うつむきがち 1



 長くもない休み時間、緑間は赤司から頼まれていた来週の土曜日に予定されている練習試合についてのプリントをコピーしに事務室を訪れていた。
 必要枚数と予備にコピーしたものを大きめの封筒に纏めて入れると、一礼して事務室を後にした。
 ここから自分の教室までそれほど離れてはいなと言えども、気分の問題か早足になってしまう。落ちないよう封筒をしっかりと抱えて足を急かした。
 廊下の角に差し掛かったところで反対側から見慣れた人物がこちらに向かって来ようとしているのが、踏み出された靴先と壁から覗いた水色の髪でわかったので緑間は衝突を避けるべく減速し避ける体制をとった。
 が、相手は俯いていたためか緑間の存在に全く気がついていない。
 緑間が取った防御策は意味をなさず、結局避けきれなかった。

「・・・っ!」
「あ・・・」

 一声『危ない!』とでも叫べば良かったと思ったのはぶつかってからで、今となっては後の祭りだ。
 衝撃で思わず抱えていた封筒を足下に落としてしまうが幸いしっかり閉じていたため、中身が散らばるのは避けられた。
 しかしぶつかった相手は体格の差もあってか尻餅を付いてしまったようだ。

「黒子、大丈夫か?」

 さすがにびっくりしたのか、未だそのままの状態で固まってしまっている黒子の様子を伺うべく片膝を折って身を屈めた。ついでに周囲に散らばった黒子の教科書やノート、筆記用具を拾い集める。移動教室に向かっている途中だったのあろう。

「おい、黒子!」

 いつまでたっても俯いたまま動こうとしない黒子にじれて、薄い肩に手を掛け軽く揺さぶった。

「え・・・あっ」

 ようやっと気が付いたのか、びくんと体を震わせた黒子がはっとして顔を上げる。

「み、緑間君・・・?」
「なにをしているのだよ」
「すみません・・・」

 ため息を吐きながら緑間は先に立ち上がると黒子に手を差し出し、黒子にも立つよう促した。
 素直に手を取った黒子をぐいとひっぱり上げる。見たところどこかを痛めた様子はなく、胸を撫で下ろした。

「痛むところはないか?」
「はい、大丈夫です」
「そうか・・・」

 視線を緑間と合わせずに制服の埃を払っている黒子に集めた教科書等を差し出す。

「声を掛けなかった俺も悪いが、下を向いて歩いていたら危ないのだよ。今回のように誰かにぶつかってしまうだろう」
「すみません・・・」

 弱々しく謝罪を述べる黒子に緑間は眉を寄せた。ひょっとして体調が悪いのだろうか。

「黒子、お前・・・」

 緑間の言葉を遮るように予鈴が辺りに響き渡った。

「緑間君授業に遅れてしまいます」
「あ、ああ。そうだな」

 緑間の手から教科書類を引ったくるように奪うと、くるりと背を向けて黒子は小走りに去っていった。
 小さくなっていくその後ろ姿はさっきと同じく俯いている。

「あれではまたやらかしてしまうのだよ」

 後でしっかりと注意しておかねば。 
 呆れて肩を竦めたけれども鳴り終わろうとしている予鈴の音に、緑間も教室へと足を向けた。

 

 放課後、部活動の最中ふとボールを持つ手を休めてから緑間は周囲を見渡した。目当ての人物は周囲の喧噪から一人離れ、壁際で滴る汗を静かに手の甲で拭っていた。
 汗の量がいつもより多い気がする。やはり調子が芳しくないのだろうか。俯いている黒子の肩が忙しなく上下している。
 あの状態では飛んできたボールも避けることなく直撃してしまいそうだ。
 うるさいと思われてもこの際一向に構わない。顔を上げていろと物申しておこう。
 行動に移そうとした矢先、コートで行われていたミニゲームで部員の一人がパスのために放ったボールを相手が取り損なったのが視界の端に入った。
 勢いのついたボールが指先を掠めて明後日の方向へと飛んでいく。ボールの行方を自然と目で追っていたがその先に黒子の姿を見つけて緑間は慌てた。
 下を向いている黒子にはボールが見えていない。

「くろ・・・」
「黒子っち!危ない!」

 緑間より先に黄瀬が叫び声を上げた。それにはさすがに黒子も気がついたのか、え、と上向くと目に飛び込んできたボールに対してとっさに防御態勢を取った。
 しかし当然のように間に合わず、顔を庇うために覆った右腕に当たってしまう。顔面直撃を免れただけましだろうか。

「黒子っち!大丈夫!?」

 駆け寄る黄瀬の後を追って緑間も黒子の元へと足を向けた。

「大丈夫ですよ。たいしたことありません」
「たいしたことじゃないっスよ!」

 黒子の腕を掴んで必死な顔で騒いでいる黄瀬の背後から緑間は覗き込んだ。
 黒子はたいしたことじゃないと黄瀬を諫めているが、当たった箇所は赤く腫れ薄皮も少しだけれど剥がれてうっすらと血が滲み始めている。肌の色が元から白いのもあってからより痛々しく見えてしまう。

