うつむきがち 2


 二日後、黒子は朝練に姿を現した。赤司には全快したから練習にも復帰すると伝えたようだが病み上がりなのだから無理をするなとの事で、今日一日は見学となった。

 本人は不服の様子だったけれども、ぶり返しては元も子もないとも理解しているのか体育館の片隅で膝を抱えている。時折黄瀬あれこれ声を掛けていた。
 最初の内はぼんやりと前方を眺めていたが途中から黒子は俯いてしまっていて、それが黄瀬をやきもきさせているようだ。

「もう大丈夫なのか?」

 緑間はスポーツドリンクの入ったボトルを手に黒子に側に歩み寄ると隣に腰を下ろし、自分用のドリンクを煽り一息付いてから黒子に話し掛けた。
 ずっと下を向いていたとはいえ、流石に気配を察したらしくゆっくりと顔を上げた黒子が隣の緑間を見上げる。

「まだ本調子ではありませんが問題ないですよ」
「そうか・・・」

 黒子の顔をしげしげと見下ろすと、目元の隈は殆ど消えてしまっている。風邪で休んでいる間、おそらく飲んでいたであろう風邪薬の効果もあってかよく眠れたのだろう。
 皮肉な結果だが緑間はほっと胸を撫で下ろした。
 飲むか?と黒子用にと持ってきたボトルを差し出す。一瞬目を見張ったが膝の上から手を伸ばし、ボトルを受け取った。

「ありがとうございます」
「ここのところ気温も上がってきて蒸し暑いからな。汗が冷えてその結果風邪を引き起こしたのかもしれないのだよ」
「そうですね・・・」

 一口二口と飲み下す黒子から覇気があまり感じられず緑間は眉を顰めた。

「あまり大丈夫そうには見えん。今日は俺も早めに練習を切り上げるから、送って行くのだよ」
「大げさですよ。一人で帰れます」
「そこらで倒れられては困る。それに俺じゃなくとも黄瀬も同じ事を言い出すと思うがな」

 思わず口を噤んだ黒子に肩を竦めながら緑間は立ち上がった。

「窓を開けているとはいえ体育館内は蒸すのだよ。汗をかくようならしっかりと拭いておけ」
「はい・・・」
「もう少しで終わる。大人しく待っているのだよ」
「わかりました・・・」

 小さく頷いた黒子の頭部に持ち合わせたタオルをぱさりと落とす。洗ったばかりでまだ使っていないと言い残し緑間はコートへと戻っていった。


 黒子を待たせていたので、いつもより個人練習を早めに切り上げ部室へと戻った。無人の部室で黒子は一人、ぽつんとベンチに座っていたが緑間が戻ってきたのに気付いて顔を上げた。

「すまないな、待たせたか」
「いえ・・・大丈夫です。あとこれありがとうございました。洗って返します」

 先程渡したタオルを差し出してきたので、緑間はその手からするりと抜き取った。

「必要ないのだよ。予備はまだあるし、他のと洗い物と一緒に洗濯するから問題ない」

 それに洗濯が必要な程使ってもいないだろう。ロッカーを開けて鞄とスポーツバックを引きずり出し、チャックを開けて中に放り込んだ。
 ついでに鞄の内ポケットに忍ばせている飴の入った小袋も出すと、黒子の手にタオルの代わりに乗せてやった。

「あの、これ・・・」
「飴だ。あまり好みの味ではなかったのだよ。やるからそれでも舐めてもう少し待っていろ」

 手早く汗を拭き取りTシャツも別の物に着替え、ワイシャツと制服を着込む。背後で黒が飴の袋を開けて口にしているのがちらりと見えたのに緑間は少しほっとした。
 ロッカーに忘れ物がないのを確認すると扉を閉め、荷物を型に掛ける。

「待たせたな。帰るぞ」
「あ、はい」

 慌てて黒子も緑間の後を追った。部室のドアを片手で押さえ黒子に先に出るよう促す。

「今日は赤司と紫原がまだ残っている。鍵当番もするそうだからこのままで構わないのだよ」

 最後まで残って自主練習をしているのは最近では緑間と赤司と、赤司に付き合っている紫原と黒子くらいだ。おのずと最後になった者が鍵当番も兼ねる事となる。
 以前は青峰が一番最後まで残っている日が多かったが、最近では部活動自体も無断で休む日も増えてきてしまっている。
 だがそれでも青峰は負け知らずだったので、誰も文句の付けようがないのが現状だ。相棒であるはずの黒子も最初の内は校内を駆け回り青峰を探し出しては部活に出るよう促していた。
 しかし今はそれもなくなってきていた。
 黒子はなにも言わない。言うのを諦めたのか。諦めの悪さでは定評のある男だったと言うのに。
 一歩後ろを歩く黒子に気を配りつつ、緑間はつらつらと考えを巡らせていた。
 分かれ道に差し掛かった所で緑間はゆっくりと足を止め、振り返った。

