うつむきがち5


 家族が寝静まった夜半過ぎ、黒子は足音を消して階下に降りるとリビングに足を踏み入れた。きょろきょろと辺りを見回し足下に注意しながら郵便物が仕舞われている棚の引き出しを開けて、上から順に確認していく。豆電球しか点灯していないので手元が暗く、少々手こずったけれど何とか目当ての物を発見して足早に自室に戻った。

「きてましたね」

 図書館から届いていた返却期限切れを通知する葉書だ。机の上の書物と葉書に書かれている書物のタイトルが同じであるのを確かめてため息を吐いた。
 図書室にしろ図書館にしろいつも期限以内に返却していたので失念していた。もう一ヶ月近く過ぎている。
 家族に頼むのは申し訳ないし、何より余程の事がない限り自分で返却するのがマナーだと思っている。現在の黒子は登校拒否で引き籠もってはいるけれど、至って健康なのだ。やはり自分で返しに行くべきだろう。それに・・・。
 開きっぱなしのパソコンの画面には緑間から届いたメールがあり、『機会があったら奢るのだよ。ホットではないからあまり寒くならない内がいいだろう。体が冷えるのだよ』と書かれていた。
 窓を開けるとひんやりとした風が頬を掠める。ゆるりと流れる雲間に星屑が煌めいていた。いつも間にか街路樹の葉の色も変わってきている。
 時間が止まったままなのは自分だけなのだ。人も街もみんな刻々と時を刻んでいる。「僕はなにをやっているんだろう・・・」
 どうしたいんだろう。どうしたら良いんだろう。未だに答えは見つからない。
 街路樹の木陰からいつもこの部屋を緑間は無言で見上げていた。今日は火曜日、彼が家を訪れるのは毎週金曜日なのだからそこに居るはずがないのに緑間の姿を探してしまう。

「緑間君」

 返事だって当然返ってこない。わかっているけど無性に声が聞きたかった。

 黒子から『図書館から借りていた本の返却期限が切れていました。失念です。図書館にはコーラっ茶のある自販機側の公園を通ってましたがそれで思い出しました』と返信が来たのは水曜日だった。
 彼はあれから外出をした様子が皆無で、おそらく定期的に通っていた図書館にすら行っていないのだろう。当然借りていた本も返しておらず、それを緑間からのメールがきっかけで思い出したということか。
 黒子と自分のメールを交互に何度も読み返す。恥ずかしさも手伝って素直に書けなかった部分もあるのに、黒子はそれを読みとってくれたのだ。
 もしも、もしもだ。ここで自分も『図書館に用があったのを思い出した』と返信したら黒子はどう読み取るだろう。遠回しな誘いに気付いてくれるのだろうか。
 気付いて貰えなくても不審に思われるような返信ではないはずだ。そう自分自身に言い聞かせて、黒子へのメールを送信する。
 そして再び返ってきたメールを目にした緑間は金曜日にいつもと何ら変わらない風を装い、黒子の家の側にある街路樹の下にやってきた。今日は午前授業で午後からの予定は入っていない。逃したら次はいつになるか、そんな機会が訪れるのかも不明だ。今しかない。
 黒子の部屋を見上げたが人影は見当たらなかった。カーテンは引かれていない。携帯電話を上着のポケットから出して黒子がパソコンを使用していることを願いつつ、『街路樹の葉の色がだいぶ変わってきたな』と打ちボタンを押した。
 返信が来たら奇跡だ。そう思いながら画面を凝視していたその時、頭上からパーンという何かを打ちつけるような音が響いてきて反射的に肢体が跳ねた。
 おそるおそる木陰から見上げれば、窓辺から少し身を乗り出した黒子がきょろきょろと周囲を見回している。

 ――変わっていない。間違いなく黒子、だ。名を発しようとしたが戦慄く唇からは間抜けな音が漏れるばかりで意味をなさない。

 情けない、これでは駄目だと言い聞かせ、街路樹の陰から出たところで黒子と視線が絡み合う。目を見開いて暫く固まっていたけれど、緑間の唇がくろこと音もなく象るのを瞳に写した瞬間今にも泣き出しそうに顔を歪ませた。
 そんな顔を見たかったのではないのだ。

「くろーー」
「・・・てって」
「なにをいって・・・」
「ぼくを・・・ぼくをつれて行って・・・!」

 ここから。

「黒子・・・」

 外に出たかった。一度閉じこもったら出られなくなったし、出方もわからなくなった。ドアを開ける勇気が出ない、一歩が踏み出せない。出たいのに出れない。

 ――きっかけが欲しい。

 いつか役に立てば、と読んだ医学書の一部が蘇ってくる。
 考える前に飛び出していた。

「こい・・・!」

 荷物が地面に落ちるのも気にせずに、両腕を広げ黒子に向かって精一杯伸ばす。

「お前が望むのならどこへだって連れてってやるのだよ!!」

 チャイムを鳴らす前に緑間がドアノブに手を掛けるのと、黒子が内側からドアを引くタイミングが重なったのはその直後だった。 

  

