白鳥省吾物語 第二部 会報二十三号

(平成十三年九月号) 詩人 白鳥省吾を研究する会編発行

   三、民衆派全盛の頃 大正八年〜十一年

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    (七)、月刊詩雑誌『日本詩人』 大正十年 

 大正十年十月一日「詩話會」編輯で*1『日本詩人』が「新潮社」より創刊されている。大正時代に十年近くも詩壇を横臥した「詩話會」を「民衆詩派の牙城」と見る方は、『日本詩人』も「民衆詩派」の「機関誌」と評しているようであるが、正当に見直しても良い時期に来ているのではないかと思われる。終刊号は大正十五年十一月号、全部で五十九冊(*2日本近代文学事典第六巻・新聞雑誌)刊行されているらしい。「日本詩人」編集の様子を、創刊号から終刊号まで、省吾をはじめ編集者の書き残したものから見てみたい。省吾は*3「詩話會の思ひ出」に以下のように紹介している。

* 写真は『日本詩人』創刊号(詩話會篇・大正十年十月一日・新潮社発行)

<大正十年十月一日、詩話會編輯の名の下に、新潮社から雑誌「日本詩人」が創刊された。編輯員は百田宗治、白鳥省吾で、編輯所を百田宗治方に置いた関係上、主として百田宗治その任に当たった。執筆者は詩話會員が主で、時として外部へも依頼した。百田君はその頃既に上京して巣鴨に居を構へていた。/詩話會が年鑑詩集と共に雑誌を出すようになり、且つ版元が新潮社であったから、対社会的に反響も大きかった。それまでの詩の雑誌は小党分立であったが、「日本詩人」は詩壇を綜合した感があった。/「日本詩人」と詩話會とは不離の関係にあり、詩話會員の詩と評論は主としてこれに載ったから、これを概説する必要があらう。

 大正十一年度で注目すべきは、新年号の福士幸次郎君の「自由詩音律論」であり、十月号の白鳥省吾の「新しき民謡に就いて」、十一月号の「詩の内容と形式」等は、北原白秋と民謡並びに自由詩の論議を生み、北原白秋は雑誌「詩と音楽」によって応酬した。>*3「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

 十一月号の「詩の内容と形式」は、『太陽』九月号に掲載された省吾の散文詩「森林帯」を、北原白秋が『詩と音楽』十月号誌上の「考察の秋」に於いて、「詩であるか・自由詩の例證・其の一」と題して書いたことに対する、反駁文である。これは*4『日本詩集』1923年版に採録されている。省吾と白秋の論争は後述したい。「詩話會の思ひ出」はこのあと編集者の推移、『日本詩人』編輯の様子を記している。

 月刊雑誌『日本詩人』は、大正十年十月創刊号から十一年九月号まで百田宗治、白鳥省吾が編集。その内実を百田宗治は前掲した*5「自伝的に」に以下のように書き残している。

<新しく新潮社から出る雑誌『日本詩人』の最初の編輯に当たることになった。詩壇のいはゆる民衆派(民主派と言った方が正しい)が全盛を極めたかのごとく取沙汰されたのはその時期で、私は巣鴨に住んで日本詩人編集部といふ標札と自分の標札をいっしょに門に貼りつけておいた。芥川龍之介君が染井の墓地へ墓参に行ったかへり、偶然に私の家の前を通って「百田君は立派な家に住んでいるね」と室生に話したといふその家である。堂々としているにもいないにもその堂々たる大家の門がかりのなかに私の三間きりの小さい家があって、同じ堂々たるその門柱に大家の名といっしょにそれらの標札がかゝっていたのを芥川君はそのまま記憶に留めたのである。日夏耿之介が『明治大正詩史』のなかで私をブルジョア詩人視しているのなどもどうやらこの同じ轍を踏んだものらしい。>*5「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)

 この『日本詩人』のことを省吾は*6「大正詩壇の思い出ー詩話会の成立から解散までー」と題して、後に『國文學』に書いている。同誌中の「日本詩集と日本詩人」より抜粋して紹介する。

<日本詩集も日本詩人も今まで詩集や詩誌はもともと採算が取れないものを、詩話会から頼み込んだものであるから、日本詩集の編集費は全くなかったのである。会員の私宅を廻り持ちで接待したというわけだ。それをいくらか新潮社から出してもらえるようになったのは四冊目あたりからである。/日本詩人の編集はたいてい二人で、主任と副とし、主任を三十円、副を二十円とした。/中略/

 結局主任は郵便物の整理、校正等の雑務の過半を引き受けることになり、副は助手のような形で、原稿依頼の相談役であり、正式には編集委員による編集会議という四角ばったことは時たまおこなうだけであった。/後略/>*6「大正詩壇の思い出」白鳥省吾著(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

