白鳥省吾物語 第二部 会報二十五号

(平成十三年十一月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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   (九)、論争前夜 大正十一年 

 大正デモクラシーと通称されている時代は、旧詩を排除する時代でもあったようである。詩の既成概念が壊されていく時代でもあったものと思われる。世相は貧富の差の是正を求めて民主主義、民本主義ががそちこちで唱えられていた。詩壇に於いては「民衆詩派」がその任の先頭にたっていた。この時代の流れにのって、大方の詩人が「民衆詩」を書いた。しかし当時、この両者の主義の違いは相容れるものではなかった。この両者の狭間にあって「民衆詩派」が成り立っていたものと思われる。そしてあまりにも自由になった詩の傾向に、*白秋が怒った。過去の芸術に重心を置いていた彼にとっては当然のことであった。一方「詩話會」の在り方に問題意識を持った会員達も、「詩話會」委員のマンネリズムに反逆し始めていた。

 萩原朔太郎が*1「何となればーー僕の考ではーー詩話會はしかく重大権威を有する結社でない。詩話會の目的は、一派一党派の勢力を扶植するのでなく、むしろ種々雑多なる詩派及び詩人の寄り合ひであり、それらの無方針な交友倶楽部である。/中略/それ故に、他の同人雑誌の結社とは、全然その意味を異にしている。詩話會には、それ自身の主張がない如く、またその個人的な党派もない。/中略/過去の詩壇の如く、諸君を迫害する先輩はどこにも居ない。」と、「詩話會」を中心に詩壇をまとめようと意気込んではみるが、詩の革新は朔太郎の詩をも過去にほうむり去ろうとしていた。

 「詩話會」創立に加わった大方の詩人達が、台頭しはじめたプロレタリア詩人達を正当に評価するには、もう少し時間が必要だった。*2『詩と詩論』の春山行夫等モダニズムの詩人達の詩論をまたねばならなかった。(「散文詩の展開上・下」春山行夫著)そしてモダニズムの詩人達も中野重治等プロレタリア詩人達が台頭するに及んで過去の詩人となるのであった。*3この波乱の詩の時代を生き残ったのが「民衆詩派」をかいくぐった金子光晴であった。(「金子光晴論」大岡信著)

 金子光晴は*4「大正末期の諸傾向」、「僕が詩を作り始めた頃」「ポール・フォールの影響」「民衆詩派の横行」に於いて、当時の詩壇の様子、自身の詩の変遷を書いている。この中で金子光晴は「暮鳥の『聖三稜玻璃』を無上のもの」と思い、詩集『月に吠える』に驚異を感じ、日夏耿之介の詩に「神秘に閉ざされた、青春の蕩尽」を感じていた。 金子光晴が名のある詩人と初対面したのが三木露風であったが、その時は口を利かなかった。はじめて口を利いたのは川路柳虹で、その紹介で二番目に知ったのが富田砕花であると書いている。そして民衆派に混じって詩を書いたのは富田砕花の影響からであったと書き残している。

 一面識もなかった川路柳虹を訪ねたのは、住家が近かったかららしい。その当時フランスのポール・フオールが流行していて、柳澤健はその影響を受けた詩を書き、周囲の熊田精華らと一緒に詩集を出したりしていた。「川路柳虹は詩壇のリーダー格で、柳澤健や日夏耿之介等とは別に、エミール・ベルハアレンに一目置いていた。」(「大正末期の諸傾向」金子光晴著)・・・以下抜粋して紹介する。

<川路柳虹は、僕のきいたこともない作家を知っていた。僕が会った二人目の詩人は、富田砕花であった。/富田はすでに大家だったが、飄々とした性格で、ひまがあれば旅行をしていて、うらやましかった。もっとうらやましかったことは、なんでも鶴見の方に斎田という恋人があって、そこの家をじぶんの家のようにして住んでいた。斎田にはもう一人の青年がいて、ややこしいような空気だった。その青年が中川一政だった。/中略/>*4「大正末期の諸傾向」「民衆詩派の横行」(『金子光晴全集・第十巻』中央公論社・昭和五十一年一月二十日発行)