「緑間君、わざわざすみませんでした。本当はもっと残って練習する予定だったんでしょう」

 青峰君とは違って。とは黒子は言わなかったけれども、かち合った瞳がそう物語っていうようにも見えて緑間は目を細めた。

「気にするな。それにIHも近い。無理な練習を重ねて本番に支障をきたしては元も子もないのだよ」
「それもそうですね」
「お前もだろう。激しく疲労する練習よりも、本番に向けての調整程度に抑えた方が良いのだよ」
「はい・・・。でも・・・」

 言葉尻を濁して黒子は俯いてしまう。はっきりしないのは性に合わなくて、我ながら短期だなと思いつつも言いたい事があるのならさっさと言えば良いのにと苛立ってくる。

「でも、なんだ?」

 それが声色にも現れてきているのが自分でも分かったが、今更隠しても無駄な気もする。

 靴先をじっと見たままの黒子を見下ろした。制服の上着と短く切り揃えている襟足の間から日に焼けていない白い肌が見えている。
 こうしてまじまじと観察するとなんと細くて頼りない事か。少し力を込めた手で触れれば折れてしまいそうだ。下を向いているためか、うっすらとぽこりとした骨が浮き出ているのがスポーツ選手ににはあるまじき不健康さを醸し出している。
 触れても許されるのだろうか。か細く薄い肩を引き寄せて腕の中に閉じこめてしまいたい衝動が不意に沸き上がってくるのに緑間は戸惑ってしまう。
 これはなんなのだ。

「・・・っ!」

 答えを導き出す前に衝動に耐え切れず、黒子の肢体に手を伸ばしていた。

「み、緑間君!?」

 突然の行為に呆気に取られている黒子を無視して、背中に回す腕に力を込めた。

「あ、あの・・・」

 最初の内は慌てふためいていたけれど、暫くすると諦めたのか強ばっていた黒子の全身から力が抜けていく。
 石鹸と汗の香りが黒子の柔らかい髪に押し付けている鼻先を掠めるのが、緑間の胸を痛いほどに締め付けた。
 どのくらいそうしていただろうか。
 だらりと両脇に垂らされていただけの黒子の腕がそっと背中に回されたのを感じて、思わず緑間はびくりと跳ね上がった。
 しかし黒子は構わず回した手で緑間の制服をきゅっと掴んだ。
 こうして抱きしめているのが許されたのだろうか。緑間は少しだけ顔を離した。

「あ・・・」

 同じように顔を上向かせた黒子と視線か噛み合い、間の抜けた声が緑間の口から漏れる。
 街灯の光を浴びた黒子の瞳が煌めき、心なしか開いている淡い色合いの唇に目がいってしまえばそこから視線を外せなくなってしまう。
 これは、このままでは駄目だと警告が頭のどこかで鳴り響いている。
 なのに、

「緑間君・・・」

 薄い黒子の唇が囁くのを目にしてしまえば、警告の鐘は臨界を突破し彼方へと飛んでいってしまった。

「んっ・・・」

 衝動のままに身を屈めて唇を押し当てていた。少しかさついていたけれど、逆らうことなく受け入れる黒子に胸が熱くなる。
 ただ押し付け合うだけの稚拙な口付けだった。それでも緑間はいっぱいいっぱいとなってしまう。頭が今にも沸騰してしまいそうだ。
 ずっとそうしていたかったが息苦しくなってきた。名残惜しげに黒子を解放するとしげしげとその顔を見下ろす。
 口付けている間ずっと閉じていたらしい瞼が震えながら開かれると同時に背中から腕が外されてしまい、それがとても寂しく感じられた。