と書き残している。そして原稿料を「百二十頁の雑誌に最初は七十円、それが百円となり終刊の頃には百五十円となった。」と書き、詩一編、散文一枚に限らず、これを一人に数円ずつ割り振ったと書いている。当時は自費出版が多かったが、「日本詩集」「日本詩人」が出されるに及んで、次第に詩集が読まれるようになり、最初欠損を出していた新潮社も詩集で採算が取れるようになり、他の出版書肆も詩集を出すようになったようである。

 ここで、省吾の蔵書『日本詩集』に夾まれていた紙片、「詩話會規則」と「会員住所録」を紹介してみたい。『日本詩人』の編集者が福士幸次郎、福田正夫となっているところから、関東大震災直後のものと思われる。これ等には規則の訂正、会員の住所変更等の校正が加えられている。

<「詩話會規則」

一、本會を詩話會と名づけ事務所を東京市牛込区矢来町新潮社内に置く。

一、詩話會は日本詩壇の興隆を期し、壇人相互の交情を温め、壇の進歩発達を庶幾する團體である。

一、詩話會は會員の詩の研究創作を発表する機関として、毎月一回雑誌「日本詩人」を発行し又毎年年一回「日本詩集」を発行する。

一、詩話會は詩壇に相当実力ある詩人を以て組織する。

一、詩話會には委員を置く。委員は會員数の三分の一を以て任じ、會員から推挙する。

一、委員は會員の銓衡その他會に関する一般?(重)要事項を審議決定する。委員の年期は一ヶ年とし一ヶ年毎に改選する。

一、委員中から毎年「日本詩集」編纂員若干名並びに「日本詩人」編輯者若干名を合議の上にて推挙する

一、詩話會は雑誌及び年刊詩集発行以外、講演会朗読会等を随時開催し、詩の宣伝に努める。(雑誌「日本詩人」には會員以外の適当なる人々に寄稿を乞ふことがある。講演會に於ても同様である。) 

一、詩話會は「日本詩集」の印税、並びに「現代詩人選集」(何れも新潮社発行)の印税及び「日本詩人」の利益金を挙げて基本金とし、會の事業に随時使便する。

一、詩話會は総会及び例会を開く。時日は委員定める。

一、會員中疾病及び不幸のある時は委員合議の上にて相当の慰藉料をを贈ることがある。

 なほ委員十名の氏名左の如くである。

 生田春月/川路柳虹(会計)/佐藤惣之助/白鳥省吾/千家元麿/富田砕花/福士幸次郎(日本詩人編輯)/福田正夫(日本詩人編輯)/室生犀星/百田宗治>

 そしてその会員は、「會員住所録」によると以下の三十七名である。

<生田春月/金子光晴/加藤介春/河井酔茗/川路柳虹/國木田虎雄/佐藤一英/佐藤清/佐藤惣之助/佐藤春夫/澤ゆき子/霜田史光/鈴木信治/白鳥省吾/千家元麿/高村光太郎/多田不二/富田砕花/中田信子/中西悟堂/野口米次郎/野口雨情/萩原朔太郎/林信一/大藤次郎/深尾須磨子/福士幸次郎/福田正夫/藤森秀夫/前田春聲/室生犀星/百田宗治/山崎泰雄/山村暮鳥/井上康文/尾崎喜八>

 住所の校正を見ると、佐藤清が神田から市外大久保百人町へ、福士幸次郎が青森県へ、福田正夫が世田谷へ、室生犀星が金澤へ、百田宗治が大阪へ、その他南江二郎、藤森秀夫等も住所変更の添削がされている。

* 写真は省吾の校正が加えられていると思われる紙片(省吾の蔵書「日本詩集」に夾まれていたもの)「会員住所録」。月日は不明だが関東大震災直後のものと思われる。資料提供「白鳥省吾記念館」。

 *7『日本詩人』は大正十一年十月号から十二年二月号まで、白鳥省吾が一人で編集している。十月号の表紙には金子光晴画の「日本昆虫図譜・その一・マツモムシ」の図柄が描かれている。「詩話會の思ひ出」に以下のように記されている。

<この年の十月号から翌年二月号まで雑誌は白鳥省吾が独力で編輯した。翌年三月号からは福士福田の両君が編輯した。四月号には吾が國に大使として来朝したポール・クローデル号を出した。九月は関東大震災であったが、「日本詩人」は健全に一回も休刊せず、更に罹災詩人の救恤の一端として震災詩集「災禍の上に」を発刊した。>*3「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』・昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

 この中で省吾は「一回も休刊せず」と書いているが、そうではなかったものと思われる。大正十年は十月号創刊号から十二月号まで三冊、十一年は全号出たとして十二冊、十二年は後述するが九冊であったらしい。十三年、十四年が十二冊づつで、二十四冊、十五年が十一冊出たとすると、全部で五十九冊 になる。省吾が言ったとおり全冊出ているとすると三冊足りない。