 そして「民衆詩派の横行」では、富田砕花がだんだん社会主義の方へ傾いてゆき、金子光晴自身もその方向にはまっていった様子も書いている。

 <僕が会っていた当時、彼はだんだん社会的な思想の方へ角度をうつしてゆきつつあった。彼はイギリスのエドワード・カーペーンターにうちこみはじめていた。カーペンターはアメリカの大詩人、ウオールト・ホイットマンの思想を祖述した詩人だ。/中略/潮のように氾濫してきたデモクラシー思想に、青年詩人たちは誰もみな一応はとりついた。/ホイットマンの『草の葉』は、有島武郎が訳していたが、富田も新訳をはじめていた。トラウベルを看板にしたのは、『文章倶楽部』の新人三人で出てきた詩人の福田正夫(他の二人は、前田春声と北村初雄)だった。デモクラシーをふりかざしたもう一人の詩人は、白鳥省吾だった。/百田宗治はまだ、大阪で、藤森というストリンドベリイ研究者と二人で、二人雑誌を出していた。/福田と同郷の後輩に、小田原から出てきた井上康文がいた。僕の周囲には、デモクラシーの詩人ばかりがあつまっていた。/中略/

 あの頃の月々の雑誌をみても単行本の詩集をひっくり返しても、そのような詩ばかりが氾濫していた。デモクラシー青年は丁度、左翼勃興当時の意識青年というものと同じように、時代はもうじぶんたちの時代になったので、サンボリズムの流れを汲むような従来の詩人や、『感情』一派のような社会性のない詩人たちは、まったくもって、恥ずかしくて、白日に顔をさらせないものときめこんでいた。時代の勢いというものは馬鹿にならないもので、従来の詩人たちは気が弱くなって、労働者の味方とか、働くものの神聖とかいう言葉だけで、この時代から押されてしまったような気になる。/中略/

 そして、デモクラチストの詩運動について今日あまりに過酷なみかたしかしていないのを僕は不当だとさえおもっているのだが、/後略/>*4「大正末期の諸傾向」「民衆詩派の横行」(『金子光晴全集・第十巻』昭和五十一年一月二十日・中央公論社発行)

 このあとデモクラシー詩人たちの陥った欠点を書いている。この点に関しては後に紹介したい。

 *5伊藤信吉は白鳥省吾を「不思議な詩人」(「対談・プロレタリア詩とその周辺・伊藤信吉・大岡信」)と言ったが、それ以上に「民衆詩派」の一員としてとして名を残している、富田砕花はもっと不思議な詩人である。(*17「石川啄木に思想的な影響を受け、啄木の死を悼み、Going To People というエッセイを発表している」)芥川龍之介、中川一政とも関係している。また、大正期の主だった詩人たちと関わっている。まして「民衆詩派」を再起不能にした日夏耿之介は彼を讃えている(前述)。省吾も富田砕花によって福田正夫を紹介され、その結果富田砕花と共に民衆詩派に加わったことは先に紹介した。そして前述の金子光晴同様、富田砕花の動く方向に省吾も流されていった。しかし富田砕花自身は、あくまでもコスモポリタン風であった。白鳥省吾と金子光晴の住んだ詩の世界は違うが、共に一徹に独自の詩の世界を歩ませたのは、この富田砕花の影響ではないかとさえ思わせられる。

 大正十一年、この年「詩話會」委員達は「日本詩人講演会」に忙しかったようである。*6三月十日、詩話会の主催で「日本詩人講演会」を神田明治会館にて開催している。また同月十八日に同会を横浜メソジスト教会にて開催している。おなじ月省吾は、*7童話集『魔法の子馬』を出版している。四月には、川路柳虹、福士幸次郎、福田正夫、百田宗治、佐藤惣之助と一緒に伊香保温泉に一泊旅行をしている。この時のことを省吾は後に『人生茶談』に「伊香保の一夜」と題して書いている。同月二十二日は宮城県仙台市の「感触詩社」の石川善助、中田信子等の招きで「日本詩人講演会」を「仙台市公会堂」にて開催している。この時の講師は福田正夫、佐藤惣之助、川路柳虹、白鳥省吾であった。その時の模様は元大地舎同人高橋たか子が*8『白鳥省吾の詩と生涯』に「白鳥省吾先生追憶」と題して書いている。