「このくらい放っておいても問題ありません」
「なに言ってんの黒子っち。駄目だって!」
「その通りなのだよ」

 治療の必要はないと苦笑する黒子の姿に心底呆れ返りながら、緑間も黄瀬の意見に同調する。

「うわっ!緑間っちいたんスか」

 黒子の腕の心配ばかりしていて背後に立っていた緑間の存在に、黄瀬は気付いていなかったらしい。
 体を跳ね上がらせながらも黒子の腕から手を離さなかった黄瀬の手元に視線を遣った。

「あれだけ勢いのあったボールがぶつかったのだから、今はたいしたことがなくてもきちんと対処しておかなければ後で困るのはお前なのだよ」

 そう淡々と告げると反論のしようがなくなったのか黒子は口を噤んで俯いてしまった。

「そうっスよ黒子っち!つーか普通に痛そうだし!」

 ここで騒いでいてもしょうがない。黄瀬の横から手を伸ばしてだらりと体の脇に下がっている黒子の左腕を握り締める。

「緑間君?」

 黒子が驚いて緑間を見上げた。

「黄瀬、黒子の腕を見てくるから周りから聞かれたらそう言っておくのだよ」
「了解っス」
「こい」
「ちょっ、緑間君!」

 痛くないよう加減をしつつ黒子の腕を強く引いて緑間は歩き出した。足をもたつかせつつ、慌てて黒子も歩き出す。
 背後で黒子が喚いていたが無視を貫いていると、諦めたのか大人しく着いてきた。

「座っていろ」

 部室のドアを開けた。ノックするのをすっかり忘れていたけれど、部員は皆部活動のため体育館にいたので中はもぬけの空だ。しなくても問題ない。
 黒子を備え付けのベンチに座らせて緑間は棚から救急箱を取り出すと、黒子の隣へと腰を下ろす。
 蓋を開けて中から必要な物を選んでいると、黒子が詰めていたらしい息を吐き出す気配がして緑間は顔を上げた。

「休み時間の時も思ったが体調がよくないのか?」

「いえ・・・そんな事は・・・」

 まじまじと至近距離で黒子の顔色を見下ろす。元から色白だったが今はそれを通り越して青白くなっている。唇も血の気が引き掛けているように見えた。

「そんな顔色でか」

 やれやれと肩を竦めながら消毒液とガーゼを出す。後は包帯と湿布と、軟膏も塗っておくか。

「腕を見せるのだよ」

 言い返せないのか口元をへの字にした黒子が無言で腕を突き出してくるので、痛みを与えないよう注意しながら手首を取った。
 滲んでいた血はすでに乾き始めているが周囲は変わらず赤くなっている。大事には至っていないが、明日には青黒い痣になっていそうだ。
 ガーゼに消毒液を染み込ませ、「しみるぞ」と一言前置いてから傷口に静かにあてがった。触れた瞬間黒子がびくりと跳ねたがこればかりはどうしようもない。しみるものはしみる。

「少し我慢するのだよ」

 血を拭うとチューブから少量の軟膏を指先に絞り、皮の剥けている箇所に塗り付けた。派手に当たっていたけれども傷口は広くはなかったのは幸いか。
 少し考えて大きめの絆創膏を貼りその上から湿布を貼ることにした。

「そこまですることないですよ。絆創膏だけで十分です」

 黒子は大げさだと静止するが却下した。

「念には念を、だ。後から困るのはお前自身なのだよ」
「でも・・・」
「黙っていろ」

 口で静止するものの腕を隠したり緑間の手を払うわけでもないので、抵抗しても無駄だと悟ったのか初めから逆らう気もないのかどちらかだろう。
 湿布を赤くなっている部分をしっかり覆うように貼り付けると上から包帯を巻いた。

「何日かは痛むだろう。家でも風呂上がりに放置しないで湿布の交換くらいはしておけ」

 血の付いたガーゼをゴミ箱に捨てて救急箱も元の位置に戻し、ベンチの黒子を振り返ると包帯の巻かれた腕をじっと見ていた。

「痛むか?」
「少し・・・」
「さっきも言ったが顔色も良くないだよ。赤司には俺から言っておくから今日はもう帰ると良い。朝から調子が悪かったのか?」
「ちょっと眠りが浅くて・・・」

 眠りが浅い。
 部活で散々体を酷使しさぞかし疲労困憊であろうにそれでも寝付きが悪いというのなら、心理的な問題になるのか。

「来週からIHなのだよ」
「・・・そうですね」
「お前はレギュラーだ。試合には当然出なければならない」
「わかってますよ」
「わかっているのなら・・・」

 話の途中だったが黒子の俯いている横顔を見て思わず口を噤んでしまった。
 垂れた前髪であまり表情は見えなかったけれども、日頃から無表情の黒子の歪んだ口元。右腕をさすっていた手を止めて、包帯の上から傷口に立てる爪。ぎりぎりと抉らんばかりの黒子の指先に緑間はハッとして止めに掛かった。