 手許の資料で確認できるのは、十年が十月、十一月、十二月の三冊(三冊)、十一年が一月、十月、十一月の三冊(十二冊)、十二年は四月が不明、また関東大震災で九月号が焼失、編集者の福士幸次郎が帰郷して編集者の変更があったため十二月号が休刊されて九冊(十一月号が第三巻第九号とある)、十三年が十二冊、十四年が二月、三月、四月、十二月が不明で八冊(十一月号が第五巻第十一号とある。十二冊)、十五年は四月が不明で、十一月終刊号まで九冊(六月号が第六巻第六号とある。十一冊)、全部で四十四冊である。(十二年は四月号も欠けているものと思われる。そうすると、五十九冊になる)。その手許の資料中から紹介する。

 大正十二年三月号からは福士幸次郎と福田正夫が担当していたが、主に福士幸次郎が編集していた。しかし六月号、七月号は福士の旅行のため、福田正夫が編輯に当たっている。八月号からは福士幸次郎の編輯に戻っている。そして大正十二年九月の関東大震災である。原稿を預かっていた福士幸次郎はブリキの箱に入れて災難を逃れようとしたが、全部焼失してしまった。*8『日本詩人』大正十二年十一月号「一身上のこと」より紹介する。

<○十月号の消息にもあったやうに、深川に在住している私は今度の大災にきれいに焼き出された。/中略/多くも取り出さない荷物の中で、日本詩人編輯者当然の役目として特に持ち出したる原稿保管のブリキの箱、これにわたしの乃至本編輯所あてに、原稿が一杯につまっていた。重要物としてわたしはこれを他の荷物と一緒に、町の向かひ側の赤煉瓦倉庫の空き地に運んだ。/中略//わたしが妻に勵聲一番に言ったのは曰く、『ここへ運んでも焼けるくらいなら、東京中どこへ持ち出したって焼ける。だから焼けたらあきらめろ』/中略/この晩の十時頃からわたし等は火の重圏に陥った。/

 ○三日目に一面の焼け跡の吾が家へ来て見ると、すべて熱い灰のうづ高い山である。例のブリキ箱など痕方もない。/中略/ここでわたしは私に原稿を委託された諸氏に、日本詩人編輯の常の責任者として衷心からお詫びする。寄稿の原稿でお預かりしたのは幡谷正雄、松原至大、米澤順子氏ら、以下四五通ある。投稿の方でお預かりしたのは数百通ある。/中略/

 ○日本詩人の編輯も、更に詩話會もこの大災を通過した後の、私の境遇上、並びに精神上の変化によって退くことになった。日本詩人辞任の方は規定の任期から言へば、元来夙に果たすべきものであったが、最初諸種の註文を具して編輯を買って出た私の都合上、今まで待に延期して貰ったもので、この点詩話會々員諸氏の寛大を感謝し、特に私に編輯上の一切の専横を快く見免し任せてくれた相棒の編輯者、福田正夫君に深いすまなさを感じつつ、感謝の言葉をささげる。/中略/氏とわたしに代る今度の編輯者は、川路柳虹氏と白鳥省吾氏との両氏に決定したが、/中略/

 ○日本詩人編輯を辞すると共に、自分も創立者の一人で密接に関係してきた詩話會をも退会するといふのは、今度の大災で精神上、境遇上かなり変化させられざるを得なかった、わたし自身の都合による。/中略/思へばわたしなども焼け死にこそ仕なかったれ、あの午前十一時五十八分四十五秒が、大変なことになってしまったものだ。/では左様なら、詩話會員諸君!/ 読者諸君!/後略/>*8『日本詩人』大正十二年十一月号(詩話會編・大正十二年十一月一日・新潮社発行)

 と書き、ふるさとの青森県に帰ることを匂わしている。そして「編輯余録」に『日本詩人』の編輯所を新しく特設した「新潮社内日本詩人編輯所」に置くことにしたこと、十二月号を休刊することに「評議一決した。」ことを書いている。自身のした仕事として、「クロウデル号と本誌毎号の新人紹介の方法とがせいぜいわたしのお土産仕事である。」と記し、紹介した詩人として、「一戸玲太郎、青山行夫氏等の新進の人(後者は佐藤一英氏と共同)」と書いているが後者は春山行夫の誤植と思われる。

 しかし福士幸次郎の心配も杞憂だった。焼失したはずの九月号の紙型が残っていたのである。『日本詩人』大正十二年十月号の「編集後記」に、「また本誌九月号は、製本済の上、発売間際に製本所に於いて全部焼失したるも、幸ひ紙型は安全なるを得て、震災消息を加へたる上、内容はそのまま十月号として発売することにしました。」とある。この号には「大震災と詩話会員の動静」、省吾の「民衆詩の起源」も掲載されている。