<白鳥省吾先生に最初にお会いしたのは、大正十一年の四月である。/中略/その頃仙台に「感触」という詩の同人雑誌があって、石川善助、中田信子が中心となって、詩壇に活躍していた。/当時一高女に在学中だった私は、本好きな文学少女で、詩に対して漠然とした憧れを待っていた。

/中略/白鳥省吾はかねてから同郷の詩人として敬愛の念を抱いていたし、民衆詩派と称される詩人の中で最も力強い存在である事がおぼろげながら私にもわかっていたので、講演会はぜひ聞きに行こうと決心した。その頃の女学生は、夕暮れから夜にかけて一人で外出するということをしなかったので、仙台市の西はずれの広瀬川のほとりにある公會堂の会場に行くことは一大決心を要することだった。/中略/

 中田信子さんが開会の辞を述べ、最初に福田正夫氏が登壇した。太った体に和服を着流し、ざっくばらんな態度で、詩人仲間の行状を面白可笑しく開陳して、皆さんを笑わせる、佐藤惣之助、川路柳虹とつき、最後に白鳥省吾氏の登壇となると、私は一段と緊張し、じっと眼をこらした。袴をきちんとつけた和服姿は、重厚な感じで私の抱いていた詩人のイメージからは遠かったが、温顔の中に容易にたじろがぬ気迫があった。

 省吾氏は開口一番/「恋はやさしい野辺の花よ・・・。こういう恋情を歌った抒情詩のみを、詩と思っていられては困るのであります」とよく透るやや甲高い声で話し出された。/中略/熱弁は続いた。/「詩は象牙の塔に閉じこもっている詩人の独占物ではない。民衆の日常生活の中にこそ詩はある。平明にして自由なる言葉をもって我々の詩を歌え、藝術至上主義者の青白い貴族趣味を軽蔑せよ」/強い東北訛りが、てこでも動かぬ気質を感じさせたが、論旨は明快、会場は水を打ったように静かになった。白鳥氏の真摯な態度は充分に聴衆を魅了したのであった。/後略/>*8「白鳥省吾先生追憶」高橋たか子著(『白鳥省吾の詩とその生涯』昭和六十一年二月十五日・築館町発行)

 講演会の後、四人は日本三景の一つ松島を訪れている(「白鳥省吾年譜」)。「平明にして自由なる言葉をもって我々の詩を歌え、藝術至上主義者の青白い貴族趣味を軽蔑せよ」省吾のこの言葉は、この後生涯変わらなかった。しかし、この辛辣な言葉に反発する詩人たちは、「民衆詩派」の詩に懐疑を抱き始めていた・・・。

 大正十一年六月十日、省吾の六冊目の*9詩集『共生の旗』が出版されている。これを*10『現代詩の研究』「八、白鳥省吾の詩」では、自ら「第四詩集」と紹介している。『共生の旗』の「はしがき」には以下のように記されている。

<△詩集「共生の旗」は一九二一年(大正十年)の作を主とし、詩六十六篇と散文詩八篇とを輯録したものである。この年はこれまでになく詩が多く書けた、いま此の一冊に最も自分に近い一ヶ年の全景を示すことの出来たのは、深い喜びである。

 △詩の排列は前詩集の「楽園の途上」に準じて、比較的相均しき環境の中に歌へるものを六つの部門に分類した。この詩集を「共生の旗」と名づけたのは「楽園の途上」から引き続いて、文藝に民主的傾向を徹底せしめんとする企画を示すものであって、民主的といふ言葉の持つ内容は、世人の多くが考へるやうに単純なものでも一時代のものでもなく、人間の思想感情の種々の要素を包含した複雑な永遠のものであり、現代人の当然持つべき情熱の根本であることを特に言明したいのである。