「なにをしているのだよ!」

 爪を立てる左手を凪ぎ払うように握りしめると、掌ごしに僅かに震えが伝わってくる。

「傷が悪化してしまうだろう!」

 ついさっき来週にはIHが始まると言ったばかりなのに。

「試合に支障をきたすような真似をするなど・・・。お前らしくもない」

 これはもうさっさと帰宅させゆっくり休息を取らせるべきだ。そう判断した緑間は掴んだ手はそのままに立ち上がった。

「・・・・・・・・・かね」
「なんだ?」

 黒子がぼそりと呟いたがあまりにも小声で聞き取れず、緑間は聞き返す。

「僕らしさって、なんですかね・・・」
「黒子?」
「僕にらしさなんて・・・あったんでしょうか・・・」

 ゆっくりと黒子が顔を上向かせ、緑間と視線を合わせた。

「く、くろこ・・・?」

 緑間は黒子と視線がかち合った瞬間目を見開き、中腰の体制で硬直してしまう。
 黒子の唇が戦慄いている。不安定に揺れる瞳はさっきは気が付かなかったけれども目尻にうっすら隈が出来ていて、黒子の精神状態の悪さを誰にでも分かるようにと表しているようだ。
 今にも泣いてしまうそうだと緑間は思った。
 なんと言えばと迷っているうちに黒子は再び俯いた。しかし、

「なんでもないです」

 次に顔を上げた時にはいつもの無表情に戻っていて、今し方のは己の醜態だったと言わんばかりに消え失せてしまっている。

「帰ります」

 だから左腕を解放しろと訴えるようにぐいと掴んでいた手を引かれるまで、緑間は固まったままだった。

「あ、ああ・・・」

 すっと離せば黒子は自分のロッカーを開けて着替え始める。その後ろ姿を緑間はただただ眺めた。
 やがて帰り支度を整えた黒子がロッカーを締めて鞄を肩に掛け緑間の側に歩み寄った。

「赤司君に体調が悪いから早退しますと伝えておいてくれるとありがたいです」
「・・・わかった。言っておくのだよ」

 床を見ながら離す黒子は緑間を目を合わせない。
 それでも緑間の返答には下を向いたままだったが頷き返した。

「それじゃ・・・帰ります・・・。さよなら」

 消えてしまいそうなさよならに緑間がさよならと返したのは、部室のドアが締まり黒子の姿が室内から消えた後だった。
 無人の室内でぽつり呟いたさよならは、窓から吹き込む風に流されどこかへ行ってしまった。 

 

 翌日、黒子は学校を休んだ。風邪を引いたのだと赤司が朝練で話していた。風邪をひいた本人ではなく黄瀬がしょげているのがどうにもうっとおしい。

「黒子っち昨日様子おかしかったっスよね。きっともうその時には体調良くなかったんスよ・・・」

 なんで気付かなかったのかと自責の念に駆られている黄瀬を横目で見ながら、緑間は昨日の黒子を思い出していた。
 確かに黄瀬の言う通り、あまり調子が芳しくなくぼーっとしている事が随分とあり、挙げ句飛んできたボールにも気付かず腕に軽い怪我を負ってしまうなど、らしくもないミスもおかしていた。

 らしくもない。

「僕らしさ・・・か・・・」

 黒子から僕らしさとは何かと問われたが緑間はとっさに答えられなかった。

 家に帰宅し、課題や予習復習に励んでいる時もどっぷり湯船に浸かり疲れを癒している時にも黒子の”らしさ”について考えを巡らせた。

 常に無表情に努め、冷静沈着で人の輪から一歩離れた位置で静かに人間観察と称して冷めた目で眺めている一方で、その胸の内には誰にも勝らぬバスケに対する情熱が満ちている。
 大人しそうな見た目に反して手も早いし喧嘩っ早い。口喧嘩をすれば一部の人間を除いて負け知らずだ。
 黒子をよく知る人物ならそう答えるだろう。
 だが黒子の求めている"らしさ”はそれらとは別なもののようにも思える。

「黄瀬・・・」
「なんスか?」

 隣でお見舞いに行こうかな行くならなに持っていこうかなと、一人ごちている黄瀬に視線を向けずテーピングの巻かれた左手を眺める。
 端が少し汚れてきているが交換する程ではないか。

「黒子らしさとはなんだと思う?」
「なんスか突然」
「昨日黒子に聞かれたのだよ」
「そっスか・・・黒子っちらしさっスか・・・」

 んーとこめかみに人差し指を当てて思量にふけっていたが、やっぱこれっしょ!と言わんばかりに満面の笑みを浮かべた。

「バスケ大好きなとこ!っしょ!」
「・・・お前に聞いた俺が愚かだったのだよ」
「なんでっスか!酷いっス!」

 ぎゃーぎゃー喚く黄瀬をその場に置いて緑間は歩き出した。

 


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