 『日本詩人』大正十二年十一月号には百田宗治も「震災記念特集の刊行に就いて」と題して書いている。それによると、百田宗治は震災後、一時大阪に帰郷していた。そして単身で大阪に来ていた福士幸次郎と一緒に東京へ向かった・・・・・。この震災以前、七月に『東京朝日新聞』に詩話會委員を辞退した旨を発表していた百田宗治は、震災を契機として居を大阪に移す旨も書いている。しかし再び東京に戻っている。関東大震災のことは後に紹介したい。

 大正十二年十二月号からは川路柳虹と白鳥省吾が編輯に当たったいるが、この号は休刊であったらしい。「詩話會の思ひ出」には以下のように紹介している。

<この年の十二月号から川路、白鳥の編輯に移った。十三年一月には「回想のイエーツ号」、六月には新詩人号を出して、広く天下に詩を募って新人を紹介した。選者は川路、佐藤(惣)、白鳥、千家、萩原、福田である。/中略/九月に「トラウベル追悼号」が出た。/大正十四年二月、更に第二新詩人号を出して、新人を紹介した。今度の計画は思ひ思ひの選者を指定して投稿させ、思ひ思ひに等級をつけた。三月号に川治君の「新律格論」が出た。十一月号は「河井酔茗氏五十年誕辰記念号」を出した。この号から萩原朔太郎、佐藤惣之助の編輯となった。/後略/>*3「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

 *9『日本詩人』大正十三年十一月号に福士幸次郎が「白鳥省吾君に一言する」と題して書いている。これは省吾が十三年九月に発行した*10『現代詩の研究』「第二編自由詩運動の前後」の内容に対する見解の相違を力説したものである。これに対して省吾は翌月、*11『日本詩人』十二月号の「詩壇漫言」欄にて「福士君への返事」を書いているが、ここでは割愛させていただく。このは新人紹介号でもあったらしい。また「今年詩壇の回顧」に井上康文が「詩壇一年の外観的記録」を、「俎上の十一月詩壇」に川路柳虹が「詩話會を罵る人達へ」と題して書いている。この中で目に付くのは川路柳虹が「詩話會のことは詩話會の會員相互できめてゆく。やめたくなったら明日にもやめようではないか。いらぬお世話をうける必要はどこにもない。」と書いていることである。・・・・・「詩話會」に対する風当たりが、内から外から強まっていた。「詩話會」に対する不満に対しては、萩原朔太郎も*12大正十四年十一月号に「編輯に就いて」と題して弁明している。

 大正十三年十一月号には「詩人の印象・その四・富田砕花氏」も特集されている。これは「一、出会い」に前掲したが、省吾は「富田君のこと」と題して書いていた。面白いのは「詩話會」を脱退している日夏耿之介が省吾と共に、富田砕花のことを「洛陽砕花居士」と題して書いていることである。

 *12大正十四年一月号『日本詩人』は「現代詩人号」となっている。「詩人の印象・その五・室生犀星氏」には、省吾がはじめて犀星を訪ねたころのことを芥川龍之介、多田不二、小畠貞一、平木二六の犀星論と共に掲載されている。この中より省吾の「室生君の印象」を抜粋して紹介する。

<室生犀星といふ名は明治四十年頃の「新聲」といふ雑誌によく見えていた。「新聲」は「文庫」と並んで多くの青年詩人が書いていた。児玉花外が選者で、/中略/私もその頃同じ雑誌に投書していた、室生君はいつも私より上席で圏点も多かったやうに記憶する。/その後、「詩歌」とか「創作」とかで、よく私といっしょに詩が出た。/中略/最も初めに逢ったのは詩話會の創立当時であるから大正七年頃であったらう。そしてその家を訪ねたのは、室生君が小説を書き出してからで、「日本詩人」の創刊の頃、百田君と一緒に行ったやうに覚えている。その家は創造したと違って田端駅を瞰望し得る崖の上の家であった。「君も変わっているよ、近くに居て一度も来たことがないんだからな」といふ風なことを室生君が言った。それはお互い様のことであった。私はそのずっと以前から雑司ヶ谷に住んでいた。/後略/>*12『日本詩人』大正十四年一月号・詩話會編(大正十四年一月一日・新潮社発行)

 この一月号には「逝ける山村暮鳥氏」と題して大関五郎、花岡謙二が書いている。山村暮鳥が清貧のまま大洗海岸磯濱で亡くなったのは大正十三年十二月八日であった。この中で暮鳥が省吾のことをこう言っていたとして、大関五郎が書いている。

<彼は度々私にかういっていました。『僕が「日本詩人」へ書くのは白鳥君がいるからだ。何といってもあの人は真面目だからね』と。これだけで充分彼の一徹を知ることが出来ようと思ひます。/後略/>*12『日本詩人』大正十四年一月号(詩話會編・大正十四年一月一日・新潮社発行)