「あの・・・」

 目元が赤く染まっている。恥ずかしげに俯くその姿にくらくらと目眩のようなものに襲われた。
 と同時に生々しさにも襲われて急に現実へと引き戻された。

「すっ・・・すまない!」

 ばっと黒子から一歩分程体を離したその足に、いつの間にか落としていた鞄が当たったのに気が付いて慌てて拾い上げる。

「い、いえ・・・」
「いや、あの・・・本当にすまなかった!」

 気を付けて帰るのだよと言い残した緑間が、逃げるように走り去っていくのを黒子は呆然と見送った。
 そうして自分の鞄も足下に滑り落ちているのにもようやっと気が付く。 
 のろのろと肩に掛け直し、家に向かって歩き出す。
 なんて事をしてしまったのだろう。
 顔から火が出るとは正にこの事だ。頬が発熱している時のように熱い。口元を手で押さえつつ黒子は家路を急いだ。
 が、その掌に唇が掠める度に先程の緑間との行為を思い出してしまって、いたたまれない。
 誰かと唇を合わせたのはこれが初めてだった。
 まさか初めての相手が緑間になるとは思いも寄らなかったが、不思議と憎悪感は沸いて来ない。日頃から気が合わないと散々言われている上に同性同士だというのに。
 なんでだろうなんて今はとても考えられなかった。
 ただ突然、緑間にきつく抱き締められて、なんとなく自分も緑間の背に腕を回してしまっていた。抱き締め返した事になるのだろうか。
 そうして緑間と視線が噛み合って、降りてくるその顔、あ、これはキスされるなと瞬間的に感じて思わず目を閉じていた。
 ただ触れ合っていただけなのに、とてつもなく熱かったのは鮮明に覚えている。
 自分と緑間は同級生でただのチームメイト。それだけの関係だ。決して恋人同士などではない。なのにキスをしてしまった。

「話も途中でした・・・」

 自分は緑間に何を言おうとしていたのだっただろうか。
 そこまで来て黒子はふと、足を止め背後を振り返った。当然緑間の姿はなく、靴の下から続く自分の影があるだけだ。
 いなくても問題ない。むしろ足手纏いじゃないのか。

「・・・僕はもう・・・君達に必要ないでしょう」

 そう言おうとしてたのに、結局伝えぬままとなった。
 だが同時に伝えてなんになるのかとも思ってしまう。

「IHの後にしましょうか・・・」

 終わった後でまた、緑間と話をしよう。時間はまだある。
 今は何も考えるな。きっとそれで良い。
 黒子は体の向きを代え再び歩き出した。

 

 

 どれくらい走っただろうか。肩で息を付きながら緑間は足を止め、背後を振り返った。当然そこに黒子の姿はない。
 はーっと長く息を吐いた。
 なんて事をしてしまったのだ。
 衝動的に同性のチームメイトに口付けてしまうなど。黒子に申し訳ない事をしてしまったなと、とぼとぼと家に向かって歩き出す。
 到底信じられないが、自分は自覚がなかっただけで黒子をそういう目で知らず知らずの内に見ていたのだろうか。だとしてもあれはないと思う。
 ついでに、

「でもの先を聞かなかったのだよ」

 話の途中だったのに最後まで終わらず終いになってしまった。
 黒子の思い詰めたような表情が蘇る。

「明日にでも・・・改めて聞くか・・・」

 なんならIHの後でも構わない。試合が始まってしまえば余計な事を考える暇などなくなるだろう。
 ならば時間にも余裕が出来ている、IH後の方が適切な気もする。
 その時には以前黒子から聞かれた‘らしさ‘についても言ってやろうか。
 ふと、いつの間にか口元に当てていた掌に唇の端が当たり、それがまた先程の行為を思い起こさせ折角冷めてきていた熱をぶり返す羽目になった。
 なぞるように指先を動かすとかさついているのが分かり、緑間は眉を顰めた。

「リップを塗っておけば良かったのだよ」

 一人呟いて、次にはっとしてまた顔を熱くさせる。

「なんのためにだ・・・」

 振り払うように頭を振って、再び足を家に向かって動かし始めた。

 

 

 

「結局話はしなかったな・・・」

 黒子はもうどこにもいない。学校には登校しているが自分達の前に姿を現す事はバスケ部を退部してから一度もなかった。
 何も言わずに退部届けを出し、去っていった。
 黒子の使用していたロッカーを開けてみたが、そこには何の痕跡もなく扉に付いていた名札さえも取り払われていた。
 後を追い探す行為さえ許されていない。そんな気がしてならなかった。

「途中で話が終わっては、気になってしまうのだよ」

 胸でつっかえた行き場のない感情がぐるぐると胸の内を回っていて気持ちが悪い。
 なのに。
 緑間を追い詰める小さな姿をいくら思い出そうとしても、浮かんでくるのは初めて口付けたあの日の恥ずかしげに俯く顔と、今にも消えてしまいそうな俯いてばかりいて表情が見えない黒子の旋毛と細い細い後ろ姿ばかりだった。

「最後まで聞いていないし、俺からも言っていないのだよ」

 IH前に言ってやれば良かったのだろうか。そうすれば、彼が消えてしまう事はなかったのかもしれない。
 今更の後悔と共にぽつりと呟いたが、どこからも何も返ってこず、夏風と共に消えてしまった。 


Mainへ