 勢いのまま黒子の手をひっ掴み駆けだした。文句も言わずついてくる黒子の細い手首を離さないようがっちり握り、背後を振り返ることなくがむしゃらに走った。
 どこに行こうか。
 そうだ、例の缶ジュースがある自販機か本を返却しに行かないといけないとメールに書いてあった図書館にしよう。どちらもここから歩いて行ける距離にある。二つ先の交差点を渡って右に曲がって、それから・・・。

「・・・くん! 緑間君っ・・・!」

 黒子が必死に呼びかけているのに、道順を組み立てることばかりに気がいっている緑間の耳には入らない。掴まれている左手をぐいぐい引いてみたけれど効果はなかった。
 緑間と黒子とでは身長差がかなりあり、それに伴い歩幅も随分違う。黒子が緑間に合わせて走るのには無理があったし、長い間走る動作をしていない足ではついて行くことすらやっとだ。このままでは限界も直ぐに訪れるに違いない。

「まっ・・・!」

 右手の鞄を肩にかけて両腕で緑間の腕を引こうとした瞬間、踏み出した足がもつれて黒子の体が宙に浮いた。とっさに右腕を突っぱねたけれど間に合わず、がつんという音と共に衝撃が走る。

「ぅお!?」

 左腕が掴まれたままだったので道路に顔面から激突するのは免れたけれど、思い切り打ち付けた両膝がずきずきと痛む。足首も違和感があるので軽く捻ってしまったかもしれない。それ以前に息切れ寸前で体制を立て直すことすなままならなかった。

「はっ、はぁ・・・は、っ」
「す・・・すまない! 大丈夫か黒子!?」

 やってしまったと青くなりながら黒子の前に屈んだ。

「すまない、痛むか」

 痛むかと聞いたあと、そんなのは当然でなんて間抜けな質問だと情けなくなった。
 黒子の呼気が落ち着いてきたのを見計らい、両脇に手を差し込んでゆっくり立ち上がらせる。衣類に付着した土埃も払った。

「は・・・、もう少し、速度を落としていただけると、助かります」
「すまん。配慮が足りなかったのだよ」
「いえ・・・。急に動いたからついて行けなかっただけかもしれません」

 それも一理あるだろうが、いや、と緑間は首を振った。

「怪我は・・・服の上からではわからないな。痛むところは?」
「打ったところと少し足首が痛いです」
「足首、か」

 捻ったのなら処置は早いに越したとこがない。鞄を斜め掛けにすると黒子に背を向けて屈み込んだ。

「え、あの・・・」
「おぶさるのだよ。どこか座れる場所に移動して足をみよう」
「でも」
「痛めた足で歩いて悪化したらどうする。俺が悪いのだから遠慮する必要はない」

 ほら、と手招いて促すと怖ず怖ずと黒子が両肩に手を置いてきた。

「すみません、緑間君」
「お前が気にすることなど何一つないのだよ。ちゃんと前に手を回して掴まっていないと落ちるぞ」
「はい・・・」

 緑間の胸元に黒子が手を回し、ぎゅっとしがみついてきたのを確認してから立ち上がる。
 公園にベンチがあった。そこにしよう。
 背中の黒子に配慮しながら公園を目指した。途中、重くないかと聞かれたので平気だと応えたが嘘は言っていない。
 黒子は軽かった。家に閉じ籠もっているうちに使われない筋肉が落ちてしまったのだろう。手首もやけに細く、骨と筋の感触がまざまざと伝わってきて、力を込めたらぽきりと折れてしまうのではないかとすら思えた。
 元々細かったのに更に体重が落ちたのか。

「ここでいいだろう」

 水飲み場近くのベンチに黒子を降ろすとボトムを膝上まで上げさせた。

「すまん・・・」

 アスファルトに擦られた膝は薄皮がめくれて血が滲んできている。もう片方は傷にはなっていないが赤くなっていて、明日には青痣になりそうだ。

「これくらい直ぐに直りますよ」
「あとは足首だったな。どっちだ? 両方か」
「右です。でもこっちも暫くすれば・・・」
「右か・・・」

 大丈夫だと言い掛けた黒子を遮り勝手に右足の靴を脱がせて靴下を取り払った。生白い足首を露出させ、「回すぞ」と一言おいてからゆっくりと動かす。

「いっ・・・!」

 途端に上がった声に慌てて手を止める。

「痛むのか。大丈夫じゃないのだよ」

 少しここで待つよう命じて緑間は近くのドラッグストアに走った。絆創膏と消毒液、ガーゼと念の為に湿布とサポーターも購入する。
 慌ただしく黒子の元に戻り手当にあたった。膝の方は数日経てば傷口は塞がってくるだろう。問題は足首だった。