 大関五郎は後に省吾が主催する『地上楽園』に民謡を数多く寄せている。また省吾は山村暮鳥の詩碑建立にも関わっている。

 *13大正十四年五月号に百田宗治の「所謂民主詩の功罪」が発表されている。百田宗治はそれまで歩んできた己の詩の道を反省し、「民衆派詩人」を「民主詩人」、「民衆派」を「民主派」と呼び直し、それまで推し進めてきた「民衆詩派」を反省し、離脱することを告げている。言ってみれば、「民衆詩派」の内部分裂である。これに対して省吾は翌*14六月号の「詩壇時評」「二、民衆詩に就いて」に於いて、「永い間、詩を書いて来た同君の正直な告白と批判として、だいたい首肯し得る。然し民衆詩の呼称に関しての項には、多少の言ひ分もあるが、私はそれに対して今、精細に解明する興味はない。」と書いているので、後述したい。

 この六月号は島崎藤村を特集している。「回想の藤村」に、省吾は「藤村詩集と私」題して書いている。これは後の省吾の著書に採録されている。またこの号の「詩壇時評」に省吾は「一、日夏耿之介君の韻文鑑賞」、も書いているので、これについても後述したい。その他萩原朔太郎の「郷土望景詩」、村野四郎の「夜が明ける都会」も掲載されている。

 大正十四年*15九月号は「新秋号として詩作を多くのせた。ある意味に於いて日本全詩集の一部と見ることが出来るであらう。」と「八月号雑記」(「九月号雑記」の誤植)にある。この号には後に省吾の『地上楽園』で活躍する、松村又一、大関五郎、國井淳一、大澤重夫、桜庭芳露等の詩が掲載されている。また、この号の中扉に水木伸一筆の「川路柳虹氏の顔」肖像が使われている。「詩人消息」欄を見ると、「▼白鳥省吾氏故郷宮城県築館に帰省、近くの温泉巡りと登山をなし九月上旬に帰京する由。/▼百田宗治氏?月大阪から帰京した詩集が近く金星堂から出る。」とあるところから、この号は川路柳虹の編輯であったらしい。百田宗治が大阪から帰京していたことも分かる。省吾は「詩壇近事」を寄せているが、その中の「四、駄弁に答える」に於いて、日夏耿之介の「日本輓近詩潮の鳥瞰景」(中央公論六月十五日)を読んでの反論を書いている。

 大正十二年十二月号から十四年十月号まで川路柳虹と白鳥省吾が編輯に当たったことになっている。しかし、*16大正十四年十月号は百田宗治の編輯のようである。同号に「飛び入り編輯辨」として書いている

<○どういふ風の吹きまはしか、今月はわたしが編輯することとなった。ぶらりと福田の家を訪ねたのが、とうとう捕まってしまったわけだ。/中略/○その実厄介なことは清水暉吉君を煩わしたのだから(校正も同様)、面倒でないのは僕だけなのかも知れぬ。/○かうして何年振りかで諸君の原稿を弄っていると、さすがに色々「日本詩人」創刊当時の事などが思ひ出される。あの当時のやうな苦労を皆がその後していたのかと思ふと少し気の毒にもなる。よほどの熱心でもなければやれる仕事ではない。/○がそこを買って出て、この次からは佐藤惣之助が編輯に当たるさうである(もっとも萩原君と二人でといふのだが、佐藤が主としてやるのだらう)。不得手の得手、案外巧からうとも思ふ。/後略/>*16『日本詩人』大正十四年十月号(詩話會編・大正十四年十月一日・新潮社発行)

 この中で、百田宗治が書いているように、最終編集責任者は「詩話会」委員のようであるが、実務は清水暉吉のように「詩話会」会員が編輯をしていたことがあるものと思われる。この他井上康文、金子光晴等もその任に当たっていたようである。平凡社発行の*17『詩人』に、金子光晴自身が「日本昆虫図譜・その一・マツモムシ」の図柄を描くことになった次第とともに詳しく書いている。「大正期の詩人たち」より抜粋して紹介する。

<詩話会が主体となって、新潮社から新しい詩の雑誌が出ることになった。詩壇は、詩話会を中心とする主流派と、旧未来の三木露風門弟から成る高踏派と、はっきり二つにわかれていたが、詩話会の方が、はるかに広範囲に、その時代のあらゆる要素をもった詩人群を包括していた。雑誌の名を『日本詩人』と名づけた。/しかし、それだけの雑誌の編集に適当な人間は、なかなか詩人のあいだからは見つからなかった。事務の才があっても、お互いさしさわりのある関係があって、誰からもよいという人間はいないものだ。そこで、新人ではあるが、誰とも因縁の少ない百田が、編集をひきうけることになった。/新人としてまだやっと頭をもちあげたばかりの僕が、これは内緒の話だが、百田の相談あいてになったについては、それ相当な理由があった。/中略/