 △私は自分自身の詩に就て、今茲に説明らしいものを附加しない、た既刊の詩集「憧憬の丘」「幻の日に」「世界の一人」「大地の愛」「楽園の途上」の順序で自分の歩いて来た既往を回顧し、いま六冊目の詩集「共生の旗」を世に送るに当たって、自分の菲才を今更ながら感ずるのである。

 東京都雑司ヶ谷にて/大正十一年五月/白鳥省吾>*9詩集『共生の旗』白鳥省吾著(大正十一年六月十日・新潮社発行)

 この詩集は、白鳥省吾を語る時に問題となる詩集と思われる。徹底的に・・・、意識して・・・、詩を民衆に解放しようとした詩集と思われる。自身は後に『現代詩の研究』「白鳥省吾の詩」に於いて「殊に新しい笛の項目にある十篇の詩は民謡調を取り入れて田園の風物を歌ったものである。」と記している。これは詩集を読んでいただければ分かるものと思われるが、彼のこれ以前の詩集と違って、全くの「民衆詩派」の詩集である。この詩集を境にして白鳥省吾を評価する方々の意見が別れているようである。北原白秋はこの詩集中の「地主」を*11「読む民謡」と評しているらしい。(『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」「第四章・白鳥省吾の位置」松永伍一著)

 壷井繁治は戦後、自著*12『詩人の感想』に「白鳥省吾論ー彼の現実主義とその展開」を収録している。(初出は雑誌『アクション』昭和二年発行)

<彼の数多くの詩集中に於て、「共生の旗」は彼の持つ現実主義的傾向を最も濃厚に表現したものである。この詩集に於て、彼自身の関心と興味とは、より多く社会的現実に向けられている。殊に、その眼は農村の方へ注意深く注がれている。そこには「大地の愛」に於けるやうな、自然に対する甘美な陶酔や単純なる感動の代わりに、農村の現実を全体的に把握しやうとする熱情と意志が見られる。/後略/>*12「白鳥省吾論」壷井繁治著(『詩人の感想』昭和二十三年一月三十日・新星社発行・初出は雑誌『アクション』昭和二年発行)

 松永伍一はその著書*11『日本農民詩史・上巻』「第四編・民衆詩派の功罪」「第四章・白鳥省吾の位置」に於いて、『共生の旗』「地の叫び」中の作品、「美しい國」を採りあげて批評した北川冬彦の*13「新しい現実主義」を例に挙げている。

     美しい國

   見渡す限りの田と畑と

   その中を輝き流れる大河と

   遠く起伏する山脈と

   晴れやかの青空と

   爽やかの微風と

   それらの中に立って

   人生がどうして不幸であると思へよう。

   ・・・後略

*写真は詩集『共生の旗』

<「これが詩といえるだろうか」と北川冬彦はまず否定する。/中略/。「この民衆詩ののさばった時ほど日本の詩の歴史の上で詩が堕落したことはない。民衆の味方だといっても口先だけのことで、プロレタリア詩派のように民衆の敵と戦おうともしないし、その表現の芸術性はゼロにひとしいものだったからである」と、いわば民衆詩派攻撃の常套手段を用いた戦法であるが、たしかに批判されるごとく、力学的構成の不徹底と美学的結晶度の希薄さという両面からみて、詩としては当然そのような誹りをまぬがれない。/後略/>*13『私は詩をこう考える』「新しい現実主義」北川冬彦著・創元社・ポエムライブラリー(『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著)

 そして松永伍一は『共生の旗』詩集を「問題性を多く持つ詩集」と書き、この詩集は「農村の実態をリアリスティックに把握していかねばなくなる。それは必然の道でもあったのだ。誰がどう言おうと、詩壇の方向や評価がたとえ好ましくないにしろ、そういう道すじに沿って歩くべきであった。」と、省吾のこの後の詩が変化したことを批評している。また前掲した壷井繁治の「白鳥省吾論ー彼の現実主義とその展開」を紹介している。次に壷井繁治と白鳥省吾の関係を以下のように記している。

