テーブルとカウンター内の掃除も終えて、後は商品の陳列と看板の用意くらいだ。 「今日は、と…」 看板は毎日氷室が手書きしている。日替わりのセットメニューと今日のお勧めを簡単なイラスト入りで書いていた。以前は氷室としては力作なイラストを満載していたのだが、周囲の評判が悪く、今ではワンポイント程度となっている。 あんなにも見事なシュークリームの絵をなぜ『丸めた ティッシュか紙』と言われなければならないのか、未だ氷室は理解できなかった。 先日も作成し終えた看板があまりにも寂しく感じられたため、空いたスペースにロールケーキを描いたのだがそれに気がついた荒木に「余計なものを描くな!単純な絵で良いんだ!」と綺麗に消されてしまったのは記憶に新しい。 「アツシ、ちょっといいか」 作業の音が止んだのを見計らって厨房に足を運んだ。今は焼き方に入っているようだ。 「あ、室ちんおはよー」 「ああ、おはようアツシ」 氷室に気付いた紫原がオーブンの前からしゃがんだまま顔を上げた。 殆ど室内で作業しているためあまり日に焼けていない白い頬に少し粉が付いてしまっている。 ついと側に寄ると氷室はおもむろに紫原の頬に手を添えた。粉の上に軽いリップ音をたてながら唇を落とす。 「…あのさぁ、室ちん」 「朝の挨拶と、ここに粉が付いていたからね」 つんつんと人差し指で頬を突つくと呆れ返った紫原に指を押さえ込まれてしまう。 「そんなの普通に拭えばいいじゃん」 「だから朝の挨拶も兼ねてだよ」 アメリカ帰りだと言う氷室はこういったスキンシップをとってくる事が非常に多かった。初めは呆気に取られた紫原も今では大分慣れてきてはいた。が、 「しなくていいよ、こーゆーの」 同姓同士でもするものなのだろうか、とやはり疑問に感じてしまうのも致し方ない。紫原にはとっては無縁だったスキンシップの一つなのだ。 しかしそう言えば、 「俺がしたいんだよ」 落ち着かなくてさ。もう何度も耳にした台詞を吐きながら氷室はなんでもない事のように笑う。 「もう…」 強く拒否しなければこれは止めそうにもない。ため息を吐きながら紫原は唇の感触が微かに残る頬をぐいと強く拭った。一瞬、視界の端に入った氷室の目元が歪んで見えた気がした。 「それでなに?」 立ち上がると気を取り直して氷室と向き合った。何か用があった筈だ。 「ああ、看板書くから日替わり用のとお勧め用の種類を聞きたかったんだ」 「あー今日はねぇ…」 今日の予定も交えて話すが氷室の表情はいつも通り穏かなものとなっていた。やはりあれは気のせいだったのだろう。 じゃあ、と看板書きに戻っていく氷室を厨房から見送った。完全に姿が見えなくなってから、 「まさこちんにはしないくせに」 と小声で呟いた。 上司だからかもしれないが、紫原には納得がいかなかった。ただの挨拶だというのなら皆平等にすればいい。 だが今現在、紫原以外にしているのを目にした事がないのだ。 「室ちんわかんねー」 なにを考えているのかわからない。 飄々としていて相手に考えを読ませない。 そんな人間は、常連客の近所の保育士だけで十分だ。 勿論わからなくたって、仕事をする上での支障は全くない。 ただちょっと、紫原の胸の内がもやもやするだけだ。 「仕事しよ…」 生クリームを泡立てているうちにもやもやはどこかへ行ってしまう。それもいつもの事だった。 時折窓から空模様を観察してはいたけれど、雷雨には見舞われず穏やかな一日となった。 壁掛け時計の短針が六と七の中間辺りにある。客足も途絶えてきたし、ショーケースに並んでいた洋菓子も殆ど売り切れている。 そろそろ店仕舞いの準備に取り掛かるかと、氷室は開店前に用意したタオルと傘を片付け始める。毎朝奥から出してくるのは少々煩わしいので、暫くは取り出しやすい場所に保管しておく事にした。 来客を知らせるベルがカランと鳴ったのに気が付いて、伝票を纏めていた手を止めて顔をあげる。カウンターの端に置いて接客の為にフロアに出た。 遠慮がちに開いた扉から覗いた常連客の顔に、氷室の顔が自然とゆるむ。 「いらっしゃいませ、黒子君」 扉の側まで移動し、にこりと微笑んで出迎えた。 「こんばんは、お邪魔します」 礼儀正しく会釈し、入店してきたのは近所の保育園で保育士をしている黒子テツヤという青年だった。 元々甘い物が好物だそうで、紫原が作る菓子が気に入ったと開店当初から店に通ってくれている常連客の一人だ。大抵は仕事が終わった後に甘い物が食べたいと言って寄ってくれる事が多いのだが私服姿なのを見るに、例に漏れず今日もそうなのだろう。 