 そこで僕が金冠子という匿名で、毎月フランスの詩の翻訳をしたり、林髞をつれてきて、林久策という名で、ドイツの詩の紹介をしてもらったりしてお茶をにごした。雑誌のうらの昆虫のカットも、僕が描いた。装幀のことも、配列も、新人のあつかいも、一応、意見を出してみることになっていたが、そういうことになると百田の方が上手で、格別、僕の方から新しい発案もなかった。創刊か、二号から、僕は巻頭詩の特別優遇をされたが、それは、百田の配慮だった。/後略/>*17人間の記録双書『詩人』金子光晴著(昭和三十二年八月十三日・平凡社発行)

 この号(『日本詩人』大正十四年十月号)の中扉に水木伸一筆の「白鳥省吾氏の顔」肖像が使われている。省吾は散文詩三篇「三月のスキー」「財布」「煙のやうな菓子」を寄せている。また萩原恭次郎の「日比谷」も掲載されている。「詩人消息」欄に、詩集「死刑宣告」が近刊されると伝えている。また、八月末に福士幸次郎が上京して、歓迎会をしたこと、今は青森に帰ったこと、室生犀星親子が十月一杯を金澤で過ごすことを伝えている。

 *18『日本詩人』は大正十四年十一月号から萩原朔太郎、佐藤惣之助の編輯となっている。萩原朔太郎は佐藤惣之助の義兄でもある(昭和八年十月朔太郎の妹アイが惣之助に嫁いでいる)。将来の義兄弟どうしの編輯となったわけである。大正十四年十一月号は「河井酔茗氏五十年誕辰紀年号」として特集されている。裏表紙に河井酔茗の写真が掲載されている。新しく編集を担当することになった萩原朔太郎はこの号に「編輯に就いて」と題して書いている。前掲の「五、詩話會分裂」に紹介した文と重複する部分もあるが、もう少し詳しく紹介してみたい。

<●私と佐藤惣之助君とで、今月から日本詩人の編輯を受け持つことになった。尤も事務のいっさいは、たいてい佐藤君がやるので私は相談役といふ格にすぎない。

●従来、日本詩人を編集していたのは、主として川路、白鳥、福田、百田の四君であった。この中川路氏を除く外、他の三氏が悉く皆民衆派の代表者であった為、或る一部では、何等か日本詩人が民衆詩派の機関誌である如き認見を生じた。しかしこれは偶然の事情にすぎない。即ち詩話會幹部中、偶然にも上述の諸氏だけが東京に居て、他は皆地方、もしくは遠隔の地に居たのと、も一つのには、偶然にも上記の諸氏が、この種の雑誌編集人として適材であったからだ。/中略/。これによって一部の世間的誤解ー民衆派と詩話會の誤った憶測ーは弁明されたことと信ずる。/中略/>(前掲)*18「編輯に就いて」萩原朔太郎著(『日本詩人』大正十四年十一月号・河井酔茗氏五十年誕辰記念号・大正十四年十一月一日・新潮社発行)

 と書き、編集者が替わった理由にも触れている。つづいて紹介する。

<しかしどんな雑誌でも、多少は編輯人の個性によって色彩づけざるを得ないだらう。然るに従来、偶然にも民衆派の諸氏によってのみ、同一雑誌の編輯が続けられてきた結果、或いは多少、民衆派的色彩が著明されたかも知れない。そこで上述の世間的誤解を、防ぎあはせて久しく持続した同一気分の倦怠から、この際目先を代へて人気を一新する必要があり、衆議の結果、一時編輯人の色彩を変へたのである。例によって「詩話會の内訌」などといふ流言ヒゴが出ないやう、一言事情をを明らかにしておく。>*18「編輯に就いて」萩原朔太郎著(『日本詩人』大正十四年十一月号・河井酔茗氏五十年誕辰記念号・大正十四年十一月一日・新潮社発行)

 このあと「しかし編輯人が変わった所で、雑誌の内容そのものが、別に変わるわけのものでない。」と書き、以下のように結んでいる。

<即ち各自に一家を立て、各自に一派を有し、各自に対峙して自我の、イズムを主張している。種々雑多なる詩人の寄り合ひである。故に執筆者相互の間に、何の一致もなく共同もない。/中略/また共同の目的もなく主張もない。ただ結合の一致点は、仕事を一つにする同業者の組合倶楽部で、対社会的の便宜と、そのための団結と、それから同好の友誼親懇にすぎないのである。/中略/