<壷井の例が出たが、「自由詩人を破壊せよ」と叫びつつ民衆詩派攻撃の手をあげた一人である壷井を、早稲田の後輩という関係もあって、詩壇の公器と言われた当時の『日本詩人』に紹介して作品を発表させたのである。この武士の情けともいうべき態度をとったのも、白鳥の善意によるものだった。ともかく、白鳥は包容力のあるスケールの大きな詩人で、そのことが世俗的にも多くの弟子を大事にしていくことにもなり、大地舎の詩活動をあのように可能にしたのもその秘密に由来していたというべきだろう。/後略/>*11「民衆詩派の功罪」「第四章・白鳥省吾の位置」松永伍一著(『日本農民詩誌・上巻』昭和四十二年十月十五日・法政大学出版局発行)

 「民衆詩派」詩人としての白鳥省吾は、詩に時代現象を内容として、あるがままに記録する所に価値を見出したのものと思われる。従って自己の詩の世界を追求して歌い上げる詩人たちとは、その本質に於いて異なっていたものと思われる。

 明治期の自然主義をまともに受けて民衆詩の世界に足を踏み入れた省吾は、草創期の自由詩の精神を受け継いでいたものと思われる。そこから独自のリアリステックなな眼が宿って行ったものと思われる。省吾の反戦詩には、自己の世界にうぬぼれることなく、広く世界を見てみたいという意識があったものと思われる。省吾の詩には早くからこの傾向が見られたのであるが、伊藤信吉は「殺戮の殿堂」を*14「リアリスティックな手法ととけあって、作品ぜんたいに重量感をあたえた」と書き、萩原朔太郎がかつて*15「白鳥省吾君は詩壇の自然主義者だ。この作物を通じてみるとこの人ぐらい現実的の思想をもっている人はいない。」と、その新鮮実に注目したのもこの辺の処にあったものと思われる。

 また、反面「文学の限界」を加藤一夫、小牧近江等との同一行動から掴んでいたものと思われる。後に秋山清は*16「壷井にしても金子の文学を問題としながらその根底に、政治、がある。/中略/岡本や壷井の場合は命の綱の政党がある。」と書いているが、政治には無関係な吟遊詩人白鳥省吾は金子光晴同様、文学の限界を察していたものと思われる。省吾は伊藤信吉との*17対談において以下のように答えている。

<伊藤 私は詩における社会的な系譜という点で、民衆詩派の運動が大きな役割をはたしていると考えますが、/中略/

白鳥 そういうわけですが、その社会性をうたう民衆詩派の、たとえば白鳥にしても、福田にしても、やむにやまれないで実際運動にとびこんでいくかというと、そうではない。そこのところは、とびこんでいこうと思って、踏みとどまったんじゃないですね。文学の限界というものを常に考えていたから、ある意味において生ぬるいとかなんとかいうことになっているわけですね。

伊藤 文学上の具体的な問題として、実際運動に踏み込んでいかないで、文学や芸術の限界性(そして自立性)ということを自覚したということ。そこで加藤一夫とか賀川豊彦とは、協力者の関係ではあるけれどもやや遠かった、という差が出てくるわけですね。私はいままで加藤一夫がラジカルな実際行動をしたことも知らなかったが、その逆に、白鳥さんのデモクラシーの思想が穏健だとしても、私など少しあとの年代の者から見ると、民衆詩派の運動にある程度のラジカルナものを感じる場合があるのです。/後略/>*17「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「詩における社会性と芸術性」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

 このあと省吾は「その時代は実際、ことに工場労働者とかそういう人々に対する弾圧が、怒濤のごとく襲いかかってきて、絶対にそういう者の自由を許さなかった。」と述べている。

 過酷な労働に日々の暮らしを営む労働者達を、小作人達を見てみぬふりが出来ない省吾・・・。さりとて、共に傷つけあう実際運動にも懐疑を抱いて入り込めない省吾にとって、残された道はこれらの人々を、啓蒙精神でうたいあげるしかなかったものと思われる。『共生の旗』「地の叫び」より、この時期の省吾の心境をうたったと思われる「國境の上に」を紹介する。