「お好きな席にどうぞ」 「あ、はい」 氷室はカウンター内に戻ると黒子が窓際の席に着くのをちらりと伺いながら、お冷やを用意し、メニュー表を小脇に抱えた。 「どうぞ」 「ありがとうございます」 黒子の前にお冷やを置き、メニューを差し出す。 「もう今日はあまり残っていないんだ。ごめんね」 「いえ、構いませんよ」 閉店間際に来たのだから黒子とてそれは承知していた。気にしないでくれと氷室に話しながら、ショーケースを眺める。 「ねえ、室ちんちょっと…」 どれにしようかなとショーケースとメニュー表を交互に見ていると、奥の工房から紫原がひょっこりと顔を出した。 黒子の顔を見て一瞬驚いたように目を開いたが、次の瞬間には何事もなかったように氷室と黒子の方へ歩いてきた。 「黒ちんきてたんだー」 「はい。お邪魔してます紫原君」 黒子は当然紫原とも顔馴染みだった。いつの間にかすっかり打ち解け、勝手にあだ名で呼ぶようにもなっている。 それを知った荒木に「お客様をあだ名呼びとは何事か」と怒鳴られた事もあったけれど、黒子があだ名の方が気楽で良いと進言したため渋い顔をしながらも荒木は許さざるを得なかった。 「折角だから、残ってるの全部買っていってよ」 ちらりとショーケースに目を遣った紫原が冗談とも本気ともつかない言い方をしながら黒子を覗き込む。 感情をあまり表だって表さないし、何を考えているのか分からないと周囲から言われるけれど、紫原だって負けてはいない気がすると、常日頃から黒子は感じていた。 「まだ何も食べていないんですけどもうお持ち帰りの催促ですか」 「あらら」 二人のやり取りを傍らで見守っていた氷室は、ふと思い立ってその場を後にし、入り口の扉を開けて外に出た。ベルの音に黒子と紫原が気が付いて会話を止めたけれど、出ていったのが氷室だと判明するとゆるりと再会させた。 立て看板を畳み脇に設置していた傘立てと一緒に店内に運び込む。扉の側に一時的に立て掛け、施錠してしまう。 「室ちん今日はもう店仕舞いするの?」 「ああ。ちょっと早いけれど構わないさ」 元々閉店作業に取り掛かっていたのだし、それが少々速まっただけだ。 気にせず話していて構わないからと二人に告げてカーテンも降ろしてしまうとカウンター内に入り、紅茶を入れる準備に掛かる。 三人分のティーカップを棚からだしながら、菓子の話しに花を咲かせる二人の姿に微笑んだ。 茶葉を蒸らしている間にショーケースから丁度三つ残っていたアップルパイを取り出し、それぞれ皿に盛りつける。ポットからもアッサムの仄かな香りが漂ってきた。冷蔵庫からミルクを出すと、カップに注いだ熱い紅茶の中に適量を注ぐ。 柔らかく、疲れを癒してくれるようなミルクティーの香りに自然に口元が緩ませながらトレーに並べた。 「お待たせしました。こちらアップルパイとアッサムのミルクティーのなります」 氷室は紫原の逆側に立つと黒子の前にアップルパイを乗せた皿とティーカップ、スプーンとフォーク等をセットし、次に隣のテーブルに同じように、ただしこちらには二人分を並べ始めた。 「せっかくなのでご一緒させて頂こうかなと思いまして…」 「いいの、室ちん」 あれ?と首を傾げる紫原に黒子はもちろんだと頷く。 「僕は大歓迎です。一人ではちょっと寂しいですしね」 「と、お客様からの了承も得たしね」 紫原に隣のテーブルの椅子を引いて座るよう促すと三角巾を外してから腰を下ろした。いいのかと是非を問いつつも悪い気はしていないのは顔を見ればすぐに分かる。ふ、と笑いながら氷室も紫原の向かいに座った。 「甘さ控えめだから物足りなかったら砂糖で調節をどう ぞ」 「ありがとうございます」 「わかったー」 黒子は一口飲んで味を確かめてから小さじ一つと半、紫原は最初から小さじ二つ分の砂糖をミルクティーに投入する。氷室は何も入れず、我ながら美味しく入れられたなとそのままのミルクティーを味わった。良い出来だ。 「美味しいです。ほっとする味です」 「それはなにより」 やっていて良かったと心の底から思う瞬間だ。 黒子に微笑み返すとアップルパイにフォークを差し入れた。 会話らしい会話はないが決して息苦しくはなく、ゆったりじっくりお茶と菓子に舌鼓を打てる。氷室はこんな時間がとても好きだ。 一人で好きにアレンジした紅茶に酔いしれるのも至福だけれど、気の合う者同士でお茶をするのも好ましく思っている。 隣でアップルパイを頬張る紫原は勝手にセッティングしたお茶会について何も言ってこないので、悪い気はしていないはずだと解釈した。 