●この意味から、従来本誌は新人の紹介につとめてきた。しかして今後も、同様にこの精神を継続しようと思っている。/中略/詩話會幹部諸君の認めて、充分価値ありとする作品だけを掲載する。/中略/最近やや標準時刻のネジがゆるみ、針の遅れた感がある。この期に際して針を正し、一層厳格にしたいと思ふ。>*18「編輯に就いて」萩原朔太郎著(『日本詩人』大正十四年十一月号・河井酔茗氏五十年誕辰記念号・大正十四年十一月一日・新潮社発行)

 大正十四年十一月号には「詩話會」主催の「十四年度詩人祭り開催報告」が載っている。それには退会した北原白秋の名が、また羅風と名を変えた三木露風の名も見える。

 この十一月号には「近事談叢」が臨時特集されている。それによると、これは『日本詩人』編輯の引継ぎで新潮社に佐藤惣之助、萩原朔太郎、川路柳虹、福田正夫が集まっている所へ、偶然白鳥省吾、百田宗治が現れ実現した対談を速記したものである。

 *19『日本詩人』大正十五年五月号は「野口米次郎記念号」として発行されている。これも裏表紙に野口米次郎の写真が掲載されている。広告欄にも「野口米次郎氏・詩生活三十年・紀念文藝大講演會」と題して、一頁をまるまる使っている。それによると、「大正十五年五月十五日(土曜日)午後正一時より」慶應義塾の大講堂で開催、入場料三十銭とある。

 省吾のものとして、「日本詩劇史・その四」が載せられている。詩壇の公器とまで言われた『日本詩人』のこの号の広告欄には、福田正夫の長編叙事詩の広告が一頁全部を使って出ているが、それを見ると当時の流行作家であることが伺われる。またこの号には山村暮鳥の詩碑を、常陸磯濱の海岸に建てる為、一口壱圓で募金を募っていることが記されている。この時点で暮鳥の最後の詩集『雲』の中から、萩原朔太郎、室生犀星が選んでそれを刻む旨を伝えているが、これは両者の意に反したものであった。しかし結局『雲』の中から詩「ある時」が刻まれた。

 

 *20大正十五年六月号『日本詩人』に省吾は「日本詩劇史」を書いていたが、この号で完結している。「青椅子」欄に萩原朔太郎は「中央亭騒動事件(実録)」を載せている。これは前月に開催された『日本詩集』大正十四年版出版祝賀会の席上に於ける騒動に対する、朔太郎の弁明文である。

 内容は、祝賀会の席上にて朔太郎の身に危険が迫っていると勘違いした室生犀星が、椅子を振り回して岡本潤に向かって行った事の顛末記である。

 省吾はこの年の六月一日に自誌*21『地上楽園』を創刊している。これについては項を改めて紹介したい。そして*22『日本詩人』終刊号は大正十五年十一月号であつた。佐藤惣之助は「誄(るい)としての記」と題して編集後記を書いている。

<◇本輯を以って「日本詩人」も極光を解体する。惜辭愁々たるも又詮なしと?ふべし。終期の編者たるもの慨然たり。/◇室生犀星氏は以後、秋本建之の詩名を用ふるとなり。/◇福田、千家、萩原の終刊辞を遂に逸す。期日迫ればこれをもって焉とすべし。/後略/>22『日本詩人』終刊号(詩話會篇・大正十五年十一月一日・新潮社発行)

 佐藤惣之助は、このあと「云ふべき事多くして辭なし。晩秋凄然を極む。来るべき春を待って暫くは沈吟すべし。時なり、命なり。今何をか糺劾せん。」云々ともかいている。当然のように「詩話会」は解散した。

* 写真は『日本詩人』終刊号(詩話會篇・大正十五年十一月一日・新潮社発行)資料提供・白鳥省吾記念館

 戻って大正十年十二月十二日、省吾は*23『詩に徹する道』を「日本評論社出版部」より出版している。これまで発表してきた諸種の論文を一冊の本にまとめたものである。内容は「民衆芸術論」十編、「詩と諸問題」十一編、「現代詩人の群れ」九編、「自然と詩想」十一編、附録として、この年の一月に『早稲田文學』に発表した「社会改造家としてのウイリアム・モリス」を掲載している。最も早い時期のものは、大正二年十月『現代詩文』に寄せた「象徴詩の本質」、同月『読売新聞』に掲載された「詩と生命の表現」がある。『詩に徹する道』の「序」には以下のように記されている。

<此書は私が藝術の表現として、自覚的に詩を作り始めた二十四歳の頃から現在に至る迄、約十ヶ年間に亘り、詩を中心として論議し思索したるものを集めたのである。殊に最近のものは、社会と文藝との交渉にまで考を進めて行ったものが多い。/中略/今や詩は新しく解放された、詩は藝術の先駆たらんとさへしている、詩はありふれた詩作法などによって指導される時代は過ぎた、詩は藝術至上主義的に単独に社会に存在するものではない。社会との交渉を深く自覚することなしに眞の詩は生まれない。/中略/