「今はまだ少し赤い程度だがいずれ腫れは酷くなる。念の為医者に診てもらっても・・・」「そこまでしなくていいです。躓いた時に軽く捻っただけですし、今は・・・派手に動かす機会もないですので」
「しかし・・・。いや、それもそうかもしれないな」
「はい。お手数お掛けしました。それの代金払いますね」

 買い物袋を指す黒子に必要ないと返して片付けにかかった。

「でも悪いです」
「俺が考えなしにお前を引っ張り続けたのが原因なのだよ。俺が払うのは当然だ。お前は悪くない」

 まだ続けようとする黒子を気にするなと宥めた。

「じゃあ少し休んでそれから図書館に行きましょう」
「そうだな」

 同意して黒子の隣に座ったものの今度は会話が滞ってしまい緑間は途方に暮れた。自分も黒子も積極的に会話するタイプではない上、うっかり口を滑らして余計なことを言ってしまうのではと恐縮してしまったのだ。
 会ったら話したい、聞きたいことが沢山あったはずなのにいざ本人を目の前にしたら全部吹っ飛んでしまった。情けない。
 がっくりうなだれている緑間を余所に、黒子は数ヶ月ぶりの外の世界を物珍しく見回していた。夏前まで頻繁に通っていた道沿いの店舗はいくつか別の店舗になり、角に設置されていた電話ボックスは撤去されゴミ箱が置かれている。花壇の花も植え変えられコスモスが芽吹いている。隣に座る緑間だってそうだ。
 腕を引かれて必死に追い駆けていた時、彼の背中ばかりを見ていた。布越しに隆起する筋肉とがっしりとした肩、視界を覆い尽くすほどの広い背中、それら全てが泣けるくらいに眩しい。
 それに比べて自分はどうだ。筋肉が衰え更に細くなった色白い肢体は不健康そのもので、あまりにも惨めで情けない。ただ置いて行かれるばかりのちっぽけな存在だ。

「どうした?」

 冴えない表情で靴先ばかり見ていると緑間が「痛むのか?」と顔色を伺ってきたので慌てて否定する。

「現実の世界を味わっていただけですよ」
「そんな風にはとても見えないがな」
「じゃあそ言うことにしておいて下さい」
「・・・わかった」

 そろそろ行こうかと立ち上がった黒子に、「まだ安静にしていた方が・・・」と緑間は渋ったけれど受け流して歩き出した。

 「君といる今は現実ですよ」と囁いた黒子の声は慌ててついてくる緑間の耳には入らなかった。

 図書館のカウンターで返却期限がだいぶ過ぎてしまったことを詫び、それから久々の図書館内を堪能した。ゆっくりと歩き周り気になるコーナーがあれば立ち止まって本を手に取りめくる。緑間は文句一つ言わずそんな黒子の後ろをついて歩き、黒子では届かない位置に本があれば代わりに手を伸ばし手渡してやった。

「暫く来ない間に新刊がかなり入ってますね」
「そうだな。最近は積極的に仕入れるようになったと広報に載っていたのだよ」
「そうだったんですか・・・」

 図書館広報もご無沙汰だ、と話す黒子をフォローしたけれど逆に新刊を発掘する楽しみが出来たと返されてしまう。

「それもそうかもしれないな」
「そうです」

 結局閉館間際まで居座り、読み終らなかった本の他に数冊借りて図書館を後にした。充実した横顔に、連れ出して良かったと緑間は心底思った。穏やかな表情の黒子を見るのはいつぶりだろうか。
 緑間も釣られて口元が緩む。
 そうだ。沈んだ顔で俯いてばかりの黒子ではなく、こんな顔の黒子が見たかったのだ。元々彼は無表情に近い状態を常日頃から保っていたけれど一見分かり憎いだけで喜怒哀楽は豊かだったように思える。きっと家族や気心を許した相手にしか見せない表情が沢山有るに違いない。
 羨ましいと思う反面、自分達は青峰を除いて誰一人としてその立場には立っていなかったのだとも思い知らされる。自分は当然だが青峰にはなれない、代わりにすらなれないし青峰ほど黒子の感情を揺るがすことすらもきっと出来ない。
 だけれども今、この時間を共有じているのは他でもない緑間自身だった。黒子を外へと再び連れ出したのも、そのきっかけとなったのも自分だと自覚した瞬間、沸き上がる愉悦に背筋が震え上がるのを止められなかった。