紫原は顔に、と言うか目元と口元に感情が表れやすい。皺の一つも刻まれていない目元にほっとしながら氷室もアップルパイを口にした。 「アップルパイも美味しいよ、アツシ」 「当然じゃん」 お世辞ではなく本当に美味しい。ほんのり香るシナモンと酸味を押さえている崩れない程度に柔らかい紅玉リンゴ、バターがきいたパイ生地もサックリしている。 もう少し気温が高かったならバニラアイスを添えていたに違いない。 「紫原君の作るお菓子はどれも美味しいです」 「…誉めても何もでねーから」 返事は素っ気ないけどちょっと照れているらしい。 パティシエとしての腕は確かだし本人も自信はあるのだろう。でも面と向かって誉められるのは少々恥ずかしい。そんなところだろうか。 二mをゆうに越える恵まれた体型を持ちながらも、そんな面を持ち合わせている紫原を氷室は好ましく思う。 「そんな美味しいお菓子を作る紫原君にお願いがあるんですけど」 「んー?」 口をもごもごさせながらも紫原は顔を黒子の方へ向けた。 「来月保育園でハロウィンをやるんです。なのでハロウィンで食べるお菓子を作って頂けませんか?」 「んー…」 「ああ、もうそんな時期なのか」 ここ数年日本でも見掛けるようになった。もっとも熱心なのは一般消費者よりも、お菓子メーカーやそれを取り扱う店舗なのは否めない。バレンタインを彷彿とさせる。 とは言ってもこの店でも季節のお菓子として、パンプキンパイやカボチャを模した焼き菓子を十月中はショーケースに並べているので、あれこれいえた義理はないのだが。 小首を傾げて思案していた紫原はなか口内の物を飲み込んでから口を開いた。 「クッキーなんかでいいの?」 「はい。出来たら園児一人一人に配れるように個別包装した物と、お楽しみ会でみんなで食べる物をお願いしたいんです」 「あー…じゃあ甘さ控えめのパンプキンパイとクッキー数枚の詰め合わせでいい?」 「大丈夫です。それで注文出来ますか」 「OK。後で注文書渡すから記入して持ってきてくれるかな」 「分かりました」 保育園での催し物がある度にこうして使用する菓子を注文してくれる黒子の存在はなかなかにありがたい。注文数が多いので売り上げにも大いに貢献して頂ける。その上宣伝効果もばっちりで、菓子を口にした園児やその家族が美味しかったからと店を訪ねてきてくれるし、そこから口コミで店の事が広まるのも大きかった。 開店当初は日々の暮らしに困らない程度に売り上げがあれば良いと紫原は話していた。荒木はマイナスにならなければ構わない、と。 だけどやはりこうして常連客が付き、売り上げが伸びていくと考え方も変化していき、最近では積極的に商品開発に取り組むようになってきた。 アイデアを出してくれると助かると紫原に言えば、『そりゃあね、売れた方が給料上がるし嬉しいじゃん』 とそっぽを向いて呟いていたが、ようは照れ隠しだったようだ。素直じゃない面が子供っぽくて可愛らしい。口には出さなかったけれど何かしら悟ったらしい紫原に拗ねられてしまった。 黒子は常連客であり上客でもある。そしてそれ以上に同僚の新たな一面を引き出してくれた恩人でもあった。 せめてもの恩返しに腕によりを掛けた一杯を提供しようと日頃から努めている。 「ごちそうさまー」 「片付けは俺がするからそのままにしててくれ」 「わかった。じゃあね黒ちん」 「あ、はい。アップルパイごちそうさまです」 ひらひらと手を振って去って行く紫原の背中を見送ると氷室も椅子を引いて立ち上がった。 「注文書持ってくるから黒子君はゆっくりしていて」 「ありがとうございます」 カウンターに戻りレジ下の引き出しを開け、ファイルを取り出すと注文書を一枚引き抜いた。ケーキ箱も別の場所から出してくる。 ショーケースに残っていたケーキを幾つかそれに詰め、しっかりと口に封をした。 「氷室さん僕もそろそろ帰ります」 「お会計ですね」 釣り銭を間違いなく渡し、次に注文書を差し出す。 「これに記入をお願いします」 「わかりました。遅くても来月初めには持ってきますね」 「了解。それとこれお土産にどうぞ」 余り物で悪いんだけどとケーキを入れた箱を手渡した。 「え…でも…」 「気にしないで。あと数個しかなかったしね。同居相手も甘い物好きだって話しだし、夜食にどうぞ」 半ば強引に押しつけてしまう。最初は戸惑っていたけれど、じゃあ…と黒子は受け取ってくれた。 入り口の鍵を開けて黒子を見送ると、今度こそ本格的に閉店作業へと取り掛かった。 |