 私の長い間歩いて来た路は、象徴主義を基調として民主的傾向に入れるものであるが、それは樹木の年環のごとく自然の心的推移を系統的に示すものであって、其処に何等の矛盾もないことは、此書を通読される人の容易に知られる事と思ふ、それ故に初期のものは現在の心境と幾分の隔りがあるが、出発点を表すものとして採録した。/此書が同じ詩の道程にある人々に、何等かの暗示を与ふることが出来れば至福である。

   大正十年秋 白鳥省吾>*23『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

 これを読むと「民衆詩派」全盛の頃の、省吾の詩に対する考え方が良くわかるものと思う。そしてこの十二月*24『明治大正詩選全』「明治大正詩壇年表」によると、省吾は「早稲田文學」に「詩の社会へ」と題して「民主主義の本質を説き、民主主義勃興以前の空想的詩風を非難す。」を書いている。

敬称は省略させていただきました。

つづく   以上文責 駿馬


* この頁の引用図書及び資料(資料提供・白鳥省吾記念館・他)

*1『日本詩人』創刊号(詩話會篇・大正十年十月一日・新潮社発行)

*2『日本近代文学事典第六巻・新聞雑誌』日本近代文学館、小田切進編(昭和五十二年十二月八日第二刷・株式会社講談社発行)

*3「詩話會の思ひ出」白鳥省吾著(『現代詩の研究』昭和十年三月十五日初版、昭和十一年七月十五日再版、昭和十一年九月十五日三版・河野成光館発行)

*4『日本詩集』「1923年版」(詩話会編大正十二年五月・新潮社発行)、

*5「自伝的に」百田宗治著(『爐邊詩話』昭和二十一年九月十五日・柏葉書院発行)

*6「大正詩壇の思い出」白鳥省吾著(『國文學』昭和三十五年五月二十日・學燈社発行)

*7『日本詩人』大正十二年十月号(詩話會編・大正十二年十月一日・新潮社発行)

*8『日本詩人』大正十二年十一月号(詩話會編・大正十二年十一月一日・新潮社発行)

*9『日本詩人』大正十三年十一月号(詩話會編・大正十三年十一月一日・新潮社発行)

*10『現代詩の研究』白鳥省吾著(大正十三年九月三日・新潮社発行)

*11『日本詩人』大正十三年十二月号(詩話會編・大正十三年十二月一日・新潮社発行)

*12『日本詩人』大正十四年一月号(詩話會編・大正十四年一月一日・新潮社発行)

*13『日本詩人』大正十四年五月号(詩話會編・大正十四年六月一日・新潮社発行)

*14『日本詩人』大正十四年六月号(詩話會編・大正十四年六月一日・新潮社発行)

*15『日本詩人』大正十四年九月号(詩話會編・大正十四年九月一日・新潮社発行)

*16『日本詩人』大正十四年十月号(詩話會編・大正十四年十月一日・新潮社発行)

*17人間の記録双書『詩人』金子光晴著(昭和三十二年八月十三日・平凡社発行)

*18「編輯に就いて」萩原朔太郎著(『日本詩人』大正十四年十一月号・河井酔茗氏五十年誕辰記念号・大正十四年十一月一日・新潮社発行)

*19『日本詩人』大正十五年五月号(詩話會編・大正十五年五月一日・新潮社発行)

*20『日本詩人』大正十五年六月号(詩話會編・大正十五年六月一日・新潮社発行)

*21『地上楽園』創刊号(大正十五年六月一日・大地舎発行)

*22『日本詩人』終刊号(詩話會篇・大正十五年十一月一日・新潮社発行)

*23『詩に徹する道』白鳥省吾著(大正十年十二月十二日・新潮社発行)

*24『明治大正詩選全』「明治大正詩壇年表」(「詩話會」編大正十四年二月十三日・新潮社発行)

* 参考資料

*『新潮日本文学小辞典』(昭和四十三年一月二十日・新潮社発行) 

*『新潮日本人名辞典』(新潮社辞典編集部編・一九九五年五月三十日・新潮社発行)

*「大正詩史」安西均著(『現代詩鑑賞講座十二巻・明治大正昭和詩史』昭和四十四年十月三十日・角川書店発行)

*『日本近代文学大系59・近代詩歌論集』解説久松潜一・註釈角田敏郎他(昭和四十八年三月二十五日・角川書店発行)

*『白秋全集18・詩文評論4』北原白秋著(昭和六十年十二月五日・岩波書店発行)

*「詩壇時評・論争」萩原朔太郎著(『萩原朔太郎全集・第八巻』昭和五十一年七月二十五日初版・昭和六十二年五月十日補訂版一刷・筑摩書房発行)

白鳥省吾を研究する会事務局編

 平成十二年十月一日発行、平成十四年七月二十二日改訂

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 つづく


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最終更新日: 2002/07/24