「寒いですか緑間君。もう夕方ですしね」
「いや、寒くはないのだよ」
「でも、今・・・」

 そんな緑間に目敏く気付いた黒子を片手で制した。本当の理由はとても口に出せない。
「・・・少々もよおしただけだ」
「あ、すみません。僕待ってますから行ってきて下さい」

 椅子に座って待っていると言う黒子を置いてトイレに向かう。手洗い場で鏡を見ながら両頬をぴしゃりと叩き、活を入れた。

「遅くなってしまったか」
「大丈夫です。ちゃんと図書館にいると母にはメールしましたから」
「そうか・・・なら良いのだが」

 黒子が家を出た際の状況を考えると、家族は気が気でならないのではと今更不安になった。攻められても仕方がないと腹は括っていたけれど、今まで築き上げてきたものが崩れていってしまうのでないかと不安な面もある。
 黒子が学校どころか家の外にすら一歩も出なくなった原因に関わっているのだ。

「緑間君そんな心配しなくてもきっと大丈夫ですよ。母は・・・君を好意的に見てますし、図書館に行かないとと話題に出した時もあります。だから心配した君がそれに付き合ってくれてるのだと思ってますよ。たぶん」

「たぶんは余計だ」

 黒子と冗談を交わすのも久々だと感慨に耽っているうちに、あの街路樹の側までいつの間にか来ていた。

「ここで良いですよ」
「わかった。足首の痛みが酷いのなら我慢せずきちんと受診するのだよ」
「湿布貼ってれば治ります」
「膝の絆創膏も定期的に貼り変えろ」
「お風呂上がりにでもやっておきます」
「それから・・・」
「緑間君!」

 お小言みたいに喋り続ける緑間を遮るように黒子は声を上げた。ぴたりと止まった緑間と視線を逸らさず向かい合う。改めて眺めた緑間は夏の頃よりやはり背が高くなったように思えた。

「今日は、今日だけじゃなくずっとありがとうございました。ノート纏めるの毎週大変なのにきちんとお礼も出来なくてすみませんでした」
「いや、元々は」
「まともに顔すら出さないのにずっと通ってくる意味が分からなかったです。どんな神経していてどんだけ物好きなのかって、感謝する一方で不思議でなりませんでしたし今でも解決していません」
「・・・・・・」
「でも嬉しかった」
「黒子」
「嬉しかったんです。だから、ありがとうございます緑間君」

 なんと返せばと緑間は口ごもった。礼を言われるようなことではない、それだけで十分だ。面倒くさい性格が邪魔をして素直に口に出せないでいると、それを悟ったのか黒子は目を細めてふっと微笑んだ。

「いつかお礼しますね」
「俺が勝手にやっているのだ。そんなものはいらん」
「じゃあ僕も勝手にします。気をつけて帰って下さいね。じゃあ!」
「おい!」

 慌てる緑間を置いて黒子は自宅へ入っていてしまう。追うに追えない緑間は大きく溜息を吐いてきびすを返した。
 数歩進んだ所で一度足を止め、背後の黒子の部屋を仰いだ。まだ部屋は暗いままだったけれど、カーテンは開けられたままだった。
 

 帰宅した緑間は自室にて今日一日を振り返っていた。
 久々に会った黒子は相変わらず小柄で、日焼けしていない肌はどこかしこも白く影の薄さも相まって一層儚く感じられ一時でも目を離せば消えてしまうのではないかとすら思えた。 
 だけれど、暖かかった。背中越しに感じたあの感触、離すまいときつく握り締めた自分よりも小さな手は走った為か少し汗ばんでいた。あの温度どれも間違いなく黒子自身のものなのだ。
 黒子はちゃんと生きている。それを実感しながらおぶさり歩いていた時、緑間は感極まり不本意ながら目頭が熱くなっていた。背中にいる黒子に情けない顔を晒さずに済んだのは幸いだ。

「黒子・・・」

 今頃なにをしているだろう。借りた本に夢中になっているかもしれないし、痛めた足の様子を見たり、疲れて寝てしまっているかもしれない。

 メールに何と書けばいいのかと散々迷った挙げ句、「例の缶ジュースを奢るのを失念していた。今度は忘れないのだよ」と打って送信し、その後でこれではデートの約束を無理矢理こぎ着けているはた迷惑などこかの男と変わらないではないかと撃沈した。


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