 

     國境の上に

   何の國境あるか

   雲のゆく処に、風の吹く処に

   光の溢るる処に、潮の鳴る処に

   土地そのものに何の國境あるか、

   彼等はただ稔りただ与ふ

   おお夥しい宇宙の饗宴よ

   彼等は均しく歓呼し永久の平和にある、

   人々よ、この限りなく美しい楽音を聴け。

   

   然もおお武装の世界よ

   彼等はその利己主義によって常に自他を傷つく、

   熱くなく光なく思想なく藝術なき日本よ

   戦にのみ強き甲虫よ   

   戦にのみ備へて日常生活の自覚なかりし日本よ

   矛盾と虚偽に曇る日本よ。

   されど私は信ずる、

   優れたる國民性の光輝を

   その自由と快活とを

   一切の虚飾をふるひ落として

   潮に洗われたるごとく鮮やかに飛躍する國土を。

*写真は童話集『光の方へ』・*詩は詩集『共生の旗』より

 流行作家(詩人)となった、省吾の周辺はめまぐるしく動いていた。 四月二十日、*18詩集『憧憬の丘』第三版を出版、五月、詩「中尊寺附近」を『日本詩人』に、六月劇詩、「美貌」を『日本詩人』に、七月「ホイットマンの生活断片」を『日本詩人』に、「ホイットマンの民衆主義」を『早稲田文学』に、「詩と社会の交渉」を『朝日新聞』に相次いで発表している。そして『文章倶楽部』に「詩の作法」を連載していることが「白鳥省吾年譜」に記されている。この他、七月に*19童話集『光の方へ』を「児童の心社」から出版している。さらに「白鳥省吾年譜」は以下のように記している。

<七月二十一日「児童の心」の講演旅行のため高田、富山、金沢に行く。八月六日帰京。東水橋町にて新少年時代の投書家金尾梅月(後の梅の門)千石喜久の諸氏に遇ふ。八月*20詩集『若き郷愁』大鐙閣出版。九月「真菰の中で」女性改造。詩「森林帯」太陽。北原白秋詩が「これでも詩か」と散文に書き直し民衆詩に挑戦せる発端となりたるもの。九月二十三日〜二十六日「水門と農村の話し」東京朝日新聞。十月「新しき民謡について」日本詩人。評論「久保田正彜の言行」雑誌雄弁。十一月評論「詩の内容と形式」北原白秋との論争となり。日本詩人。評論「土地荒廃の悲劇」中央公論。十一月加藤一夫、福田正夫と共に弘前、土崎等にて講演、弘前高等学校にて「ポーとホイットマン」を講演。十二月「民謡の批判と主張」日本詩人。十二月*21詩集「愛慕」新潮社出版。>*6「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

 新潮社は『現代詩人叢書』を、「現代詩壇の精華を集むる新叢書」として全二十巻刊行しているが、詩集『愛慕』は十一巻目にあたる。省吾には珍しく純粋に恋愛詩だけを収めてある。「はしがき」には以下のように記されている。

<此の詩集には百余編の詩がはいっていて、みな恋愛に関するもの、愛誦に適するものを網羅したものである。過半は既刊の詩集から選抄したものであるが、どの詩集にも入れていない新作三十篇をも加へた。これに依って自分の歩いて来た抒情詩の路を知ることが出来る。これらの詩は私の現在の心境や表現とは距離のあるものもあるが、幾分か稚拙であると共に棄てがたい永遠の階調も感ぜられる。

 かかる抒情詩は、考へやうによっては詩を作る人の一たびは過ぎる門であり、常に携へて愛誦さるべき本質のものである。普及版としての本叢書の一篇に、この詩集を当てることも無意義ならざるを信ずるものである。

大正十一年初冬 著者>*21『現代詩人叢書11・愛慕』(大正十一年十二月十三日・新潮社発行)

 結局省吾はこの年だけで、重版合著を含めて七冊もの著書を出すことになった。七月二十一日の講演旅行のことは *22『日本詩人』大正十一年十月号「新しき民謡について」の中で書いている。

 <北陸の旅の第一日目、新津町で新津甚句を聴き、高田市で三階節を聴き、土地から生まれた民謡といふものに、生きた『永遠の心』と技巧以上の技巧があり、深刻で端的な表現をしているていふ感をいつもながら新しくさせられた。/後略/>*22『日本詩人』大正十一年十月号(詩話會編・大正十一年十月一日・新潮社発行)

 この「新しき民謡について」は、白秋に対する反駁文のはじまりでもあったものか・・・。九月に『太陽』に発表した詩「森林帯」は、省吾の故郷栗駒山麓にある鞍掛沼をうたったものである。これは、中学時代に父と兄とともに数里の山道を歩んだ時の思い出を詩にうたいあげたものと思われる。この詩に北原白秋が「これでも詩か」と散文に書き直し民衆詩に挑戦した。

 ・・・・・北原白秋との論争の始まりである。

*写真は『現代詩人叢書11・愛慕』

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1「詩壇の思ひ出」萩原朔太郎著(『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行より・初出は『日本詩人』第五巻第四号・大正十四年四月号)

*2「散文詩の展開上・下」春山行夫著(『現代詩の研究』所収・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

*3「金子光晴論」大岡信著(『現代詩読本3・論考』昭和五十三年九月十五日・株式会社思潮社発行)

*4「大正末期の諸傾向」金子光晴著(『金子光晴全集・第十巻』昭和五十一年一月二十日・中央公論社発行)

*5「対談・プロレタリア詩とその周辺・伊藤信吉・大岡信」(『文学』昭和六十年一月十日・岩波書店発行)

*6「白鳥省吾年譜」(詩集『北斗の花環』昭和四十年七月十五日・世界文庫発行)

*7 童話集『魔法の子馬』白鳥省吾著(大正十一年三月・金星堂発行)

*8『白鳥省吾の詩とその生涯』(昭和六十一年二月十五日・築館町発行)

*9 詩集『共生の旗』白鳥省吾著(大正十一年六月十日・新潮社発行)

*10『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*11『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著(昭和四十二年十月十五日・法政大学出版局発行)

*12『詩人の感想』「白鳥省吾論」壷井繁治著(昭和二十三年一月三十日・新星社発行)

*13『私は詩をこう考える』「新しい現実主義」北川冬彦著・創元社・ポエムライブラリー(『日本農民詩誌・上巻』「民衆詩派の功罪」松永伍一著より)

*14伊藤信吉著『鑑賞現代詩U大正』(昭和四十九年六月二十日・筑摩書房発行)、

*15『萩原朔太郎全集・十二巻」「ノート五」(昭和六十二年九月十日補訂版・筑摩書房発行)

*16「保守の人・金子光晴」秋山清著(『現代詩読本3・論考』昭和五十三年九月十五日・株式会社思潮社発行)

*17「対談・民衆詩派をめぐって・白鳥省吾・伊藤信吉」「詩における社会性と芸術性」(『文學』1964・7・VOL.32・昭和三十九年七月十日・岩波書店発行)

*18詩集『憧憬の丘』第三版・白鳥省吾著(大正十一年四月二十日・金星堂発行)

*19童話集『光の方へ』白鳥省吾著(大正十一年七月三十日・児童の心社発行)

*20詩集『若き郷愁』白鳥省吾著(大正十一年八月三十日・大鐙閣発行)

*21『現代詩人叢書11・愛慕』白鳥省吾著(大正十一年十二月十三日・新潮社発行)

*22『日本詩人』大正十一年十月号(詩話會編・大正十一年十月一日・新潮社発行)

* 参考資料

* 『現代詩読本3・金子光晴』(昭和五十三年九月十五日・株式会社思潮社発行)

* 『現代詩読本8・萩原朔太郎」(昭和五十四年六月一日・株式会社思潮社発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年七月二十二日改訂

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Eメール   y-sato@mx5.et.tiki.ne.jp

 つづく


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最終更新日: 2002/07/24